北越耆談
【 NDLJP:137】北越耆談 信州川中島合戦聞書并上杉家遺老談筆記
一、川中島五箇度の合戦の内、終の永禄四年九月十日の事は、別巻に記すが如し。先づ初めは天文廿二年霜月廿八日、川中島の
一、武田左馬助信繁を、村上義清討取るといふは虚説なり。謙信自身に、左馬助を討取り、犀川の岸涯にて、典厩を川へ切落されしを、越後方梅津宗三といふ兵、典厩の首を取れるなり。此時謙信の太刀、備前長光二尺五寸赤銅作、今に当家に相伝へ有之、異名を赤小豆粥と号すと云々。右天文廿二年霜月廿八日、川中島下米宮合戦は、第一度なり。此年天文廿三年八月十八日の川中島合戦は、第二度目なり。此時謙信は、太刀にて切懸るを、信玄は軍配団扇にて受けらるといふ説あり。信玄も太刀にて勝負ありしや、謙信太刀に、切込の痕あり。其時目のあたりに見たる甲州衆又は越後方の兵共も、皆信玄は太刀にてありしと語る。軍配団扇の説、疑はしく不審。此合戦に、謙信方も三千余討死。
一、第三度目の川中島合戦は弘治二年三月廿五日夜なり。信玄は一万二千の軍兵を、戸神山より廻して、謙信陣所西条山を攻めさせ、謙信は勝負に構はず、川中島へ懸り除く処を、信玄は、原の町にて待受け、討取るべしと工み給ふを、謙信察して引違へ、夜半に筑摩川を渡して、信玄旗本を懸破る。板垣駿河守信春・一条六郎忠光・小笠原若狭守長貞以下、数百人討取る。然る時甲州勢は、戸神山を夜陰に押すに、春霞立覆ひ、路に蹈迷ふ中に、川中島の鉄炮の音、鬨を聞き、取つて返し、川中島へ志し、筑摩川を越えて越後勢の前後より挟攻に付、謙信方、犀川の方へ引退く。信玄方追ひ来るを、上杉家の車返といふ
【 NDLJP:139】
一、第五度終の川中島合戦は、永禄四年九月十日。此次第は、別巻に註する故之を略す。総じて近年、世上にて車懸といふ行を、川中島合戦に、謙信用ひ給ひ、幾廻目にて、旗本と敵の旗本と、打合する
一、川中島合戦除口に、和田喜兵衛といふ侍を、謙信手討にせられたりといふ事、遂に当家にて聞かざることなり。和田を手打にせられたるは、上州高崎城下にての事なり。高崎は、昔は和田城といふなり。
一、納の川中島合戦に、謙信打勝ちて、信玄を追崩し、追討に、先手を
【 NDLJP:140】 一、近年世間に出づる記録を見るに、当家にて嘗て聞かざる事多し。川中島合戦を、公方義輝公へ註進の状あり。皆後人の偽作なり。但天文廿二年霜月廿八日、川中島下米宮にて合戦の次第を、京都大館伊予守方へ、書付越し申され候書状は、真の状にて、本紙京都に有之。横田源助・武田大坊・板垣三郎・穴山主膳・半菅善四郎・栗田讚岐守・染田三郎左衛門・帯兼刑部、并に駿河今川よりの加勢朝比奈左京進・武田飛騨守を始め、五千余討取るとの文言なり。此書状は、慥なる本書なり。其外に註進状は、皆佯と見え、信用なり難し。
一、謙信家に旗なし。紺地に朱の日の九四半一本、白地に黒町の字の四半一本、何れも
【 NDLJP:141】 一、藤田能登守は、一万四千石余を領知し、景勝より、津川の城に差遣され、朝鮮陣の砌、肥前の名護屋か、又芸州宮島か二処の内にて、家康公へ藤田心入にて、船を貸し参らせたることあり。それ故藤田には、家康公御懇なり。慶長五年正月、年頭の御礼に、藤田能登を差上げらる。家康公、能登守に御懇志にて、御脇差を下されなどして、仕合能し。其頃より会津には、神刺の原に新城を取り、名ある浪人を召抱へ、様子逆心と見ゆるに付、左様の事共にて、御内意ありたるか、其年三月十三日、謙信廿三年忌法華経万部の弔済みたる翌日、藤田能登守妻子共に上下三百余にて、会津を立除き、下野国那須野に移り、江戸へ入り、夫より上洛する。関原御一戦の後、烏山城一万八千石を、藤田に下され、後に大坂御陣御供。榊原遠江守康勝隊の軍奉行に仰付けられしに、五月六日、若江合戦の時、藤田指図を以て、大坂勢を討洩らしたる御咎にて、能登守流罪せしなり。能登守、会津を立除きたる追付に、栗田刑部〈知行八千五百石同心三千二百石〉 も、妻子従類百五十人にて、会津を立除く処を、南山口城主大国但馬守〈大国参河守養子なり。直江山城守弟なり。二万四千石〉 と、白川城主五百川修理石〈二石万〉と長沼城主島津月下斎〈一万二百石〉出合ひつゝ、栗田を境目にて押止め、景勝へ申上げ、腹を切らする。其年、関ヶ原陣なり。
一、荻田主馬は、童名孫十郎といふ。謙信小姓なり。後に与惣兵衛といふ。景勝の代に、旗本の武者奉行なり。文禄の頃、景勝へ不足をいひて立除き、結城宰相秀康卿へ召出され、後、越前へ御供して参るなり。此主馬事を、古傍輩の筋目なる故、城和泉守、駿府にて、様々執成を申上ぐる。大御所様聞召し、其方親の意庵こそ、越後に居たれ。其方は甲州にて生れ、上杉家中の事、何として知るべきや、途方なき事申候。総じて武辺の事は、其家に居て、見聞きたる人のいふが実なり。他国がけ・
一、荻田主馬、当家を立除きて後、三股九兵衛・蓼沼日向守に、総の
一、安田上総介
葉を重み夏は動かぬ柳かな
一、上杉家に、謙信代より、五本・七本の
一、景勝は小男なれども、何様にも
一、永禄七年七月五日に、宇佐美駿河守定満定行と、長尾越前守政景と、信州野尻城下の池に初めて生害の後、時々光物出で来、其上に、魚なくなりたり。慥なる事なれば、書き記すものなり。政景は、龍巌寺に葬る。憲徳院匠山道宗と号ず。定満は雲洞院に葬る。法名は養勇庵良勝儁公と号す。雲洞院は、代々宇佐美菩提所なり。駿河守一代、人数扱ひ、下知に持ちたる軍配団扇、并に宇佐美の系図を、雲洞院什物に納むる。寛永の初、雲洞院の僧、相〔争カ〕論訴訟の事にて江戸へ来り、寺の什物を持参。公方大猷院様御耳に達す。宇佐美定満が軍配団扇を上覧なされ、武功名高き侍の持ちたる兵具なり。疎略に仕るべからざる旨上意にて、箱を仰付けられ、又越後の雲洞院へ、御返納成され候。其軍配団は練物にて、縁は金物あり。柄には、宇佐美駿河守藤原定行と鐫入れて有之由、酒井讚岐守忠勝・松平伊豆守信綱御物語ありと、上杉宮内少輔長貞の談なり。右越後の雲洞院は、曹洞派にて、五代目の管領上杉安房守憲実、応永廿七年の建立なり。
一、新発田因幡守治長、其子は源太治時、因幡が伯父道如斎といふ。上杉代々の家臣、殊に大身なり。信長公、此新発田を引付くる程ならば、景勝退治容易くあるべきと、了簡ありて、会津の領主葦名盛隆へ下知ありて、盛隆より、又赤名城主小田切参河守に通じ、夫より新発田へ内通ありて、囘忠の
一、初鹿伝右衛門、江戸にて、上杉弾正定勝へ申され候は、我等儀は、三十騎衆と申して、信玄近従にて候。川中島合戦の時、御幣川の中へ乗込み、合戦の砌、謙信乗込み、信玄と大刀打。信玄を畳みかけて切り給ふを、我等突かんと思へども、突き得ず。鎗の柄にて打ち候ひき。後、永禄四年の川中島合戦に、荒川伊豆守乗込み来りて、信玄と切結ぶ時は、大勢懸付け、荒川を討取り候と語られし由。
一、天文廿三年八月十八日、川中島合戦に、謙信直に乗込み、信玄と太刀打、二箇処まで切付けられ候を、甲州方にて、謙信にてはなし、荒川伊豆守なりと沙汰せし由を、伊豆守聞及んで、深く心底に挟み居りしが、納の川中島合戦に、真先に乗込みて、信玄を見付け、太刀打して、即ち討死せしなり。類稀なる大剛の兵なり。
一、慶長十九年霜月廿六日、大坂表信貴野合戦の節、穴沢主殿助盛秀、天下無双の長刀の名師なり。当家坂田采女、老武者なりしが、鎗を持ち、敗軍の大坂方を追ひ行く処に、大男、黒具足にて、長刀を杖につき、立跨りて控へたるが、坂田を見て、大坂方穴沢主殿助盛秀と名乗り、坂田鎗を突懸くれば、彼穴沢長刀にて刎ねて、手本へ入り来るを、坂田鎗を捨て、むづと
一、当家中条与次郎は、越後にては中条城主、会津にては鮎具城主なり。此中条が家人落合清右衛門は、大剛の兵なり。天正十二年八月に、景勝出馬ありて、新発田城を攻めらるゝ時、【 NDLJP:145】八幡の砦より敵一騎、赤線かけ鹿毛の馬に乗りて駈出づる。内々城内へ禁裏より、扱の勅書来るを、通じたきことありて、何者にても生捕にせよ、其者に言含め、城中へ申遣すべしとある故、只今城より出でたる武者を、誰が生捕るべきといふ時、落合清右衛門、少しも思惟なく乗出で、彼敵と引扠んで、少しも働せず、生捕にして帰る。皆々舌を振ふ。其場に井筒女之助・井上三郎兵衛・宇佐美民部・恩田越前守・寺瀬対馬守・仁科孫三郎を始め、倔強の剛兵十騎余、馬を立双べ居たる中に、清右衛門一騎抽んでたる働、世の人感歎す。此清右衛門は、会津処替の節、浪人して、安藤右京進重仲方に奉公する由。
一、右の翌日八月十八日に、新発田因幡守、二千余にて切つて出づる。景勝先手直江山城守兼続・鮎川与五郎・春日右衛門・横田式部・篠野井弥七・鹿沼右衛門・川田玄蕃・穂村造酒允・壬生刑部左衛門・大岩新右衛門十頭の隊、先懸致しける処を、新発田に切立てられ、尽く敗軍。討たるゝ者数を知らず。然る処を畠山入庵、其時は上杉民部とて、二の先なるが、少し高き処へ旗を押立て、民部、采配を執りて横鎗を入れ、新発田を突崩す。八幡砦の涯佐々木川まで追討に致されける。敗軍の十頭の先手も立帰り、行懸に、八幡砦を攻落す最中、景勝も、旗本を押詰め、床机を立ち給ふ処へ、先手高名の輩、首を提げ〳〵、御目見に来る。爰に前の琵琶島城主宇佐美駿河守定行が子民部少輔勝行、父生害にて、本領没収せられ、浪人となり、景勝勘当せられ、小千谷五泉辺に匿れ居りしが、いかにもして景勝勘当を赦され、本領還住せんと志し、朱傘に金の短尺の指物、
一、慶長三年、会津へ景勝入部。蒲生家の浪人数百人召出す。栗生美濃守・外池甚五左衛門・【 NDLJP:146】岡野佐内・布施次郎右衛門・北川図書・高力図書・青木新兵衛・安田勘助・小田切所左衛門・横田大学・正木大膳・長井善左衛門佐野源太・堀源助等なり。関東浪人には、山上道及〈首供養三度までする由〉上泉主水〈武州深谷城主の上杉左兵憲盛の家老なり〉・車丹波守〈火車の指物〉等数十人、上方者には、水野藤兵衛・前田慶次郎・宇佐美弥五左衛門など数十人、召抱へらる。右の内前田慶次は、加賀利家卿の従弟なり。景勝へ初めて礼を申上ぐる時は、穀蔵院ひよつと斎と名乗る。其頃夏なりしが、高宮の二幅袖の惟子褊裰を着し、異形なる体なり。詩歌の達者なり。直江山城守兼続も学者故、仲好し。直江宅にて、慶次論語の講釈致し、又は源氏物語の講釈する。慶長五年九月、景勝名代にて、直江山城守四万余にて、最上へ出陣する砌、慶次は、黒具足に猩々緋の羽織、金のいらたか珠子を頭に懸くるに、珠子の房は金の瓢簞、背へ下るやうにかける。河原毛の
賤が植うる田歌の声も都かな
一、青木新兵衛は、走の早き事、馬と同前なり。黒縨に鶏毛の棒の出をして、十文字の鎗、瓦毛の馬にて、瀬上松川にて、政宗と合戦の時分に、甘糟備後守組にて、手柄なる働あり。後は越前黄門様へ召抱へられ、其子孫加賀に奉公。栗生美濃守は、元の名、寺村半左衛門といふ。蒲生氏郷に奉公の時、秀吉公、筑前の巌石城を攻め給ふ時に、蒲生源左衛門と同じ一番
一、景勝・定勝代まで、直江山城守兼続一人にて、万事国の仕置・公事沙汰までする。訴論をば、山城守一人にて、傍の人を払ひ、刀を傍に置き、百姓・町人は、白沙へ呼び対決させ、侍をば座上へ呼びて様子を尋ね、何事にても、大方当座捌きに賞罰を行ふ。家中の訴訟も、手形証文の判形も、兼続一人にて事を済ます故、捗行くなり。直江、学文多智分別者故、順路なる事多し。元より謙信傍にて生立ち、武功も重る故、世の覚、人の用も厚く、秀吉公へも出頭し、大御所様・秀忠様へも出頭なり。会津にては三十二万石を領す。米沢へ景勝移り給ひて、六万石を賜はる。我身一万石を領し、五万石は、諸傍輩に配分。一万石の私領を、又五千石分けて、家中へ与へ、我身五千石なりしを、景勝より、新田を開き与へ、又一万石になり、死去なり。
一、関ヶ原御陣以後、直江山城守御誅伐なさるべしと、大御所様思召候へども、左候へば、他国にも其例に引く者多し。一人を赦して、天下の人の心を安んずる所なりと、御遠慮ありて、御助なされ、剰へ本多上野介正純が弟長五郎〈対馬守と号す安房守に任ず〉を、壻養子に直江に下され、御懇なり、治部方したる諸大名の家老共、是を見て、治部と心を合せ、謀叛の張本したる直江さへ、【 NDLJP:148】御免なさる。まして我々末々は、気遣なしとて、皆安堵する由。寛永五年十二月十九日に、直江山城守兼続死去。法名英豼院達三全智居士。
一、直江山城守兼続は、木曽殿四天王樋口次郎兼光が末なり。聚楽御城中にて、諸大名列座の中にて、伊達政宗、懐より金銭を取出し、直江山城を呼び、城州是を見候へ。昔なき事なり。斯様に金銀にて、銭を鋳る、見事なる物なりとて、直江に渡し見する。山城守、扇を抜き、少し披いて金銭を請けて、跳返し〳〵見て、実に珍物にて候といふ。政宗見られ、城州手に取りて見候へといはる。直江申すは、我等事、輝虎目金にて、用にも立つべき者と思はれ、景勝へ附けられ候。何時も采配を執り申す手にて、斯様のむさき器は、いろはぬ者にて候と申し、金銭を畳の上へ、扇より移したる故、政宗赤面せられ、一言の返答なかりし由。亦慶長三年、会津へ景勝移らるべき砌、横田式部といふ者、召仕の茶道坊主を斬罪。元来誤なき事なれば、坊主の親類大勢起りて、国改に京都より、前田徳善院玄以・石田治部少輔三成下向ある。此両人の方に訴ふる。玄以・三成、其段直江方へ申すべしと指図あるに付、直江方へ詰むる。兼続対面し、皆々申分尤なり。左候はゞ、主人横田式部に、詫言の為め、銀五十枚出さすべし、堪忍せよと扱ふ。彼の訴訟人共、中々怒りて帰る。又玄以・治部に訴ふれども、取合はず、是にて又山城守方へ詰むる。直江、左候はゞ、銀七十枚出さすべしと扱へども、彼輩七十枚が七百枚にても、死したる人が帰り候か。中々分もなきことを御申すとねだる。兼続、其時、札を一枚取寄せ、一筆書きて、直に持たせ出で、訴訟人共の内、張本人は幾人ありと尋ぬ。其坊主の兄と伯父と、是に候とて、両人出づる。山城守曰、何と扱ふ共、汝等ども承引せず。兎角此上は、彼坊主を再び今生へ呼還さずば、汝等が心に叶ふべからず。さり乍ら、誰にても呼に遣す使なければ、其者の兄と伯父と二人、迎に遣すべし。此高札を持つて、早々地獄へ参り、閻魔王に見せて、彼坊主を召連れ帰るべし。乃ち其文を聞けとて、山城守、高札を読まる。
雖㆘未㆑得㆓御意㆒候㆖、一筆申入候。然者横田式部召使之茶堂坊主、親類共呼戻申度
二月十日 直江山城守兼続
閻魔大王殿参
と書付け、読み聞かせ、彼張本二人、其場にて斬罪し、彼の高札を前に立て、二人の首を獄門【 NDLJP:149】に梟くる故、徒党蛛の子を散らすが如く逃失せ、国中嗷訴一人もなく、静謐するなり。
一、川中島合戦に、甲州方山本勘助討取りたること、弘治二年三月、廿五夜の事なりといふ 説と、永禄四年九月十日の事なりといふ説、両様あり。
一、当家に、西方院といふ真言宗の法師武者あり。数度の鎗をする故、異名を鎗坊主といふ。景勝より、皆朱の武具を免し給はる。一代四十余度の武辺に、遂に手疵を蒙らず。景勝より、六千石の知行を給はるに受けず。
一、謙信、霊社・験仏へ願書を納められたるを見るに、信玄を戦地へ引出し、快き合戦を、仏力・神力にて仕りたし。何卒出合ふ様にとの祈なり。信玄は戸隠山を始め、方々寺社へ願文を納め給ふも、皆輝虎呪咀調伏の趣なり。信玄は、よほど謙信をうるさく思ひ給ひたる様子なり。
一、謙信は、大方具足を着ず、黒き木綿胴服にて、鉄の囘笠を着し、三尺程の青竹を馬上に持ち、人数を追廻し下知せらるゝ。中々摩利支天の再来ならんと、世挙つて恐るゝ由。永禄十二年、関東陣の砌、太田資政入道三楽、先陣に備ふる処に、北条方へ内通あるか、別心の色ある由申来る。諸人如何と存ずる処に、謙信只一騎、歩侍十人計りにて、急に三楽陣へ乗込み、三楽三男安房守、未だ十二三歳になりたるを、謙信ひしと手を取り、扱々好児にて候、輝虎養子にすべしとて、連れて帰らるゝに、三楽も軍兵共も、謙信の威勢に圧され、一言を出す事ならざる由。斯様の猛威の人なれども、詩歌に工に、優しき風雅あり、畠山入庵内室は、謙信姪なり。十一二歳の頃、殊の外愛せられ、関東陣の時は、児の出立にして、小具足の上に、長絹の直垂を着、太刀・刀さゝせ、馬に乗りて、老女三人介錯に付きて、輝虎供に連れられたる由。此姪は、即ち畠山下総守義貞の御母儀なり。父は長尾政景、母は謙信妹。後には仙桃院と号す。永禄七年の秋、信州にて、政景を、宇佐美駿河守定行が殺したる時も、大方謙信の内意とある事、粗ぼ知れたる故、仙桃院は、謙信に向ひて、越前殿果てられ候は、偏に戦場にて御用に立ち候同意に候間、義景・景勝は申すに及ばず、娘二人も御見捨あるまじと、申されたる由。斯様の事にて、宇佐見駿河守遺跡は、強く
一、杉原常陸介親憲は、佐竹義宣敗軍せらるゝ。今福堤へ、横合に百五十挺の鉄炮を打たせる故、木村長門守・後藤又兵衛、手勢打立てられ敗軍。常陸介手柄故、佐竹義宣、師場を取返す。佐竹義宣は、六百人の足軽に、頭四人ならでなし。今日鴨生堤にて、足軽隊乱れ、佐竹敗軍。木村長門・後藤又兵衛に追立てられ、田の中へ追込まれ、追打にせらるゝ。家老渋井内膳討死。義宣より、景勝へ加勢を乞ふ。杉原常陸介一手を遣す。常陸介も、高枝川の沼を危み、【 NDLJP:151】蓬沢安芸守を
一、此時景勝は、三百余にて、信貴野の横堤に、日の丸の旗・毗の字の旗・浅黄の扇の幟を押立て、城の方に向ひて、床机に腰を懸け、早天より晩の合戦の納るまで、城の方を守りて、脇目もふり給はず。三日余の軍長其、徳翼に備へて
一、此度大坂表にて、佐竹義宣事、木村長門守・後藤又兵衛に追立てられ、景勝へ加勢を乞ひ、杉原常陸介親憲が横合を入れて、木村・後藤を追還したるにて、佐竹初めの師場を取還す。義宣の父義重も、武勇勝れず。天正元年に、宇都宮貞林に恃まれ、関宿城後詰に出でられ、謙信を恃みて、一処に陣取る時、謙信申さるゝは、我々一手になり、利根川を越え、関宿城へ後詰し、氏政を追払ひ候はんと、勧め申されたれども、氏政、大軍を惧れ、利根川を越す事を、義重肯ひ給はぬにより、謙信大に怒り、左候はゞ、我等人数を引分け働き、各別の弓箭に仕るべしと断りつゝ、輝虎八千にて小山を立ち、義氏様の御所古河御城、并に北条氏政持の栗橋城・館林城、其外敵城四五箇処を押通り、重ねて利根川を越え、寄別城・菖蒲城・岩槻城を始め、氏政領分を悉く焼き働せられ候に、日数四十日余の間、武州・上州を、横縦に働かるゝに、終に氏政も、関宿の陣城に四万ありと雖も、輝虎に恐れ、陣城の外へ一人も出合はず。其外の城々も、皆門戸を杜して、謙信に旗を合する敵なし。然る故に、閏霜月十九日に、輝虎、厩橋城へ人数を納め候。総じて北国・関東も、紺地に日の丸の旗を見ては、すはや輝虎とて、皆出合はず。佐竹義重は、遂に関宿の城を後詰すること叶はず。謙信も、義重の弓矢、未だ若く候と、嘲り申されたる由。関ヶ原陣の前も、景勝へ一味し、渋川内膳・戸村豊後守を二頭、棚倉にて加勢し乍ら、家康公御発向を聞き、人見主膳・緒貫大蔵を、路次まで使者に差上げ、表裏なる仕方、上杉家【 NDLJP:152】にては、佐竹をば一向に見下し居、此度大坂今福合戦に仕負け、木村長門守・後藤又兵衛に追立てられ、加勢を乞ひて、杉原常陸介が横矢にて、大坂方を退く。中々柔弱なる家なりとて、佐竹をば、当家にてはをかしく存候。
一、佐野天徳寺は、江戸御城にて、上杉弾正大弼定勝に向ひて、御祖父謙信の御武勇の威勢は、兎角申されず候。我等若き時分には、佐野は御旗下にて候ひき。輝虎、越後より、上州厩橋城へ御着、二三日人馬を休め、扨関東筋へ打つて出て、縦横に働き給ひ、或は五十日、或は七十日の間は、喩へば大雷して、夕立の降る如く、敵も城外へ出づる事叶はず。扨謙信は、働を仕廻ひ、厩橋へ帰城ありて、方々の仕置十日余ありて、越後へ帰陣せらるゝに、謙信は
一、謙信瘧を煩はれ、大方平癒。病中慰に、石坂検校に、平家を語らせ聞き給ふ。鶴を一句語り納むる。平家も、殊の外出来て聞く事なりしに、輝虎の顔色変り、両眼涙ぐみ給ひ、只今平家を聞くに付けても、口惜しく又心細き事かな。本朝は、神武天皇、武徳を以て治め給ひてより以来、相継いで、君にも臣にも勇者ありしに、世季になり、次第に武威衰へたる験は、彼の源三位頼政が一族八幡太郎陸奥守義家が時、当今堀河院御悩あり。義家を召して、妖怪を鎮められけるに、殿上の下口に伺候し、弓の弦音を三度鳴し、陸奥守鎮守府将軍源朝臣義家と高声に名乗りしに、妖怪忽に退き、再び来る事なし。帝の御悩御平癒なり。義家が武威甚だ盛なる事此の如し。然るに頼政は、怪鳥の真中を射通して、地に墜ちても、猪早太つと寄り、九刀刺して、やう〳〵怪鳥を平げたる事、何れも如何思ふぞ。頼政代と義家代と、相去る事僅か六十年なるに、武威の衰へたる験は、義家は弓の弦音にてさへ、妖怪恐れて立去りしに、頼政は射撃して、其上を、猪早太九刀刺して治まりたる事、武威の盛衰掲焉。頼政代より輝虎時代、既に四百余年。さてこそは武威も又衰へたらんと思へば、口惜しく又心細しとて、涙を流されける由。
一、文禄三年十月、景勝上洛、伏見にて、景勝亭へ、秀吉公御成。其日権中納言に任じ、従三【 NDLJP:153】位に叙せらる。上杉は、勧修寺の流なれば、向後清華に準ずる旨勅諚あり。上杉は、足利公方家の外戚、〈上杉掃部頭頼重の妹清子は、尊氏公の御母なり〉管領代々なり。謙信は、永禄二年四月上洛。六月廿六日に、公方義輝公より御内書・途輿・朱柄傘・菊桐の御紋・屋形の号・輝の一字御免。武衛・細川・畠山、三管領に準ぜらる。今又景勝は、先祖上杉氏始まりて以来、先例なき中納言に昇進せられ、清華に準ぜらるゝ事、当家の高運、面目なる事なれば、末代の為め之を記す。慶長五年九月廿九日、最上陣の除口に、山形義光二万余にて、上杉勢の跡を付けて、大事に及ぶ。杉原常陸介親憲・溝口左馬助、種子島八百挺にて、段々に打立ち、防除にする。其武者扱、中々見事なり。最上方には、鮭延越前守・東根常陸介・里見越後守・草刈備前守等、雲霞の如く追ひ来る。直江山城守兼続返し合せ、下知するに付、川田玄蕃允・宇佐美弥五左衛門・韮塚理右衛門・藤田森右衛門・水野藤兵衛・月岡八右衛門・友町大膳等殿にて、返し合せ〳〵防戦す。是れ皆上杉家の精兵なり。前田慶次、猩々緋羽織金の切団扇の腰差、烏黒の馬にて取つて返し、宇佐美民部は、黒線に銀の天衝の出、蒼黒の馬に乗り、其子兵左衛門、銀具足に黒烏毛の羽織、蹈雪の馬に乗り、取つて返し、殿の勢に馳せ加はる。大将方には、五百川修理・春月右衛門、采配を振つて下知する。今朝卯の刻より申の刻まで、一里半の間にて、廿八度の合戦。溝口左馬助大将分なるが、三間一尺の黒じなひ差し、洲川の橋爪にて立ちこたへ、鎗を合せ追ひ来る。最上勢、政宗勢を追ひ返し、遂に物離れして引取る。溝口、大事の深手負ひたるが、直江に向つて、夜陰に及んで引取る事、味方落度たるべし。あれに見えたるは、曼陀羅が鼻といふ山なり。あれより半里此方に、野陣を取り給へと申して、左馬は乃ち死す。然る処へ杉原常陸介乗り来りて、直江に向つての申分、陣場の処、山を阻つべき心持、溝口が言に違はず、皆感ずる由。此時、最上の大将分天童弥七郎を、景勝方二本松右京進義国討取る。此二本松右京が父も、右京進義継といふ。元来奥州管領畠山上野介高国が後胤なり。去る天正十三年十月八日に、宮森にて、伊達輝宗を生擒り、引立て除くとて、政宗に追付かれ、逢隈川
一、天正二年八月、能登陣なり。七尾城を、九月十一日に、謙信攻め落す。同月十三日夜、明月なれば、七尾城にて詩歌の会あり。
謙信の作、
露満㆓軍営㆒秋気重 数行過雁月三更 越山併得能州景 任他家郷念㆓遠征㆒
又連歌の発句、
謙信
月澄めばなほ静なり秋の海
其後、越前の
謙信
野伏する鎧の袖も楯の端も皆白妙の今朝の初雪
其以前、越中陣の時、魚津城にて、初雁を聞きて、
謙信
武士の鎧の袖を片敷きて枕に近き初雁の声
右の外、一代の詩歌尤も多く。陣中にての作多し。剛将なれども風雅なる人にて、在京両度乍らに、一条関白兼冬・西園寺右大臣公朝の方へ、謙信出入り、三条大納言公光に、源氏物語・伊勢物語の講談を聴かれ、紹鴎が流の茶道を学ばれたる由。乱舞・猿楽も嗜み、自身能を致さる。笛・太鼓も、勤められけるとなり。
一、上杉弾正大弼定勝と、蒲生下野守忠郷〈会津宰相事なり〉は、無二の入魂にて、兄弟の契約あり。忠郷は、氏郷の為めには孫、秀行の嫡子にて、家康公の御外孫、会津六十万石の領主なり。定勝は、米沢三十二万石なり。互に百姓まで、両方申合せ、境目も睦じく往来す。南部信濃守利直も、忠郷とは、殊の外に懇なり。是は仙台と伊達政宗と三人の衆、仲悪しければ、何事も出で来らば、蒲生・上杉・南部三家言合せ、政宗を立挟みて打果すべしと、密々に堅く言合せなり。定勝・忠郷・利直三人同道にて、上野の天海大僧正へ、夜咄に行き給ひ、帰るとて、三人乍ら馬乗連れ給ひ、途にて南部殿、馬かんばり勇みければ、南部殿大音にて、忠郷・定勝へ呼懸け、相【 NDLJP:155】公〈忠郷宰相〉・羽林、〈定勝左少将〉此馬の勇み候を御覧候へ。明日にも何事もあらば、此馬に乗り、御両人と申合せ、彼奴を立挟みて、打果すべしと申さる。忠郷・定勝も、から〳〵と笑ひ給ひ、仰せらるるにも及ばざる事なり。片目が頭は、我々が太刀の切先に懸けて、御覧に入れ候はんと宣ひければ、三家中の供の輩、皆之を聞きたることなり。忠郷は、寛永三年正月に、薨ぜらるゝに付、定勝中々愁歎にて、三十五日精進せられ、上杉家中の士卒は、申すに及ばず、米沢領内、十四日の間、殺生禁断せられ、追善の法事あり。
一、右にも記す如く、新発田因幡守治長・同道如斎・同源太治・五十公野采女申合せ、天正十年の春より、信長へ内通し、信濃口・越中口より、信長公攻め入り給はゞ、新発田・五十公野は、会津の蘆名盛隆を、胴勢にて、下越後より攻め上り、景勝を攻め亡すべしと、謀を定めしかども、其年、信長公生害ありて、
一、景勝は、
一、謙信代の七手組の大将は、加地安芸守春綱〈佐々木三郎盛綱末〉・新発田尾張守長敦・色部修理亮長実・本庄越前守繁長・竹股参河守朝綱〈佐々木なり〉中条藤資入道梅坡斎・柿崎和泉守景家なり。斎藤下野守朝信・北条安芸守房国・直江大和守実綱・本庄美作守慶秀・大国但馬守頼胤・宇佐美駿河守定満・安田上総介順易・上倉治部丞国清などは、越後に久しき名家にて、何れも大身、千・二千の大将なり。
一、我等先祖丸田左京進家輔も、上杉家にては、随分軍功を抽んで、謙信・景勝両代に働有㆑之。景勝御代に浪人致し、会津へ供致さず。慶長五年八月に、景勝より御下知にて、斎藤三郎左衛門・長尾喜左衛門・只浦伝蔵を差下され、越後に残る浪人共旗を挙げ、堀丹後守直寄と【 NDLJP:157】合戦し、丸田左京討死致し、其子は米沢へ帰参致し、形計りの身上なれども、古を懐ふ情絶えず、聞伝へたる物語を筆記し了ぬ。
上杉家中
寛文元年二月十三日 丸田左門友輔
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