初等科國語 六/胡同風景


胡同風景

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 北京ぺきんの町には、胡同が網の目のやうに通じてゐる。胡同といふのは、小路こうぢのことである。
 どこの家も、高い土塀どべいを立てめぐらしてゐるので、小路は、おのづから高い土塀續きになつてゐる。あまり道幅もない兩側の土塀の上から、ゑんじゆの枝や、やなぎの木や、ねむの枝などが、ずつと延び出してゐる。いはば、胡同は一本の管になつて、どこからどこまでも、つながつてゐる感じである。
 一見、何の曲もないやうなこの胡同ではあるが、ここに住んでゐる子どもたちにとつては、かけがへのない樂しい遊び場所であり、大きくなつてからのなつかしい思ひ出となる天地である。
 冬は冬で、風當りの少ない胡同の廣場に、子どもたちがたむろして、日だまりを樂しみ、夏は夏で、ひんやりとした土塀の日かげを選んで、風の通り道で遊んでゐる。
 遊ぶといつても、別におもちやや繪本などを持つて、遊ぶわけではない。その邊を走つたり、地べたにしりもちをついて、穴をほつたり、土で團子のやうなものをこしらへたり、遠くの方から響いて來るいろいろな物音に、耳を傾けたりしてゐるのである。
 物音には、いろいろなものがある。まづ、物賣りが鳴らして來る鳴り物の音がおもしろい。
 床屋が通る。客の腰掛ける朱塗しゆぬりの椅子いすや、洗面せんめん器や、道具を入れた、これも朱塗りの箱を、てんびん棒でかついでやつて來る。片手には、大きな毛拔きのやうなものを持ち、片手には鐵棒をにぎつてゐて、時々、毛拔きを鐵棒で勢よくしごく。すると、「ビューン。」とあとを引くやうな響きがする。その「ビューン。」がはたと止ると、そこでは、どこかの子どもが、もう頭をつるつるにそられてゐるのである。
 糸屋が來る。荷車を引きながら、ゆつくり歩いて來る。でんでんだいこのやうな、ブリキのつづみを鳴らしてやつて來る。「チャカチャン、チャカチャン。」と、輕やかな、はずむやうな音をたてる。すると、どこからともなく女の人たちが集つて來て、糸屋さんを取り巻く。黄色や、紅白の糸たばがくりひろげられて、しばらくは話がにぎやかに續く。
 いかけ屋が來る。これも、いろいろな道具を入れた荷をかついでゐる。前の荷の上に、小さなどらをぶらさげておき、その兩側に分銅ふんどうをつるしておく。歩いて行くと荷が搖れて、自然に分銅がどらに當る。「ボーン。」と、かはいらしい音をたてる。
 どらにも大小さまざまがあつて、音色も違ふし、同じ大きさのどらでも、その打ち方によつて音が違ふ。「あの音は、おもちや屋さんだ。」「今のはあめ屋さんだ。」と、それぞれすぐわかる。
 その中で、いちばんさわがしくて、大きな音をたてるのは、猿まはしのどらであらう。「ジャン、ジャン、ジャン。」と、激しくたたいておいて、手のひらで、どらを急に押さへるので、「ジャン、ジャン、ジャッ。」といふやうに聞える。これを聞きつけて、子どもが大勢集る。まるく輪になつたその中で、猿がさまざまなげいをする。三國志さんごくしとか、西遊記さいいうきといつた支那の昔物語をやるつもりなのだが、猿は途中で、きよとんとして止めてしまつたり、とんでもない別のことを演じたりする。それが、見てゐる人にはかへつておもしろく、笑ひ聲が絶えない。猿まはしは、猿を使つたり、せりふをいつたり、はやしを入れたりしなければならないので、なかなかいそがしい。
 子どもの見ものでは、このほかに影繪がある。日暮れ時の胡同の廣場などに、影繪の舞臺ぶたいをこしらへて、そこで人形をあやつる。ほのぼのとした影が搖れながら動くのは、子ども心を引きつけて止まない。思はず夜のふけるのも知らないで、見とれてしまふ。ふと氣がついて、子どもたちは、あわてて家にもどつて行つたりする。
 鳴り物を使はないで、呼び聲でやつて來る者もゐる。
 まんぢゆう屋がさうだ。朝早く大きな聲で叫びながら、ふれ歩いて來る。やつと目がさめたころ、遠いところを通るその聲を聞くのは、夢(ゆめ)の中の聲のやうに思はれる。
 春は、苗賣りがやつて來る。
 夏は、金魚賣りがやつて來る。「さあさあ、金魚をお買ひなさい。大きな金魚に、小さな金魚。」こんなことをいつて通る。
 アイスクリーム賣りがやつて來る。「おいしい、おいしいアイスクリーム。にほひも砂糖もおほまけだ。」と歌ふ。
 秋には、なつめ賣りもやつて來る。ぶだう賣りもやつて來る。
 たとへ鳴りものであらうと、呼び聲であらうと、管のやうな胡同には、それがふしぎなほどよく響き渡る。
 このやうに、いろいろな物音が響くが、何といつてもいちばん耳に親しいものは、水を運ぶ一輪車の音であらう。水に不便ふべんな北京城内では、一けん一軒、水を運んで行かなければならない。大きな水槽すゐさうをのせた一輪車が、「キリキリ、リリリ。」ときしみながら、かん高い響きをたてる。だから、車の動いてゐる間、絶え間なく「キリキリ、リリリ。」が響く。夏の日には、この音が涼味(りやうみ)をさそひ、冬の日は、いかにもさむざむとした氣持を起させる。
 夜の胡同は眞暗なので、それこそ鼻をつままれてもわからないほどである。それだけに、空が美しい。月が出てゐれば、出てゐたで美しく、星の夜であれば、また更に美しい。靑みがかつた明かるい夜空に、南京なんきん玉のやうな星がばらまかれて、一つ一つが、かがやいてゐる。
 胡同に面した家々の門には、れんが書かれてある。めでたい文句であつたり、詩の一節であつたりするが、いづれもりつぱな文字で書かれてある。小さな子どもは、繪も字もわからないころから、この門柱の聯を眺めてゐる。ただ美しいかざりのやうな氣持で眺めてゐる。それが、だんだん大きくなつて文字であることがわかり、その文字の意味がわかつて來ると、いつそうその聯の美しさが心に刻まれて來る。隣りの家の聯がわかるやうになり、向かふの家の聯もわかるやうになつて行く。
 正月には、門の戸びらに、眞赤な紙にめでたい文字を書いた春聯が張りつけられる。子どもたちは、その新鮮なかざりに正月氣分を味はふ。
 春になると、鳩笛はとぶえが天から響いて來て、胡同をにぎははせる。鳩笛といふのは、鳩に笛を結びつけて飛ばすのである。飛ぶと、風を受けてその笛が鳴る。笛には大小があるから、鳩が群になつて飛んで來ると、笛の音がいろいろに鳴つて、それこそ天上の音樂である。中庭のあんずが咲いて、花びらが胡同へちらちらと降つて來るのも、このころである。
 やなぎのわたが、どこからともなくたくさん舞つて來る。小さな光つたわたが、土塀の片すみにたまる。ふはふはとまるくなつて、風が吹いて來ると、ころころところがり出す。子どもたちは、それをつかまうとして追ひかける。
 大通を、ぶたがぞろぞろと歩いて行く。その鳴き聲が胡同に響いて來る。
 あひるが、「があがあ。」とさわいで行く。
 花嫁行列のラッパの音が、どこかで響く。子どもたちは、またそちらの方へ走つて行く。
 胡同は、子どもたちを育ててくれる母のふところのやうなものである。子どもたちは、この自然の美しさにひたり、人情の温かさを吸つて、おほらかにのびて行く。