星の夜

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 病室の患者くわんじやは、よく寝靜まつてゐます。だまつて椅子いすに腰をおろしてゐると、機關の響きと震動が、からだに傳はつて來ます。
 少し氣分が惡いので、水で顔を洗つてから、病室の中をまはりました。毛布を脱いでゐる人に、そつと掛けてあげる。いびきをたててゐる人、齒ぎしりをしてゐる人、さうした人々の目をさますまいと、氣をつけて靜かに歩いてゐるのですが、そばへ行くと、ぱつちり目をあける人があつて、時々はつとします。
 熱の高い患者の氷が解けてゐるので、冷藏庫から氷を持つて來て、みかんの小箱の中でくだきました。三本足のきりであつたのが、二本は折れて一本足になつてゐるので、なかなかくだけません。患者が目をさましさうなので、私は、箱をかかへて甲板かんぱんへ出ました。
 深夜の空には、ちりばめたやうに星がかがやいて、船は、黑いうるしを流したやうな海原をけつて進んでゐます。強い潮風が一時に吹きつけて來て、氣分の惡いのも、眠いのも、さらつて行つてしまひました。

おかあさん

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 船は、かなりひどく搖れだしました。今まで、船よひに苦しんだことのなかつた私は、船の勤めは話に聞くほど苦しいものでないと思つてゐましたが、今度は、いよいよやつて來たやうです。でも、これくらゐの波に負けるものかと、ともすればころがりさうになるからだを、はめ板や、手すりにつかまつて支へながら、働きました。患者は半數ぐらゐよつて、ところどころに置いてある吸ひがら入れに、吐く音が聞えます。機關の響きのほかに、船腹に當る波の音がものすごく聞え、船内は、何だかさうざうしく、落ち着かなくなつて來ました。よつてはならないと、絶えず思ひ續けて胸をなでおろしてゐないと、つひ患者といつしよになつて、吐いてしまひさうです。
   夕方になると、海はますますしけて來て、波や風の音が、惡魔あくまの叫びのやうに、氣味惡くなつて來ました。重い患者には、船の動搖が禁物です。收容する時には、さほどとも思はなかつた一人の患者が、船が搖れだしてから急に惡くなつて、全身に冷汗が流れ、目のまはりに黑いかげができて、目の光もにぶくなつてしまひました。私は、注射をして脈に注意してゐましたが、やがて呼吸が不正になり、脈がかすかになつたので、軍醫殿に知らせました。
 軍醫殿は、すぐ來られましたが、患者はもう口をきく力もありません。ふいてもふいても、全身から汗がにじみ出ます。おほひかぶさつて來る黑いかげでも、拂ひのけようとするやうにもがいてゐるのが、患者の何でもない身振りにも、うかがはれます。ひとしきり、重い靜けさが續きましたが、やがて、
「おかあさん。」
と、かすかな叫びが聞かれました。滿身の力をこめて、出したことばでありませう。それと同時に、全身の氣力は、なくなつてしまひました。
 何萬の敵をものともせず、戰ひぬいたこの勇士の頭に、最後にひらめいたのが、二十何年いつくしみ育ててくれた、尊い母の姿であつたのでせう。

あらし

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 宵番よひばんの人が起しに來た聲を聞いて、早く白衣に着かへて、病室へ行かなければと思ひながら、どんなにもがいても、どうしたことか、からだがききません。海は、ますます荒れてゐるやうです。よろめきながら、やうやくのびあがつて、衣紋掛から白衣を取りはづすと、またへなへなと、寝床に、からだがたたまつてしまひました。靴下は、横になつたままで、どうにかはきました。
「しつかりしろ。しつかりしろ。」
と、だれかが耳もとでささやくやうですが、だれもゐるのではありません。とたんに、私の頭の中には、病室で苦しんでゐる患者の顔が浮かんで來ました。
「さうだ。これくらゐのことで──かぎりある身の力ためさん。」
私のからだは、すつくと立ちあがつて、白衣を着てゐました。
 内地に着きさへすれば、完全な治療をする病院が、この勇士の患者たちを待つてゐる。それまでの間、どうとでもして看護の手を盡くし、無事に送り屆けてあげなければ──かう思つた私は、もう船の動搖にもよろめかない足取りで、病室へ向かつてゐました。