初等科國語 六/源氏と平家


十四 源氏と平家

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宇治うぢ川の先陣

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 ころは、正月二十日餘りのことなれば、比良ひら高嶺たかねの雪も消え、谷々の氷打ち解けて、川水折ふしかさ増したり。白波みなぎりは高鳴りて、さか巻く水も速かりけり。夜はすでに明け行けど、川霧かはぎり深く立ちこめて、馬の毛も甲の色もさだかならず。

 大將軍九郎義經よしつね、川端に打ち出で、水のおもてを見渡して、人々の心を見んとや思ひけん、

「水の引くをば待つべきか。いかにせん。」

といへば、畠山の次郎重忠しげただ、生年二十一になりけるが進み出で、

「この川、近江あふみみづうみの末にて候へば、待つとも待つとも

 水ひまじ。重忠、まづ瀬ぶみ仕らん。」 とて、五百騎ひしひしとくつわを並ぶ。

 ここに平等びやうどう院のうしとら、たちばなの小島がさきより、武者二騎、引つけ引つ駈け出で來たり。一騎は梶原かぢはらの源太景季かげすゑ、一騎は佐々木の四郎高綱たかつななり。人目には何とも見えざりけれど、内々先を爭ひけん、梶原は、佐々木に四五間ばかり進みたり。佐々木、

「いかに梶原殿、この川は西國一の大川ぞや。馬の腹帶の延びて見え候ぞ。しめたまへ。」

といひければ、梶原、腹帶解いて引きしむる。佐々木、その間につとはせぬいて、川へさつと打ち入れたり。梶原も續いて入る。梶原、

「いかに佐々木殿。水の底には大綱あるらん。心得たまへ。」

といひければ、佐々木、刀を拔いて馬の足にかかりたる大綱どもを、ふつふつと打ち切り打ち切り、宇治川速しといへども、生食いけずきといふ日本一の馬に乘りたれば、眞一文字にさつと渡り、向かふの岸に打ちあげたり。梶原が乘りたる磨墨するすみは、川中より押し流され、はるかの下より打ちあげたり。

 佐々木、あぶみふんばり立ちあがり、大音聲あげて、

宇多うだ天皇九代の後胤こういん、近江の國の住人、佐々木の四郎高綱、宇治川の先陣ぞや。」

と名のりたり。

 畠山、五百餘騎にて打ち渡る。向かふの岸より敵の放つ矢に、畠山、馬の額を射られ、馬はねあがれば、弓杖ついており立ちたり。岩波さつと押しかかれども、畠山ものともせず、水の底をくぐりて、向かふの岸に着きにけり。打ちあがらんとするところに、後よりむづと引くものあり。「たぞ。」と問へば、「重親しげちか。」と答ふ。

大串おほぐしか。」
「さん候。あまりに水が速うて、馬をば川中より押し流され、これまでたどり着きて候。」

と申す。畠山、

「汝がやうなる者は、いつも重忠にこそ助けられんずれ。」

といふまま、大串をつかんで岸の上へ投げあげたり。

 投げあげられて立ち上がり、太刀を拔いて額に當て、大音聲あげて、

武蔵むさしの國の住人、大串の次郎重親、宇治川のかち渡りの先陣ぞや。」

と名のりたり。敵もみかたもこれを聞きて、一度にどつとぞ笑ひける。     

敦盛あつもりの最期

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 さるほどに、熊谷くまがいの次郎直實なほざねは、「一の谷の軍破れ、平家のきんだち、助け船に乘らんとて、みぎはの方へ落ち行くらん。あつぱれ、よき大將に組まん。」と思ひ、細道にかかりて、みぎはの方へ急ぎ行く。

 かかるところに、もえぎにほひの甲着て、黄金作りの太刀をはき、連錢あし毛の馬に乘りたる武者一騎、沖なる船をめがけて、海へさつと打ち入れ、泳がせけり。熊谷、

「あれはいかに。よき大將とこそ見まゐらせ候へ。敵に後を見せたまふな。返させたまへ、返させたまへ。」

と、あふぎをあげてさし招く。

 招かれて取つて返し、みぎはに打ちあがらんとするところに、熊谷、波打際にてむずと組んで、馬よりどうと落ち、取つて押さへて首を取らんと、かぶとをあふのけて見れば、わが子小次郎が年ごろにて十六七ばかり、花のごとき少年なり。熊谷、

「そもそも、いかなる人にておはすらん。名のらせたまへ。助けまゐらせん。」

と申せば、

「まづかういふ汝はたぞ。」
「ものの數には候はねど、武蔵の國の住人、熊谷の次郎直實。」

と名のる。

「さては汝のためにはよき相手ぞ。名のらずとも首を取つて人に問へ。見知りたる者もあるべし。」

といふ。熊谷、

「あつぱれ、大將かな。この人一人助け奉りたりとも、勝つべき軍に負くることあらじ。助けまゐらせん。」

とて、後をかへりみければ、土肥・梶原五十騎ばかり出で來たり。

 熊谷、はらはらと涙を流して、

「あれ、ごらん候へ。いかにもして助けまゐらせんと思へども、みかたの軍兵滿ち滿ちて、よものがし候はじ。同じくは直實が手にかけ奉つて、のちのとぶらひをも仕らん。」

と申せば、

「ただ、いかやうにも。とくとく首を取れ。」

とぞいひける。

 熊谷、あまりにいとほしく思ひけれど、さてもあるべきことならねば、泣く泣く首を打ちにけり。首を包まんとて、ひたたれを解きて見れば、錦の袋に入れたる笛を腰に指しゐたり。

「あないとほし。このあかつき、城の内にて管絃くわんげんしたまひつるは、この人々にておはしけり。やさしかりける人々かな。」

ちて、これを取つて大將義經の見參に入れたれば、見る人涙を流しけり。

 のちに聞けば、平の經盛つねもりの子、敦盛とて、生年十七にぞなりにける。    

能登守敎經のとのかみのりつね

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 さるほどに、源平のつはもの、だんうらにて攻め戰ふ。

 能登守敎經は、今日を最期とや思ひけん、赤地の錦のひたたれに、唐綾からあやをどしの甲着て、鍬形打つたるかぶとのをしめ、いか物作りの太刀をはき、重籐しげどうの弓持つて、敵を散々に射れば、源氏のものども多くは手を負ひ、射殺さる。矢も皆盡きければ、大太刀、大長刀おほなぎなたを左右に持つて、散々になぎ倒す。

 新中納言知盛しんちゆうなごんとももりこれを見て、敎經のもとに使者を立て、

「いたくつみ作りたまふな。それらはよき敵かは。」

といへば、敎經、

「さては、大將に組めとや。」

とて、敵の船を飛んでまはる。されども義經を見知らざれば、甲かぶとのよき武者を、義經かと目をかけてかけまはる。

 義經、目にたつさまはしたれども、かれこれ行きちがへて、敎經に組ませず。されども、いかにしたりけん、義經の船に乘り當り、あはやとばかり飛んでかかれば、義經、長刀をわきにかいはさみ、みかたの船の二丈ばかり離れたるに、ゆらりと飛び移る。

 敎經、早わざにはおとりけん、續いても飛び得ず。今はかうと思ひ定め、太刀・長刀も海へ投げ、かぶとも脱いで海へ捨てたり。甲の袖、草ずりもかなぐり捨て、胴ばかり着て、大手をひろげて船の屋形に立ち出で、大音聲あげて、

「源氏の方にわれと思はん者あらば、敎經組んで生け捕りにせよ。寄れや、寄れ。」

といひけれども、寄る者一人もなかりけり。

 ここに土佐の國の住人、安藝あきの太郎實光さねみつとて、およそ二三十人が力ある大力の者、おのれにおとらぬ家來一人ともなひたり。弟の次郎も、すぐれたるつはものなり。かれら三人寄り合ひて、

「能登殿いかに強くおはすとも、何ほどのことかあるべき。たとへ鬼神なりとも、われら三人がつかみかからば、などか勝たざるべき。」

とて、小舟に乘り、敎經の船に並べて乘り移り、太刀先そろへて一時に打つてかかる。  敎經これを見て、まづ眞先に進みたる安藝の太郎が家來を、どうとけて海へ落す。續いてかかる安藝の太郎を、左のわきにさしはさみ、弟の次郎を、右のわきに取つてはさみ、一しめしめて、

「いざ、おのれら、死出の旅の供せよ。」

とて、生年二十六にて、海へつつとぞ入りにける。