初等科國語 六/月の世界
六 月の世界
編集望遠鏡で見た月
編集- 「きみ、今夜うちへ來ないか。」
學校の門を出ると、正男くんがぼくにかういつた。
- 「どうして。」
- 「にいさんが天體望遠鏡を作つたんだ。」
- 「ほう。」
- 「月がすばらしいよ。よかつたら見に來たまへ。」
夕方、まだ明かるい空に、半月が光り始めた。おかあさんにさういつて、夕飯がすむとすぐ出かけた。
行つてみると、正男くんのうちでは、もう縁先に望遠鏡をすゑつけて、にいさんと正男くんが、代る代る觀測をしてゐる。長さ一メートルばかりの望遠鏡が、三
- 「りつぱな望遠鏡ですね。」
と、ぼくがにいさんにいふと、正男くんは、
- 「これでにいさんのお手製なんだ。見たまへ、
筒 はボール紙だらう。三脚は、やつときのふできあがつた。ぼくも、ずゐぶん手傳つたよ。」 - 「レンズは。」
- 「買つたのさ。レンズは、だいぶ上等なんだ。」
正男くんは、さも自分で買つたやうな口振りでいふ。にいさんは、初めからにこにこしながらだまつてゐた。
- 「さあ、きみものぞいてごらん。」
と、正男くんにいはれて、ぼくは望遠鏡に目を近寄せた。
望遠鏡の圓い視野に、月がくつきりと浮き出して見える。それは肉眼で見るのとすつかり感じが違つて、今に露でもしたたりさうな、なまなましい、あざやかな美しさである。
- 「きれいだなあ。」
ぼくが思はず叫ぶと、正男くんが、
- 「きれいだらう。」
とあひづちを打つやうにいふ。だが、よく見ると、月の表面は決してなめらかではない。一面にざらざらしたやうな感じである。殊に、半月のかけた部分に近く、
- 「月の顔には、ずゐぶんあばたがあるね。」
と、ぼくがいつたので、にいさんも正男くんも、笑つた。
それからも、三人代る代るのぞきながら、にいさんからおもしろい説明を聞いた。
にいさんの説明
編集 あのあばたのやうに見えるのは、大部分が火山で、穴は
それから、よく見なさい。月の中に薄黑い、大きな
月には水がないといひましたが、水ばかりか空氣もないのです。したがつて、雲や、雨や、あらしや、さういつた、この地球上に見られる氣象現象は、一つもありません。月は、いつも晴天なのです。この望遠鏡で見てもわかるやうに、月のどこ一つくもつたところがないのが、その
まだおもしろいことがあります。かりに、私たちが月の世界へ行つたとすると、そのけしきはどんなものでせう。今もいふやうに、光を調節するものがないから、太陽に照らされた部分は、目が痛いほど光つて見えるでせうが、陰になる部分は、きつと眞黑に見えるに違ひない。ごつごつした火山が、到るところにそびえて、それが眞黑な大空に突つ立つてゐるとしたら、どんなに恐しいけしきでせう。もちろん、草も木もありませんよ。その代り、一つうらやましいと思ふのは、月から見た地球の美觀です。地球の直徑は、月の約四倍ありますから、夜、月から地球を見るとすると、われわれが常に見る月の四倍ぐらゐな地球が、天にかかつて見えるわけです。
かういふふうに、月の世界は、いはばまつたく恐しい死の世界ですが、それでゐて、昔から月ほどやさしい、平和な氣持を與へてくれるものはありません。その靑白い、しみじみと親しめる光が、われわれに大きな慰めを與へるからです。殊に日本では、昔から月と文學が、まつたく離れられないものになつてゐます。ごらんなさい、歌でも、俳句でも、詩でも、月に關するものがどんなに多いか。月の世界に都があつて、そこで天人が舞つてゐるなどは、實に美しい想像ですね。今日私たちは、それが死の世界であると知つても、やはり月がなかつたらさびしい。峯の月、大海原の月、