初等科國史/下/第十 御惠みのもと

第十 御惠みのもと 編集

一 大御心 編集

太平の世が續いて、國民が日々の仕事にいそしむことのできたのは、ひとへに御惠みのおかげでありました。にぎやかな江戶とはなやかな長崎、その間には、おごそかな京都があつて、昔の姿を傳へてゐました。京都とその附近一たいを上方といつたのも、京都が都であつたからであります。

幕府では、家康が御所を御增築申しあげたり、御料を奉つたりしてから、家光や綱吉らも、これにならつて、朝廷をうやまひました。家宣は、白石の意見をいれて、宮家の御創立を奏上しましたし、やがて將軍吉宗は、幕府の建物に御所をまねたところがあつたので、これを取り除いて、つつしみの心をあらはしました。その後、天明年間には、京都の大火で、おそれ多くも御所が燒けましたので、時の老中松平定信は、將軍の命を受けて、りつぱにこれを御造營申し上げました。

しかし、その幕府も、自分の勢を張りたいために、朝廷に對し、ずゐぶん申しわけないこともしてゐるのです。京都所司代といふ役目を置き、こまごまと規則を作つて、朝廷の御政治や御日常に、さし出がましいふるまひに及びました。おそれ多くも朝廷では、寬永三年、後水尾天皇が二條城へお出ましになつて以來、二百三四十年の間、行幸の御事も、御心のままにはならない御有樣でありました。
二條城の內部
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二條城の內部
嵐山の櫻が咲いても、高尾の紅葉が色づいても、これをごらんになることが、できなかつたのであります。

幕府は、西國の大名が、參勤交代の時に京都を通ることを、禁じてゐます。そこで國民の中には、幕府のあることを知つて、皇室の御惠みをいただいてゐることに氣づかないものが、多くなつて行くといふ有樣でした。

御代御代の天皇は、かうした幕府のわがままをお戒めになるとともに、つねに民草をおいつくしみになり、また、學問をおはげましになつて、わが國の正しい姿を明らかにするやうになさいました。

後陽成天皇は、朝廷の御儀式にくはしくいらせられ、日本書紀の神代の卷を印刷して、世におひろめになりました。後水尾天皇も、和歌を始め國史・國文・制度などを、深く御硏究になりました。かうして御二代の間に、學問の盛んになる基をお築きになりました。

更に第百十代御光明天皇は、御幼少の時から、日課をきめて學問におはげみになり、御年十一歲で御位をおつぎになりました。つねに公家の氣風をおひきしめになり、また、幕府のわがままをお戒めになりました。

御父後水尾上皇が、御病氣におかかりになつた時のことであり
後光明天皇
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後光明天皇
ます。天皇は、たいそう御心配になつて、ただちにお見まひのため、お出ましの旨を仰せ出されました。すると、時の所司代板倉重宗が、幕府に問ひ合はせる間、しばらくの御猶豫を御願ひ申しあげましたので、「朕の外出がそれほど氣がかりならば、皇居から上皇の御所まで長廊下をつけよ。」ときびしく重宗をお戒めの上、したしく上皇をお見まひになりました。また、天皇が劒道をお好みになるので、重宗は「江戶に聞えると、困つたことになります。おやめくださらないと、臣は切腹いたさなければなりません。」とお側のものまで申し出ました。「ではさつそく切腹せよ。まだ武人の切腹を見たことがないから、したしく見物するであらう。」との仰せであります。さすがの重宗も、すつかり恐れ入つて、深くおわびを申しあげたといふことです。かうして、幕府のさし出がましいふるまひを、きびしくお戒めになつたので、幕府も、だんだんつつしむやうになりました。

綱吉が將軍に任じられると、やがて朝鮮から、祝賀の使節が來ました。その際、靈元天皇は、

我國のかぜをやあふぐこま人も
    ことしちさとの波ぢわけきて

とおよみになり、使節の來朝を國威のかがやきとして、お喜びになりました。

御惠みに感激して
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御惠みに感激して

東山天皇の御代には、日でりが續いて、賀茂川の水もとぼしくなり、あたりの百姓は、農作に困つたことがあります。天皇は、これを聞し召し、わざわざ御所の引水をおとめになつて、少しでも田がうるほふやうに、おはからひになりました。百姓たちは、御惠みに感激して、每朝仕事を始めるに先だち、はるかに皇居を伏し拜んだといふことであります。

〈第百十五代〉櫻町天皇も、つねに民草の上をお思ひになつて、

思ふにはまかせぬ世にもいかでかは
    なべての民のこころやすめむ

とおよみになり、〈第百十六代〉桃園天皇は、

神代より世々にかはらで君と臣の
    みちすなほなる國はわが國

とおよみになつて、君臣の分、わが國がらの尊さを、はつきりとお示しになりました。やがて〈第百十九代〉光格天皇の天明年間には、數年にわたる大飢饉があり、食にうゑてさまよひ步く民草が、年とともにふえました。天皇は、深く御心配になつて、

たみ草に露のなさけをかけよかし
    世をもまもりの國のつかさは

とおよみになり、民草の苦しみを救ふやう、國々の大名をおさとしになりました。

幕府が、とかく目先のことばかり考へて、その本分を忘れ、勝手なふるまひをしがちであるにかかはらず、いつもかうした御惠みをたまはつてゐることは、まことにおそれ多いきはみであります。

二 名藩主 編集

諸大名の中には、朝廷の深い御惠みのもとに、「國のつかさ」であることに目ざめて、それぞれ領內の民をいたはり、政治にはげむものが、少くありませんでした。いつぱんに、大名が自分の領地を治める仕組みを、藩政といひます。 家光の代が終るころまで、幕府の取りしまりが特にきびしく、大名の異動もはげしかつたため、藩政は、あまり振るひませんでした。しかし、やがて、世の中が太平になり、取りしまりもゆるやかになると、諸大名は、おちついて政治にはげむことができるやうになりました。家光のころ、すでに岡山藩主池田光政や會津藩主保科正之のやうな名藩主が現れ、學問や產業を興して、りつぱな治績をのこしてゐます。ことに正之は、あつく神をうやまひ、正しい學問を興して、會津藩の美風の基を開きました。しかし、いつぱんに藩政が振るふやうになるのは、もう少したつてからのことであります。

家繼のあとをついで、將軍に任じられた吉宗も、大名の出身で、いはば、藩を治めた腕前を、將軍の政治に發揮した人であります。吉宗は、親藩の紀伊家に、末子として生まれ、十四歲の時、ある小藩の主となりました。しもじもの生活を思ひやつて、自分も質素な生活を續け、產業を興して、よく領內を治めました。つねに皇室をうやまひ、話が朝廷の御事に及ぶと、かならず、ゐずまひを正したといふことであります。二人の兄が相ついで病死しましたので、紀伊家へ歸つて藩主となり、よく大藩を治めました。やがて、家繼が幼少でなくなり、世つぎがないため、迎へられて德川の本家をつぐことになりました。

中御門天皇の享保元年、吉宗が將軍に任じられると、まづ、儉約をすすめ、武事をはげまして、武士の氣風をひきしめました。また、大岡忠相を江戶の町奉行に用ひるなど、裁判を公平にし、貧民のために病院などをたてて、人々をいたはりましたが、特に力を注いだのは、產業の方面でありました。農業が產業の本であることを考へ諸國の耕地を調べて水利をよくし、新田の開墾をすすめて、ひたすら米の增收をはかりました。
吉宗が農業をはげます
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吉宗が農業をはげます

かうして、吉宗一代の間に、耕地の面積も米の產額も、目だつてふえましたので、人々は、吉宗を米將軍とたたへました。これまでも、幕府や大名の努力によつて、開墾はかなりに進められたのですが、吉宗の代になつて、全國の耕地面積は、およそ三百萬町步に達し、秀吉の時に比べて、約二倍となりました。吉宗はまた、さつまいもの栽培を諸國にひろめて、飢饉に備へるとともに、朝鮮にんじんやさたうきびの移植を試みて、金銀が海外に流出することを防ぎました。諸大名も、吉宗にならつて、それぞれ產業の發達をはかり、國々の特色ある名產が、しだいに增すやうになりました。

このやうに、吉宗は、よいと思つたことをよく實行しました。幕府の財政を整へるために、參勤交代のおきてを、一時ゆるめたことさへあります。また、產業を發達させるには、ヨーロッパの學問を取り入れることも必要であると考へ、天主敎に關係のない洋書にかぎつて、讀むことを許しました。特に、靑木昆陽を長崎へやつて、オランダ語を學び、天文學を硏究して、農業に必要な曆の改良を企てさせました。だいたい、紀元二千四百年ころのことです。

伊能忠敬の測量
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伊能忠敬の測量

わが國民は、昔から、いろいろ工夫することにすぐれ、元祿のころには、關孝和といふ偉大な算數の學者も出てゐます。吉宗が洋書の禁をゆるめると、理數の學問に對する國民の硏究熱は、一だんと高まつて行きました。やがて第百十七代後櫻町天皇・第百十八代後桃園天皇の御代のことから、杉田玄白や平賀源内らが現れ、醫學や電氣學の發達に、力を注ぎました。源内の作つた發電機には、オランダ人も、目をみはつて驚いたといひます。更に光格天皇の御代には、林小平や伊能忠敬らが出て、地理の學問を興しました。子平は、海國兵談といふ本をあらはして、海防の必要を説き、忠敬は、きはめて正確な日本地圖を、みごとに作りあげました。佐藤信淵や二宮尊德が、農業の學問を進めたのも、だいたいこのころのことです。これらの學者は、いづれも勞苦を積んで、國のため世のため、學問にはげんだのであります。

光格天皇の御代に、幕府では、家齊が將軍に任じられ、松平定信が老中になつて、政治をたすけました。吉宗が將軍職を退いてから、約四十年のちのことで、當時、幕府の政治も、人々の氣風も、だいぶゆるんでゐました。定信は、吉宗の孫に當る人で、松平氏をついで奧州白河の城主となり、よく領內を治めて、人々にしたはれました。やがて老中を命じられると、儉約をすすめたり、文武をはげましたり、もつぱら吉宗の方針にならひ、眞心こめて政治にはげみました。節約させて殘つた米や錢を、飢饉に備へさせたのも、治績の一つです。かうして、幕府の政治も人々の氣分も、ひとまづひきしまりました。

吉宗や定信が、りつぱな政治をすることのできたのは、皇室を尊び、藩主であつたころの苦勞を忘れず、眞心をこめて事に當つたからです。このころ國々でも、すぐれた藩主が、續々と現れました。中でも、米澤藩主上杉治憲と熊本藩主細川重賢とは、いづれも、學問をすすめ產業を興し人々をいたはつて、東西に名藩主のほまれを殘しました。

ところで、このころわが國は、もう國内の太平にばかり安んじてゐることができなくなりました。海外の形成がすつかり變つて、
定信が海岸を巡視する
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定信が海岸を巡視する

イギリス・フランス・ロシヤなどの強國が、しきりに東亞を侵略し、わが國へもだんだんせまつて來たのです。子平が海國兵談の中に、「江戸の日本橋とヨーロッパとは、水でつながつてゐる。相手が攻めようとさへ思へば、どこへでも上陸することができる。」と述べて、國民を戒めたのは、寛政三年(紀元二千四百五十一年)のことでした。しかも翌年、果してロシヤの船が、根室へ來て通商を求めました。さすがの定信も、大いに驚いて、沿海諸國の大名に海防を命じるとともに、五年には、自分で伊豆・相模などの海岸を巡視しました。

まもなく、定信が職を退いて、家齊が自分で政治をとりました。しかも家齊は、この大事な時に氣がゆるんで、ぜいたくな生活にふけり、幕府の勢は、しだいに衰へるやうになりました。

一〇家治
秀忠 家重
義直 重好
賴宣 光貞 吉宗 宗武─ (松平)定信 一二家慶 一三家定
家康 宗尹─ 治濟─── 一一家齊
齊順── 一四家茂
賴房 光圀 ……… ……… …………… ………… 齊昭── 一五慶喜

三 國學 編集

萬一、諸外國が日本に攻め寄せた場合、何よりも大切なことは、國民が尊い國がらをよくわきまへ、心を一つにして、敵に當ることであります。それには、國民が、國のため、正しい學問をして、大和心をしつかりと持つてゐなければなりません。かうした正しい學問を進めた人に、德川光圀や本居宣長らがありました。

皇室の御奬勵によつて、學問は、まづ京都を中心に發達しました。家康も、政治をするには、學問が必要であると考へ、學者を招いたり古書を出版させたりしましたので、學問は、江戶でも、しだいに盛んになつて行きました。ことに綱吉は、江戶の湯島に幕府の學問所を開き、熱心に學問を奬勵しました。かうして、元祿のころには、上方にも江戶にも、名高い學者が續々と現れました。

諸大名の中にも、學者を招き學校を興して、藩の敎育につとめるものが、年とともに多くなりました。わけても、親藩の水戶藩主、德川光圀は、皇室を尊び、神をうやまひ、日本のため、正しい學問をうち立てることにつとめました。光圀が生まれたのは、ちやうど濱田彌兵衞が、臺灣でオランダ人をこらしめたころのことであります。

光圀は、家康の孫に當ります。しかも、幕府がわがままであることを、いつも心配してゐました。每年元旦には、禮服に身を正して、はるかに皇居を伏し拜み、また、つねに家臣を戒めて、「われわれの主君は、天皇であらせられる。將軍は、德川の主であるに過ぎない。この點をまちがへてはならないぞ。」といひきかせました。それといふのも、幕府の威勢が强いので、武士たちの中には、ややもすると、皇室の御惠みを忘れ奉るものがあつたからです。武士がさうですから、いつぱんの國民は、なほさらのことです。光圀は、深くこれをなげき、北畠親房のことをしのぶにつけても、正しい國史の本をあらはし、尊い國がらを明らかにして、人々をみちびかなければならないと考へました。

まづ、京都の學者山崎闇齋の門人や、多くのすぐれた學者を招き、第百十一代後西天皇の御代に、いよいよ國史の編纂にかかりました。光圀自身も、古書を調べ、編纂を統べ、特に、正成始め吉野の忠臣の事績を明らかにしようと、つとめました。その國史は、光圀一代の間に、主な部分はできましたが、何ぶんにも、大がかりな計畫なので、その後、子孫代々、これを受けつぎ、二百五十年といふ長い年月を經て、明治三十九年に、やつと完成しました。これが、名高い大日本史であ
梅の花のやうにけだかく
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梅の花のやうにけだかく

り、この事業が進むにつれて、水戶藩には、大義名分を説く學者が次次に現れ、その學問は、世に水戶學といはれて、國民の尊王精神をひき起す大きな力となりました。 光圀は、やがて隱居し、元祿年間、西山に、きはめて質素な住居を構へて、梅の花のやうな、けだかい生活を送りました。しかも、たゆみなく大日本史の編纂を進め、また正成の碑を湊川に建て、みづから筆をとつて、これに「嗚呼忠臣楠子之墓」としるし、その忠誠を世にあらはしました。ゆきかふ人々は、この碑を仰いで、正成の忠誠を心に深く刻みました。また、吉野の忠臣の事績をたたへた太平記も、このころ盛んに愛讀され、尊王の精神は、しだいに國民を目ざめさせるやうになりました。
楠公の碑
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楠公の碑

學者の中には、わが國の古書を硏究し、特に、古い國語をくはしく調べて、大和心をはつきりさせる必要があるといふ考へから、萬葉集や古事記を硏究するものが、次々に現れて來ました。かうして興つた新しい學問を、國學といひます。

光圀は、早くこれに目をつけ、大阪の僧契沖が、古いことばにくはしいと聞いて、これに萬葉集の解釋を賴みました。その後、京都の荷田春滿、遠江の賀茂眞淵、伊勢の本居宣長らが、次々に出て、ますます國學の硏究を進めました。宣長は、寛政のころの人で、いはば、國學を大成した學者であります。

宣長は、學者の中に、支那を尊びわが國をいやしむものが多いのをなげき、日本の國がらが、萬國にすぐれてゐることを明らかにするため、多くの本をあらはしました。中でも名高い古事記傳は、古事記をくはしく硏究したもので、宣長は、これを作りあげるのに、三十餘年の長い年月を費やしました。質素な四疊半の書齋に閉ぢこもつて、夜となく晝となく著述にはげみ、つかれると、部屋のすみにかけてある鈴をならして心を慰めながら、また筆をとつたといふことです。その書齋を鈴の屋といふのは、かうしたことから、つけられた名であります。
鈴の屋の宣長
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鈴の屋の宣長

宣長は、櫻の花を好み、みづからゑがいた肖像畫に、

 敷島の大和心を人とはば
    朝日ににほふ山櫻花

と書きそへてゐますが、この歌は、わが國民の精神を、いかにもよくよみあらはしてをり、廣く世に傳へられ、もてはやされてゐる名歌です。

宣長の門人は、全國にわたつて五百人に近く、いづれも師の志をついで、その說を世にひろめました。中でも、出羽の平田篤胤は、幕府をはばかることなく、盛んに尊王の大義を說き、人々に深い感銘を與へました。

篤胤と同じころの學者賴山陽は、二十年の心血を注いで、日本外史といふ本をあらはし、特に、楠木氏や新田氏らの忠誠をたたへました。尊王の熱情にみちあふれたその文章は、人々を深く感動させました。

かうした學者の硏究や主張が、しだいに世の中にひろまるとともに、一方尊王の運動は、早くも、桃園天皇の御代に起りました。すなはち、京都に竹內式部、江戶に山縣大貳らが現れ、ひそかに尊王の大義を說いて幕府を非難し、重い刑罰に處せられました。しかし、ひとたびもえあがつた火は、幕府の力でおさへきることができないのです。やがて光格天皇の御代には、高山彥九郞・蒲生君平が出て、ともに、その一生を尊王の大事にささげました。
彥九郞が御所を伏し拜む
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彥九郞が御所を伏し拜む

彥九郞は、上野にうまれ、十三歲の時、太平記を讀んで、尊王の熱意にもえたちました。大きくなるにつれて、忠誠の心はいよいよ深く、諸國をまはつて、大義名分を說きました。途中京都を通る時は、かならず御所を伏し拜み、感淚をおさへることができませんでした。のち、筑後の久留米で、時勢をなげいて自害しましたが、息をひきとるまで、かたちを正して、はるかに皇居を拜んでゐたといふことです。

君平が御陵を巡拜する
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君平が御陵を巡拜する

君平は、下野の人で、各地の御陵を巡拜し、〈第百二十代〉仁孝天皇の御代に、山陵志といふ本をあらはして、朝廷に奉り、また幕府にも、さし出しました。山陵志が出て、今まで世に知られてゐなかつた御陵も明らかになり、荒れてゐた御陵は、のちに、だんだん御修理申しあげるやうになりました。

かうした人々の努力によつて、國民は、わが國がらの尊さを知り、外國の船が日本をうかがひ始めた寛政のころから、尊王の精神が、しだいに高まつて行きました。明治の御代、朝廷では、尊王の志の厚かつた、これらの人々に對し、その功をおほめになつて、それぞれ位をお授けになりました。