第九 江戸と長崎
編集一 參勤交代
編集秀吉がなくなつた時、子の秀賴は、やつと六歳でありました。秀吉は、病氣が重くなるにつけ、秀賴の行く末を深く心配して、德川家康と前田利家に、くれぐれも、あとのことを賴みました。家康は伏見城で政務をさばく、利家は大阪城で秀賴をそだてる、これが、それぞれに命じられた役目でした。ところで、利家がまもなく病死しましたので、ひとり家康の勢が目だつて盛んになつて行きました。
家康は、三河から出て、初め今川義元の人質となり、義元の死後は信長と結んで、しだいに勢をのばしました。本能寺の變後、秀吉と小牧山に戰ひ、長久手にその別軍を破つて、武名をあげました。まもなく秀吉に仕へる身となり、小田原攻めにてがらを立てて、北條氏の領地を受けつぎ、武藏の江戸に根城を移して、關東の主となりました。從つて家康は、秀吉の部下といつても、生え拔きの家來ではなく、しかも、いちばん勢が强かつたのです。
秀吉恩顧の大名石田三成らは、家康の勢が增す一方なので、幼い秀賴の身の上を案じ、毛利輝元や上杉景勝らと力を合はせて、家康を除かうとはかりました。ここに全國の諸大名は、三成方と家康方との二手に分れ、美濃の關原で、激しく戰ひました。初め有利と見られた三成方も、途中裏切者が出て、武運つたなくやぶれ去り、この一戰で、豐臣・德川兩氏の興廢が定まりました。後陽成天皇の慶長五年のことで、世に、これを天下分け目の戰といひます。家康は、關原の戰に勝つと、思ひ切つた賞罰をおこなひ、諸大名をすつかり從へてしまひました。秀吉恩顧の大名のうち、三成と仲がわるくて、家康方に加つたものも、かうなつては、家康の命令にそむくことができなくなりました。やがて慶長八年(紀元二千二百六十三年)、家康は、征夷大將軍に任じられて、幕府を江戸に開きました。これで德川氏は、たれはばかるところなく、ふるまふやうになりました。家康は、まもなく將軍職を退き、子の秀忠が將軍に任じられました。
關原の戰ののち、豐臣氏は一大名の姿になりましたが、何といつても、秀賴は大閤秀吉の後つぎです。大きくなるにつれて、しだいに高い官位に進みました。それに、大阪城の守りは堅いし、藏には金銀や兵糧が滿ち滿ちてゐます。また、諸大名の中には、豐臣氏をもとの勢にかへしたいと考へてゐるものも、少くありません。家康は、それが氣がかりで、豐臣氏の力をそぐために、いろいろ頭をなやましました。幕府を開いてから十年もたち、身を七十の坂を越してみると、心はいよいよあせるばかりです。次から次へと秀賴に難題をもちかけ、豐臣方から兵を擧げるやうに仕向けました。
果して慶長十九年の冬、秀賴は、たまりかねて兵を擧げました。しかも家康は、大軍を以てなほ大阪城を攻めあぐみ、またまたはかりごとを用ひて、つひにこれをおとしいれ、むざんにも、豐臣氏をほろぼしてしまひました。〈第百八代〉後水尾天皇の御代、元和元年の夏のことであります。家康は、豐臣氏をたふした機會に、公家や武士を取りしまるおきてを作つて、幕府の基をますます固くし、翌元和二年、七十五歳でなくなりました。
かうした家康も、政治の上では、秀吉の方針にならひ、その始めた制度を受けつぎました。大名に自治を許すが、しかもこれをきびしく取りしまる、貿易をすすめるが、天主敎はこれを禁止する、すべて秀吉と同じ行き方をとりました。ただ、秀吉のはなやかなやり方に比べると、家康の選んだ方法は、きはめてぢみでした。學問を盛んにして、太平の世をみちびかうとしたのも、貿易を中心にして、諸外國との交りを深めようとしたのも、まつたくその現れであります。
また家康は、もと秀吉に從つてゐた弱味があるので、大名の取りしまりには、ずゐぶん苦心しました。大名の中には、德川氏の一族(親藩)や、三河以來の家臣(譜代)もありますが、もと德川氏と同列だつた大藩(外樣)がたくさんあります。そこで家康は、大名の配慮に工夫をこらし、更にこれを、おきてできびしくしばるやうにしました。參勤交代といふ制度も、大名取りしまりの、たくみな方法でありました。
參勤交代とは、諸大名に命じて、妻や子を江戸にとどめさせ、大名には、時期を定めて、ある期間、江戸に住まはす制度であります。これで、幕府の大名に對する監督は行き屆くし、また大名に道中その 他の費用をかけさせ、幕府にそむく餘裕を與へない仕組みにもなるのです。この制度は、秀忠の子家光の代になつて、すつかり整ひました。一德川家康 | ┬ | 二秀忠 | ┬ | 三家光 | ┬ | 四家綱 | ||||
├ | (尾張家)義直 | ├ | (保科)正之 | ├ | 綱重 | ─ | 六家宣 | ─ | 七家繼 | |
├ | (紀伊家)賴宣 | └ | 和子 | └ | 五綱吉 | |||||
└ | (水戸家)賴房 |
二 日本町
編集江戸に幕府が開かれたころ、ヨーロッパ諸國の形勢も、大いに變りました。イスパニヤ・ポルトガルは、しだいに衰へ、新たにオランダとイギリスが、盛んになつて來ました。オランダは、初めイスパニヤに從つてゐましたが、本能寺の變の前年に、獨立しました。イギリスは、これと結び、無敵をほこるイスパニヤの海軍を擊ち破つて、ヨーロッパの制海權をうばひました。ちやうど、後陽成天皇が聚樂第に行幸あらせられた年のことであります。これから、イギリスとオランダの勢が、目だつて盛んになりました。
しぜん英・蘭の兩國人は、東亞にも押し寄せて來ました。イギリス人はインドに、オランダ人は東インド諸島に目をつけ、關原の戰から二三年の間に、それぞれ東インド會社を立てて、東亞の侵略を始めたのです。しかも、そのやり方は、表に貿易をよそほひながらなかなかずるいところがありました。やがてこの兩國人は、わが國にも來て、貿易を求めました。家康は、慶長十四年、まづオランダ人に、同十八年にはイギリス人に、それぞれ貿易を許しました。兩國人は、まもなく平戸を足場にして、激しい競爭を始めました。ところで、オランダ人は、一方東インド諸島で、ポルトガルの勢力を押しのけ、元和五年には、ジャワのバタビヤ(今のジャカルタ)に總督を置くほどの勢でした。イギリス人は、オランダ人に敵しかね、元和九年、わが國を去つて、もつぱらインドの侵略に力を注ぎました。
わが朱印船は、かうした古手・新手のはびこる南洋へ、勇ましく乘りこんで行きました。秀吉や家康が貿易をすすめるまでもなく、國民の海外發展心は、もえさかつてゐました。京都・大阪・堺・長崎などの商人や、九州の大名らは、先を爭つて南方の各地へ進出しました。船も、末次船や角倉船のやうに、八幡船とは比較にならないほど、りつぱになりました。長さ二十五間、幅四間半、三百人乘りの船さへできました。航海の技術も進步しました。しかし、まだまだこの程度の船や技術で、波風の荒い東支那海や暗礁の多い南支那海を乘り切ることは、なかなか容易ではありませんでした。それでも、發展の意氣にもえた國民は、海國魂にものをいはせて、どんな苦難をもしのぎました。かうして、南洋へ渡つた朱印船は、幕府が開かれてからおよそ三十年間に、約三百五十隻にも及びました。
明かるい海、靑々とした木々を背景にして、白壁づくりの軒を連ねた日本町の生活は、繪のやうに美しく、夢のやうにおだやかでした。しかし南洋には、すでにヨーロッパ人の勢力がくひ入つてゐます。日本町の人々も、朱印船の商人も、ともどもに力を合はせて、これと競爭しなければなりませんでした。その場合、土地の人々は、つねにまじめで勇敢な日本人の奮鬪を、心からたのもしく思ひました。濱田彌兵衞が臺灣で、オランダの長官をこらしめた話などからも、これがうかがはれます。臺灣は、わが國と南洋との中間に位し、朱印船の南方進出の上に、たいそう重要な地點でした。ところがオランダ人は、寬永元年に、臺南附近を占領して、臺灣の富を獨占しようとしたばかりか、わが朱印船の南方進出をさへ、さまたげようとしたのです。彌兵衞がその不法をなじり、命をかけてそのいひ分を通したのは、まさに日本人の意氣と面目を示してあまりあるものです。
もえさかる國民の海外發展心は、このほかにも、多くの勇ましい話をとどめてゐます。早くも文祿年間、信濃の城主小笠原貞賴は、小笠原諸島を發見して「日本國天照皇大神宮地」と記した標柱を立てました。その後、慶長年間には、九州の大名有馬晴信が、ポルトガル人の不法に對する仕返しとして、長崎でポルトガル船を燒討ちしました。また加藤淸正が、大船を造つて安南との貿易を計畫した話や、支倉常長が、伊達政宗の命を受け、太平・大西の兩洋を橫ぎつてローマに使ひした話も傳へられてゐます。更に寬永年間には、播磨の人天竺德兵衞が、十五歳の若さでシャムに渡つた話や、九州の大名松倉重政がフィリピン征伐を計畫した話があります。
八幡船のまいた種が、今こそ花を開いて、國民の海外發展心は、とどまるところを知らない有樣となりました。ところが、このみごとな花も、幕府が國内の太平をたもつために、やがて國を鎖すに及んで、惜しくも散つてしまつたのであります。
三 鎖國
編集ヨーロッパ人が日本へ來て、天主敎をひろめたのは、國民の氣のゆるみに乘じて、わが國を從へようとするためでありました。國民は、かうした下心があることを少しも知らず、信徒の中には、むやみに新しがつて、社や寺をこはし、先祖の位牌を川に流すなど、わが國の美風をそこなふものさへありました。秀吉は、天主敎の害を知ると、ただちにこれを禁止し、家康もまた、その方針を受けつぎました。ところが二人とも、貿易を奬勵しましたので、そのすきに宣敎師がまぎれこみ、ひそかに布敎を續けました。その後、秀忠・家光と代を重ねるにつれて、天主敎の取りしまりは、ますますきびしくなりました。幕府は、懸賞・踏繪・宗門改めなどの方法を用ひて、これを根だやししようとし、寬永七年には、洋書の輸入を禁止しました。
ところが、幕府は、諸大名の叛亂を恐れて、武備を制限しましたので、いざといふ場合、國を守る自信がありませんでした。これに加へて、九州には、外樣大名や天主敎の信徒が多いため、いつ叛亂が起るかわからない有樣でした。幕府は、大名が貿易の目的で大船を造ることさへ、警戒するやうになり、また國民の海外發展にも、しだいに制限を加へました。さうして、國民が海外へ行くことも、海外から歸ることも、いつさい禁止してしまひました。第百九代明正天皇の御代、寬永十三年のことであります。なほ幕府は、この時ポルトガル人を、長崎の出島に閉ぢこめました。
かうして幕府は、大名の取りしまりと天主敎の禁止とをめざして、國の出入りを鎖してしまひました。ちやうど、紀元二千三百年ころのことで、世にこれを鎖國といひます。八幡船が活躍を始めてから、およそ三百五十年の間、年とともに盛んになつた國民の海外發展は、惜しくも、ここでくじけました。日本町の人々は、なつかしい朱印船の姿が見られず、しぜん、かれらの活動もにぶりました。故里へ歸ることができず、その地でさびしく死に絕えたのでせう。そこで、せつかく築きあげた南方發展の根城も、次から次へと、ヨーロッパ人にくづされて行きました。海國日本は、これからおよそ二百年の間、島國の姿に變ります。國民は、海外事情にうとくなり、江戸と長崎との間にさへ、遠いへだたりを感じるやうになりました。
綱吉ののち、家宣と家繼が相ついで將軍に任じられましたが、白石は、この二代に仕へて、いろいろと政治を改めました。その一つが、長崎貿易の制限であります。白石は、まづ貿易の有樣をくはしく調べて、金銀の流出があまりにも激しいことに驚き、家繼の時に商船の數をへらし貿易額を制限して、金銀の流出を防ぎました。白石は、このほかにも、りつぱな事蹟をのこしてゐます。朝廷では、これまで、皇太子におなりになる御方の外、皇族はたいてい出家なさる御習はしでありました。白石は、まことにおそれ多いことに思ひ、宮家をお立てくださるやう、家宣を通して、朝廷に申しあげました。第百十四代中御門天皇は、これをお取りあげになつて、新たに閑院宮家をお立てになりました。また朝鮮は、家康が交りを結んで以來、將軍が任じられるごとに、祝賀の使節を送つて來ました。ところが幕府は、いつもこれを勅使以上に、てあつくもてなしてゐましたので、白石は、國の體面にかかはることと思ひ、家宣に申し出て、そのもてなし方を改めるやうにしました。
白石はまた、鎖國の世でも、海外に目を注ぎ、これに關する本をあらはしてゐます。かうした白石の努力によつて、政治はふたたびひきしまり、太平の世が續きました。