再び楽浪出土の漆器銘文に就て

 
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再び楽浪出土の漆器銘文に就て
 
 一月号に楽浪漆器の銘文を遂録し、少しばかり鄙見を附注して置いた処、其後朝鮮総督府修史官藤田亮策君より来国に接した中に、左の如き一節があつた。

芸文にて漆器に関する御高説拝誦仕候昨秋の御教示と共に大に蒙を啓き申候㳉の字の如きも小場君と共に彫ならんと擬定致居候も御説により力強さを覚申候尚漢書貢禹伝の蜀広漢金銀器の文字の外に後漢書和熹郵皇后紀に

 其蜀漢釦器。九帯佩刀。並不復調。

とあるは有益に存候註に

 釦音口。以金銀緑器。

とあり銘文と合致して嬉しく存居候稲葉修史官は説文の段註を引きて釦は鍍金の事と解せられ候もそれにては銅釦黄塗工の句と相符合せず、章懐太子註の方正しきかと愚考仕候説文は反つて釦が常に鍍金せるより起れる転意を採りたるには候まじくや何卒御高教奉仰候又右の黄塗工に関聯して当時の鍍金銀オープンアクセスNDLJP:229 は全く水銀鍍金にて水銀が種々の金属を融解する性質と其旱華の性質とを知悉せざれば能はざる最も進歩せる方法にて従つて釦器の発達は水銀即ち朱丹の産出と離るべからざる関係あること我国の高塚時代と同様と存候蜀広漢に特に漆器其他の金銀器の起れるは水銀との関係もあるかと被存候此点も御教示賜り度候次に後漢書孝崇医皇后紀の東園画梓は漆棺等にも或るヒントを与へ面白き紀事と存候も何分田舎籠りにて文献乏しく東園署の職制等明瞭を欠き東園の秘器、東園温明の名と共にも少しはつきり知り度ものと存候是又御教示の栄を得ば難有仕合と奉存候舞陰家比五十六の銘により帝室の御用の外に舞陰公主の家の如き個人の為にも漆器を作りしものゝ多かりしものあるを知り漆器が必ずしも蜀漢の工官にて壟断せられたるには非ざる証かとも存ぜられ候が如何なるものにて候はんか重ね御教示の程奉待上候

此の来凾は又いろの資料をあさる動機を余に与へたことを感謝せねばならぬ。先づ釦の義につきては、稲葉氏の説は説文に「金飾器口」とあるにつきて、段玉裁は、

謂以金涂器口。許(慎)所謂錯金。今俗所謂鍍金也。

とあるに拠られたのであらうが、段氏は説文の釦字の次に錯字ありて、許慎が金涂也といつてあるのから連想して、釦をも金涂と解した者であるけれども、此説は桂复の説文義証、王筠の説文句読等も必ずしも取らない処から見れば、正確とは言ひ難く、説文のまゝの金飾器口は後漢書註の以金銀縁器と同意義にも解せらるゝ故、かく解する方が穏当ではないかと思はれる。釦の字につきては尚塩銕論散不足篇に、

古者汙尊坏飲。蓋無爵觴樽爼。及其後。庶人器用即竹柳陶瓠而已。唯瑚璉觴豆。而後雕文彤漆。今富者銀口黄耳。金罍玉鍾。中者舒玉紵器。金錯蜀杯。夫一文杯。得銅杯十。賈賤而用不殊。箕子之譏。始在天子。今在匹夫。

とありて、桂复王筠も説文を釈する時、節略して引用したが、此の短かき章中に、楽浪より発掘された。

彤漆 銀口〈口は釦と同じ〉黄耳。紵器

などの名目が見えて居るのが面白い。田沢君は史学雑誌に、製作の順序から考へオープンアクセスNDLJP:230 て、彤の字の釈読を危ぶまれて居るが、さまで危ぶむにも及ぶまいと思はれる。〈田沢君に感謝するのは、銘久に「利王」の外に、「利韓」の字も存在することを示されたので、これは並びに楽浪右族の姓であらう。〉

 段氏、桂氏、王氏筠は、ともに漢旧儀に

大官尚食。用黄金釦器。中官私官尚食。用白銀釦器。

とあるを引き、桂王二氏は同じ書の宗廟三年一大袷の章に黄金釦器、白銀釦器を用ゐることも引いて居るが、この章中に

毎牢中分之。

及び

大牢之左

などある祭肉の牢は、発掘品中、永平十二年の器に在る牢字を思ひ起させる。

 桂氏は更に東観漢紀の

桓帝立黄老祠。淳金釦。

とあることや、後園警衛。執金釦杖及銀釦檀杖。のことを挙げ、又宋の程大昌の演繁露に楊雄の蜀都賦を引いて、彫鐫卸器百伎千工。といへるをも挙げた。

 段王二氏は又班固の西都賦に

玄墀釦切

とあるをも指摘して居るが、段氏は此の釦切を金涂門限也と解した。然るに文選には切を砌字に作つて居る処から考へると、段氏の解は少し怪しくなつて来る。文選の五臣註には張読の説として

玄塀以漆飾塀。塀階也。釦砌鏤砌也。

と解し、李善註には

釦砌以玉飾砌也

とあるのも、同義かと思はれるが、玉に限らず、金銀を以て砌を飾ることをも言つたのであらう。ともかく藤田君の来凾から、此等の資料をさがして見るつもりになつたので、一先づ今日まで獲た所を記して置く。

(大正十五年四月芸文第十七年第四号)


  附記

大正十五年八月史学雑誌第卅七編第八号に原田学士(淑人)の「楽浪出土漆器の銘文に見オープンアクセスNDLJP:231 ゆる工に就て」あり。又同第卅七編第九号に文学博士藤田豊八氏の「問題の二語(乣と㳉)附清工」あり。又昭和二年六月第卅八編第六号に原田学士の「再び楽浪出土漆器銘文中の消字に就て并に牢の字に就て」あり。要するに消字を彫字に読むことに帰するなり。但だ余は未だ本文の説を撒廃するの必要を認めざるを以て、猶此篇を存置したり。那波学士は又司馬彪の続漢書与服志に。

 軽車古之戦車也。朱輪与。不巾不盖。

とあるを挙げて、想ふに司馬彪の時代に既に羽字が洞と誤読せられたるならんといはれたり。但し恵棟の後漢書補注には洞字に顔籍引作彫と注せり。

(昭和四年三月記)

 
 

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