384◯償は何の爲に命ぜられますか
△償を命ぜられるのは(一)天主に爲したる侮辱を償ひ、(二)罪に対する有限の罰を贖ひ、(三)行状を改める爲であります。
聽罪師は人の罪に応じて相当(當)の償を命ずる筈である其訳は
第一、
天主に爲したる侮辱を償ひ、
即ち人は罪を以て天主の權威に逆らひ、誡を軽蔑し、恩に背き、イエズス、キリストの御苦を無駄にし、再び十字架に磔けるも同樣にして、甚しき侮辱を掛け、終なき罸を負はされたものであるから真実(眞實)の痛悔がある人ならば、身を厭はず、出來るだけの償をしたいと望む筈である。聽罪師の命ずるのは、幾分か其侮辱を償はせる爲である。
第二、
罪に対する有限の罰を贖ひ、
即ち大罪の爲に受くべき限なき罸の代に、有限即ち限ある罰が常に殘る。夫で之を償ふには聽罪師より命ぜられる償を命ぜられ
[下段]
た通りに完全に果たさねばならぬ。
第三、
行狀を改める爲、
即ち惡しき習慣を矯正し、人の財産或は名譽に掛けた損害があるならば之を補ひ、惡しき鑑に成った事があるならば之を繕ふ等の爲である。
385●罪を赦された時、其罰も倶に免されませぬか
▲罪を赦される時永遠の罸は必ず免されますけれども有限の罰は殘る事があります。
若し彼マリア、マグダレナの如く、自分の罪の甚い事を覺って、一心に之を悔み、人に憚らず、イエズスの足下に平伏し、涙を流し、罪の便になったり罪を犯す爲に用ゐた器具を打毀して、罪の機会をも斷然棄てる決心を示す者ならば、或はイエズスの側に磔けられた盗賊の如く、主を罵る仲間を離れ、自分の罪の甚い事を思込み、如何な罰でも当(當)然であるとして一心に救主に靠る者ならば、洗礼を受けた時と同じく罪赦されると倶に其罰も悉く免される事も有り得るけれ共、一旦洗礼を受けてから、痛悔は完全ならずして不完全の痛悔を
-271-
以てでも立帰る時は天主の御定により、
大罪
は幾百あっても告白に由て
赦され終なき罰をも免される。
然れど、是丈で何も角も済んだと思ふてはならぬ、恰も死刑や無期懲役に処せられた罪人は縦し大赦の恩典を蒙っても、其侭(儘)無罪放免になるのではなく、刑は一段下げられて有期懲役になると同じ道理で、地獄の無限の罰は免されても、未だ有限の罰即ち限ある煉獄や此世での罰の殘るのは常である。心ある人ならば言付けられた償を快く熱心に果すのみでは足らずとして尚、出来る限りの償を果したいと思ふのが常である。
386◯有限の罰とは何でありますか
△有限の罰は此世叉は煉獄で果さねばならぬ償であります。
有限の罰
とは限あり、終ある罰との意味である。地獄の無限に対して云ふ。
此世叉は煉獄で果さねばならぬ償。
此世での償は悲哀苦痛災難等である。例
[下段]
へば旧約時代にモイゼ、アーロン其妹ミリアム等は天主に呟いた罪を赦されたれど、其罰として約束の地に入らない中に死んだ事、ダヴヰド王が不義の子を擧けて、其罪は赦されたけれども、幾許祈禱しても子は餘儀なく死んだ事等の如し。煉獄での償は罪を償ひ果すまで未来で苦む事であるが、両方とも罪の罰と云はれる併し此世の苦は若し快く受けて献げたなら、先々の報酬の種にも成るから、寧ろ償と名けるが可い、煉獄で苦むのは罰ばかりであって後の益に成らぬ、其で彼世で罸せられるよりは此世で償ふやうに励(勵)む方が得である。
387◯償を免除される爲の特別の方法がありませんか
△それは公教会の施す贖宥であります。有限の罰を贖ふ方法は種々あるが、其第一は告白の時に言付けられた償を快く完全に果す事であって、第三百八十四の問に云はれた通りその償は悔悛の秘蹟の一部分であるから、秘蹟的功能がある。聽罪師は罪に応(應)じて償を命ずる筈ではあるが、罪の甚い者が多い爲か、叉は罪人の気弱い事
-272-
を虞れて、控目に言付ける事が多い。夫で罪人は真心があるなら、言付通を快く果す丈では足れりとせず、尚甚い償を願ったり、叉自ら工夫して罪を償ふやうに励(勵)むのが当(當)然である。
第二、告白外に罪の償と成るのは祈禱であって、即ち黙禱、口禱(二百八十一の問を宥よ)ミサ聖祭や聖体降福式等の聖式に与り、十字架の道行を爲し、ロザリオを誦へ、信望愛德と痛悔の祈禱を爲し、叉殊に贖宥を附したる祈禱を熱心に誦ふる事である。
第三、凡ての克己、身を懲す事、断食、大斎、小斎、禁酒等の苦行、或は飮食を減じ、不自由を甘んじ、快樂を控へ、情慾を制し、五官を愼み、凡て人淸に逆ふ事、例えば、務め難い事、蔑視、侮辱、撥付けられる事等を天主を爲に能く耐へる事である。
第四、靈魂上の慈善業を努める事(第二百六十九の問を看よ)。
第五、世の凡ての困難、苦勞、禍災を快く献げる事、天主の之を計ひ給ふは、凡そ人が身を惜んで、罪を償ふ苦行を避け
[下段]
ると看行して、其代にならせる爲である。(第二十五の問を見よ)然し以上記載たる事は皆天主の爲、叉イエズス、キリストの御苦に合せ己が罪の償として熱心に献げるほど功能がある。
第六、己を思はず、祈禱善業等を以て償と成る所を他人に讓る事であるが、如何なる善業もこの著しき結果を生ずる。
即ち一は自分の益になって他人には讓られぬもの、他の一は償に成ると同時に他人にも死者にも讓る事が出來るもの、例へば功績の爲に勲章と恩賜金を貰った者は、其勲章は他人に讓る事は出來ないけれども恩賜金は他人に与(與)ふる事も出來、叉之を以て他人を助ける事も出來ると同樣である。而して他人に讓る償は愛の行と成り、自分の上にも一層大なる勲と成り、益になる。
第七、殊に有限の罸を免す特別の方法があるが、
是公教会の施す贖宥である。
388●贖宥とは何でありますか
▲贖宥とは罪の赦ではなく、既に赦された罪に対する有限の罰を悔悛の秘
-273-
蹟の外に公教会が免除する事であります。
贖宥
と云ふ字は贖の宥との意味であるが、赦罪や赦宥とは異ひ、決して罪の赦ではない。赦宥赦罪は罪の赦であって、洗礼悔悛及び完全痛悔を以て得られるに、贖宥は唯の罪の償の宥でもない、罪の有る間は之を償ふべき事は確然と殘る、其で罪赦されたのに、三百八十五の問に云はれた如く、其罪の爲に尚殘る償の宥である、之が
悔悛の秘跡の外に
行はれ、
公教会
より殊更に施されるものである。
(註)新教の起の口実は、贖宥を赦罪赦宥とて、罪の赦であると言做した事による、即ち金等の代に罪が赦されるとは甚しい事であると云ったが、公教会では贖宥が罪の赦であるとは決して云って居ない。公教会では悔悛の秘跡を以て赦されたる罪に就き尚殘る罰或は償ふべき所のあるのを、殊更の善業の故に赦される事を贖宥と云ふのである。
389◯贖宥は何から出ますか
△贖宥はイエズス、キリスト、聖母マリア及び諸聖人の償の餘分から出ます。
[下段]
===イエズス、キリスト===の生涯の行、及び苦は限なき功德と成り、一切人間の罪を償ふに餘りあるに相違ない、
叉
聖母マリア
は聊も罪はなかったし、
諸聖人
も力を尽(盡)して罪を犯さぬやうに注意する傍、償として非常な苦行を甘んじて捧げて居るので、自分の罪の償には餘ったに違ない。其が公教会の寶物として積まれ之が百十四の問に云はれて居る通り、諸聖人の通功を以て各の信者に施されるのである。
(註)贖宥は專らイエズス、キリストが十二使徒に向ひ「凡て汝等が地上にて繋ぐ所は天にても繋がるべし、叉凡て汝等が地上にて釈(釋)く所は天にても釈(釋)かるべし」と(マ テ オ十八。十八)仰せられた言に基く、叉功德の寄与即ち功德を他に讓る事と諸聖人の通功とによるが、其由来は先づ聖パウロが、姦淫を犯した一人の信者に対して「肉体は亡びるとも精神は我主イエズス、キリストの日に於て救はれん爲」とて(コリント前五。五)破門の宣告を言出したるに、遂にコリント市の信者に対して、「キリストの御前に赦す」と(コリント後二。六以下)言ったのが初の例
-274-
である。
是によって公教会の初代の罪の酷い事、容赦なく償ふべき事を諭す為、迫害の時に墮落したり、棄教、姦淫等を以て人の惡しき鑑と成ったりした者に向っては、公然に而も長年に亘る苦行を償として命じ、信者は未来の罰の尚苦しい事を曉って、之を迯れる爲に甘んじて此命に服し、幾年間も大斎小斎を行ひ、信者の集会に会衆外に止る事等に心から服して居た。例ば、占者に吉凶を尋ねた信者は五年間、公然に天主若くは聖人を冒瀆した者は七週間、日曜日に働いた者は三日間、親に咀を掛けた者は四十日間、人を殺した者は生涯の償を命ぜられて居た、其間に自ら特別の動功を爲したか、或は迫害を凌ぎつゝある信者、殉教者、道德者等の取次にまって、特赦を蒙る事が屡あった、是ぞ贖宥と云ふものである。即ち己の殊更の行、或は熱心家の取次に対して、公教会から殊更に大赦叉は特赦を蒙る事である。
390◯贖宥に幾種ありますか
△贖宥に二種あります、全贖宥と分贖宥とであります。
[下段]
全贖宥
とは全き贖宥の意味、
分贖宥
とは幾分かの贖宥の意味である。
391●全贖宥とは何でありますか
▲全贖宥とは有限の罰を悉く赦すものであります。
罪は赦されても尚之が為償は残る。全贖宥とは此償を悉く赦して了ふとの意味である。夫で之を戴いて直に死ぬならば、恰ど洗礼後、直に死ぬと同じく煉獄を経ずして直ぐ天国に入られる。
(註)全贖宥そのものは、残るだけの償を全然と赦して了ふ事であるが、併し其通り宥されるには、人の志次第、熱愛次第であるから、此二の事の不足する時は全くは得られず、幾分かしか儲ける事が出来ないで、分贖宥のやうに成る場合が屡ある。其で之を宜しく且幾度も儲けるやうに力めるのは道理ある方法である。
392◯分贖宥とは何でありますか
△分贖宥とは有限の罰の或る一部を赦すものであります。
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例へば百日、三百日、七年、七四旬等の償を補ふ宥との意味である、然れど其だけ煉獄の罰が短くなるとの意味ではない、三百八十九の問に言はれた通り、公教会の初代に其だけの償を行ふたと同様に宥されるとの意味である。是が煉獄に対して何の割合に成るかは、天主の思召に由る外はない。
(註)贖宥を名付けるに全贖宥は単に全贖宥と云ひ、分贖宥は数字を以て何年、何百日の贖宥と云ふ。
393◯贖宥は誰から施されますか
△教皇及び司教からであります。
天国の鍵を与へられた聖ペトロの後継なる教皇は、如何なる贖宥をも施す事が出来る。大司教は百日、司教は五十日の贖宥を施す事が出来る。
394●贖宥を蒙る為に如何せねばなりませぬか
▲贖宥を蒙るには之を望み、定まった善業を浄い心を以て能く務めなければなりませぬ。
此点は最も注意すべき所であって、何の贖宥を得られるかと
[下段]
知らずとも、之を儲ける条件を務めれば儲けるが、之を備へねば贖宥は得られぬ訳である。偖て其条件は内部と外部とに成る。内部の第一の条件は
清き心を以て
務をする事であるが、制定った善業を、大罪なく痛悔の心を以て行ふ事である。例へば大赦の贖宥を儲ける為には、大罪を有ちながら聖堂参詣聖体拝領の前に、悔悛の秘跡を以て罪の赦を受ける事は必要である。外部の条件は殊更に
制定った善業を能く務める事
であるが、能くとは、制定った事を制定った通り制定った時に熱心に務めることである。制定った事と云へば種々あるが、重に祈禱、殊に教皇の心当に応じて祈る事、御堂に参詣する事、施与、善業、修行、説教聴聞、告白、聖体拜領等である。
-276-
さて祈禱は或は龥告の如き短いものなら、例へば十字架の記号を為し(五十日)、互に挨拶するに「イエズス、キリストは讃美せられ給へ」と云はれて「アメン」と答へ(五十日)「我イエズス憐み給へ」(百日)「原罪なくして孕り給ひし聖マリアよ汝に倚頼み奉る我等の為に祈り給へ」(百日)、臨終に際して口で或は口の叶はぬ時は心で「イエズス」の御名を呼頼む(全贖宥)等を痛悔の心と信心を以て誦へるが肝要である。長い祈祷例へば玟瑰花冠等は出来るだけ熱心に誦へる事が必要である、叉「教皇の心当」と云へば重に聖会の隆盛、異端の根絶、布教の成功、罪人の改心、諸国の和睦等である、之を一々覚なくても、教皇の望に徒って祈ると云ふ心で主祷文、天使祝詞を五遍位も熱心に誦へれば可い。
御堂に参詣するとは、御堂に這入って暫く祈る事である。施与とは或は貧窮人或は慈善会、或は御堂等に金銭物品を施す事である。善業とは或は何々会に加入して其規則を守り、或は人に教を聞かせ、或は慈善業を行ふ事である。修業とは或は黙想等を致し、或は数日に亘る黙想会に与り、或は玟瑰花
[下段]
冠の月の集会に出席する事等である。説教聴聞とは或は説教を聞き、或は教の稽古を為す事等である。告白聖体拜領は実際よく告白し、聖体拜領する事である。
通例贖宥を儲けるに決った事は其なものであるが、制定った通りとは確然と決められた事を其侭に守る事である。制定った時とは凡そ何の祝日に当り、何日、何箇月の間とか云はれた時である。但し相当の妨があって言付けられた条件を守る事が出来ないならば聴罪師は之を変更する事が出来る。而して贖宥には告白聖体拝領が条件と成る事が多いが、其日に出来かねる場合を想像して猶予が与へられて居る、即ち告白は其日を中心として一週間前から一週間後迄の間にすれば可い事になって居る。若し連日に亘る修行に就いて為すべき告白ならば、其修行を了ってから一週間内にしても可い。聖体拝領日が定って居るならば、其日の前日或は次の一週間内にすれば可い。
日々でも儲けられる贖宥の条件に応ずるには、月に二度告白すれば足る。叉毎日の様に聖体を拝領する人ならば尚少く
-277-
しても可い。
(註)全贖宥を儲ける為には決められた条件を能く守らねばならぬ、例へば十字架の道行をするに、出来るだけ各留に近づき、イエズスの御苦を目で見る如く、御苦難を思廻して、己が罪を一心に悔み、イエズスの苦を我心に染込ませてこそ、エルザレムに詣でたと同様に贖宥を儲ける事が出来るが、上面で其務を為た計りでは足らぬ。
叉祈祷文百八頁に掲げられた祈祷を聖体拝領後、十字架に掛れるイエズスの御姿の前に信心を以て誦へ、其後教皇の心的に応じて暫く祈祷を加へれば、全贖宥を儲けられるが、併し其祈祷の意味を能く曉り、イエズス、キリストの五の傷を吾目の前に置き、之を思廻し、信望愛の激しき感覚と真の痛悔と罪を改める堅き決心とを我心に染込ませる事を願ふとあれば、口ばかりでなく一心に、誦へなければ、全贖宥は儲けられない。
395●煉獄の霊魂に贖宥を譲る事出来ますか
▲教皇より施されたる贖宥は皆煉獄の霊魂に譲る事が出
[下段]
来ます。
是は教会法第九百三十条に明かに示されてあるが、併し活きて居る人に譲る事は出来ぬ。
(註)公教会では活きて居る信者に贖宥を施す時は、直接に宣告のやうにするが死したる人は最早公教会の頭に与へられたる権限を脱した者であるから直接に施す訳には行かぬ。唯懇願的に天主に献げて、之を死者に譲り給ふやうに願ふ計りである。之に就いては天主の殊更の御約束はないけれども、御慈悲によりて其願を聴入れて煉獄の霊魂を助け給ふ事は、公教会で信じ且希望して居る所で之は種々の争ふべからざる徴によって確かである。即ち斯の如く此世より送った贖宥で煉獄より救上げられた霊魂の取次によって、人の願が天主に聞届けられた実例は少くない。
思へば煉獄の霊魂は最も同情を表すべきものである。小罪の為或は罪の贖の足らざる為、如何に天主を愛し之を見奉らんと望んでも、許されない。而も彼等は最早や自分で功力を樹てる事は出来ないのである。地上の親族友人、叉は他
-278-
の志ある人の援を仰ぐ外に仕方なく我友よ切て汝なりとも我を憐めよ。蓋し主の御手我を打ち給へり」と叫んで居る。斯く我に叫びつゝある靈魂の中には或は私故に罪を犯し其罪故に、煉獄で苦しんで居るものがないとも限らぬ。夫で心掛けて善業殊に贖宥を以て煉獄の靈魂を助けるやうに励む筈である。
殊に「英雄的誓願」と呼ばれるものである、之は努めて儲けられるだけの贖宥を自分の爲にせず、悉く煉獄の霊魂に譲るばかりでなく、自分の死した後にでも、他人から献げられる償に至るまで、残らず煉獄の霊魂に譲るとの決心である、是最も称賛すべき愛の業である。之を致した者には、假令煉獄の霊魂に譲られぬ贖宥でも、特別に譲られる事は、聖会の定である。然うした時でも自分の為に気遣はれ(:ない)訳はない、イエズス、キリストの明かな御言葉に「与へよ然らば汝等も与へられん」、叉「汝等人を量りたる量を以て自分も量られん」との忝なき御約束がある以上、万事御慈悲限なき摂理に打任せる事は、何より宜い事である。要するに贖宥は善業や贖
[下段]
罪を怠らせない耳か始終聖寵の地位を保つ事を要求し、善業を励し、己れと他人の救霊に非常な利益になるものである。