320◯最も貴き秘跡は何でありますか
△最も貴き秘跡は聖体であります。
最も貴き秘跡
とは一番位の高い、一番価値ある、一番貴い秘跡との意味であるが其訳は外の秘跡は聖寵の徴ばかりで唯聖寵を施すのであるのに、聖体には聖寵ばかりでなく、聖寵の源にて在し凡ての秘跡を定め給ふたイエズス、キリストが籠り給ふからであります。例へば一杯の水よりも其泉、果物や花よりも之を生ずる木と其根は尚価値あるが如く聖体の秘跡は他の何れの秘跡よりも貴い。
321●聖体の秘跡とは何でありますか
▲聖体の秘跡とは、パンと葡萄酒との外観の下に、イエズス、キリストの御体と御血とが、実際に存し給ふ秘跡であります。
聖体
と云ふ語は聖なる体即ちイエズス、キリストの御体
[下段]
の意味である。イエズス、キリストが十字架に磔けられ給うた時も聖体とは云はれたが、然し聖体の秘跡とは云はれなかった、秘跡と成るには徴が要る故、御体は徴なるパンの形色の下に隠れた時でなければ秘跡とは云はれぬ訳である。
聖体は
イエズス、キリストの御体と御血であります。
他の秘跡は一時的の式が済むと直に過ぎ、唯結果を残すのみであるが、聖体は之と異うて、イエズス、キリストである。秘跡に存在し給ふイエズス、キリストの御体御血其ものであって一時的でなく、消費し尽されるまでは其侭に止り給ふものである。然て秘跡的に存在し給ふと云へば五尺の御体の侭ではない。同じ御体ではあるが霊の如くにして肉身の目には見えず、パン葡萄酒の外観の下に隠れて在す。若しイエズス、キリストの御体御血が有体に見えるならば、人は恐入って、近寄る事も拝領する事も到底出来ないから、イエズスは御自分をパンと葡萄酒との外観の下に隠し給うた。併し能く気を付けて貰ひたい、パンと葡萄酒との
-231-
中でなく、
パンと葡萄酒との外観の下
にと云はれて居る。即ちパンと葡萄酒の実体は聖変化に由てはイエズス、キリストの御体と御血に成変りパンと葡萄酒の偶成即ち形、色、味即ち外観の下に実際に在すのである、是ぞ聖体の秘跡である。
籠って居る
とは、右に述べた通りパンの外観の下に実際に在すと云ふ意味である。
(註)イエズス、キリストは人の心に降りたいと、お望みになっても、若し聖体の中に有の侭に見え給ふなら、誰が能く之を飮食し得ようぞ、其で天主は固より母の血液の精分を小供の血肉に化する為、之を甘い乳汁に変ぜしめ給う如く、イエズス、キリストは御体と御血をばパンと葡萄酒との外観の下に籠らせ給ふのである。故に見、触れ、味ふ所では普通のパンに過ぎないけれ共実体はパンではなく、イエズス、キリスト自らの御言の通りその御体御血其物である。
[下段]
(註)イエズス、キリストがパンの外観の下に在し給ふは人が室内に住ふ如き事でない、寧ろ霊魂が身体の中に在るが如くである。此処に居給ふ事其形色の存する間であって、形色味等が消失せてパンと思はれぬやうになったらイエズス、キリストも消え給ふ、而して其形色の擘かれる時は御血肉の擘かれぬのは云ふに及ばず、其何れの部分にも止り給ふ。例へて云へば一面の鏡に写る顔は一つであるが叉其鏡が壊れると其破片の何れにも完全な顔が見えると稍似た事である。
322●聖体の秘跡の中にはイエズス、キリストの御体と御血とだけが在すのでありますか
▲聖体の秘跡の中にはイエズス、キリストの御体御血ばかりでなく、その御霊魂も天主の性もすべて在し給ふのであります。
御霊魂も籠ってある
とは体と霊魂と分れれば死ぬ事になるから、若しイエズス、キリストの御体と御血ばかり聖体の中に在るならば、恰ど十字架上に在った如くで、活き
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て居るとは云はれない。併し御復活以後、即ち生回り給うた上では、御体と御血も御霊魂も共に在る筈である。
天主の性もすべて在し給ふ
とは御体と御血と御霊魂とは天主聖子のものと極ってあれば、天主の性即ち真の神たる本性云はゞ全知全能全善の諸徳が聖体の秘跡の中にすべて在し給ふのである。
(註)聖体は天主にて在すイエズス、キリストであるから、礼拝すべきもので常に御堂の祭壇の聖櫃の中に保つが、聖体の在す印に、規則として其前に昼夜常燈が點されて居る。故に人は其前を通る度毎に敬礼ばかりでなく片膝、或は聖体が現に顕示されて居る時は両膝を曲げて礼拝を表する筈である、心掛けて叮嚀に致さねばならぬ。
聖堂出入の時御主に挨拶と礼拝する為に次の言葉を唱えれば善い。
「主耶蘇基督、主は実に此の聖体の秘跡中に在し給ふ、吾は天主たり人たる主を拝礼し讃美し、且つ感謝し奉る。亞孟」
[下段]
323◯イエズス、キリストは何時聖体の秘跡を定め給うたか
△御死去の前日、晩餐の時、聖体の秘跡を定め給うたのである。
晩餐
とは、夕飯、晩飯の事である。
(註)聖体は愈よイエズス、キリストより定められた事と聖寵を与へる事と其徴にパンの形色を以て成立つ事との三要件揃って居るから秘跡である。
324◯イエズス、キリストはどのやうにして聖体の秘跡を定め給うたか
△イエズス、キリストは聖体を定め給ふに、パンを取り、之を祝し、使徒等に与へて宣はく「汝等受けて之を食せよ、是汝等の為に交される我体である」と。次に爵を取り、之を祝し、使徒等に与へて宣はく「受けて之を飮め、是我血である」と。叉使
-233-
徒等に宣はく「汝等我記念として是を行へ」と(ルカ二二。十九)。
パンを祝する
はパンの上に天主の恵を龥下す事である、
宣はく
とは、斯う仰しゃったとの意味。
是汝等の為に交される我体である
と仰しゃったのを能く覚えて貰ひたい。此中に我体が入ってあるとは仰しゃらないで、是我体である、パンと見えてもパンではない我体であると仰しゃった事、更に明日汝等の為に交される筈の我体でると仰しゃらないで、今現に汝等の為に交される我体であると仰しゃった事を忘れてはならぬ。叉爵を取って之を祝し給うにも矢張葡萄酒の上に恵を龥下し給うたので、是我血であると仰しゃって、此中に我血が入ってあるとは仰しゃった事を忘れてはならぬ。其で聖体はパンと葡萄酒との外観ながらパン葡萄酒でなくて真の天主真の人なるイエズス、キリストの御体、御血である。叉汝等我記念として之を行へと仰しゃったのは我記念として我今致
[下段]
した通り汝等も行へとの意味である。
325◯イエズス、キリストがパンと葡萄酒とを手に取って「是我体である我血である」と仰しゃった時パンと葡萄酒は如何なりましたか
△此言によってパンは変じて御体となり、葡萄酒は変じて御血と成りました。
変じて
とは、成変ったとの意味。
イエズス、キリストが兼て病人に向っては癒れ、死人に向っては起きよ、荒波に向っては鎮まれ等と仰しゃる度に、一として御言の通りに成らぬ事はなかった。されば、今パンを手に持って之を指して是ぞ我体である叉葡萄酒を手に持って之を指して是ぞ我血であると仰しゃるならば必ず御言の通に成るに違ない。恰ど世の初に、天主は光あれと曰うたに、光が成ったと同じである。我々は之が全能の天主の御言、御業なるが故に何等疑ふ所なく安んじて固く信ずるのである。
(註)イエズス、キリストは若し突然さう仰しゃった計りな
-234-
らば、或は兼て十字架を担ふべしと仰しゃった時の如く諭話かと思はれるかも知れぬ。併し聖ヨハネ福音書の第六章に審かに見える如く既に一年以前から準備し給ふたのであった。即ち五の麪を以て五千以上の人を養ひ給ふた。而して其機会に我こそは天より降った活きた麪である、我が与へる所の麪は世を活かす為の我肉である、我肉は実に食物であり我血は実に飮物である、我を食する人は我によって活きる等と幾度もゝゝゝゝ仰しゃって居る素より聞く人は解らないで呟いた然し真の天主真の人たるイエズス、キリストの御言に虚偽がある筈がないから、假令肉眼には見えないけれども、実際イエズス、キリストの其御血肉である。之を信ぜないなら自分の弟子には成られぬと厳しく仰せられた故、公教会では、イエズス、キリストが天国に在す如く聖体にも在すと固く信じて居るのである、従て聖体の秘跡にイエズス、キリストの御血肉の実在を信ぜられないならば公教信者でなく叉信者たる事は出来ない訳である、此故に公教会は此信仰に異論を唱へたる人を破門したのである。
[下段]
此不思議な変化を公教会で実体の全変化叉は化体(Transsbstantiatio)と名けるが、イエズス、キリストの御言と公教会の定義によって人が救霊を得る為に必ず信ずべき信仰箇条である。万物を無より造出し給ふ天主の全能の業から見れば、聖体の秘跡も信じがたい事はない、看よ地の味は、日と雨との影響に由て植物の樹液と成り、或は葉と成り、花と成り、五穀や果と成り、石のやうな堅い核と成り、大木と成る、叉食物は毎日我々の血肉に化するではないか。天主の全知全能は自ら無より出来し給ふた動植物の機関を以て、漸次に自然に成らせ給ふ所を一瞬間で超自然的に為し得ない筈はない。恰もキリストはカナの婚宴に於て水を一瞬間にして葡萄酒に変化させ、前後二回に亘って僅かの麪を以て数千人を養ひ、叉只一言を以て死人を生回らせ給うた事等を考へ合せると聖体の秘跡を信ずるに何等難くはない。
326◯「汝等我記念として是を行へ」との御言は何を意味するのでありますか
△此
-235-
言によって使徒及び其相続者は命令と共に、聖体を造る権を受けた事を意味するのであります。
使徒及び相続者、
即ち十二使徒及び其相続者迄と云はれるは、イエズス、キリストの定め給ふた事は十二使徒等一代の為ばかりでないからである。天に昇り給ふた時、「我世の終まで毎日汝等と共に居ります」と仰しゃった如く今十二使徒は此通に為よ、即ち聖体を造れと云はれたのであるから之は只、キリストの
命令
計りでなく同時に、
聖体を造る権
即ちキリストの如くパンと葡萄酒を御体御血に変化させる力を賜ったに相違ない、而して世の終まで彼等の相続者も然うである。若し自分等に聖体を造る権、即ちパンと葡萄酒をイエズス、キリストの御血肉に変化させる力ないならば如何して其命令を実行する事出来ようか出来ない事である。故に其命令と共に其力を賜はった事も疑ふ余地がない。
327◯イエズス、キリストは何の為に聖体の秘跡を定め給ふたか
△聖体の秘跡を定め給ふ
[下段]
たのは(一)人としても此世に止り(二)其身を犠牲として御父に献げ(三)人の霊魂を養ふ為であります。
第一、天主としてはイエズス、キリストは何処にも在せど、
人として
の御体は然う云はれぬ、唯天に昇って天使聖人に見え給ふに、人の間にも見えないながら夜昼止り、苦を慰め、願事を聴き、気を引き立て、能く天国に導きたいとの望を以てパン葡萄酒の外観の下に存在する事に定め給ふたのである。
第二、イエズス、キリストの代までは天主より定められた旧約時代の犠牲等様々の奉献があったが、総て廃されて、唯イエズス、キリストの犠牲のみとなった、其為にイエズス、キリスト御自ら聖体の秘跡を定め給ふたのである。
第三、
人の霊魂を養ふ為
とは妙に聞こへるかもしれないが、然し生きるものは、皆養が要る、植物は動物の養と成り、草木さへも養がなければ枯れて了ふ、動物の能力も之に養を与へて維持する事を要す。人の……………、自然の生命に加へられた超自然の生命、即ち聖
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寵、天主の子女たるの生命を保つに矢張、養が要る、自然の生命を継ぐは五穀、野菜、肉類の如き物質的のものであるに、霊魂の超自然の生命を保つのは霊的の養、即ちイエズス、キリストの御血肉、即ちイエズス、キリスト御自身である。然し聖体拝領は物質的食物の如く我々の身にイエズス、キリストを同化するのではなく我々がイエズス、キリストに同化せられるのである。
(註)イエズス、キリスト絶えず我等の傍に止り給ふ故、我々は之を深く有難がって、出来るだけ度々御訪問し、イエズスを目の前に見て一心に拝み、感謝し、罪の赦や御恩恵を願ふ事を忘れてはならぬ、叉身を犠牲に献げ給ふにより、自分も其献に与り、己をも共に献げねばならぬ、叉益す天主の子女らしくなる為に、霊魂の養に備へられたる聖体を拝領するやう励まねばならぬ。
328◯何時イエズス、キリストは其身を犠牲として御父に献げ給ふたか
△イエズス
[下段]
キリストは十字架に懸って身を犠牲に献げ給ふた。而して今もミサ聖祭を以て御自身を犠牲として御父に献げ給ふのであります。
(註)第一、聖パウロの言によれば「キリスト世に入り給ひし時御父に向って曰ふには主よ(今までの)犠牲と献物とを否みて肉体を我に備へ給へり、燔祭(礼拝の為に献げる犠牲)と罪祭(罪の償として献げる犠牲)とは御心に適はざりしを以て、我言らく看給へ聖書の初に我に就きて録したれば、天主よ我は御旨を行はんが為に来れり」(ヘブレオ十。五)と、其で真実に云へばイエズス、キリストの御生涯は旧約時代の犠牲の代に御自身が犠牲となって身も心も犠牲に供し給ふた事になる。即ちベトレヘムの厩に生れ給ふた時から十字架上に死し給ふた時まで御自分の意志のまにゝゝ生活し給ふ事は一瞬間とてなかった。
第二、三十歳までは清貧に甘んじ不自由を甞め、卑しい職業を営み、私生活を以て犠牲に成り給ふた。
第三、布教を初め給ふや洗者ヨハネより「世の罪を除く天主
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の羔」と名けられ、自由と名誉を犠牲にして楽を求めず、「父の思召を全うするは我食物である、世に来たのは人々を使ふ為でなく人々に事へる為叉衆人の贖として生命を棄てる為である」とて師の身分に在しながら却って吾弟子等に仕へ給仕のやうに、謙り給ふた。
第四、人の為に苦しんで血を流す事を深く希望し、度々預言し、「死を遂げるに至るまで心が切迫して居る」と仰せられ、遂に十字架に磔けられて「成し尽した」と曰ひつゝ生命を棄てゝ生涯の犠牲を全うし給ふたのである。
第五、今も其犠牲を其まゝに総括して、聖体の犠牲即ちミサ聖祭を以て日々献げ給ふのである。