211●教会の第一の律令の文は如何
▲守るべき祝日を聖とすべし。
祝日
とは、祝日と云ふ事で恰も國祭日を設けて、國家に功績あった人、及び芽出度事柄を祝ふが如く、公教会では天主が舊約時代に定め給ふた例に做ひ、天主、イエズス、キリスト、聖人等を尊ぶ為に、種々の祝日を設けたのである。其目的は、(一)キリスト及聖人を忘れる事なく、益々天主の御恩を有がたり、(二)其鑑を以て信者の熱心を奮ふるはせ、(三)恩惠を尚潤澤に戴かせる為であるが、然う云ふ祝日は年中毎日ある。併し皆守るべきものではない。各々信心に任せてある。守るべき祝日だけは、主日と同様に労働を休んで、
聖日とすべき
ものである。
212●主日の外に守らねばならぬ祝日は幾日あるか
▲日本では四日あります。即ちイエズス、キリストの御降誕祭(十二月廿五日)御昇天祭、聖母マリアの被昇天祭
[下段]
(八月十五日)、諸聖人祭(十一月一日)であります。
日本では四日
あるが、全教会に命ぜられてあるのは、尚外に六日ある、即ちイエズスの御割礼(一月一日)、御公現(一月六日)、聖母原罪なき御孕(十二月八日)、聖ペトロ聖パウロ(六月廿九日)聖体の祝日と聖ヨゼフの祝日とである。
外に御復活祭と聖霊降臨祭との二大祝日あれど、常に主日に当るから、こゝには
主日の外に
と問はれたのである。
御復活祭の月日の極らぬのはキリストが舊三月の満月の次の日曜日に復活し給ふたので、今も其祝日は陰暦によるからである、而して御昇天祭は其後四十日目、聖霊後臨は五十日目に祝せられる。祝日にも公教会の聖職者は、入用次第、個人に労働を許す事が出来れど、御降誕祭、御復活祭、聖霊降臨祭、聖母被昇天祭の四大祝日には、許す事が出来ぬ。(第百六十二の問を見よ)
(註)祝日を聖日とするには仕事を休みミサに与りさへすれば罪を免れるけれど、公教会で専ら望む所は祝日を以て信者
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の熱心を振はす事である。其でイエズス、キリストの御生涯を毎年繰返し思起、御恩を覚らせ、その模範に従はせたいとの事なれば、斯く祝日を利用するのは霊魂の非常な進歩の道と成る然りながら殊に心掛くべきは、
第一、祝日の準備を為す事。御降誕祭の前には待降節とて、キリストの来臨を仰ぐ四週間あり、御復活祭の前には四旬節叉御受難節あり、聖霊降臨祭の前には九日間の祈祷あり、大祝日の前日には大斎小斎を命ぜられるのは皆精神の準備を促す為であって信者は大祝日の近づくに従って心を入替へ、悔悛の秘跡を以て罪の赦を願ひ、聖体を拝領して尚イエズス、キリストと一致するやうに励めば何よりの祝日の効果を挙げるに違ない。
第二、信心を以て祝日を過す事。祝日の目的は天主の御恩を感謝する心を起させる為であるから、祝日は表面に止らず、記念せられる事柄をば目のあたりに見ながら、真に之を有がたがり、其効果を身に戴き度と望む事が肝要である。
第三、出来るだけ祝日の精神を身に覚えるやうに努める事。
[下段]
例へば御降誕祭にはイエズスの生れ給ふた厩に往って見るが如く、御模範に従って謙遜、清貧、堪忍の心を起し、御受難の時には真にイエズスの御苦を労り、其原に成る己が罪を悔改め、御復活祭にはキリストと共に甦る事を努め、御昇天祭には使徒等の如く聖霊の惠を叉各祝日に似合った志を起さば著しく其効果を蒙る。
第四、大祝日は一等祝日と称せられて約八日間続くもので、之に相当する志を長く保ち、実行的に其効果を身に現す事に注意すべきである。
第五、祝日には肉身上にも祝日の印として相当の衣服を着し御馳走し無害な娯楽を為すは適当なれど、酩酊争闘騒擾等を以て他人の悪しき鑑とならず、純潔な心の喜を現すが肝要である。
213●教会の第二の律令の文は如何
▲主日と
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祝日とには慎んでミサにあづかるべし。
ミサ聖祭の事は第三百二十九問に見えるが、
粛んでミサにあづかる
とは、能く気を付けてミサ聖祭に与る事である。主日祝日を守るには業を休む外に大事として命ぜられているのはミサ聖祭に与ることである。
偖て儀式に与る事を斯くも厳重に命ぜられたのは何の訳であるかと問ふ人あらば(一)先づミサ聖祭を普通の儀式と見做しては大間違である。儀式ばかりでない、犠牲である、而も十字架上の犠牲と同じものであって、宗教上凡ての業の中心であり最も勝らたものであるから、聖日毎に之に与る事を厳重に命ぜられたのである。
(二)然うしてミサ聖祭は十字架上の犠牲と同じものなれば、信者が聖日毎に殊更に其に召されるのは、恰も十字架の下に呼寄せられると同様で、キリストの御受難御死去を以て人を贖はれたることを記念し、是を真に有がたがる表徴として我等の為に十字架上に捧げ給ふた御体、流された御血をば、聖
[下段]
体の中に拜み奉る爲に招かれるのである。
(三)尚叉ミサ聖祭の御贖の目的を全うして、我等の礼拝、感謝の不足を補ひ、罪を償ひ、御恵を求めるに何より重宝な道であるから、之を以て、有勝の不足や過を聖日毎に贖ひ、過去った苦労、悲哀、心配の重荷を十字架の下に卸し、心を入替へる機会を与へられるので、必ず忽諸にしてはならぬ。
(四)遂にイエズス、キリストの犠牲に合せて己をも犠牲に供し、以後は尚能く本分を尽したい、身を惜まず励みたいとの望を起し、其力を一心に願へば之ぞミサ聖祭に与る掟を能く守る道であって非常な力と歓喜とを与へられるのである。
(五)尚更にミサ聖祭の犠牲の効果を潤沢に蒙る爲に定められた(第三百三十五以下の問に在る)聖体拝領を相当の志と準備とを以てすれば、之こそイエズス、キリストとの一致を益す固め、生変ったやうに如何な義務にも苦にも耐ふる力が頂からる。而して一人々々ばかりでなく一家挙ってミサ聖祭に与った度毎に、之を以て気を励すならば、親子益す睦み、尚能く努める者と成り、ミサ聖祭は妙薬の如くに、円満の家
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庭に成らせ、福音に於ける幸を蒙るに至らせる事は疑ない。
若し構はずにミサ聖祭を怠らば、イエズス、キリストの御恩を知らず、御恵を蒙る道、救霊に至る道を自ら遠ざかるのである。叉ミサ聖祭に往っても体ばかりで、キリストと心を合せて祈る事に努めぬならば、宝の山に入って手を空しくして帰る者と同じである。
214●如何な人が教会の第二の律令に背くか
▲主日及び守るべき祝日にミサ聖祭を怠り、或はミサの主なる部分を欠き、或はミサの間心を散し、不敬を為す人は第二の律令に背きます。
ミサ聖祭を怠る
とは、ミサ聖祭に往かれるのに聖祭
[下段]
に往かぬ事である。往かぬでも罪に成らぬ場合は第百六十二の問に就いて述べたが、之を約めて云へば、信者が「私が実際ミサ聖祭に往きたいのは、天主は御存でありますが、何うも往かれぬのは残念だ」と、真面目に云はれる時は罪は免れる。
ミサ聖祭の重なる部分を欠く
とは、先づミサ聖祭の重なる部分は三、即ち奉献と聖別と拝領とである。若し人が其一を欠く事は大罪なれども、小部分を怠っても罪に成らぬと思ふなら大した間違である。何故なれば、与るべきはミサ聖祭全体で、始から終までゞある故、初から与かり、終らぬ中には聖堂を出てはならぬ、若し等閑にして之を欠いた時は、多少の罪を免れぬ。主なる部分を欠いた時は、出来るだけ外のミサ聖祭に与るのが本当である。
ミサ聖祭の間心を散す
とは、心の散る事と異って、自然に散る事は免がれるが、若し茫然して祭壇の外に彼方此方見たり、他の書を読んだり、観見に来たやうな態度でミサ聖祭に心掛けぬなら、粛んで与るとは云はれず、罪に成
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る。
不敬を為す
とは、或は不行儀を爲し、或は語ったり笑ったりして、人の悪しき鑑と成り、人の信心妨げる事等も、肅んでミサ聖祭に与かるとの律令を破るに相違ない。イエズス、キリストが祭壇に御降りになって、十字架上に於ける如く、身を献げ給ふのに之に不敬を爲れば、甚しき侮辱に成るから、何うか出来るだけ聖祭に注意して、皆イエズス、キリストと共に、心を合せて好く祈禱を献ぐべきである。