20●何故天主を天地の創造主と申しますか
▲天地万物を無より造り給ふたに因って、天地の創造主と申します。
使徒信経に、「天地の創造主」と書いてあるので、其言の訳を尋ねるのである。答にある
天地万物
の意味は、第十三番の問に見える。
無より
とは、無かったのに、無い所から、何も無しにとの意味。創造とは、創め造る、叉何も無しにとの意味で、
創造主
とは、何も無しに造り給ふた御主と云ふ意味である。人間が物を造るのは、何も無しに造るのではなく、必ず何かを以て造るから、創造とは云はず、大抵製造
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と云。
21●天主は如何して天地万物を無より造り給ふたか
▲天主は其全能を以て天地万物を無より出来し給ふたのであります。
人は何も無しに造る事出来ぬのに、如何して天主は造り給ふたかと云ふに、其全能、即ち限なき御力によって出来し給ふたと云ふ外はない、人に出来ぬのは、其だけの力が無いからである。
(註)聖書を見れば天主は命じ給ふたので物が出来たとあるが、霊にて在せば声の如きものを出し給ふたのではなく思召を実際に顕し給ふた訳である。叉六日の間に地上の万物を造り給ふたとはあれど、今日のやうな二十四時間の六日ではない、週間制度を定める為に、長い年数を六日に譬へたに過ぎぬ。叉動植物の各種類を一々直接に造り給ふたと云ふ人あれども、其には限らぬ。其次第は寧ろ学者の研究に任せられた事である。進化したと云っても、其進化が
[下段]
自然とは云はず、天然、即ち天主の御定によって然うなったと云へば、公教会の信仰箇条に反かぬ。信仰箇条は、万物に初ある事との二点に過ぎぬのである。
22●天主は天地万物を造り給ふた計りでありますか
▲天主は天地万物を造り給うた計りでなく、常に之を保存ち、且主宰り給ふのである。
天主は折角出来し給ふた
万物を
放って置き給ふものではない、絶間なく之を
保存ち、
叉万物に釣合った法則を立て、之に応じて絶えず
主宰り給ふ。
目に見えかねる小い虫に至る迄、各々其目的を遂げるために、奇妙に粧はせ給ふ。
(註)天主が万物を其目的に合せて計ひ給ふ物を天主の「摂理」、叉は「御計」と申す。天主の摂理によらでは髪毛一本も抜けず、雀一羽でも無くなる事はないと、イエズス、キリストは仰しゃったのである。
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然りながら御摂理は命令に限るのではない、之に二種あって、(一)命令もあれば、叉(二)措き給ふ計りの事もある。(一)万物に相当する法則を立て給ふたによって、是非なく之を守らせ給ふのは命令である。法則外の出来事は特別の思召の徴であって奇跡と申す。(二)悪事は天主の誡め給ふ所なれば、薩張と出来ぬやうに止めさうなものと思はるれど、如何せん辱き思召によって、人間に自由を与へ、動物の各種類に本能を与へ、万物に様々の法則を定め、一般に原因結果の釣合を立て給ふたによって、一々悪事を止めれば、絶えず御定を破らねばならぬから、寧ろ一時措いて必竟為になるやうに計ふが宜いと、全知を以て慮り給ふたのである。聖パウロ曰く「嗟人よ汝は誰なれば神に言逆ふぞ。土器は己を造った人に向って、何故我を此通り造ったぞと云ふか。陶器師は同じ塊を以て、一の器を貴い用の為、一の器を賎しい用の為に造る権あるではないか」と(ロ マ 書九。二十)
[下段]
23●天主は格段に人の事を計ひ給ふか
▲天主は親が其子に対する如く人の事を計ひ給ふのであります。
第一、世間で云ふ如く、天主は人間を万物の霊長、即ち長に定め、万物を之に任せ給ふた計りでない。
第二、天主は人の父たる事を仰しゃって、万事人の為に父の如く計ふ事を示し給ふたのであります。
第三、然りながら世間の親の如く、此世の為にのみ計ひ給ふのでない、寧ろ後の世の為、人に何より大事な救霊の為に専ら計ひ給ふ。聖パウロ曰く「神を愛する者………には万事共に働いて其為に益と成らぬはない」と(ロ マ 書八。二八)。其で禍でも、損害でも、過失に至るまで、救霊の為に利用されぬものはない。
24●天主は斯く愛深き父なれば人は天主に対して如何せねばならぬか
△人は良い子の如く天主に孝を尽し、万事に越えて愛し奉らねばなりませぬ。
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天主が父らしくし給ふのは、我々が子らしくする次第である。子らしくすれば、天主の恵を戴く、子らしく務めぬならば、勘当を受けて棄てられる筈。然れば我々は己を棄て、天主の
良い子
等に成らねばならぬ。身を惜まず
孝を尽す
やうに工面せねばならぬ。
万事に超えて
即ち誰彼よりも、何よりも、心から
愛し
奉り、御命令御誡を守る計りでなく、御喜に成るやうに励まねばならぬのである。
25●天主は人の父であるのに何故人の禍を取除け給はぬか
▲人に禍ある訳は主に三、即ち或は試と成り、或は罪の償となり、或は未来の幸の種と成るからであります。人間は自分の事ばかりを思ふに、天主は万物を総体に計ひ給ふ。人間は此世の事ばかりを考へるに、天主は後の世を専ら慮り給ふ。人間は因縁の事を忘れ易いに、天主は原因結果の釣合を堅く保たせ給ふ。其で禍ある時に人が周章へて其訳を考へず、無暗に呟く、然りながら如何な禍で
[下段]
も其訳を尋ねれば、大抵次の三の訳によらぬものは滅多にない。
第一、
禍は試と成る。
此世は殊更に試の世である、即ち楽にあっても苦にあっても、存分に与へられても奪はれても、天主の思召を重ずるか、其主権に帰服するかと、試みられる事が多い。昔ヨブと云ふ人は何不足なく大層立派な生活をして居たのに突然試に遇って、子女に皆死なれ、夥しい財産を失ひ、自分は甚い醜い病気に罹り、辛い目に合はせられた所、妻から馬鹿にされて、天主ぞ罵る事を勧められたれど、専ら「天主が与へて天主が奪ひ給ふた、天主祝せられ給へかし」と云って、万民に最も感ずべき鑑と成ったが、遂に前より倍にも財産等を回復したのは名高い試である。
第二、禍は
罪の償と成
る。固より償と罰とは違ふ。罰は罪の代に成る計りであるのに、償は罪の代にも成れば、叉能く耐へた丈け先の為に功にも成る。後の世は賞罰の世であるから幾何苦んでも仕方ないが、此世では寧ろ償に
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成り、耐次第で叉功にも成る。
偖て多くの禍は一身上、財産上に拘らず、自分や親先祖の罪、或は怠慢、不注意、為損等より起るが、悪い原因あった時に、悪い結果を生じるのは当然である。天主其禍を一々取除け給ふとすれば、万物の釣合、秩序、法則等は一々破らねばならぬ、其で寧ろ罪の償、叉功に成らせる為に、取除かぬ方が宜いとの思召である。地獄や煉獄で罰せられるよりは、寧ろ此世で罪の償として、快く苦むこそ仕合である。
第三、禍は
未来の幸福の種と成
る。諺に「苦は楽の種」と云ふが、イエズス、キリストに取っても然うであった、聖パウロ曰く「キリストは自ら謙って死し、而も十字架上の死に至る迄、従ふ者と成り給ふた。此故に神も亦た之を最上に挙げて、一切の名に優る名を賜ふた」と(フィリッピ書二。八、九)。叉曰く「其は我等の短く軽い現在の患難が、我等に永遠重大にして無比の光栄を準備するからである」と(コリント後書四。一七)
[下段]
禍に罹った時、此三の訳を考へれば、天主の御計を呟くよりは、寧ろ然うもあるべき事を悟って、余ほど凌ぎ易く成る。天主は此世で人の善悪に拘らず、幸不幸を下し給ふ如くに見ゆれど、実際其訳と結果とは各人に取りて天地の相違である。兎も角何に於ても、天主の全知の見所と、我々の浅知恵の見所と異ふ筈と片時も忘れてはならぬ。