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緒言しょげん

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緒言しょげん

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とは、前書まへがきって、本文ほんぶんまへ書添かきそへたものである。

1●ひとなにより大切だいじなものはなにであるか

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ひとなにより大切だいじなものは宗教しうけうであります。

大切だいじとは、くてはまぬもの。

なにより大切だいじ

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とは、ほかすべてのものよりも尚大切なほだいじ意味いみである。

ひと大切だいじなものはおほい、たとへば身体からだには衣食いしょく ぢゅう 金銭等きんせんなど霊魂れいこんには教育きょういく徳学問等とくがくもんなどほとんかぞへきれぬほどある。しう

[下段]

けうほかのものより大切だいじはれるのは、ほかのものは皆此世限みなこのよかぎりであるのに、宗教しうけうばかりは此世後世共このよのちのよともえきするからである。

ちゅう日本にほん宗教しうけうおほいのと、世界中無宗教せかいぢうむしうけうくにいのは、宗教しうけう大切だいじであるといふ証拠せうこる。又無宗教者またむしうけうしゃでも葬式そうしき宗教しうけうたのむのは、宗教しうけう後世のちのよえきするといふこと証拠せうこる。

2●宗教しうけうとはなにであるか

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宗教しうけうとは天主てんしゅたいするひとみちであります。

ひとみち

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とは、人間皆是非守にんげんみなぜひまもらねばならぬもの、はなれてはならぬものをふ。

むかしからの金言きんげんに「みち片時かたときはなるべからず、はなるべきはみちにあらず」とはれたとほり

おやたいするみち孝行かうゝゝひ、きみたいするみち忠義ちうぎひ、天主てんしゅたいするみち宗教しうけうふ。みちまもらぬならば人間にんげん似合にあはぬものとるから、是非道ぜひみちまもるべきこと良心れうしんもっめられる。

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(ちゅう) みちすべ出処でどころ行先ゆくさきとによってきまる、たとへば何処どこから何処どこまでのみち叉行先またゆくさきなければみちらぬ。人間にんげん何処どこからたかとふに、身体からだおやから、霊魂れいこん生命いのち知恵ちえ能力等のうりょくなど天主てんしゅからたのである。それ世間せけんでも天禀てんりん天才てんさい天性等てんせいなどってる。又何処またどこくかとふに、おやから身体からだ遺族ゐぞくのこしてはかくさり、天主てんしゅから霊魂れいこん呼出よびだされて天主てんしゅかへる。出処でどころ天主てんしゅ行先ゆくさき天主てんしゅなればみち天主てんしゅによるはずである。金言きんげんに「せいめいあり」とあるが、ことうまれることとが天主てんしゅめいによるものなれば、両端れうはしばかりでなく、生涯せうがい天主てんしゅめいによらねばならぬ。

3●何故宗教なぜしうけうなにより大切だいじであるか

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此問このとひ何故宗教なぜしうけうるかととひとはちがふ。何故宗教なぜしうけうるかとはゞ、唯天主たゞてんしゅがあるからである。てうおやがあるから孝行かうゝゝる、きみがあるから忠義ちうぎるのとおな道理だうりである。おやきみがなかったなら孝行かうゝゝ忠義ちうぎるまい。其如そのごと天主てんしゅがないならば宗教しうけうるまい。しかおやあってひと出来できごとく、天主てんしゅあってこそひとなに出來できるのである

[下段]

から、ひとおんらぬものらず、是非天主ぜひてんしゅみとめてこれありがたがりをがみ、其命そのめいまもらねばならぬ。これ宗教しうけうであって、宗教しうけうかならわけである。

ちゅう宗教しうけうるのは、安心立命あんしんりつめいためひとあれど、安心あんしんかなら道理だうりもとづかねばならぬ、天主てんしゅいならいので安心あんしんするのが本当ほんたうである、いのにるがごと宗教しうけうまもるのは、かへって不安心ふあんしんる。

宗教しうけうなにより大切だいじであるのは

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宗教しうけうによらねばひとみちまったうする事出来ことできず、叉真またまこと幸福さいはひこと出来できぬからであります。

みちまったふす

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とは、人間にんげんみちまったく、かけなく、まもるとの意味いみ

宗教しうけうなにより大切だいじであるとのわけへば、おもふたつある。すなはだい宗教しうけうひとみち一部分いちぶぶんであって、これまもらねばみちける。だい宗教しうけう幸福さいはひみちであって、まこと幸福さいはひたいとおもふならば、宗教しうけうまもらねばならぬからである。此二このふたつわけつぎとひもっあきらかにする。

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4●何故人なぜひとみちまったうするには宗教しうけうるか

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ひと何程学者なにほどがくしゃであっても、霊魂上れいこんぜう道理だうりらねばらず、何程なにほどりんみちまもっても、天主てんしゅたいするつとめおこたらば、ひとみちけるからであります。

学者がくしゃ

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とは、物知ものしりで、科学くゎがくをさめて学問がくもんひろひと

霊魂上れいこんぜう道理だうり

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とは、霊魂れいこん出処でどころ行先ゆくさき行道等ゆくみちなどこと

五倫ごりん

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とは、ひともっとしたしいいつゝ続合つゞきあひすなは君臣くんしん父子ふし夫婦ふうふてうえう朋友ほういう間柄あひだがら

五倫ごりんみち

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とは、五ぜうって、ひとつねまもるべきいつゝ義理ぎりすなは君臣くんしん父子ふししん夫婦ふうふべつ長幼てうえうじょ朋友ほういうしんである。教育勅語けういくちょくごに「臣民克しんみんよちうに………父母ふぼこうに、兄弟けいていいうに、夫婦相和ふうふあいわし、朋友相信ほういうあいしんじ」とあるがごとし。

みちまったうするには、づ(一)これってさうして(二)まもらねばならぬが、宗教しうけうこれことまもこととの両方れうほうる、これるのは学問がくもんぞくし、まもるのは実行じっかうあたる。宗教しうけう

[下段]

らぬならば学問がくもんらず、まもらぬならばひとみちけるのである。

(一)ること。学問がくもんでは種々いろゝゝことまなぶ、たとへば動物学どうぶつがくでは鳥獣とりけものこと植物学しょくぶつがくでは木草きくさこと星学即せいがくすなは天文学てんもんがくでは日月星ひつきほしこと歴史れきしではむかしからの出来事できごと地理学ちりがくでは国々くにゞゝ状態等ありさまなど学科がくくゎはなかゝゝおほい、叉広またひろい。りながらおよ皆他所みなよそことまなばかりで、自分じぶんなんため此世このよるか、何処どこから何処どこくか、くべきみち如何どうかとこといてはさらをしへぬ。宗敎しうけうによってばかりこれれるものである。幾程学者いくらがくしゃでも霊魂上れいこんぜう道理だうりらぬならば、なかゝゝはずはない、他所よそことっても、おのれうへらぬからである。

(二)まもること。世間せけんでは、五りんみちまもりさへすればいと人多ひとおほけれど如何いかんせん、ほかに一ばんおやなる天主てんしゅのあるのを。万物ばんぶつ出来できたのと、我々われゝゝ生存いきながらへるのは、おやはからひであろうか、否是いなこれこそ天主てんしゅ摂理おはからひである。又親またおやくなっても、天主てんしゅくなるものではない、これたいするつとめ

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おこたってはひとみちける、ひとみちまったうしたとははれぬ。それみちまったうするに、すなはるのにも、まもるにも是非宗教ぜひしうけうる。

5●何故真なぜまこと幸福さいはひるに宗教しうけうるか

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宗教しうけうほかに、つみゆるされるみち又未来またみらい幸福さいはひみちはないからであります。

まこと幸福さいはひ

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とは、何処どこまでも満足まんぞくすること此世このよでは却々稀なかなかまれである。

未来みらい幸福さいはひ

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とは、んでからのをはりなき幸福さいはひである。

人間にんげんしきり幸福さいはひのぞむが、これ無理むりでない、もとより幸福さいはひけるためつくられたひとだもの、又大抵またたいてい幸福さいはひではらず、まこと幸福さいはひでなければ満足まんぞくされぬ。まこと幸福さいはひ浮世うきよたからたのしみにあるのでない、こゝろにある。すなはひとみちまもって、かゝことなく、立派りっぱ安心あんしんすることきはまる。又此世またこのよ一時いちじ幸福さいはひでもらず、未来みらい幸福さいはひすなは後世のちのよをはりなき幸福さいはひもなければ、まこと幸福さいはひとははれぬ。此世このよ幸福さいはひたとおもっても、必竟後世つまりのちのよ幸福さいはひぬならばなんにもらぬ。

[下段]

おもまこと幸[幸:福]さいはひさまたげるものは、みちやぶり、天主てんしゅそむことすなはつみをかことである。つみ気掛きがかりあらば安心あんしんならず、はやかれおそかれ其罸そのばつはずさうしておほいみちやぶれば、地獄ぢごくほか行先ゆくさきがない。

つみゆるしけるには、かねでもものでもらず、天主てんしゅそむいたことなれば、宗教しうけうもって、天主てんしゅ立帰たちかへほかに、ゆるされるみちはない。又後世またのちのよ幸福さいはひは、かねくらゐ学力がくりょくもっられるものでない、天主てんしゅみちまもったひと報酬ほうしうとして、家督かとくとして、約束やくそくたまふたものなれば、かみたいするみちまもるのほかに、後世のちのよ幸福さいはひけるみちはない。そこ宗教しうけうほかに、つみゆるされるみち又未来またみらい幸福さいはひみちはないのである。