豫 備
〇イエズス・キリスト樣の真正の敎会を認める爲の符号がありますか?…何々ですか?…一とは何の意味ですか?…聖とは何ですか?…公とは?…使徒傳來とは?…公敎会以外にこの四つの符号を持った敎会がありますか?…
[目的指示]、今日は公敎会の敎の基く所、卽ち聖書と聖伝とに就てお話し致します。
提 示
〇公敎会はイエズス・キリスト樣のお建てになった真正の敎会で、その御敎を誤りなく伝へて居る。其所までは分りましたが、さて公敎会がその敎を伝へるには、何かに基く所があるのですか。可い加減な敎を勝手に作り出して、之を敎へるのぢゃ無いでせうか。
△そんなことは決してありません。公敎会は聖書と聖伝(傳)とに基いて、天主樣の敎を伝(傳)へるのです。
〇然う、公敎会は決して勝手な敎を作り出して、人に敎へはしませんね。敎ふべきことは、皆な聖書と聖伝とに出て居ります。公敎会はたゞ之を説明し、その意味を確にするだけに止るのであります、今
[聖書とは何んですか]
△聖書は聖霊の感導によりて、書物に記されたる天主の言なり。
〇すると聖書は誰の言を書いたものですか。
△天主樣の御言を書いたものです。
〇天主樣の御言を書いたものとするならば、其中には謬がありますでせうか。
△一もありません。
〇固より天主樣の御言には謬がありますまい。然し之を書く中に、筆の謬りと云ふものが無いでせうか。
△聖霊の感導によって書いたものですから、筆の謬りもありません。
[66]
〇よろしい。聖書は聖霊の感導によって書いたものです。聖靈の感導とは、聖靈が書きたいと云ふ氣を人に起させ、書く中にも謬らない樣にその筆をお導き下さる、この二を含んだものであります。然し夫ならば三位が共に爲し給ふのでせう。何故之を聖靈の感導と申すのですか。
△愛の業だからでせう。
〇然うです。聖書は人を敎へ導き、之を聖ならしめるが爲に書かれたもので、立派に愛の業です。愛の業は聖靈に當てます。決して第一位と第二位とが御關係にならなかった、と云ふ訳のものではありません。今、聖書は之を大きく幾部に分けますか。
△舊約聖書と新約聖書との二部に分けます。
〇然うです。舊約聖書はキリスト樣以前に出來たもので、四十六巻あります。新約聖書は使徒、及び福音史家が、キリスト樣の御昇天後、お書きになったもので、すべて二十七巻。其中で最も重要なのは四の福音書です。すると天主樣の御言は殘らず、この舊新約聖書中に書き込んであるのでせうか。
△違ひます。聖書の外にも聖伝(傳)があります。
[聖傳とは何ですか]
[67]
△聖傳は聖書の外に使徒より傳(伝)はりたる天主の言なり。
〇然う、聖伝(傳)とは聖書の外に使徒等の伝(傳)へられた天主の御敎を言ふのですね。然し使徒等は何故、天主樣の御敎を殘らずお書きにならなかったのでせうか?『聖書を書き、之を萬民に授けよ』と命じられなかったのですか。
△否、使徒等は其んなに學者ではありませんでした。
〇學者であったにせよ、無かったにせよ、兎に角『聖書を書け』とは命じられて居ません。却って『汝等往いて萬民に敎へよ』(マ テ オ二八ノ一九)と命じられました。で使徒等は初から筆を援って書を綴らうとはしません。最初はたゞ口づから敎へるのみでした。後で書を綴る樣になりましても、夫は決して聖伝(傳)を廢する爲でもなければ、夫を悉く記き載せる爲でもなかったのです。たゞ何かの機会が出て來るか、必要を感ずるかして、その中の一部分をお書きになった迄に過ぎません。聖パウロは弟子のチモチオに書簡を送って『數多の証(證)人の前にて、私から聞いた事を、他人に敎へるに足るべき忠實な人々に托せよ』(チモチオ後二ノ二)と申されました。左すれば何方が早く出來ましたか、聖書ですか、聖傳ですか。
[68]
〇キリスト樣の御昇天後、十五六年間と云ふものは、新約聖書は未だ一部も出來て居なかったのです。夫までの信者は、たゞ聖伝によって信仰するより外はありませんでした……次に聖書は聖伝の一部を記載せたものであるとすれば、範圍の廣いことは聖書でせうか、聖伝(傳)でせうか。
△聖伝です。
〇然うでせう。福音書の中でも、聖ヨハネ福音書は、一番後に出來たのですが、その末尾に斯う書いてあります。『イエズスの爲し給うた事は、猶この外にも沢山ある。若し之を一々書き記したらば、思ふに書き記すべき書籍は、世界も載せ盡し能はぬでせう』(ヨハネ二一ノ二五)と。
〇して見ると聖伝の敎へる所も、聖書の授ける所と同じく使徒等の伝へられた天主樣の敎、一様に信ぜねばならぬものだと分りませう。聖パウロもテッサロニケ人に送った書簡の中に、『兄弟等よ、我等の談話なり、書簡なりによって學んだ伝を、毅然として守りなさい』(テッサロニケ後書二ノ一四)と言って居られます。聖伝と云ふは斯んなものですが、この聖伝を採らない敎派がありませんか。
[69]
△プロテスタント敎派が採りません。
〇然うです。彼の人等は、聖書さへあれば沢山だ。聖書の中に人の信ずべく、守るべき事は皆な載せてある。聖伝なんか必要はない、と仰有るんです。然し聖傳に由らなければ、何の書が聖書であるか、幼兒にも洗禮(礼)を施すべきか、何故日曜日を安息日とするのですか、其んな事さへ分らなくなります。プロテスタント派の説いて居る所が區々で、一定した所が少も無いのは、たゞ聖書だけを採って、聖伝を棄てるからであります。
△聖伝は今でも口から口に伝へて敎へるんですか。
〇そんな事はありません。聖伝とは聖書に記載せてない天主樣の敎と云ふ意味でせう。聖書に記載せてないから、何時迄も口伝へに伝へねばならぬ、書物になしては可けない、と云ふ訳のものでは無いのです。
△然らば何んな書物になって居るのですか。
〇先づ初代敎會が、一般に、何處に於いても、初めから信じて居た敎は、必ず使徒等から伝はった天主樣の御言、即ち聖伝(傳)でありまして、是は敎父等の著書の中に記載せてあります。次に聖会の初から伝はり來った使徒信経や、ミサを行ひ、秘蹟を授ける時の祈禱や、儀式や
[70]
の中にも、聖伝が殘って居ります。
△敎父ッて何んな御方ですか。
〇敎父とはね、學が卓越れ、德が高く、時代は古く、そして聖會から夫と認められた御方々々を申すのです。聖クレメンス、アンチオキアの聖イグナチオ、聖シプリアノ(キプリアヌス)、聖アウグスチノ、聖エロニモ(ヒエロニムス)、聖アタナジオ(アタナシウス)、聖バジリオ、金口聖ヨハネ、聖グレゴリオ一世敎皇等が其中でも特に有名なのです。尤も異端に陥ったテルツリアノ(テルツリアヌス)や、異端の疑を受けたオリゼネス(オリゲネス)の如きも、時代が古く、學が博く、問題によっては、十分信用を置くに足りますので、敎父の中に加へることが往々あります。
△敎父等のお書きになった書の中に聖伝が含まってあると、何うして分りますか。
〇學の博い、德の高い、そして時代も古い、是等の敎父等が、國は異り、時代も異るにも拘らず、皆な一樣に説いて居られる敎は、何うしても使徒等から伝はったものと思はねばならぬからです。分りましたか。是から公敎初歩を暗記します。
〇公敎會は何に基きて天主の敎を伝へるか。
△公敎會は聖書と聖伝とに基きて天主の敎を伝へるなり。
[71]
〇聖書とは何ぞや。
△聖書は聖霊の感導に由りて書物に錄されたる天主の言なり。
〇聖傳(伝)とは何ぞや。
△聖伝は聖書の外に使徒より伝(傳)はりたる天主の言なり。
整 理
〇公敎会は何に基いて天主樣の敎を伝へますか。△聖書と聖伝とに基いて天主樣の敎を伝へます。
〇聖書とは何ですか△聖書は聖霊の感導によって書かれた書物です。
〇聖霊の感導ッて何ですか?△聖霊が書きたいと云ふ気を人に起させ、書く中にも、謬らない樣に其筆をお導き下さることを云ふのです。
〇夫は三位が共に爲し給ふのぢゃありませんか。△さうですけれども、愛の業ですから聖霊に當てます。
〇何うして愛の業ですか△人を敎へ導き、之を聖ならしめる爲に書くのですから、立派に愛の業です。
[72]
〇聖書は幾部に分けますか△舊約聖書と新約聖書との二部に分けます。
〇舊約聖書とは何んなものですか△キリスト樣以前に出來たもので、四十六巻あります。
〇新約聖書は?△キリスト樣の御昇天後、使徒等や福音史家のお書きになったもので、すべて二十七巻あります。
〇聖伝とは何ですか△聖書以外に使徒等から伝はった天主樣の御敎です。
〇使徒等は何故天主樣の御敎を殘らずお書きにならなかったのですか△聖書を書いて万民に授けよ、と命じられて居なかったからです。
〇何を命じられましたか△『汝等往いて万民に敎へよ』と命じられました。
〇すると使徒等は、最初何んなにして御敎をお伝へになりましたか△最初は口づからお伝へになりました。
〇筆をお執りになった時も、聖伝を悉く記き載せる爲でしたか△違ひます、何か機会が起るか、必要を感じるかした序に、其の中の一部分をお書きになった迄に過ぎません。
〇すると先きに出來たのは聖書ですか、聖伝ですか△聖伝です。
〇最初は新約聖書と云ふものがありましたか。△イエズス・キリスト樣の御昇天後、十五六年
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が間と云ふものは、新約聖書は一巻も出來て居ません。
〇その間の信者は何によって信仰したのですか。△聖伝によって信仰しました。
〇範圍の廣いことは聖書ですか、聖伝(傳)です△聖伝(傳)です。
〇何うして夫が分りますか△聖書は聖傳(伝)の一部分ですもの、部分よりも全体(體)が大いのは當(当)然です。何にも不思議はありません。
〇聖書と聖傳(伝)と何方が尊いのですか△何方も同じです。使徒等のお伝へになった天主樣の敎ですから。
〇聖パウロは何と仰有いましたか△『我等の談話なり、書簡なりによって學んだ傳(伝)を、毅然として守りなさい』と仰有いました。
〇プロテスタント派は聖伝(傳)を採りますか△採りません。聖書の中に、人の信ずべく守るべきことは皆な載せてあると仰有るんです。
〇果して然うでせうか△聖傳(伝)に由らなければ、何の書が聖書であるか、幼兒にも洗禮(礼)を施すべきか、何故日曜日を安息日とするのですか、夫さへ分らなくなります。
〇聖伝(傳)は今でも口から口へ伝へて敎へるんですか△否、今は書物になって居ります。
[74]
〇何んな書物になって居ますか△敎父等の著作の中に載せてあります。
〇敎父ッて何んなお方ですか△學が優れ、德が高く、時代は古く、又聖会から夫と認められたお方々です。
〇その敎父は同じ國、同じ時代の人等ですか△否、國も異り、時代も異るのですが、夫でも皆な一樣に書いて居らっしゃるんです。
〇何うして然うなったのですか△初代敎會が、一般に、何處に於ても、初から信じ來った敎を書き留めなさったからです。
〇其んな敎は何處から出て來たものと思はねばなりませんか△何うしても使徒等から伝はったものと思はねばなりません。
〇その外にも聖伝を含んだものがありませんか。△あります。聖会の初から伝はった使徒信經や、ミサを行ひ、秘蹟を授ける時の祈禱や、儀式の中にも聖伝は殘って居ります。
[實例]
- 舊約時代のユデア人は非常に聖書を重じ、モイゼ(モーセ)の五書の如きは、勝手に筆を入れるものが
[75]
- ない樣に、その文字數までも一々數へて居たと云ふ位でした。公敎會は其後を承けて、やはり聖書を大切にします。改作められない樣、始終之が上に注意を怠りません。ヂオクレチアン(ディオクレティアヌス)帝の迫害に當(当)って、官吏はよく聖書を没収して焼棄てたものでありました。アフリカはチバラの司教聖フェリクスは、聖書を渡せと命じられて、聖書を焼かれるよりか、体(體)を焼かれるが優しだ、と云って動きません。其爲に大きな銕の鎖をかけて、狹い、暗い牢獄に繋がれ、後イタリアに送られ、色々と欺され、賺されても、頭を横に掉って取合ないものだから、到頭、刑塲に引出されて、首を刎られ、天晴な殉敎を遂げられました。