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倭面土国
 
 菅政友氏の漢籍倭人考に、後漢書東夷伝中に

  安帝永初元年、倭国王帥升等、献生口百六十人、願請見、

とあるを引きて、論じて曰く、

此を安帝紀ニハ、永初元年冬十月、倭国遣使奉献、ト載セ、通典ニハ、永初元年、倭面土地王師升等献生口トイヒ、北史ニハ、安帝時又遣朝貢、謂之俀奴国ト記シタリ、コヽニ倭国王帥升トアルヲ、通典ニ倭面土地王師升等ト作ルハ、唐世迄ハ必ズ後漢書ニ採レル本書ノ存リテ、其ニ拠ラレタリト覚シキニ、范曄ハ倭面土地王ヲ略キテ倭国王ト改メタレバ、等ト指セルハ倭国外ナル人ノ如聞エテ、甚疑シキモノトナレリ、抑倭ハ全国ノ惣称ニテ、面土地ハ帥升ノ住メル国名ト按ハルレド、此面土地ヲ如何ニ読ムニヤ、此ニ当ツベキ地名モ今ハ聞エネハ、或ハ字ノ誤ニテモアランカ、又帥升師升何レカ正シカラン、此モ決メ難シ〈図書刊行会本による但し同書は帥升師升の書き様を混雑したれば意を以て訂正しつ〉

オープンアクセスNDLJP:40  余はこゝにいへる通典の倭面土地王に就て、少しく見る所を述べんとす。通典には数板ありて、菅氏が見たるは、何時の板なりや知り難し。今の清朝官板は、今の後漢書と同じく倭国王に作りたれば、以て証とし難し。尤も倭国王に作れるは、明以来の事なるべく、図書寮に蔵せらるゝ明板にて謝肇湖在杭の印記ある増入宋儒議論本も、既に同じく倭国王とせり。余は未だ明以上の板本にて倭面土地王に作れる者を見されども、唐類国辺塞部倭国の条に通典を引きて、倭面土地王に作り、松下見林が異称日本伝に通典を引きたるも、同様なるを見れば、かく作りし板本あることは、必ずしも疑ふべからず。然るに図書寮に蔵せらるゝ北宋板通典〈高麗国十四葉辛巳歳蔵書大宋建中靖国元年大遂乾統元年の印記ある密行細字の本にして島田氏の古文旧書考に以て高麗板となせる者〉には、又倭面土国王に作れり。されば余は最旧板の精本に従て、倭面土国王と定むるを正当とすべしと思ふ。

 以上は通典に就てのみ言へるなれども、此に更に後漢書にも古は倭面土国王に作りしならんと思はるゝ証あり。藤兼良の日本書紀纂疏に吾国の十三名を挙げたる中に

二云倭面国、此方男女皆黥面文身、故加面字之東漢書曰、安帝永初元年、倭面上国王師升等献生口百六十人〈こは流布板本の外に永正九年卜部兼永の奥書ある写本及び氷正八年少納言清原朝臣の本より大永七年に転写せる古写本を参照せり〉

倭面上国の上字は土字の転訛なるべし。又釈日本紀開題に

又問倭面之号若有所見

答後漢書云、孝安皇帝永初元年冬十月、倭面国遣使奉献、註曰、倭国去楽浪万二千里、男子皆黥面文身、以其文左右大小、別尊卑之差〈流布印本と国史大系本とを参照せり〉

 こゝには倭面国とありて土字なし。纂疏の引けるは後漢書の東夷伝の文にして、釈紀の引けるは安帝紀の文なり。されば最初より倭面土と倭面との相異はありけんも知り難けれども、要するに古く我邦に伝はりたる本には、今の後漢書と異なりて、通典に近き者ありしことは、疑を容れざるなり。

 倭面といへる語に就きては、此外にも猶ほ一証あり。漢書地理志の

  楽浪海中有倭人、分為百余国、目歳時来献見云、

とある注に

如淳曰、如墨委面、在帯方東南万里、臣瓚曰、倭是国名、不墨故謂之委也、師古曰、如淳云、如墨委面、葢音委字耳、此音非也、倭音一戈反、今猶有倭国、魏略云倭在帯方オープンアクセスNDLJP:41 東南大海中、依山島国、度海千里、復有国、皆倭種、

とある如淳の注は、如墨と委面との二国が帯方の東南万里にありといふ義にて、即ち本文の倭人に下せる細説なるに、臣瓚既に一たび誤りて、没分暁の語を添へ、墨字を黥面の義と解してより、顔師古は之を訂せんとして再び誤を重ね、如淳が委面の委字を倭字の音として注せりといひしより、如淳の注は全く其の本義を晦ますに至れり。此の委面は蓋し亦後漢書、通典に見えたる倭面国なるべく、如淳は馮翊の人にして魏の陳郡丞たりしといひ、其の公孫氏以後の地名なる帯方の東南といふより考ふれば、大抵魏略と同時の記載と覚ゆれども、如墨といふ地名の魏略に見えず、距離の算定も少しく違へるを見れば、魏略とは各別に其の聞見せる所を伝へたるならん。こゝに如墨といふは、魏志に投馬国といへるに当るべき歟、亦以て如淳の伝聞せる所が、魏略と其の辞を異にせることを推すに足る。

 かく倭面土、倭面、委面、皆同一なりとすれば、倭面委面は略称にして、具さには倭面土といふべきこと又疑なし。倭面土とは果して何国を指せる。余は之を耶馬台の旧称として、ヤマトと読まんとするなり。倭の音は顔師古之を一戈反wa、今音wo として、委(紆詭反〈顕野王玉篇より出でたらんと思はるゝ篆隷万象名義による〉於詭切〈広韻〉wei)とは同じからずといひしも、是れ古今の音変を無視したるにて、古音同一なりしことは、詩の小雅に周道倭遅とあるを、通雅には委蛇、透迤、委移等と連呼声義一なりといひ、邵晋涵の爾雅正義に、威夷長脊而泥に注して、

説文云。委虒虎之有角者也。委威声相近。如周道倭遅。韓詩作周道威夷是也。虒有夷音。是威夷即委虒矣。

といへるが如き、以て証とすべし。委に古へゝyaの音ありしことは、文選の郭景純が江賦に随風猗萎の語ありて萎を於危の切とせるが、同じ書の宋玉が高唐賦には猗泥豊沛の語ありて、猗を於宜切、泥を於危切と音したれば、猗萎と猗泥とは同音なり、然るに又同書の王子淵の洞簫賦の李善注に漢書音義を引きて魏の張揖は、猗泥猶阿那也といへりとあり、此の阿那の音義よりして、通雅は更に之を列子の楊朱篇に公孫穆が色を好めることを説きて、後庭比房数十、皆択稚歯矮婿者以盈之とある矮婿と同じとせり。婑婿の字は又揚子方言の郭注にも出でたるが意ふに又裨隋に通ずべし。毛詩の退食自公、委蛇委蛇とあるを、韓詩には樟隋に作り、漢の衡方碑にオープンアクセスNDLJP:42 も礼隋在公の語あることは、顧炎武の唐韻正にも見え、郝懿行の爾雅委委佗佗の義疏にも引けり。委蛇の字は透運にも通ずべきは、郝懿行の同じ章の義疏に出で、又委維にも延維にも通ずべきは、山海経の大荒南経及び海内経郭璞注に出で、又委移に作ることは離騒の載雲旗之委蛇の蛇を一に移に作り、委蛇を又逶迤に作るよし注に見え、劉向が九歎には又遵江曲之逶移兮の句ありて、一云送蛇と注したり。又猗移に通ずべきは、荘子の応帝王篇に吾与之虚而委蛇。不其誰何とあるを、列子には吾与之虚而猗移に作れるして明らかなり。今之を摘列せば

委委 委委侘侘、詩及び爾雅に出づ

猗萎

猗泥 又旖施に作る

阿那 又猗儺に作る詩の檜風に出づ

婑媠

褘隋

委蛇 又委侘

委維 又延維

委移

逶移

猗移

となり、委移二字の同音たることありしを徴すべし。移字は日本紀に​ミヤケ​​弥移居​と読み、上古聖徳法皇帝説に​トヨミケカシキヤヒメノミコト​​等己弥居加斯支移比弥乃弥己等​と読みたれば、古昔のyaなりしこと知るべし。

 面字にmanの音あるべきよしは、面に从へる蠠没が爾雅に勉の義とし、而して方言に出でたる侔莫、晋書に出でたる欒肇の論語駁の文莫、皆同義なるにて推すべく、侔は今音にてもmauにして、文にmanの音ありしことは、仏経の訳語に文殊師利と曼殊室利と同じく、文陀竭、曼駄多と同じきを以て証すべし。銭大昕に古へ慶を読むこと壇の如きの説あり、俗字とはいへ、扁に从て声を得たる編字が班と同音なるをも并せ考ふべし。

 以上の理由によりて、倭面土をヤマトと読まんとす。若し夫れ倭面土の倭人、又委奴として海外に知られたる来歴、及び其の地の筑紫にあらざること等は、重ねてオープンアクセスNDLJP:43 小篇をものして、以て前の卑弥呼考の未だ及ばざりし所を補はんとす。

(明治四十四年六月芸文第二巻第六号)


  附記

余が此の小篇を発表せる後、稲葉君山君は同年八月考古学雑誌第一巻第十二号に於て「漢委奴国王印考」といへる一篇を発表され、委奴、倭奴ともに、倭面土と同一にして、単に声の緩急の差あるのみと断ぜられたり。因て余は此の小篇中にいへる、重ねて小篇をものすべき企図を廃したり。

 聖徳太子の法華経義疏の最旧本たる御物の本の外題に

     此是大委国上宮王私集非海彼本

とあり。これ明かに委倭古へ同音なりし証とすべく、顔師古が説の誤を正すべし。顔師古が説の誤を正すべし。

  参考

稲葉岩吉氏「楊守敬の委奴国王印考」(大正四年二月考古学雑誌第五巻第六号)

喜田貞吉氏「倭奴国と倭面土国及び倭国とに就いて稲葉君に質す」(大正四年七月考古学雑誌第五巻第十一号)

稲葉岩吉氏「倭国名称の起源に就て喜田博士に答ふ」(大正四年九月考古学雑誌第六巻第一号)

 
 

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