作者:於泉信夫
←作者索引: お | 於泉信夫 (1916年 (大正5年) 7月13日 - 1945年 (昭和20年) 1月24日) |
於泉信夫 (おいずみ のぶお) は、昭和初期に活動した作家である。1916年7月13日、東京に生まれた[1]。東京の中学を終える頃にハンセン病を発症、父も同じくハンセン病患者であったため、父親とともに1933年7月26日に[1]全生病院 (多磨全生園の前身) に入院した[2]。北條民雄を中心として5人のメンバー [注 1]で作られたグループ「文学サークル」の中では最年少である[1]。全生園内に作られた私立全生学園 (1932年開校) の教師をしながら創作活動をつづけた[1]。光岡良二によると、利口すぎて不必要なまでに相手の心理を読み取る神経質と都会人の如才なさがあったという[2]。作品数は少なく、原稿用紙に向かっても虚無感から書けなかったようで、碁を打ってばかりいたという[3]。光岡は、於泉は流されて生きる遊び人インテリのタイプだったと書いている[3]。於泉について書かれた文章は少なく、光岡良二の『いのちの火影』(新潮社、1970年) を除くと大谷藤郎責任編集『ハンセン病文学全集 第5巻 評論』(皓星社、2010年)と盾木氾編・著『ハンセン病に咲いた花 戦前編』内の簡単なプロフィール紹介程度しかない。北條民雄の日記を読む限り、北條の於泉に対する評価は高くない。1945年1月24日に亡くなった[1]。 |
作品一覧
編集小説
編集- 田螺 (1936年、『山桜』1936年新年号)
- 輪の中 (1936年、『山桜』1936年8月号所載、1936年文藝特集號豊島與志雄選佳作)
- 日陰る (1938年、『山桜』1938年文藝特集號、荒木巍選佳作一等)
- 津木門七
評論
編集脚注
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注
編集出典
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