伊沢蘭軒



その一編集

 頼山陽は寛政十二年十一月三日に、安藝国広島国泰寺裏門前すぎのきこうぢの父春水の屋敷で、囲の中に入れられ、享和三年十二月六日まで屏禁せられて居り、文化二年五月九日に至つて、「門外もつかまつらせたきだん、存寄之通つかまつらるべくそろ」と云ふ浅野安藝守しげあきらが月番の達しに依つてゆるされた。山陽が二十一歳から二十六歳に至る間の事である。ちうせきより山陽の伝を作るものは、皆此幽屏の前後に亘る情実を知るにくるしんだ。森田思軒も亦明治二十六七年の交「頼山陽及其時代」を草した時、同一の難関に出逢つたのである。

 然るにこれにさきだつこと数年、思軒の友高橋太華が若干通の古手紙を買つた。それはくわんちやざんいさはたんふと云ふものに与へたものであつて、其中の一通は山陽幽屏問題に解決を与ふるに足る程有力なものであつた。

 思軒は此手紙に日附があつたか否かを言はない。しかし「手紙は山陽がまさわづかに茶山の塾を去りて京都にくだせる時書かれたる者」だと云つてあるに過ぎぬから、恐くは日附は無かつたのであらう。

 山陽は文化六年十二月二十七日に広島を立つて、二十九日に備後国やすなごほりかんなべれんじゆくに著き、八年うるふ二月八日に神辺を去つて、十五日に大坂西区両国町の篠崎小竹方に著き、数日の後小竹の紹介状を得て大坂を立ち、二十日頃に小石げんずゐを京都に訪ひ、元瑞の世話で新町に家塾を開いた。思軒は茶山の手紙を以て此頃に書かれたものと判断してゐたのである。

 茶山の此手紙を書いた目的をば、思軒がしもの如くに解した。「其の言ふ所は、此たびきやうへいが江戸に上れるついで、君側の人に請うて山陽の事を執りなし、京都より帰りて再び之を茶山の塾に托せむと欲する計画ありとか伝聞し、山陽の旧過を列挙し、己れが山陽に倦みたるゆゑんを陳じて以て澹父の杏坪の計画に反対せむことを望みたるなり」と云ふのである。計画とは山陽の父春水等の計画を謂ふ。春水等は山陽のしゆくふ杏坪をして浅野家の執政に説かしめ、山陽の京都より広島に帰ることを許さしめむとしてゐる。さて広島に帰つた上は、山陽は再び廉塾に託せられるであらう。しかし茶山は既に山陽に倦んでゐて、澹父をして杏坪をさまたげしめむと欲するのだと云ふのである。

 此伊沢澹父とはなにひとであるか。思軒はかう云つた。「澹父の何人なるやは未だ考へずと雖も、書中の言によりて推量するに、けだし備後辺の人の江戸に住みて、げいはんていには至密の関係ありし者なるべし」と云つた。

 思軒の「頼山陽及其時代」が出てから十九年の後、大正二年に坂本きざんの「頼山陽」が出た。箕山は同一の茶山の手紙を引いて、手紙の宛名の人を伊沢蘭軒だと云つてゐる。わたくしは太華が買つたと云ふ茶山の手紙の行方を知らない。推するに、此手紙はどこかに存在してゐて、箕山さんもこれを見ることを得たのではなからうか。

 わたくしは伊沢蘭軒の事蹟を書かうとするに当つて、最初にせきじつ高橋太華の掘り出した古手紙の事を語つた。これは蘭軒の名が一時いかに深く埋没せられてゐたかを示さむがためである。



その二編集

 わたくしの知る所を以てすれば、蘭軒の事蹟の今に至るまで記述を経たものは、坂本箕山さんの「藝備偉人伝」中の小伝と、このごろ図書館雑誌に載せられた和田万吉さんの「集書家伊沢蘭軒翁略伝」との二つがあるのみである。

 しかし既に此等の記述があるのに、わたくしが遅れて出て、新に蘭軒の伝を書かうとするには、わたくしは先づ白己の態度を極めなくてはならない。わたくしが今蘭軒を伝ふることの難きは、さきに渋江抽斎を伝ふることの難かりし比では無い。抽斎と雖、人名辞書がこれを載せ、くがかつなんが一たびこれが伝を立てたことがあつた。只彼人名辞書の記載はかいほぎよそんの墓誌の外に出でず、羯南の文も亦経籍訪古志の序跋を参酌したに過ぎぬに、わたくしは嗣子保さんの手から新に材料を得た。これに反して蘭軒の曾孫めぐむさんと、其宗家の当主信平さんとの手より得べき主なる材料は、和田さんが既に用ゐ尽してゐる。なかんづく徳さんの輯録した所の材料には、「右蘭軒略伝一部帝国図書館依嘱に応じ謹写し納む。大正四年四月八日」と云ふ奥書がある。わたくしは和田さんが材を此納本に取つたことを疑はない。わたくしの新に伊沢氏に就いて、求め得べき材料は、此納本に漏れたえりくづに過ぎない。しや其選屑の中には、大正五年に八十二歳の齢を重ねて健存せる蘭軒のまごむすめおそのさんの談片の如き、きんふんぎよくせつがあるにしても。

 蘭軒を伝ふることが抽斎を伝ふるより難いには、猶一の軽視すべからざる理由がある。それは渋江氏には「泰平千代鑑」と題するクロオニツクがあつて、帝室、幕府、津軽氏、渋江氏の四欄を分つた年表を形づくつてゐるのに、伊沢氏には編年の記載が少いと云ふ一事である。強ひて此欠陥を補ふべき材料を求むれば、蘭軒には文化七年二月より文政九年三月に至る「つとめむき覚書」があり、其嗣子しんけんには嘉永五年十月二十一日より十一月十九日に至る終焉の記があるのみである。独り榛軒の養嗣子たうけんは、嘉永五年十一月四日より明治四年四月十一日に至る稍詳密なる「棠軒公私略」を遺し、僅に中間明治元年三月中旬より二年六月上旬に至る落丁があるに過ぎぬが、其文には取つて蘭軒榛軒二代の事跡を補ふべきものが殆無い。

 わたくしは自己の態度を極めたいと云つた。しかしつく/″\これを思へば、自己の態度を極めることが不可能ではないかと疑ふ。わたくしは少くもこれだけの事を自認する。若しわたくしが年月にくるに事実を以てしようとしたならば、わたくしの稿本は空白の多きに堪へぬであらう。徳さんの作つた蘭軒略伝が既に編年の行状では無い。その蘭軒前後に亘つた「歴世略伝」も亦同じである。徳さんの記載に本づいたらしい和田さんの略伝も亦編年では無い。藝備偉人伝は、蘭軒を載せた下巻がわたくしの手許に無いが、同じ著者の「頼山陽」に引いた文を見れば、またまた編年では無ささうである。おそのさんの談話の如きは、もとより年月日をつまびらかにすべきものに乏しい。わたくしはいかにして編年の記述をなすべきかを知らない。



その三編集

 わたくしはかう云ふ態度に出づるより外無いと思ふ。先づ根本材料は伊沢めぐむさんの蘭軒略伝乃至歴世略伝に拠るとする。これは已むことを得ない。和田さんと同じ源を酌まなくてはならない。しかし其材料の扱方に於て、素人歴史家たるわたくしは我儘勝手な道を行くことゝする。路に迷つても好い。若し進退きはまつたら、わたくしはそこに筆を棄てよう。いはゆる行当ばつたりである。これを無態度の態度と謂ふ。

 無態度の態度は、かたはらより看れば其道が険悪でもありきたいでもあらう。しかし素人歴史家は楽天家である。意に任せて縦に行き横に走る間に、いつか豁然として道が開けて、予期せざる広大なるペルスペクチイウが得られようかと、わたくしは想像する。そこでわたくしは蘇子の語を借り来つて、自ら前途を祝福する。曰く水到りて渠成ると。

 系譜を按ずるに、伊沢氏に四家がある。其一は旗本伊沢である。わたくしはしばらく「総宗家」と名づける。其二は総宗家四世まさひさの庶子にして蘭軒の高祖父たるありのぶの立てた家で、今麻布鳥居坂町の信平さんが当主になつてゐる。徳さんの謂ふ「宗家」である。其三は宗家四世のぶしなが一旦宗家を継いだ後に分立したもので、蘭軒のぶさだは此信階の子である。徳さんの謂ふ「分家」で、今牛込市が谷富久町に住んでゐる徳さんが其当主である。其四は蘭軒の子柏軒のぶみちが分立した家で、徳さんの謂ふ「又分家」である。当主は赤坂氷川町の清水夏雲さん方に寓してゐるのぶはるさんである。

 総宗家の系図には、わたくしは手を触れようとはしない。其初世吉兵衛正重は遠く新羅三郎義光より出でてゐる。此に徳さんの補修を経たありかたの儘に、単に歴代の名を数ふれば、義光より義清、清光、信義、信光、信政、信時、時綱、信家、信武、信成、信春、信満、信重、信守、信昌、信綱、信虎を経て晴信に至る。晴信は機山信玄である。晴信より信繁、信綱、信実、信俊、信雄、信忠を経て正重に至る。正重を旗本伊沢の初世とする。要するに旗本伊沢は武田氏のすゑで、いさはの名は倭名抄に見えてゐる甲斐国いさわに本づいてゐるらしい。

 総宗家旗本伊沢より宗家伊沢が出でたのは、初世正重、二世正信、三世せいがんを経て、四世正久に至つた後である。系図をけみするに、伊沢氏は「幕之紋みつすげがさ、家之紋蔦、替紋拍子木」と氏の下に註してある。初世吉兵衛正重は天文十年に参河国で生れ、慶長十二年二月二日に六十七歳で歿した。鉄砲組足軽四十人を預つて、千五百五十三石をんだ。二世はいとのかみ正信は東福門院附ゆげた摂津守昌吉の次男で、正重のぢよせいである。正信は文禄四年に生れ、寛文十年十二月二日に七十六歳で歿した。わたくしの所蔵の正保二年の江戸屋敷附に「伊沢隼人殿、もとおんたかじやうまち」と記してある。肩には役が記して無い。三世の名は闕けてゐる。只元和七年に生れ、延宝二年六月十六日に五十四歳で歿したとしてある。然るに徳川実記に拠れば、隼人正正信の子はもんどのかみまさしげである。延宝中の江戸鑑小姓組番頭中に「伊沢主水正、三千八百石、ねずみあな、父主水正」がある。即ち此人であらう。

 系図に政成が闕けてゐて稍不明であるが、要するに旗本伊沢は正保中には鷹匠町、延宝以後には鼠穴に住んでゐて、千五百五十三石より三千八百石に至つた。



その四編集

 蘭軒の高祖有信が旗本伊沢の家から分れて出た時の事は、蘭軒の姉きせの話を、蘭軒のしうと飯田休庵が聞いたものとして伝へられてゐる。それはかうである。有信は旗本伊沢の家に妾腹の子として生れた。然るに父の正室が妾をにくんで、害をせきしに加へようとした。有信のにゆうぼおそれて、幼い有信を抱いて麻布ちやうこくじに逃げかくれた。当時長谷寺には乳母のしゆくふが住持をしてゐたのだと云ふ。乳母の戒名は妙輪院清芳光桂大姉である。

 有信の生れたのは天和元年だと伝へられてゐる。此時旗本伊沢の家はいかなる状況の下にあつたか。

 当主は初代正重より四代目の吉兵衛正久であつた。江戸鑑を検するに、襲家の後寄合になつて、三千八百石を食み、鼠穴に住んでゐた。有信が鼠穴住寄合伊沢主水正の家に生れたことは確実である。

 有信が生れた時、父正久が何歳になつてゐたかと云ふことは、幸に系図に正久の生歿年が載せてあるから、推算することが出来る。正久は万治二年に生れ、寛保元年に八十三歳で歿したから、天和元年には二十三歳であつた。

 正久の正室は書院番頭さいぐさ土佐守よしなほぢよである。これが庶子に害を加へようかと疑はれた夫人である。

 別に歴世略伝に有信の父と云ふものが載せてあるが、これは正久とは別人でなくてはならない。又有信の実父でありやうがない。其文はかうである。「初代有信、通称徳兵衛、父流芳院春応道円居士、元禄四年辛未五月十八日、二十二歳」と云ふのである。若し流芳院を正久だとすると、此年齢より推せば、寛文十年に生れ、天和元年に十二歳で有信を挙げたことゝなる。按ずるに流芳院は有信の実父ではあるまい。若し有信の実父だとすると、年月日若くは年齢に錯誤があるであらう。

 わたくしは長谷寺に潜んでゐる幼い有信の行末を問ふに先だつて、有信を逸した旗本伊沢、即総宗家のなりゆきを一瞥して置きたい。それは旗本伊沢の子孫が所謂宗家、分家、又分家の子孫とは絶て交渉せぬので、後に立ち戻つて語るべき機会が得難いからである。



その五編集

 有信の父旗本伊沢四世吉兵衛正久は、武鑑を検するに、元禄二年より書院番組頭、十四年新番頭、十五年より小姓組番頭、宝永四年より書院番頭を勤め、叙爵せられて播磨守と云ひ、享保十七年には寄合になつてゐた。邸宅は鼠穴から永田馬場に移された。正久は系図に拠るに万治二年生で、寛保元年に八十三歳で歿した。

 五世吉兵衛はうていは系図に拠るに、享保元年生で、明和七年に五十五歳で歿した。宝暦十年の武鑑を検するに、方貞も亦父に同じく播磨守にせられ、書院番頭に進んでゐた。邸宅は旧に依つて永田馬場であつた。

 六世ないきはうしゆは系図に拠るに、明和四年正月二十七日に生れた。又武鑑に拠るに、寛政六年十月よりさきて鉄砲頭を勤めてゐた。文化の初の写本千石以上分限帳に、「伊沢内記、三千二百五十石、みかはだい」としてある。此後は維新前に至るまで、旗本伊沢は赤坂参河台に住んでゐた。

 七世主水は文化三年より火事場見廻り、文化九年より使番を勤めた。此役が十二年に至るまで続いてゐて、十三年には次の代の吉次郎が寄合に出てゐる。浅草新光明寺に「先祖代々之墓、伊沢もんどみなもとのまさたけ」とつた墓石がある。此主水の建てたものではなからうか。

 八世吉次郎は文化十三年の武鑑に始めて見えてゐる。「伊沢吉次郎、父主水三千二百五十石、三川だい」と寄合の部に記してあるのが是である。此より後文政三年に至るまでの五年間は、武鑑の記載に変更が無い。文政四年には寄合の部の同じ所に、次の代の助三郎が見えてゐる。

 九世助三郎政義は文政四年の武鑑寄合の部に、「伊沢助三郎、父吉次郎、三千二百五十石、三川だい」と記してある。此役が天保二年に至るまで続いて、三年には中奥小姓になつてゐる。六年には叙爵せられて摂津守と称し、猶同じ職にゐる。九年にはみまさかのかみに転じて小普請支配になつてゐる。ついで政義は十年三月に浦賀奉行になつて、役料千石を受けた。十三年三月に更に長崎奉行にうつされて、役料四千四百二俵を受けた。そして弘化二年に至るまでは此職にゐた。弘化三年の武鑑がたま/\手元にけてゐるが、四年より嘉永五年に至るまで、政義は寄合の中に入つてゐる。嘉永六年十二月に政義は再び浦賀奉行となり、安政二年八月に普請奉行となり、三年九月におほめつけぶくきりやうぶんげんちやうあらためとなり、四年十二月に江戸町奉行となり、五年十月に大目附宗門改となり、文久三年九月に留守居となり、元治元年七月十六日に此職を以て歿した。はふしして徳源院譲誉礼仕政義居士と云ふ。墓は新光明寺にあつて、「明治三十五年七月建伊沢家施主やはたいうくわん」とつてある。

 徳さんは嘗て「正弘公懐旧紀事」をけみして、安政元年に米使との談判に成つた条約の連署中に、伊沢美作守の名があるのを見たと云ふ。これはこのごろ公にせられた大日本古文書に見えてゐる米使アダムスとの交渉で、武鑑に政義の名を再び浦賀奉行として記してゐる間の事である。文書に拠れば、政義の職は下田奉行で、安政元年十二月十八日の談判中に、「美作守などは当春より取扱居、馴染之儀にも有之」云々と自ら語つてゐる。

 十世助三郎は慶応武鑑の寄合の部に、「伊沢力之助、父美作守、三千二百五十石、三河だい」と記してある。新光明寺に顕享院秀誉覚真政達居士の法諡を彫つた墓石があつて、建立の年月も施主の氏名も政義の墓と同じである。或は政達が即ち力之助のいみなではなからうか。



その六編集

 わたくしは或日旗本伊沢の墓を尋ねに、新光明寺へ往つた。浅草広徳寺前の電車道を南に折れて東側にある寺である。

 六十歳ばかりの寺男に問ふに、伊沢と云ふ檀家は知らぬと云つた。其げんぎよには東北の訛がある。此ぢゞを連れて本堂の北方にある墓地に入つて、街に近い西の端から捜しはじめた。西北隅は隣地面の人が何やら工事を起して、土を掘り上げてゐる最中である。爺が「こゝに伊の字があります」と云ふ。「どれ/\」と云つて、進み近づいて見れば、今掘つてゐる所に接して、一の大墓石が半ばかたぶいて立つてゐる。台石は掘り上げた土に埋もれてゐる。

「これは伊奈熊蔵の墓だ、何代目だか知らぬが、これも二千石近く取つたお旗本だ」とわたくしが云つた。爺は「へえ」と云つて少し頭を傾けた。「誰も詣る人はないかい」と云ふと、「えゝ、一人もございません」と答へた。

 伊沢の墓はなか/\見附けることが出来なかつた。暫くしてから、独り東の方を捜してゐた爺が、「これではございませぬか」と呼んだ。往つて見れば前に云つた「先祖代々之墓、伊沢主水源政武」と彫つた墓である。政武は七世もんどであらうと前に云つたが、系譜一本に拠れば一旦永井氏に養はれたかとも思はれる。墓地の東南隅にあつたのだから、我々は丁度対角の方向から捜しはじめたのであつた。

 此大墓石のかたはらに小い墓が二基ある。戒名の院の下にはでんの字を添へ、居士の上には大の字を添へたいかめしさが、粗末な小さい石に調和せぬので、異様に感ぜられる。想ふに八幡某は旗本伊沢に旧誼のあるもので、維新後三十五年にしてこれを建てたのであらう。二基は即ち政義、政達二人の墓である。

 二人の中で伊沢政義は、下田奉行としてアダムスと談判した一人である。盛世にあつてはかくの如き衝に当るものは、容易に侯となり伯となる。当時と雖、芙蓉間詰五千石高の江戸城留守居は重職であつた。殊に政義が最後に勤めてゐた時は、同僚が四人あつて、其世禄は平賀かつたり四百石、戸川安清五百石、佐野まさよし六百石、大沢やすさと二千六百石であつたから、三千二百五十石の政義は筆頭であつた。其政義がこの戒名に調和せぬ小さい墓の主である。「此墓にも詣る人は無いか」と、わたくしは爺に問うた。

「いゝえ、これには詣る方があります。わたくしは何と云ふお名前だか知らなかつたのです。なんでも年に一度位はお比丘さんが来られます。それからどうかすると書生さんのやうな方で、参詣なさるのがあります。住持様は識つてゐなさるかも知れませんが、こんにちはお留守です。」

「さうかい。わたしは此墓にゆかりは無いが、少しわけがあつて詣つたのだ。どうぞせんかうと華とを上げておくれ。それから名札をお前に頼んで置くから、住持さんが内にゐなさる時見せて、此墓にまゐる人の名前と所とを葉書でわたしに知らせて下さるやうに、さう云つておくれ。」

 爺が苔を掃つてかうげを供へるを待つて、わたくしは墓を拝した。そして爺に名刺を託して還つた。しかし新光明寺の住職は其後未だわたくしにいんしんを通じてくれない。



その七編集

 麻布のちやうこくじかくれてゐた旗本伊沢の庶子は、徳兵衛と称し、人となつて有信となのつた。有信は貨殖を志し、質店を深川に開いた。既にして家業漸く盛なるに至り、有信は附近の地所を買つた。後には其地が伊沢町と呼ばれた。永代橋を東へ渡り富吉町を経て又福島橋を渡り、南に折れて坂田橋に至る。此福島橋坂田橋間の西に面する河岸と、其中通とが即ち伊沢町であつたと云ふ。按ずるに後の中島町であらう。

 有信の妻は氏名をつまびらかにしない。はふしは貞寿院けいりんくわうじゆ禅尼である。其出の一男子は早世した。浄智禅童子が是である。

 有信は遠江国の人小野田八左衛門の子を養つて嗣となした。此養子がりやうちん信政である。おもふに享保中の頃であらう。仮に享保元年とすると、有信が三十六歳、信政が四歳、又享保十八年とすると、有信が五十三歳、信政が二十一歳である。信政の父八左衛門は法諡をだいおんはくじゆ居士と云ひ、母はどんさうじゆけい大姉と云ふ。

 有信はかくの如く志を遂げて、能く一家のもとゐを成したが、其「弟」に長左衛門と云ふものがあつた。遊惰にして財をし、しば/\謀書謀判のとがを犯し、兄有信をして賠償せしめた。総宗家の弟は有信が深川の家に来り寄るべきではないから、長左衛門はさいたうの人で、正しく謂へばせいであらうか。

 有信は長左衛門のために産をかたぶけ、深川の地所を売つて、麻布鳥居坂にうつつた。今伊沢信平さんの住んでゐる邸が是である。

 享保十八年十月十八日に有信は五十三歳で歿し、ちやうこくじに葬られた。即ち幼くしてにゆうをんと共にかくれてゐた寺で、此寺が後々までも宗家以下の菩提所となるのである。有信は法諡を好信軒一道円了居士と云ふ。此人が即ち宗家伊沢の始祖である。

 二世良椿信政は二十一歳にして家を継いだ。信政は町医者であつた。伊沢氏が医家であり、又読書人を出すことは此人から始まつた。

 信政は幕府の菓子師大久保もんどもとたねむすめいさめとつた。菓子師大久保主水は徳川家のせいしん大久保氏の支流である。しかし大久保氏の家世は諸書記載を異にしてゐて、今にはかに論定し難い。

 大久保系図に拠れば、粟田関白みちかね十世の孫景綱より、泰宗、時綱、泰藤、常意、道意、道昌、常善、忠与を経てちゆうもに至つてゐる。他書には道意を泰道とし、道昌を泰昌とし、常善を昌忠とし、忠与を忠興とし、忠茂をちゆうぶとしてゐる。此中には道号となのりとの混同もあり、文字の錯誤もあるであらう。初め宇津宮氏であつたのに、道意若くは道昌に至つて宇津と称した。

 忠茂に五子があつた。長忠俊、二忠次、三たゞかず、四忠久、以上四人の名はほゞ一定してゐるらしい。始て大久保と称したのは、忠茂若くは忠俊だと云ふ。世に謂ふ大久保彦左衛門たゞのりは忠俊の子だとも云ひ、忠員の子だとも云ふ。忠茂の第五子に至つては、或は忠平に作り、或は忠行に作る。伝説の菓子師は此忠行を祖としてゐるのである。

 忠行が主水と称し、菓子師となつた来歴は、しばらく君臣略伝の記載に従ふに、下に説く所の如くである。



その八編集

 大久保忠行は参河の一向宗一揆の時、上和田を守つて功があつたと云ふ。恐らくは永禄六七年の交の事であらう。徳川家康はこれに三百石を給してゐた。家康は平生餅菓子を食はなかつた。それは人の或は毒を置かむことをおそれたからである。たま/\忠行は餅菓子を製することを善くしたので、或日その製する所を家康に献じた。家康は喜びくらつて、此よりじゞ忠行をして製せしめた。天正十八年八月に家康は江戸に入つて、用水のとぼしきを憂へ、忠行にはかつた。忠行乃ち仁治中北条泰時の故智を襲いで、多摩川の水を引くことを策した。今の多摩川上水が是である。此時家康は忠行に主水の称を与へたと云ふことである。以上は君臣略伝の伝ふる所である。

 此より後主水忠行はどうなつたか、文献には所見が無い。然るに蘭軒のまごむすめそのさんの聞く所に従へば、忠行が引水の策を献じた後十年、慶長五年に関が原の戦があつた。忠行は此役に参加して膝頭に鉄砲創を受け、廃人となつた。そこで事たひらぐ後家康の許を蒙つて菓子師となつたさうである。

 わたくしは此説を聞いて、さもあるべき事と思つた。もと大久保氏にはよゝ経済の才があつた。大永四年に家康の祖父岡崎次郎三郎清康が、忠行の父忠茂の謀を用ゐて、松平弾正左衛門信貞入道昌安の兵を破り、昌安の女婿となつて岡崎城に入つた時、忠茂は岡崎市のこものなりを申し受け、さてがうりんも徴求せずにゐた。これが岡崎の殷富を致した基だと云ふ。忠茂の血と倶に忠茂の経済思想を承けた忠行が、曾て引水の策を献じ、つひしやうことなつたのは、つて来る所があると謂つて好からう。

 忠行の子孫は、今川橋の南を東に折れたほんしろかねちやう四丁目に菓子店を開いてゐて、江戸城に菓子を調進した。今川橋の南より東へ延びてゐる河岸通に、主水河岸の称があるのは、此家あるがためである。後年武鑑にようたし商人の名を載せはじめてより以来、山形の徽章の下に大久保主水の名はかつけてゐたことが無い。

 宗家伊沢の二世信政のしうととなつた主水もとたねは、忠行より第幾世に当るか、わたくしは今これをつまびらかにしない。しかし既に真志屋西村、金沢屋増田の系譜を見ることを得た如くに、他日或は大久保主水の家世を知る機会を得るかも知れない。

 信政の妻大久保氏伊佐の腹に二子一女があつた。二子はのぶながと云ひ、金十郎と云ふ。一女の名はそのである。

 信政の嫡男信栄は年齢を詳にせぬが、前後の事情より推するに、信政は早く隠居して、家を信栄に譲つたらしい。仮に信政が五十歳で隠居したとすると、信栄の家督相続は宝暦十一年でなくてはならない。

 三世信栄は短命であつたらしい。明和五年八月二十八日に父信政にさきだつて歿し、長谷寺に葬られた。はふしを万昌軒久山常栄信士と云ふ。信政は時に年五十七であつた。

 信栄はがふち氏をめとつて、二子を生ませた。長がのぶよしあざなは文誠、法名称仙軒、が鎌吉である。信栄の歿した時、信美は猶いとけなかつたので、信美の祖父信政は信栄の妹曾能に婿を取り、いはゆる中継として信栄の後をけしめた。此女婿がのぶしなである。



その九編集

 宗家伊沢の四世は信階である。字は大升、別号は隆升軒、をさななは門次郎、長じて元安と称し、後長安と改めた。門次郎は近江国の人、武蔵国埼玉郡越谷住井出権蔵の子である。権蔵ははふしを四時軒自性如春居士と云つて、天明四年正月十一日に歿した。其妻即信階の母は善室英証大姉と云つて、明和五年五月十三日に歿した。のぶながの死にさきだつこと僅に百零三日である。

 先代信栄の歿した時、嫡子のぶよしいとけなかつたので、隠居信政は井出氏門次郎を養つて子とした。信政は門次郎にめあはするに信栄の妹そのを以てしようとして、こゝろひそかにこれを憚つた。曾能の容貌が美しくなかつたからである。たま/\識る所の家に美少女があつたので、信政は門次郎にこれをめとらむことを勧めた。門次郎はかたちを改めて云つた。「わたくしを当家の御養子となされたのは伊沢のまつりを絶たぬやうにとの思召でござりませう。それにはせめて女子の血統なりとも続くやうに、お取計なさりたいと存じます。わたくしは美女を妻に迎へようとは存じも寄りませぬ」と云つた。此時信階は二十五歳、曾能は十九歳であつた。曾能は遂に信階の妻となつた。

 おもふに信階は修養あり操持ある人物であつたらしい。伝ふる所に拠れば、信階はぶうりうの門人であつたと云ふ。わたくしは武于竜と云ふ儒家を知らない。或はぶばいりうではなからうか。

 武梅竜初の名は篠田ゐがく、美濃の人である。しかし其郷里のつまびらかなるを知らない。後藤松陰が「或云高須人、或云竹鼻人」と記してゐる。伊藤東涯の門人である。享保元年生の維嶽が二十一歳になつた元文元年に、東涯は歿した。そこで維嶽は宇野明霞の門に入り、名をりやう、字を士明と改めた。既にして亮が三十歳になつた延享二年に、又明霞が歿した。亮は後名をきんいう、字をせいぼと改めて自ら梅竜と号した。その武と云ふは祖先が武田氏であつたからである。梅竜は妙法院たかやす法親王の侍読にせられた。

 梅竜は仁斎学派より明霞の折衷学派に入り、同く明霞に学んだ赤松こくらんが、「不唯典刑之存、其言之似夫子、使人感喜交併」と云つた如く、其師の感化を受くることはなはだ深かつたものと見える。明霞の生涯妻妾を置かなかつた気象が、梅竜を経て美妻をしりぞけた信階に伝へられたとも考へられよう。

 梅竜は明和三年に五十一歳で歿した。信階は此時二十三歳で、中一年を隔てて伊沢氏の養子となつたのである。信階が武氏に学んだ時、同門に豊後国大野郡岡の城主中川修理大夫久貞の医師飯田休庵のぶかたがゐた。休庵は信階のどうしゆつの姉井出氏を娶つたが、井出氏は明和七年七月三日に歿したので、水越氏たみれて継室とした。休庵は後に蘭軒のしうとになるのである。

 のぶしなの家督相続は猶摂主の如きものであつた。先代のぶながの子のぶよしが長ずるに及んで、信階はこれに家を譲つた。此更迭は何年であつたか記載を闕いでゐるが、安永六年前であつたことは明である。何故と云ふに、此年には信階の長子蘭軒が生れてゐる。そしてその生れた家は今の本郷真砂町であつたと云ふ。本郷真砂町は信階が宗家を信美に譲つた後に、分家して住んだ処だからである。仮に宗家の更迭と分家の創立との年を其前年、即安永五年だとすると、当時隠居信政は六十五歳、信階は三十三歳であつた。



その十編集

 伊沢信階が宗家を養父ばう信栄の実子信美に譲つた年を、わたくしは仮に安永五年とした。此時信階の創立した分家は今の本郷真砂町桜木天神附近の地を居所とし、信階はこの新しい家の鼻祖となつたのである。

 わたくしは例に依つて、信階きよごの伊沢宗家のなりゆきを、此に插叙して置きたい。信階は宗家四世の主であつた。五世信美は歯医者となり、信階の女、蘭軒の姉にして、豊前国福岡の城主松平筑前守はるゆきの夫人に仕へてゐたきせに推薦せられて、黒田家に召し抱へられ、文政二年四月二十二日に歿した。はふしを称仙軒徳山居士と云ふ。此より後宗家伊沢はよゝ黒田家の歯医者であつた。六世のぶかねは桃酔軒と号した。天明三年に生れ、文久二年うるふ八月十八日に八十一歳で歿した。七世のぶたかは巌松院道盛と号した。天保十一年に生れ、明治二十九年一月十三日に五十七歳で歿した。その生れたのは信全が五十八歳の時である。八世が今の信平さんである。

 分家伊沢の初世信階は本郷にうつつた後、安永六年十一月十一日に一子じあんを挙げた。即ち蘭軒である。蘭軒は信階の最初の子ではなかつた。蘭軒には姉幾勢があつて、既に七歳になつてゐた。推するに早く鳥居坂にあつた時に生れたのであらう。此子等の母は家附のむすめそのである。蘭軒の生れた時、父信階は年三十四、母曾能は二十八、家系上の曾祖父にして実は外祖父なる信政は年六十六であつた。

 安永七年に信階の長女幾勢は、八歳にして松平治之の夫人に仕ふることになつた。夫人名は亀子、後さちこと改む、越後国高田の城主榊原式部大輔政永のぢよで、当時二十一歳であつた。治之は筑前守継高の養子で、明和六年十二月十日に家を継いだのである。

 天明二年に幾勢の仕へてゐる黒田家に二度までだいがはりがあつた。天明元年十一月二十一日に治之が歿し、此年二月二日に養子又八が家を継いで筑前守はるたかなのり、十月二十四日に病んで卒し、十二月十九日に養子雅之助が又家を継いだのである。雅之助は後筑前守なりたかと云つた。

 幾勢の事蹟は、家乗の云ふ所が頗る明ならぬので、わたくしはこれがために黒田侯爵を驚かし、中島利一郎さんを労してかくの如くに記した。中島さんの言に拠るに、墓に刻んである幾勢の俗名はせよである。後に更めた名であらうか。又家乗が誤り伝へてゐるのであらうか。

 天明四年に信階は養祖父を喪つた。隠居信政が此年十月七日に七十三歳で歿したのである。はふしを幽林院たいをうりやうちん居士と云ふ。長谷寺のせんえいに葬られた。新しい分家には四十一歳の養孫信階、三十五歳の其妻、八歳の蘭軒を遺した。又宗家に於ては孫信美が已に二歳の曾孫のぶかねを設けてゐた。

 信政の妻大久保氏いさは又ていくわうの名がある。按ずるに晩年剃髪した後の称であらう。伊佐は享和三年七月二十八日に歿した。法諡を寿山院湖月貞輝大姉と云ふ。伊佐のしよせいには親にさきだつた信栄、信階の妻曾能の外、猶一子金十郎があつた。

 信階はちようし蘭軒のために早く良師を求めた。蘭軒が幼時の師を榊原しけいと云つた。蘭軒の「訳女戒跋」に、「翁氏榊原、姓藤原、名忠寛、字子宥、為東都書院郎、致仕号巵兮云」と云つてある。跋は享和甲子即文化紀元の作で、「翁歿十有三年於茲」と云つてあるから、巵兮は寛政四年に歿したと見える。蘭軒はついで経を泉豊洲に受けた。按ずるに彼は天明の初、此は天明の末から寛政に亘つての事であらう。

 泉豊洲、名は長達、あざなはくえいである。其家よゝ江戸に住した。さきて与力泉斧太郎が此人の公辺に通つた称である。豊洲は宝暦八年三月二十六日に茅場町に生れ、文化六年五月七日に五十二歳で歿した。父は名が智高、通称が数馬、母は片山氏である。

 豊洲は中年にして与力の職を弟なほみちに譲り、くだに授けたと云ふ。墓誌に徴するに、与力を勤むることゝなつてから本郷に住んだ。致仕の後には「下帷郷南授徒」と書してある。伊沢氏の家乗に森川宿とあるのは、恐くは与力斧太郎が家であらう。いはゆるきやうなんいづくなるかは未だ考へない。天明寛政の間に豊洲は二十四歳より四十三歳に至つたのである。

 豊洲はなんぐうたいしうの門人である。二十一歳にして師大湫の喪に遭つて、此より細井平洲に従つて学び、終に平洲の女婿となつた。要するに所謂叢桂社のばつりうである。



その十一編集

 わたくしは単に蘭軒が豊洲を師としたと云ふよりして、わざ/\そくわいして叢桂社に至り、特にこれを細説することの愚なるべきを思ふ。しかし蘭軒の初に入つた学統を明にせむがために、敢て此に人の記憶を呼び醒すに足るだけのエスキスをさしはさむこととする。

 参河国加茂郡ころもに福尾荘右衛門と云ふものがあつた。其妻奥平氏が一子曾七郎を生んだ。荘右衛門が尾張中納言つぐともに仕へて、いもふの竹腰志摩守の部下に属するに及んで、曾七郎は竹腰氏の家老中西曾兵衛の養子にせられた。中西氏はほんし秋元である。そこで中西曾七郎がげんし、名は維寧、あざなは文邦、淡淵と号すと云ふことになつた。淡淵が芋生にあつて徒に授けてゐた時、竹腰氏の家来井上しようみなしご弥六が教を受けた。時に元文五年で、師が三十二歳、ていしが十三歳であつた。弥六は後京都にあつてなんぐう氏と称し、名はがく、字はけうけい、号はたいしうとなつた。延享中に淡淵は年四十になんなんとして芋生から名古屋に遷つた。此時又一人のわかものが来て従学した。これは尾張国ひらしま村の豪士細井甚十郎の次男甚三郎であつた。甚三郎はたま/\大湫と生年を同じうしてゐて、当時二十に近かつた。遠祖がきのはせをであつたと云ふので、紀氏、名は徳民、字はせいけい、号は平洲とした。後に一種の性行を養ひ得て、いはゆる「廟堂之器」となつたのが此人である。

 寛延三年に淡淵が四十二歳を以て先づ江戸に入つた。その芝三島町に起した家塾が則ち叢桂社である。翌年は宝暦元年で、平洲が二十四歳を以て江戸に入り、同じく三島町に寓した。二年に淡淵が四十四歳で歿して、生徒は皆平洲に帰した。明和四年に大湫が四十歳を以て江戸に入り、くれまさちやうに寓した。大湫は未だ居を卜せざる時、平洲と同居した。「平洲為之称有疾、謝来客、息講業十余日、無朝無暮、語言一室、若引緒抽繭、縷々不尽」であつた。明和八年に八町堀牛草橋の晴雪楼が落せられた。大湫の家塾である。

 泉豊洲が晴雪楼に投じたのは、恐くは安永の初であらう。安永七年より以後、豊洲は転じて平洲に従遊し、平洲はぢよを以てこれにめあはした。

 叢桂社の学は徳行を以て先となした。淡淵は「其講経不拘漢宋、而別新古、従人所求、或用漢唐伝疏、或用宋明註解」平洲の如きも、「講説経義、不拘拘于字句、据古註疏為解、不好参考宋元明清諸家」と云ふのである。要するに、折衷に満足して考証に沈潜しない。学問を学問として研窮せずに、其応用に重きを置く。即ち尋常為政者の喜ぶ所となるべき学風である。

 蘭軒が豊洲の手を経て、此学統より伝へ得た所は何物であらうか。ひそかに思ふに只蘭軒をして能くくじゆたることを免れしめただけが、即ち此学統のせめてものたまものではなかつただらうか。



その十二編集

 蘭軒が泉豊洲の門下にあつた時、同窓の友には狩谷えきさい、木村ぶんか、植村士明、げでうじゆせん、春泰の兄弟、横山辰弥等があつた。棭斎のまごむすめは後に蘭軒の子柏軒に嫁し、柏軒のむすめが又棭斎のやうそんくしに嫁して、伊沢狩谷の二氏は姻戚の関係を重ねた。

 木村文河、名はさだよしあざなは駿卿、通称は駿蔵、一にきやうゑんと号した。身分はさきてよりきであつた。橘ちかげ、村田はるみ等と交り、草野和歌集を撰んだ人である。

 植村士明、名は貞皎、号を知らない。士明はあざなである。江戸の人で、蘭軒と親しかつた。

 下条寿仙、名はせいぎよく、字はしゆくたくである。信濃国筑摩郡松本の城主松平丹波守みつゆきの医官になつた。寿仙の弟春泰、名はせいかん、字はきふである。横山の事は未だつまびらかにしない。

 蘭軒が医学の師は目黒道琢、武田叔安であつたと云ふ。目黒道琢、名は某、字は恕卿である。寛政の末の武鑑に目見医師の部に載せて、「日比谷御門内今大路一しよ」と註してある。浅田りつゑんの皇朝医史には此人のために伝が立ててあるさうであるが、今其書が手元に無い。

 武田叔安は天明中より武鑑寄合医師の部に載せて、「四百俵、愛宕下」と註してある。文化の末よりはふげんとしてあつて、持高と住所とは旧に依つてゐる。武田氏は由緒ある家とおぼしく、家に後水尾天皇の宸翰二通、後小松天皇の宸翰一通を蔵してゐたさうである。

 蘭軒がほんざうの師は太田大洲、赤荻由儀であつたと云ふ。太田大洲、名は澄元、字は子通である。又崇広堂の号がある。享保六年に生れ、寛政七年十月十二日に七十五歳で歿した。按ずるに蘭軒は其古稀以後のていしであらう。

 赤荻由儀はわたくしは其人を詳にしない。只富士川游さんの所蔵の蘭軒雑記に、「せんくつさい、和名みそはぎ、六月みそかみそぎの頃よりさきそむる心ならむとわが考也、赤荻先生にも問しかば、先生さもあらむと答られき」と記してあるだけである。手元にある諸書を一わたり捜索して、最後に白井光太郎さんの日本博物学年表を通覧したが、此人の名は遂に見出すことが出来なかつた。年表には動植の両索引と書名索引とがあつて、人名索引が無い。事のついでに白井さんに、改板の期に至つて、人名索引を附せられむことを望む。わたくしは又赤荻由儀に就いて見る所があつたら、一報を煩したいと云ふことを白井さんに頼んで置いた。

 蘭軒が師事した所の儒家医家はおほむね此の如きに過ぎない。わたくしは蘭軒の師家より得た所のものには余り重きを置きたくない。蘭軒は恐くは主としてオオトヂダクトとして其学を成就したものではなからうか。

 蘭軒は後に詩を善くし書を善くした。しかし其師承を詳にしない。只詩はくわんちやざんに就いて正を乞うたことを知るのみである。蘭軒が始て詩筒を寄せたのは、推するに福山侯阿部まさともが林述斎のことを聞いて、茶山に五人扶持を給した寛政四年より後の事であらう。



その十三編集

 のぶしなは寛政六年十月二十八日に五十一歳で、備後国深津郡福山の城主阿部伊勢守正倫に召し抱へられて侍医となつた。菅茶山が見出された二年の後で、蘭軒が十八歳の時である。阿部家は宝永七年うるふ八月十五日に、正倫の曾祖父備中守まさくにが下野国宇都宮よりうつされて、福山を領した。菅茶山集中に、「福山藩先主長生公、以宝永七年庚寅、自下毛移此」と書してあるのが是である。当主正倫は、父伊予守まさすけが明和六年七月十二日宿老の職にゐて卒したので、八月二十九日に其後をいだ。伊沢氏の召し抱へられる二十五年前の事である。

 寛政七年には、十八年来、信階のぢよきせが仕へてゐる黒田家に又代替があつた。八月二十四日に筑前守なりたかが卒して、十月六日に嫡子官兵衛なりきよが襲封したのである。はるゆき夫人幸子が三十八歳、幾勢が二十五歳の時である。同じ十月の十二日に、蘭軒の本草の師太田大洲が七十五歳で歿した。時に蘭軒は十九歳であつた。

 寛政九年は伊沢の家に嘉客を迎へた年であるらしい。それは頼山陽である。

 世に伝ふる所を以てすれば、山陽が修行のために江戸に往くことを、浅野家に許されたのは、正月二十一日であつた。恰も好ししゆくふきやうへいが当主しげあきらの嫡子なりかたの侍読となつて入府するので、山陽は附いて広島を立つた。山陽は正月以来広島城内二の屋敷にある学問所に寄宿してゐたが、江戸行の事が定まつてから、一旦すぎのきこうぢの屋敷に帰つて、そこから立つたのである。

 山陽が江戸に着いたのは四月十一日である。山陽の曾孫こばいさんが枕屏風の下貼になつてゐたのを見出したと云ふ日記に、「十一日、自川崎入江戸、息大木戸、(中略)大人則至本邸、(中略)使襄随空轎而入西邸、(中略)須臾大人至堀子之邸舎」と書いてある。

 浅野家の屋敷は当時霞が関を上邸、永田馬場を中邸、赤阪青山及築地を下邸としてゐた。本邸は上邸、西邸とは中邸である。

 山陽が江戸に著いた時、杏坪はかごくだつて霞が関へ往つた。山陽はからかごに附いて永田馬場へ往つた。次で杏坪も上邸を退いて永田馬場へ来たのであらう。「堀子」とは年寄堀江典膳であらうか。

 これより後山陽は何処にゐたか。山陽は自ら「遊江戸、住尾藤博士塾」と書してゐる。二洲の官舎は初め聖堂のかまへうちにあつて、後に壱岐坂に邸を賜はつたと云ふ。山陽の寓したのは此官舎であらう。二洲は山陽の父春水の友で、妻猪川氏を喪つた時、春水が妻飯岡氏静の妹なほをしてぞくげんせしめた。即ち二洲は山陽のじゆうぼふである。

 山陽は二洲の家にゐた間に、誰の家を訪問したか。世に伝ふる所を以てすれば、山陽は柴野栗山を駿河台に訪うた。又古賀精里を小川町きじばしほとりに訪うた。これは諸書の皆する所である。

 さて山陽は翌年寛政十年四月中に、杏坪と共に江戸を立つて、五月十三日に広島御多門にある杏坪の屋敷に著き、それより杉木小路の父の家に還つたと云ふ。世の伝ふる所を以てすれば、江戸に於ける山陽の動静はかくの如きに過ぎない。

 然るに伊沢氏の口碑には一の異聞が伝へられてゐる。山陽は江戸にある間に伊沢氏に寓し、又狩谷棭斎の家にも寓したと云ふのである。



その十四編集

 伊沢氏の口碑の伝ふる所はかうである。蘭軒は頼春水とも菅茶山とも交はつた。なかんづく茶山は同じく阿部家の俸をむ身の上であるので、其まじはりが殊に深かつた。それゆゑ山陽は江戸に来たとき、本郷真砂町の伊沢の家でわらぢを脱いだ。其頃伊沢では病源候論を写してゐたので、山陽は写字の手伝をした。さて暫くしてから、蘭軒は同窓の友なる狩谷棭斎に山陽を紹介して、棭斎の家に寓せしむることゝしたと云ふのである。

 此説は世の伝ふる所とはなはけいていがある。世の伝ふる所は一見いかにも自然らしく、これを前後の事情に照すに、しつくりとふんがふする。叔父杏坪と共に出て来た山陽が、聖堂で学ばうとしてゐたことは勿論である。其聖堂には、六年前に幕府に召し出されて、伏見両替町から江戸へ引き越し、「以其足不良、特給官舎於昌平黌内」と云ふことになつたじゆうぼせいの二洲びとうりやうさが住んでゐた。山陽が此二洲の官舎に解装して、聖堂に学ぶのは好都合であつたであらう。尾藤博士の塾にあつたとは、山陽の自ら云ふ所である。又茶山の詩題にも「頼久太郎、寓尾藤博士塾二年」と書してある。二年とはいはゆる足掛の算法に従つたものである。さて山陽は寛政九年の四月より十年の四月に至るまで江戸にゐて、それから杏坪等と共に、木曾路を南へ帰つた。此経過には何の疑のさしはさみやうも無い。

 しかし口碑などと云ふものは、もとよりかろがろしく信ずべきでは無いが、さればとて又みだりに疑ふべきでも無い。若しつうづの説を以て動すべからざるものとなして、たゞちに伊沢氏の伝ふる所を排し去つたなら、それはたいさうけいではなからうか。

 伊沢氏でおそのさんが生れた天保六年は、蘭軒の歿した六年の後である。又お曾能さんの父しんけんも山陽が江戸を去つてから六年の後、文化元年に生れた。しかし山陽が江戸にゐた時二十七八歳であつた蘭軒の姉きせは、お曾能さんが十七歳になつた嘉永四年に至るまで生存してゐた。此家庭に於て、曾て山陽が寄寓せぬのに、強て山陽が寄寓したと云ふ無根の説を捏造したとは信ぜられない。且伊沢氏は又何を苦んでかかくの如き説をひようくう構成しようぞ。

 めぐむさんの言ふ所に拠れば、当時山陽が伊沢氏の家に留めた筆蹟が、近年に至るまで儲蔵せられてあつたさうである。惜むらくは伊沢氏は今これを失つた。

 わたくしは山陽が伊沢氏に寓したことを信ずる。そして下に云ふ如くに推測する。

 山陽が江戸にあつての生活は、恐くは世の伝ふる所の如く平穏ではなかつただらう。山陽がその自ら云ふ如くに、又茶山の云ふ如くに、二洲の塾にゐたことは確である。しかし後にかんなべの茶山が塾にあつて風波を起した山陽は、江戸の二洲が塾にあつても亦風波を起したものと見える。風波を起して塾を去つたものと見える。去つて何処へ往つたか。恐くは伊沢に往き、狩谷に往つたであらう。伊沢氏の口碑にわらぢを脱いだと云ふのは、必ずしも字の如くに読むべきではなからう。



その十五編集

 山陽は尾藤二洲の塾に入つた後、能く自ら検束してはゐなかつたらしい。山陽が尾藤の家の女中に戯れて譴責せられたのが、出奔の原因であつたと云ふ説は、森田思軒が早く挙げてゐる。唯思軒は山陽のはしつたのを、江戸を奔つたことゝ解してゐる。しかしこれは尾藤の家を去つたので、江戸を去つたのでは無かつたであらう。

 二洲がかくの如きせうしかの故を以て山陽を逐つたのでないことは言をたない。又しや二洲の怒がはげしかつたとしても、其妻なほは必ずや姉の愛児のために調停したことを疑はない。しかし山陽は「例の肝へき」を出して自ら奔つたのであらう。

 わたくしは此事のあつたのを何時だとも云ふことが出来ない。寛政九年四月より十年四月に至る満一箇年のうち、山陽がおとなしくして尾藤方にゐたのは幾月であつたか知らない。しかし推するに二洲の譴責は「物ごとにうたがひふかき」山陽の感情を害して、山陽は聖堂の尾藤が官舎を走り出て、湯島の通を北へ、本郷の伊沢へ駆け込んだのであらう。山陽が伊沢のかどで脱いだのが、わらぢでなくて草履であつたとしても、固より事に妨は無い。

 世の伝ふる所の寛政十年三月廿一日に山陽が江戸で書いて、広島の父春水に寄せた手紙がある。わたくしは此手紙が、或は山陽の江戸に於ける後半期の居所を以て、尾藤塾にあらずとする証拠になりはせぬかと思ふ。しかし文書を読むことは容易では無い。比較的に近き寛政中の文と雖亦然りである。文書を読むに慣れぬしろうとのわたくしであるから、あやまり読み錯り解するかも知れぬが、若しそんな事があつたら、識者の是正を仰ぎたい。

 手紙の原本はわたくしのかつて見ぬ所である。わたくしの始て此手紙を読んだのは、きざきかうしやうさんがその著す所の「家庭の頼山陽」を贈つてくれた時である。此手紙のすゑしもの如き追記がある。「猶々昌平辺先生へも一日参上仕候而御暇乞等をも可申上存居申候、何分加藤先生御著の上も十日ほども可有之由に御坐候故、左様の儀も出来不申かと存候、以上」と云ふのである。加藤先生とは加藤ていさいである。定斎は寛政十年三月廿二日に江戸に入る筈で、山陽は其前夜に此書を裁した。十日程もこれあるべしとは、山陽が猶江戸にえんりうすべき期日であらう。寛政十年の三月は陰暦の大であつたから、山陽は四月三日頃に江戸を立つべき予定をしてゐたのである。山陽の発程は此予定より早くなつたか遅くなつたかわからない。山陽の江戸を発した日は記載せられてをらぬからである。

 わたくしのしろうと考を以てするに、先づ此追記には誤謬があるらしく見える。誤読か誤写か、乃至排印に当つての誤植か知らぬが、兎に角誤謬があるらしく見える。わたくしは此の如く思ふが故に、手紙の原本を見ざるを憾む。元来わたくしのいはゆる誤謬は余りあからさまに露呈してゐて、人の心附かぬ筈は無い。然るに何故に人が疑を其間にさしはさまぬであらうか。わたくしは頗るこれを怪む。そして却つて自己のしろうと考にヂスクレヂイを与へたくさへなるのである。



その十六編集

 寛政十年三月二十一日の夜、山陽が父春水に寄せた書の追記は、口語体に訳するときはかうなる。「昌平辺の先生の所へも一度往つて暇乞を言はうと思つてゐる、何にせよ加藤先生が著いてからも十日程はあるだらうと云ふことだから、そんな事も出来ぬかと思ふ」となる。何と云ふ不合理な句であらう。暇がありさうだから往かれまいと云ふのは不合理ではなからうか。これはどうしても暇がありさうだから往かれようとなくてはならない。原文は「左様の義も出来可申かと存候」とあるべきではなからうか。只「不」を改めて「可」とすれば、文義は乃ち通ずるのである。

 わたくしの此手紙を読んだ始は「家庭の頼山陽」が出た時であつた。即ち明治三十八年であつた。それから八年の後、大正二年にきざんさんの「頼山陽」が出た。同じ手紙が載せてあつて、旧に依つて「左様の義も出来不申かと存候」としてある。箕山さんは果して原本を見たのであらうか。若しさうだとすると、誤写も誤植もありやうがなくなる。原本の字体が不明で、誰が見ても誤り読むのであらうか。しかしかくの如くに云ふのは、誤謬があると認めた上の事である。誤謬は初より無いかも知れない。そしてわたくしが誤解してゐるのかも知れない。

 追記の文意の合理不合理の問題はかみの如くである。しかしわたくしの此追記に就いて言はむと欲する所は別に有る。わたくしは試に問ひたい。追記に所謂「昌平辺先生」とはそも/\誰をして言つたものであらうかと問ひたい。

 しばらく前人の断定した如くに、山陽は江戸にある間、始終聖堂の尾藤の家にゐたとする。そして尾藤の家から広島へ立つたとする。さうすると此手紙も尾藤の家にあつて書いたものとしなくてはなるまい。そこで前人の意中をそんたくするに、しもの如くであらう。昌平辺先生とは昌平黌の祭酒博士を謂ふ。即ちりん祭酒述斎を始として、柴野栗山、古賀精里等の諸博士である。その二洲でないことは明である。二洲の家にあるものが、ことさらに二洲を訪ふべきでは無いからである。前人の意中はかうであらう。

 独りわたくしの思索は敢て別路を行く。山陽が江戸にあつた時、初め二洲の家にゐたことは世の云ふ所の如くであらう。しかし後には二洲の家にはゐなかつたらしい。少くも此手紙は二洲の家にあつて書いたものではなささうである。「昌平辺」の三字は、昌平黌の構内にゐて書くには、いかにも似附かはしくない文字である。外にあつて昌平黌と云ふ所をすべき文字である。

 わたくしは敢てかう云ふ想像をさへして見る。「昌平辺先生」は、とりもなほさず二洲ではなからうかと云ふ想像である。二洲はくわかつの親とは、思軒以来の套語であるが、しや山陽は一時の不平のために其家を去つたとしても、全く母の妹の家と絶つたのでないことは言をたない。しかし少くも山陽はちとのブウドリイをして不沙汰をしてゐたのではなからうか。すねて往かずにゐたのではなからうか。そして「江戸を立つまでには暇がありさうだから、例の昌平辺の先生の所へも往かれよう」と云つたのではなからうか。これは山陽が二洲の家を去つたことは、広島へも聞えずにゐなかつたものと仮定して言ふのである。



その十七編集

 わたくしは寛政九年四月中旬以後に、月日は確に知ることが出来ぬが、山陽が伊沢の家に投じたものと見たい。蘭軒が頼氏の人々並に菅茶山と極て親しく交つたことは、後に挙ぐる如く確拠があるが、山陽の父春水と比べても、茶山と比べても、蘭軒はこれを友とするに余り年がわかすぎる。寛政九年には春水五十二、茶山五十で、蘭軒は僅に二十一である。わたくしは初め春水、茶山等は蘭軒の父りゆうしようけんのぶしなの友ではなからうかと疑つた。信階は此年五十四歳で、春水より長ずること二歳、茶山より長ずること四歳だからである。しかし信階が此人々と交つた形迹は絶無である。それゆゑ山陽の来り投じたのは、当主信階をたよつて来たのではなく、嫡子蘭軒をたよつて来たのだと見るより外無くなるのである。此年二十一歳の蘭軒は、十八歳の山陽に較べて、三つの年上である。

 わたくしは蘭軒が初めいかにして頼菅二氏にまじはりれたかをつまびらかにすること能はざるをうらみとする。わたくしは現に未整理の材料をも有してゐるが、今の知る所を以てすれば、蘭軒が春水と始て相見たのは、後に蘭軒が広島に往つた時である。又茶山と交通した最も古いダアトは、文化元年の春茶山が小川町の阿部邸に病臥してゐた時、蘭軒が菜の花を贈つた事である。わたくしは今これより古い事実を捜してゐる。若し幸にしてこれを獲たならば、山陽が来り投じた時の事情をも、やゝこまかに推測することが出来るであらう。

 山陽は伊沢に来て、病源候論を写す手伝をさせられたさうである。果して山陽のいくけつをか手写した病源候論が、何処かに存在してゐるかも知れぬとすると、それは世の書籍を骨董視する人々のだいすべきちんしうであらう。

 病源候論が伊沢氏で書写せられた顛末は明で無い。又其写本の行方も明で無い。もとわたくしは支那の古医書の事にはくらいが、此にちとの註脚を加へて、れうしそしりを甘受することとしよう。病源候論は隋のやうだいの大業六年の撰である。作者は或はさうげんはうだとも云ひ、或は呉景だとも云ふ。呉の名は一に景賢に作つてある。四庫全書総目に、此書は官撰であるから、巣も呉も其事にあづかつたのだらうと云つてある。玉海に拠れば、宋の仁宗の天聖五年に此書がもいん頒行せられた。降つて南宋の世となつて、天聖本がちようこくせられた。伊沢の蔵本即酌源堂本は、此南宋版であつて、全部五十巻目録一巻の中、目録、一、二、十四、十五、十六、十七、十八、十九、計九巻が闕けてゐた。然るに別に同板のもの一部があつた。それは懐仙閣本である。此事は経籍訪古志に見えてゐるが、訪古志はわたくしのために馴染が猶浅い故、少しく疑はしい処がある。訪古志に懐仙楼蔵と記する諸本が、皆まなせの所蔵であることは明である。然るに訪古志補遺には懐仙閣蔵の書が累見してゐる。わたくしは懐仙閣も亦曲直瀬かと推する。しかしその当れりや否やを知らない。さて懐仙閣本の病源候論も亦完璧ではなくて、四十、四十一、四十二、四十三、計四巻が闕けてゐた。両本は恰も好しいうむ相補ふのであつた。

 伊沢氏で寛政九年に病源候論を写したとすると、それは自蔵本の副本を作つたのか。それとも懐仙閣本を借りて補写したのか。恐くは此二者の外には出でぬであらう。そして山陽が手伝つたと謂ふのは、此謄写の業であらう。



その十八編集

 山陽が寓してゐた時の伊沢氏の雰囲気は、病源候論を写してゐたと云ふを見て想像することが出来る。五十四歳のりゆうしようけんのぶしなが膝下で、二十一歳の蘭軒は他年の考証家の気風を養はれてゐたであらう。蘭軒が歿した後に、山田ちんていは其遺稿に題するに七古一篇を以てした。中に「平生不喜苟著述、二巻随筆身後伝」の語がある。これが蘭軒の面目である。

 そこへ闖入し来つた十八歳の山陽は何者であるか。三四年前に蘇子の論策を見て、「天地間有如此可喜者乎」と叫び、壁に貼つて日ごとに観た人である。又数年の後に云ふ所を聞けば、「凌雲冲霄」が其志である。「一度大処へ出で、当世の才俊とよばれ候者共と勝負を決し申度」と云ひ、「四方を靡せ申度」と云つてゐる。そして山陽は能く初志を遂げ、文名身後に伝はり、天下其名を識らざるなきに至つた。これが山陽の面目である。

 わかい彼蘭軒が少い此山陽をして、かうべを俯して筆耕を事とせしめたとすると、わたくしは運命のイロニイにたいせざることを得ない。わたくしは当時の山陽の顔が見たくてならない。

 山陽は尋で伊沢氏から狩谷氏へ移つたさうである。尾藤から伊沢へ移つた月日が不明である如くに、伊沢から狩谷へ移つた月日も亦不明である。要するに伊沢にゐた間は短く、狩谷にゐた間は長かつたと伝へられてゐる。わたくしは此初遷再遷を、共に寛政九年中の事であつたかと推する。

 わたくしは伊沢の家の雰囲気を云々した。山陽は本郷の医者の家から、転じて湯島の商人の家に往つて、又同一の雰囲気中に身をいたことであらう。棭斎は当時の称賢次郎であつた。年は二十三歳で、山陽には五つの兄であつた。そして蘭軒の長安信階に於けるが如く、棭斎も亦養父三右衛門はうこつかへてゐたことであらう。墓誌には棭斎が生家高橋氏を去つて、狩谷氏をいだのは、二十五歳の時だとしてある。即ち山陽をやどした二年の後である。わたくしは墓誌の記する所を以て家督相続をなし、三右衛門と称した日だとするのである。棭斎の少時いかに保古に遇せられたかは、わたくしのつまびらかにせざる所であるが、想ふに保古は棭斎の学を好むのに掣肘を加へはしなかつたであらう。棭斎は保古の下にあつて商業を見習ひつつも、早く已に校勘の業にせんししてゐたであらう。それゆゑにわたくしは、山陽が同一の雰囲気中に入つたものと見るのである。

 洋人の諺に「雨からあまだれへ」と云ふことがある。山陽はどうしても古本の塵を蒙ることを免れなかつた。わたくしは山陽が又何かのそうざんぼんを写させられはしなかつたかと猜する。そして運命の反復して人に戯るゝををかしくおもふ。



その十九編集

 寛政十年四月に山陽は江戸を去つた。其日時は不明である。山陽が三日頃に立つことを期してゐた証拠は、父に寄せた書に見えてゐる。又其発程が二十五日より前であつたことは、二洲がいふ春水に与へた書に徴して知ることが出来る。わたくしは山陽がえんりうきの後半を狩谷氏に寓して過したかとおもひ、又彼の父に寄する書を狩谷氏の許にあつて裁したかとおもふ。

 此年九月ついたちに吉田くわうとんが歿した。其年歯には諸書に異同があるがわたくしは未だ考ふるにいとまがなかつた。わたくしが篁墩の死を此に註するのは、考証家として蘭軒の先駆者であるからである。井上らんたいの門に井上きんがを出し、金峨の門に此篁墩を出した。蘭軒は師承の系統を殊にしてはゐるが、其学風は帰する所を同じうしてゐる。且亀田ぼうさいの如く、篁墩とともに金峨の門に出で、蘭軒と親善に、又蘭軒の師友たる茶山と傾蓋ふるきが如くであつた人もある。わたくしの今これに言及するゆゑんである。蘭台は幕府の医官井上通翁の子である。金峨は笠間の医官井上観斎の子である。篁墩は父祖以来医を以て水戸に仕へ、自己も亦一たび家業を継いで吉田林庵と称した。此の如く医にして儒なるものが、多く考証家となつたのは、恐くは偶然ではあるまい。

 此年の暮れむとする十二月二十五日に、広島では春水がみその道英のぢよじゆんよめに取ることを許された。不幸なる最初の山陽が妻である。

 此年蘭軒は二十二歳、其父信階は五十五歳であつた。

 寛政十一年に狩谷氏で棭斎が家を嗣いだ。わたくしは既に云つたやうに、棭斎は此より先に実家高橋氏を去つてはうこが湯島の店津軽屋に来てをり、此時家督相続をして保古の称三右衛門をいだかとおもふ。

 棭斎の家世には不明な事が頗る多い。棭斎の生父高橋かうびんは通称よそうじであつた。そして別号をばくうと云つた。これは蘭軒の子でいはゆる「又分家」の祖となつた柏軒の備忘録に見えてゐる。高敏の妻、棭斎の生母佐藤氏は武蔵国葛飾郡小松川村の医師のむすめであつた。これも亦同じ備忘録に見えてゐる。

 高敏の家業は、曾孫三いちさんの聞いてゐる所に従へば、古著屋であつたと云ふ。しかし伊沢宗家の伝ふる所を以てすれば小さい書肆であつたと云ふ。これは両説皆であるかも知れない。ふるぎを売つたこともあり、書籍、事によつたら古本を売つたこともあるかも知れない。わたくしは高敏の事跡を知らむがために、曾て浅草源空寺に往つて、高橋氏の諸墓を歴訪した。手許には当時の記録があるが、しばらく書かずに置く。三市さんが今猶探窮して已まぬからである。

 棭斎の保古に養はれたのは、女婿として養はれたのである。三市さんは棭斎の妻は保古の三女であつたと聞いてゐる。柏軒の備忘録に此女の法号が蓮法院と記してある。

 此年二月二十二日に御園氏じゆんが山陽に嫁した。後一年ならずして離別せられた不幸なる妻である。十二月七日の春水の日記「久児夜帰太遅、戒禁足」の文が、家庭の頼山陽に引いてある。山陽が後まことへいきんせられる一年前の事である。

 此年蘭軒は二十三歳、父信階は五十六歳であつた。



その二十編集

 寛政十二年は信階父子の家にダアトをつまびらかにすべき事の無かつた年である。此年に山陽は屏禁せられた。わたくしは蘭軒を伝ふるに当つて、時に山陽を一顧せざることを得ない。現に伊沢氏の子孫もつねかつて山陽をやどしたことを語り出でて、古い記念を喚び覚してゐる。譬へばげきりよの主人が過客中の貴人を数ふるが如くである。これはかくれたる蘭軒のすゑが顕れたる山陽に対する当然の情であらう。

 これに似て非なるは、わたくしが渋江抽斎のために長文を書いたのを見て、無用の人を伝したと云ひ、これを老人が骨董を掘り出すに比した学者である。かくの如き人は蘭軒伝を見ても、只山陽茶山の側面観をのみ其中に求むるであらう。わたくしは敢て成心としてこれをしりぞける。わたくしのもくちゆうの抽斎や其師蘭軒は、必ずしも山陽茶山のしもには居らぬのである。

 山陽が広島杉木小路の家をはしつたのは九月五日である。豊田郡竹原で山陽の祖父又十郎これきよの弟伝五郎これのぶが歿したので、ばいしは山陽をくやみに遣つた。山陽はじゆうそそふの家へ往かずに途中から逃げたのである。竹原は山陽の高祖父総兵衛正茂の始て来り住した地である。もと正茂は小早川隆景に仕へて備後国に居つた。そして隆景の歿後、みつきごほり三原の西なる頼兼村から隣郡安藝国豊田郡竹原にうつつた。当時の正茂が職業を、春水は「造海舶、販運為業」と書してゐる。しかし長井金風さんの獲た春水の「万松院雅集贈梧屋道人」七絶の箋に裏書がある。文中「頼弥太郎、抑紺屋之産也」と云つてある。此語は金風さんが嘗て広島にあつて江木鰐水の門人河野某に聞いた所と符合する。河野はまのあたり未亡人としての梅颸をも見た人であつたさうである。これも亦彼の棭斎が生家の職業と同じく或は二説皆であるかも知れない。

 山陽は京都の福井新九郎が家から引き戻されて、十一月三日に広島の家に著き、屏禁せられた。時に年二十一であつた。

 此年蘭軒は二十四歳、父信階は五十七歳になつた。

 次の年は享和元年である。記して此に至れば、一事のわたくしのために喜ぶべきものがある。それは蘭軒の遺した所のかんさい詩集が、年次を逐つて輯録せられてゐて、此年の干支しんいうが最初に書中に註せられてゐる事である。蘭軒の事蹟は、彼の文化七年後の勤向覚書を除く外、絶て編年の記載にのぼつてをらぬのに、此詩集がたま/\存してゐて、わたくしに暗中ともしびを得た念をなさしむるのである。

 詩集は蘭軒の自筆本で、半紙百零三けつの一巻をなしてゐる。としよくは極て少い。ざうきよしやは富士川游さんである。

 巻首第一行に葌斎詩集、伊沢信恬」と題してあつて、「伊沢氏酌源堂図書記」「森氏」の二朱印がある。森氏はきゑんである。毎半葉十行、行二十二字である。

 集に批圏と欄外評とがある。欄外評は初けつより二十七頁に至るまで、享和元年より後二年にして家を嗣いだ阿部侯そうけんまさきよの朱書である。まゝ菅茶山の評のあるものは、茶字を署して別つてある。二十八頁以下の欄外には往々「伊沢信重書」、「渋江全善書」、「森立夫書」等補写者の名が墨書してある。評語には「茶山曰」と書してある。



その二十一編集

 わたくしは此に少しく蘭軒のめいじに就いて插記することとする。それは引く所の詩集にかんへきじが題してあるために、わたくしは既にきけつしを煩し、又読者を驚したからである。

 蘭軒は初め名はりよくしんあざなくんてい、後名はしんてん字はたんほと云つた。信恬は「のぶさだ」とませたのである。後の名字は素問上古天真論の「恬憺虚無、真気従之、精神内守、病従安来」より出でてゐる。そうけん阿部侯正精の此十六字を書した幅が分家伊沢に伝はつてゐる。

 憺甫の憺は心に従ふ。しかし又澹父にも作つたらしい。森田思軒の引いた菅茶山のかんどくにはすゐに従ふ澹が書してあつたさうである。現にわたくしのあへばくわうそんさんに借りてゐる茶山の柬牘にも、同じく澹に作つてある。たゞに柬牘のみでは無い。わたくしの検した所を以てすれば、黄葉夕陽村舎詩に蘭軒に言及した処が凡そ十箇所あつて、其中澹父と書したものが四箇所、憺父と書したものが一箇所、蘭軒と書したものが二箇所、都梁と書したものが二箇所、辞安と書したものが一箇所ある。要するに澹父と書したものが最多い。坂本きざんさんが其藝備偉人伝のかくわんに引いてゐる「尾道贈伊沢澹父」の詩題は其一である。此書の下巻は未刊行のものださうで、このごろ箕山さんは蘭軒の伝を稿本中より抄出してわたくしにきししてくれたのである。

 別号は蘭軒を除く外、かんさいと云ひ、都梁と云ひ、せうせんと云ひ、又はこや山人と云つた。蕳一に葌に作つてある。詩集の名の如きが即是である。又葌斎のてんいんもある。かんに作つたものは、わたくしは未だ曾て見ない。

 蕳は詩の鄭風に「溱与洧、方渙渙兮、士与女、方秉蕳兮」とあつて、伝に「蕳蘭也」と云つてある。葌は山海経に「呉林之山、其中多葌草」とあつて、又葌山葌水の地名が見えてゐる。一切経音義に声類を引いて「葌蘭也」と云ひ、又「葌、字書与蕳同」とも云つてある。せつもん校録にも亦「鄭風秉蕳、字当同葌、左氏昭二十二年大蒐於昌間、公羊作昌姦、此葌与蕳同之証」と云つてある。説文に葌を載せて蕳を載せぬのはきよしんが葌を正字としたためであらう。䔵は字彙正字通並に蕳の俗字だとしてゐる。字典は広韻を引いて「与葌同」としてゐる。説文義証には「広韻、葌与䔵同、䔵当作蕳」と云つてある。葌蕳䔵三字の考証は池田四郎次郎さんを煩はした。都梁は荊州記に「都梁県有山、山下有水清泚、其中多蘭草、名都梁香」とある。蘭軒の蘭字の事は後に別に記することとしよう。笑僊は笑癖あるがために自ら調したものであらう。藐姑射山人は荘子から出てゐること論を待たない。

 居る所を酌源堂と云ひ、三養堂と云ひ、はうあう書院と云ふ。

 酌源ははんこてんいんの「斟酌道徳之淵源、肴覈仁義之林藪」から出てゐる。三養はそしきの「安分以養福、寛胃以養気、省費以養財」から出てゐる。芳桜書院の芳桜の事は後に別に記することとしよう。

 通称は辞安である。

 名字の説は此に止まる。已に云つた如くに、わたくしの富士川游さんに借りてゐる葌斎詩集に、先づ見えてゐる干支は、此年享和紀元の辛酉である。わたくしは此詩暦を得て大いに心強さを覚える。わたくしは此より此詩暦をしをりとし路傍こうとして、ゆくての道をたどらうとおもふ。



その二十二編集

 蘭軒は此年享和元年の元日に七律を作つた。葌斎詩集の「辛酉元日口号」が是である。首句に分家伊沢の当時の居所が入つてゐるのが、先づわたくしの注意を惹く。「昌平橋北本江郷」と云つてある。ほんごうきやうませる積であつたのだらう。

 次に蘭軒生涯の大厄たる脚疾が、早く此頃に萌してゐたらしい。詩集は前に云つた元日の作の後に、文化元年の作に至るまでの間、春季の詩六篇を載せてゐるのみである。わたくしはしばらく此詩中に云ふ所を此年のもとける。蘭軒は二月の頃に「野遊」に出た。「数試春衣二月天」の句がある。此野遊の題の下に、七絶二、七律一、五律一が録存してあつて、しば/\しゆんいをこゝろみるぐわつのてんは七律の起句である。然るにこれに次ぐに「頓忘病脚自盤旋」の句を以てしたのを見れば、わたくしは酸鼻に堪へない。蘭軒は今僅に二十三歳にして既に幾分か其痼疾に悩まされてゐたのである。

 此年六月二十九日には蘭軒の師泉豊洲が、其師にして岳父たる細井平洲を喪つた。七十四歳を以て「外山邸舎」に歿したと云ふから、尾張中将なりともの市谷門外の上屋敷が其えきさくの所であらう。諸侯の国政をあづかり聴いた平洲は平生「書牘来、読了多手火之」と云ふ習慣を有してゐた。「及其病革、書牘数十通、猶在篋笥、門人泉長達神保簡受遺言、尽返之各主。」長達は豊洲の名である。神保簡は恐くは続近世叢語のかうかん、宇は子廉であらう。蘭室と号したのは此人か。蘭軒の師豊洲は時に年四十四であつた。

 此年には猶多紀氏で蘭軒の友りうはんさいていの祖父藍渓が歿し、後に蘭軒の門人たる森きゑんの祖父ふくぎうが歿してゐる。蘭軒の父信階は五十八歳になつた。

 享和二年には二月二十九日に蘭軒が向島へ花見に往つたらしい。蘭軒雑記にかう云つてある。「吉田仲禎(名祥、ちやうたつとがうす、東都医官)、木村駿卿、狩野卿雲、此四たりよつねにじよじのまじはりを為す友也。享和之二二月廿九日仲禎君と素問がふどくなすとてゐたりしに、卿雲おもはずもとぶらひき。(此時仲禎卿雲初見)余が今日は美日なれば、今より駿卿へいひやりて墨田の春色賞するはいかにと問ぬ。二人そもよかるべしと、三たりして手紙したゝめし折から、駿卿来かかりぬ。まことにめづらしき会なりと、ひるいひたうべなどして、上野の桜を見つつ、中田圃より待乳山にのぼりてしばしながめつ。山をおりなんとせし程に、卿雲のしたしき泉屋忠兵衛といへるくるわの茶屋に遇ひぬ。其男けふは余が家居に立ちより給へと云ふ。余等いなみてわかれぬ。それより隅田の渡わたりて、隅田村、寺島、牛島のあたり、縦に横に歩みぬ。さてつゝみより梅堀をすぎ、浅草の観音に詣で、中田圃よりすぐなる道をゆきて家に帰りぬ。」此文は年月日の書きざまが異様で、疑はしい所がないでもないが、わたくしはしばらく「享和之二二月」と読んで置く。

 秋に入つて七月十五日に、蘭軒は渡辺とうか、清水はくみん、狩谷棭斎、赤尾ぎよらいの四人と、墨田川で舟遊をした。蘭軒に七絶四首があつたが、集に載せない。只其題が蘭軒雑記に見えてゐるのみである。東河、名ははうあざなは文平、一号はふつせきである。書をげん東江に学んだ。泊民名は逸、碩翁と号した。亦書を善くした。魚来は未だ考へない。

 享和三年には蘭軒が二月二日に吉田仲禎狩谷棭斎と石浜村へ郊行した。仲禎、名は祥、通称は長達である。幕府の医官を勤めてゐた。次で十九日に又大久保五岳、島根近路、うちごし古琴と墨田川に遊んだ。五岳、名はちゆうぎ、当時の菓子商もんどである。近路古琴の二人の事は未だ考へない。此二遊は蘭軒雑記に「享和うるふ正月」と記し、しも三字を塗抹して「二月」と改めてある。享和中閏正月のあつたのは三年である。故にしばらく此に繋ける。墨田川の遊は、雑記に「甚俗興きはまれり」と註してある。

 此年七月二十八日に、蘭軒の父信階の養母大久保氏伊佐が歿した。戒名は寿山院湖月貞輝大姉である。「又分家」の先霊名録には寿山院が寿山室に作つてある。年は八十四であつた。

 蘭軒雑記に拠れば、いはゆる浅草太郎稲荷の流行は此七月の頃始て盛になつたさうである。社の在る所は浅草田圃で、立花左近将監あきひさの中屋敷であつた。大田南畝が当時奥祐筆所詰を勤めてゐた屋代輪池を、神田明神下の宅に訪うて一聯を題し、「屋代太郎非太郎社、立花左近疑左近橘」と云つたのは此時である。



その二十三編集

 此年享和三年十月七日に、蘭軒が渡辺東河を訪うて、始てばんさんだうに会つたことが、蘭軒雑記に見えてゐる。粲堂、通称は平蔵である。煎茶をたしみ、てんこくを善くした。此日十月七日は西北に鳴動を聞き、夜灰が降つたと雑記に註してある。試に武江年表をけみするにかうくわいの事を載せない。

 蘭軒の結婚は家乗に其年月を載せぬが、遅くも此年でなくてはならない。それは翌年文化元年の八月には長男しんけんが生れたからである。蘭軒には榛軒にさきだつて生れた子があつたか否か、わたくしは知らない。しかし少くも男子は無かつたらしい。分家伊沢の人々の語る所に依れば、蘭軒には嫡出六人、庶出六人、計十二人の子があつたさうである。歴世略伝にある六人は、男子が榛軒常三郎柏軒、女子がてつちやうじゆんである。常三郎は榛軒に後るゝこと一年、柏軒は六年にして生れた。名録には猶一人庶子良吉があつて、文化十五年即ち文政元年正月二日に歿してゐるが、これも榛軒の兄ではなささうである。わたくしが少くも先つて生れた男子は無かつたらしいと云ふのは、これがためである。

 略伝の女子天津長順三人の中、分家の人々のことに従へば、只一人長育したと云ふ。即ち名録の井戸応助妻であらう。応助はかんさい詩集に拠るに、翁助の誤らしい。翁助妻は名録に文化十一年に生れた第三女だとしてある。名録に又「芳桜軒第二女、生七日許終、時文化九年壬申正月八日」として、智貌童子の戒名が見えてゐる。童子は童女の誤であらう。しかし天津、長、順をいづれに配当して好いか、わからない。若し長女にして榛軒に先つて生れたとすると、蘭軒が妻を娶つた年は繰り上げられるかも知れない。

 かみに記した外、名録には尚庶出のぢよ二人がある。文政六年に歿した順、十一年に歿したまちである。然らば略伝は庶子中より独り順のみを挙げてゐるのであらう。

 蘭軒の娶つた妻は飯田休庵の二女である。初め蘭軒の父信階即井出門次郎の妹が休庵に嫁したが、此井出氏は早く歿して、水越氏民が継室となつた。休庵の二女は此水越氏のしゆつである。それゆゑ蘭軒の妻はをばむこの子ではある。こふぢよではある。しかし小母のむすめでは無い。姑女では無い。

 蘭軒の妻は名を益と云つた。天明三年の生である。即ち明和七年に小母が死んでから、十三年目にわづかに生れたのである。蘭軒よりわかきこと六歳で、若し推定の如くに享和三年に婚嫁したとすると、夫蘭軒は二十七歳、妻益は二十一歳であつた。

 此年に蘭軒の友小島春庵なほかたの父春庵もとかずが歿した。尚質は蘭軒と古書を愛する嗜好を同じうした小島宝素である。広島の頼山陽は此年十二月六日に囲から出されて、家にあつて謹慎することを命ぜられた。



その二十四編集

 此年享和三年に蘭軒の父のぶしなの仕へてゐる阿部家に代替があつた。伊勢守まさともが十月六日に病に依つて致仕し子かぞへのかみまさきよが家を継いだのである。正倫は安永六年より天明七年に至るまで初め寺社奉行見習、後寺社奉行を勤め、天明七八年の両年間宿老に列してゐた。致仕後二年、文化二年に六十一歳で歿した。継嗣正精は学を好み詩を善くし、そうけんと号した。せいしたりし日より、蘭軒を遇すること友人の如くであつた。

 文化元年には蘭軒が「甲子元旦」の五律を作つた。其後半が分家伊沢の当時の生活状態を知るに宜しいから、此に全首を挙げる。「陽和新布令。懶性掃柴門。梅傍辛盤発。鳥求喬木飛。樽猶余臘酒。禄足製春衣。賀客来無迎。姓名題簿帰。」伊沢氏は俸銭しよせんを併せたところで、手一ぱいのくらしであつただらう。いはゆる不自由の無いせたいである。五六の一聯が善くこれを状してゐる。結二句は隆升軒父子のたんそつを見る。

 正月に新に封を襲いだ正精が菅茶山を江戸に召した。頼山陽の撰んだ行状に、「正月召之東」と書してある。茶山は江戸に著いて、微恙のために阿部家の小川町の上屋敷に困臥し、たこの上がるのを眺めてゐた。茶山の集に「江戸邸舎臥病」の二絶がある。「養痾邸舎未尋芳。聊買瓶花插臥床。遙想山陽春二月。手栽桃李満園香。閑窓日対薬炉烟。不那韶華病裡遷。都門楽事春多少。時見風箏泝半天。」「春二月」の三字にダアトが点出せられてゐる。蘭軒の集には又「春日郊行。途中菘菜花盛開。先是菅先生有養痾邸舎未尋芳之句、乃剪数茎奉贈、係以詩」と云ふ詩がある。「桃李雖然一様新。担頭売過市※〈[#「纒のつくり+おおざと」、7巻-48-上-9]〉塵。贈君野菜花千朶。昨日携帰郊甸春。」菜の花にしゆうじを用ゐたのは、医家だけに本草綱目に拠つたのである。先生と云ひ、ほうぞうと云ふを見れば、茶山と蘭軒との年歯の懸隔が想はれる。茶山がかんなべの菅波久助の倅ひやくすけであつたことは、行状にも見えてゐるが、頼のよりかねを知つた人も、往々菅の菅波を知らない。寛延元年の生で、此年五十七歳、蘭軒は二十八歳であつた。推するに蘭軒は殆ど師として茶山を待つてゐたのであらう。

 三月になつて茶山は病がえた。十九日に犬塚いんなん、今川槐庵、蘭軒の三人と一しよに、お茶の水から舟に乗つて、墨田川に遊んだ。狩谷棭斎も同行の約があつたが、用事に阻げられて果さなかつた。舟中で四人が聯句をした。蘭軒雑記に「聯句別に記す」と云つてあるが、今知ることが出来ない。

 印南、名はそんあざなは退翁、通称は唯助、一号はもくわうゑんである。寛延三年に播磨国姫路の城主酒井うたのかみたゞともの重臣犬塚純則の六男に生れ、同藩青木某の女婿となり、江戸に来て昌平黌の員長に推された。ついほんしに復し、くわうしよくを辞し、本郷に家塾を設けた。寛政の末だと云ふから、印南が五十前後の頃である。印南ははんかうを避け、好んで書を読んだ。講書のために上野国高崎の城主松平右京亮輝延の屋敷と、輪王寺こうちようはふしんのうの座所とへ伺候する外、折々酒井雅楽頭たゞみちの屋敷の宴席に招かれるのみであつた。印南は嘗て蘭軒にちよき舟のたいを求められて、たゞちに蛇目傘と答へたと蘭軒雑記に見えてゐるから、必ずや詩をも善くしたことであらう。



その二十五編集

 印南、茶山、蘭軒と倶に、墨田川に花見舟をうかべた今川槐庵は、名はこく、字はかうこうである。わたくしは𣫔は毅ではないかと疑ふが、

しばらかんさい詩集の録する所に従つて置く。

 山陽の撰んだ茶山の行状は、「正月召之東」の句に接するに、「遂告暇遊常州」の句を以てしてある。茶山の著述目録の中に、じやういうき一巻とあるのが、恐くは此行を紀したものであらう。しかしわたくしは未だ其書を見ない。しばらく集中の詩に就て検するに、常遊雑詩十九首があつて、中に太田と註した一絶がある。其転結に「五月久慈川上路、女児相喚采紅藍」と云つてある。久慈川に近い太田は、久慈郡太田であらう。五月の二字から推せば、さみだれの頃の旅であつただらう。蘭軒の集には其頃ばいてんだんばいの絶句おの/\二首がある。梅天の一に「山妻欲助梅菹味、手摘紫蘇歩小園」の句があり、断梅の一に「也有閑中公事急、擬除軒下曝家書」の句がある。せつもんに「酢菜也」とある。ばいそばいせい〈[#「凵<韲」、7巻-49-下-8]〉も梅漬である。茶山が常陸巡をしてゐる間、蘭軒はおますさんが梅漬の料に菜圃の紫蘇を摘むのを見たり、蔵書の虫干をさせたりしてゐたと見える。頼氏の修史が山陽一代の業で無いと同じく、伊沢氏の集書も亦蘭軒一代の業では無いらしい。

 秋に入つてから七月九日に、茶山蘭軒等は又墨田川に舟を泛べて花火を観た。一行の先輩は茶山と印南との二人であつた。

 同行にはげんはきやう、木村ぶんかくしろうんせん、今川槐庵があつた。

 源波響はかきざき氏、名はくわうねん、字はせいこ、一に名はせいこ、字はゐねんに作る。通称はしやうげんである。画を紫石応挙の二家に学んだ。明和六年生だから、此年三十五歳であつた。釧雲泉、名はしう、字はちゆうふ、肥前国島原の人である。ちくでんが称して吾国のくわうたいちだと云つた。宝暦九年生だから、此年四十六歳であつた。五年の後に越後国出雲崎で歿した。其墓に銘したものは亀田ぼうさいである。文河槐庵の事は上に見えてゐる。

 茶山の集には「同犬冢印南今川剛侯伊沢辞安、泛墨田川即事」として、七絶七律おの/\一首がある。律のがんれん「杯来好境巡須速、句対名家成転遅」は印南に対する謙語であらう。蘭軒の集には「七夕後二日、陪印南茶山二先生、泛舟墨陀河、与源波響木文河釧雲泉川槐庵同賦」として七律二首がある。初首の七八「誰識女牛相会後、徳星復此競霊輝」は印南茶山に対する辞令であらう。後首の両聯に花火が点出してある。「千舫磨舷搶作響。万燈対岸爛争光。竹枝桃葉絃歌湧。星彩天花烟火揚。」わたくしは大胆な記実を喜ぶ。茶山は詩の卑俗に陥らむことを恐れたものか、一語も花火に及ばなかつた。蘭軒の題にダアトのあつたのもわたくしのためにはうれしかつた。



その二十六編集

 蘭軒が茶山を連れてしのばずのいけへ往つて馳走をしたのも、此頃の事であらう。茶山の集に「都梁觴余蓮池」として一絶がある。「庭梅未落正辞家。半歳東都天一涯。此日秋風故人酒。小西湖上看荷花。」わたくしは転句に注目する。蓮は今少し早くも看られようが、しうふうの字を下したのを見れば、七月であつただらう。又故人と云ふのを見れば、文化元年が茶山蘭軒の始て交つた年でないことが明である。

 蘭軒と棭斎とは又今一人誰やらをいざなつて、不忍池へ往つて一日書を校し、画工に命じて画をかゝせ、茶山に題詩を求めた。集に「卿雲都梁及某、読書蓮池終日、命工作図、需余題詩」として一絶がある。「東山佳麗冠江都。最是芙蓉花拆初。誰信旗亭糸肉裏。三人聚首校生書。」結句はいしう二家の本領を道破し得て妙である。

 八月十六日に茶山は蘭軒を真砂町附近の家に訪うた。わたくしは此会合を説くにさきだつて一事の記すべきものがある。あへばくわうそんさんは此稿の片端より公にせられるのを見て、わたくしに茶山のかんどく二十一通を貸してくれた。大半は蘭軒に与へたもので、中には第三者に与へて意を蘭軒に致さしめたものもある。第三者は其全文若くは截り取つた一節を蘭軒に寄示したのである。要するに簡牘は皆分家伊沢より出でたもので、彼の太華の手から思軒の手にわたつた一通も亦此コレクシヨンの片割であつただらう。今八月十六日の会合を説くには此簡牘の一通を引く必要がある。

 茶山の書は次年八月十三日に裁したもので、此に由つて此文化紀元八月中旬の四日間の連続した事実を知ることが出来る。其文はかうである。「今日は八月十三日也、去年今夜長屋へ鵜川携具来飲、明日平井黒沢来訪、十五日舟遊、十六日黄昏貴家へ参、備前人同道、夫より茗橋々下茶店にて待月、却而逢雨てかへり候」と云ふのである。鵜川名は某、あざなしじゆん、その人となりをつまびらかにせぬが、十三日の夜酒肴を齎して茶山を小川町の阿部邸に訪うたと見える。平井はたんしよ、黒沢は雪堂であらう。澹所はくしろうんせんどうかうで四十六歳、雪堂は一つ上の四十七歳、並に皆昌平黌の出身である。雪堂は猶校に留まつて番員長を勤めてゐた筈である。

 さて十六日のたそがれに茶山は蘭軒の家に来た。二人が第三者を交へずに、差向で語つたことは、此より前にもあつたか知らぬが、ダアトの明白なのは是日である。初めわたくしは、六七年前に伊沢氏に来てやどつた山陽の事も、定めて此日の話頭に上つただらうと推測した。そして広島すぎのきこうぢの父の家に謹慎させられてゐた山陽は、此ゆふべくさめを幾つかしただらうとさへ思つた。しかしわたくしは後に茶山のかんどくを読むこと漸く多きに至つて、その必ずしもさうでなかつたことをさとつた。後に伊沢信平さんの所蔵の書牘を見ると、茶山はかんなべに来り寓してゐる頼ひさたらうの事を蘭軒に報ずるに、恰も蘭軒未知の人を紹介するが如くである。或は想ふに、蘭軒は当時猶山陽を視て春水不肖の子となし、歯牙にだにのぼさずにんだのではなからうか。



その二十七編集

 蘭軒の家では、文化紀元八月十六日の晩に茶山がおとづれた時、蘭軒の父りゆうしようけんのぶしななほすこやかであつたから、定て客と語を交へたことであらう。蘭軒の妻益は臨月の腹を抱へてゐたから、出でゝ客を拝したかどうだかわからない。或は座敷のなるべく暗い隅の方へゐざりでて、うちそばみて会釈したかも知れない。益は時に年二十二であつた。

 蘭軒は茶山を伴つて家を出た。そしてお茶の水に往つて月を看た。そこへうすださいさと云ふものが来掛かつたので、それをもいざなつて、三人でちやてんに入つて酒を命じた。三人がよなかまで月を看てゐると、雨が降り出した。それからおの/\別れて家に還つた。

 蘭軒はかう書いてゐる。「中秋後一夕、陪茶山先生、歩月茗渓、途値臼田才佐、遂同到礫川、賞咏至夜半」と云ふのである。

 臼田才佐は茶山しよどく中の備前人である。備前人で臼田氏だとすると、ゐさいの子孫ではなからうか。当時畏斎が歿した百十五年の後であつた。茶店の在る所を、茶山はめいけう々下と書し、蘭軒はれきせんと書してゐる。今はつきりどの辺だとも考へ定め難い。

 蘭軒の集に此ゆふべの七律二首がある。初の作はお茶の水で月を看たことを言ひ、後の作は茶店で酒を飲んだことを言ふ。彼の七八に「手掃蒼苔踞石上、松陰徐下棹郎歌」と云つてある。当時のお茶の水には多少の野趣があつたらしい。これがんれんに「旗亭敲戸携樽至、茶店臨川移榻来」と云つてある。料理屋で酒肴を買ひ調へて、川端の茶店に持つて往つて飲んだのではなからうか。

 蘭軒が茶山とお茶の水で月を看た後九日にして、八月二十五日に蘭軒の嫡子しんけんが生れた。をさなゝたうすけである。後良安、一安、長安と改めた。名はしんこうあざなぼくほとなつた。

 分家伊沢の伝ふる所に従へば、榛軒はこうぼくを愛したので、名字号皆義を此木に取つたのだと云ふ。厚朴の木を榛と云ふことは本草別録に見え、又きふしゆへんがんしこの註にもある。又門人の記する所に、「植厚朴、参川口善光寺、途看于花戸、其翌日持来植之」とも云つてある。しかしわたくしの考ふる所を以てすれば、蘭軒は子に名づくるにこうを以てしちようを以てした。これは初め必ずしも木の名ではなかつたであらう。紀異録に「既懐厚朴之才、宜典従容之職」と云つてある。名字は或は此より出でたのではなからうか。さて木名に厚朴があるので、此木は愛木となり、又榛軒の号も出来たかも知れない。厚朴は植学名マグノリア和名ほほの木又ほほがしはで、その白い大輪の花は固より美しい。榛軒は父蘭軒が二十八歳、母飯田氏益が二十二歳の時の子である。

 茶山は其後九月中江戸にゐて、十月十三日に帰途に上つた。帰るにさきだつて諸家に招かれた中に古賀精里の新に賜つた屋敷へ、富士を見に往つたなどが、最も記念すべき佳会であつただらう。精里の此邸宅は今の麹町富士見町で、陸軍軍医学校のある処である。地名かへる原を取つて、精里は其楼をふくげんと名づけた。茶山は江戸にゐた間、梅雨を中に挾んで、曇勝な日にのみ逢つてゐたので、此日に始て富士の全景を看た。「博士新賜宅。起楼向厜㕒。亦恨落成後。未逢雲雨披。忽爾飛折簡。置酒招朋儕。新晴無繊翳。秋空浄瑠璃。芙蓉立其中。勢欲入座来。(中略。)我留過半載。此観得已稀。」茶山の喜想ふべきである。

 十月十三日に茶山は阿部まさきよこずゐして江戸を発した。「朝従熊軾発城東。海旭添輝儀仗雄。十月牢晴春意早。懸知封管待和風。」これが「晨出都邸」の絶句である。十一月五日に備中国の境に入つて、「入境」の作がある。此篇と前後相呼応してゐる。「熊車露冕入郊関。児女扶携挾路看。兵衛一行千騎粛。和風満地万人歓。」



その二十八編集

 文化二年には蘭軒の集に「乙丑元日」の七律がある。両聯は措いて問はない。起二句に「素琴黄巻未全貧、朝掃小斎迎早春」と云つてある。未だ全く貧ならずは正直な告白で、とにもかくにも平穏な新年を迎へ得たものと見られる。結二句には二十九歳になつた蘭軒が自己のよはひを点出してゐる。「歓笑優遊期百歳、先過二十九年身」と云ふのである。

 七月十五日に蘭軒は木村ぶんかと倶に、お茶の水から舟に乗つて、小石川を溯つた。此等の河流も今の如きどぶでは無かつただらう。三絶句の一に、「墨水納涼人賸有、礫川吾輩独能来」と云つてある。墨水の俗を避け、れきせんの雅に就いたのである。

 茶山の事は蘭軒の懐に往来してゐたと見えて、「秋日寄懐菅先生」の七律がある。「去年深秋君未回。賞遊吾毎侍含杯。菅公祠畔随行野。羅漢寺中共上台。飛雁遙書雖易達。畳雲愁思奈難開。機中錦字若無惜。幸織満村黄葉来。」蘭軒は前年茶山の江戸にゐた間、始終附いて歩いて少酌の相手をしたと見える。詩は題して置かなかつたが、亀井戸の天満宮に詣でた。本所の五百羅漢をも訪うたのである。結では黄葉夕陽村舎のあるじに手紙の催促がしてある。

 然るに蘭軒の催促するをたず、茶山は丁度此頃手紙を書いた。即ち八月十三日の書で、前に引いた所のものが是である。「私も秋へなり、しゆん/\とうごき出候而状ども認候、おんうちうへ様、おさよどのへ宜奉願上候、(中略)江戸は今年気候不順に御坐候よし、御病気いかゞ御案じ申候。」此に前年を追懐した数句があつて、末にかう云つてある。「こんねんすゐへんへ出可申心がけ候処、昨日より荊妻てあしいたみ(病気でなければよいと申候)小児くわんくるひいでそろてどこへもゆかれぬ様子也、うき世は困りたる物也、前書くはしく候へば略し候、以上。」

 茶山がコムプリマンを託した御内上様が飯田氏益であることは明である。「おさよどの」の事は注目に値する。二十余通の茶山の書に一としておさよどのに宜しくを忘れたのは無い。後年の書には「おさよどのに申候、(中略)御すこやかに御せわなさるべく候」とも云つてある。

 さよは蘭軒の側室である。分家伊沢の家乗には、蘭軒に庶出の子女のあつたことが載せてあるのみで、側室の誰なるかは記して無い。只先霊名録の蘭軒庶子ぢよの下に母佐藤氏と註してあるだけである。武蔵国葛飾郡小松川村の医師佐藤氏の女が既に狩谷棭斎の生父に嫁し、後又同家の女が蘭軒の二子柏軒のせふとなる。此蘭軒の妾も亦同じ家から出たのではなからうか。其名のさよをば、わたくしは茶山のかんどく中より始て見出した。要するに側室は佐藤氏さよと云つたのである。

 既に云つた如くに、茶山の蘭軒とのまじはりは、前年文化紀元よりは古さうであるが、さよを識つてゐたことも亦頗る古さうである。想ふに早く足疾ある蘭軒は介抱人がなくてはかなはなかつたのであらう。此年の如きも詩集に一病字をだに留めぬのに、茶山は病気みまひを言つてゐる。かみに引いた文の前に、猶「春以来御入湯いかゞ」の句もある。後年の自記に、阿部家に願つて、「湯島天神下やくたうへ三めぐりまかりこす」と云ふことが度々ある。此入湯の習慣さへ既に此時よりあつたものと見える。介抱人がなくてはならなかつたゆゑんであらう。

 書中のしゆそくつうに悩む「荊妻」は、茶山の継室もんでん氏、菅三は仲弟猶右衛門の子要助の子三郎ゐじようで、茶山の養嗣子である。



その二十九編集

 此年文化二年十月二十四日に、蘭軒は孝経一部を手写した。二子常三郎の生れたのは此日である。孝経のすゑしもの文がある。「文化乙丑小春廿四日、据毛本鈔矣、斯日巳刻児生、其外祖父飯田翁(自註、名信方、字休庵)与名曰常三郎、恬。」常三郎は後父にさきだつこと四十五日にして早世する、不幸なる子である。

 頼家に於て山陽が謹慎を免され、門外に出ることゝなつたのは、此年五月九日である。

 此年蘭軒は二十九歳、妻益は二十三歳であつた。蘭軒のふたおや六十二歳の信階、五十六歳のそのも猶倶に生存してゐたのである。

 文化三年は蘭軒が長崎へ往つた年である。蘭軒が能く此旅を思ひ立つたのを見れば、当時足疾は猶軽微であつたものと察せられる。かんさい詩集に往路の作六十三首を載せてゐる外、集中に併せ収めてある「客崎詩稿」の詩三十六首がある。又別に「長崎紀行、伊沢信恬撰」と題した自筆本一巻がある。墨附三十四枚の大半紙写本で、「伊沢氏酌源堂図書記」「森氏」の二朱印がある。格内毎半葉十二行、行十八字乃至二十二字である。此書も亦、彼詩集と同じく、富士川游さんの儲蔵する所となつてゐる。

 蘭軒の長崎行は、長崎奉行の赴任する時に随行したのである。長崎奉行は千石高で、役料四千四百二俵を給せられた。寛永前は一人を置かれたが、後二人となり三人となり四人となり、文化頃には二人と定められてゐた。文化二年に職にゐたのは、肥田豊後守よりつね、成瀬いなばのかみまささだであつた。然るに肥田頼常が文化三年正月に小普請奉行に転じ、三月にまがりぶちいづみのかみけいろがこれに代つた。蘭軒は此曲淵景露の随員となつて途に上つたのである。序に云ふが、徳川実記は初め諸奉行の更迭を書してゐたのに、経済雑誌社本のいはゆる続徳川実記に至つては、幕府末造の編纂に係る未定稿であるから、記載極て粗にして、肥田曲淵の交代は全く闕けてゐる。今武鑑に従つて記することにした。

 蘭軒略伝には蘭軒は榊原かぞへのかみに随つて長崎に往つたと云つてある。文化中の分限帳をけみするに、「榊原主計、三百石、かがやしき」としてある。しかし文化三年の役人武鑑はこれを載せない。按ずるに榊原主計は当時無職の旗本であつたであらう。此榊原が曲淵の一行中に加はつてゐたかどうかは不明である。

 蘭軒は五月十九日に江戸を発した。紀行に曰く。

「文化丙寅五月十九日、長崎ぶゐん和泉守曲淵公に従て東都を発す。巳時板橋に到て公こやすみす。かたいじんここに来て謁見せり。余せうちやてんにあり。らいしぜん送て此に到る。午後駅を出てあづさは村にいたる。せうみん勘左衛門の園中一根八竿の竹あり。高八尺きよねのめぐり八寸許の新竹也。二里八丁蕨駅、一里八丁浦和駅、十一里十二丁大宮駅。亀松屋弥太郎の家に宿す。此日暑甚し。行程八里許。」

 蘭軒の父信階は板橋で曲淵を待ち受けて謁見したものと見える。

 頼子善、名はせんちくりと号した。蘭軒を板橋迄見送つた。富士川さんは「子善は蘭軒の家に寓してゐたのではなからうか」と云ふ。或はさうかも知れない。此人の山陽の親戚であることはほゞ察せられるが、其詳なることは知れてゐない。

 わたくしはこれを頼家の事に明い人々にたゞした。きざきかうしやうさんは頼遷は即頼公遷であらうと云ふ。公遷号は養堂、通称は千蔵である。山陽の祖父又十郎これきよの弟伝五郎これのぶの子である。坂本きざんさんも亦、らいかうの族であらうと云ふ。綱、字はしじやう、号はりつさい、通称はつねたで、公遷の子である。

 幸にしてわたくしの近隣には、山陽の二子しほうの孫久一郎さんの姻戚熊谷かねゆきさんが住んでゐるから、頼家に質して貰ふことにして置いたが、未だ其答に接せない。

 葌斎詩集には「到板橋駅作」がある。「生来未歴旅程遐。此日真堪向客誇。三百里余瓊浦道。従今不復井中蛙。」



その三十編集

 旅行の第二日は文化三年五月二十日である。紀行に曰く。「廿日卯時に発す。二里八丁上尾駅、一里桶川駅、一里卅町鴻の巣駅。うまのとき吹上堤を過ぐ。左は林近く田野も甚ひろからず。荒川の流遠くより来る。右は山林遠く田野至て濶く、溝渠縦横をしじやう樹間に隠顕して、ゑんたい城背に連続す。四里八丁熊谷駅。絹屋新平の家に投宿す。時正に申なり。れんしやうざんゆうこくじいたり、じふもつを看むことを乞ふゆるさず。碑図末に附す。此日炎暑昨日より甚し。行程九里きよ。」吹上堤を過ぐのしもに、「吹上堤一に熊谷堤ともいふ」と註してある。

 詩集に「熊谷堤」三首がある。其一。「熊谷長堤行且休。荒川遠出鬱林流。漁歌一曲蒹葭底。只見篙尖不見舟。」其二。「十里青田平似筵。濃烟淡靄共蒼然。遠村尽処山城見。粉堞樹間断又連。」其三。「無数連山映夕陽。如浪起来如黛長。轎夫顧我揚筇指。西是秩峰北日光。」

 第三日は五月二十一日である。紀行に曰く。「廿一日卯時に発す。二里卅丁深谷駅。駅を出て普済寺にいたる。二里廿九町本荘駅なり。くしろうんせんを訪。前月信濃善光寺へ行き、遇はず。二里新町駅。これよりかうづけなり。神奈川を渡る。川広六七町なれども、砂石のみありて水なし。むなしいけうかせるところあり。又少く行烏川を渡る。川広一町余、あさし。砂石底を見るべし。時正にびご。西方の秩父山にはかにくもりて、暗雲へいえんし疾電いるがごとし。しかれども北方日光の山辺は炎日赫々なり。川を渡て行こと半里きよ、天ます/\陰り、墨雲びけん迅雷驟雨ありて、廻風かごうごかせり。倉野駅に到て漸くる。すなはち日暮なり。林屋留八の家に宿す。行程九里許。」釧雲泉の家は当時今の児玉郡本荘町にあつたと見える。

 集に「渡烏川値雨」の詩がある。「溶々還濺々。方舟渡広河。村吏尋灘浅。棹郎訴石多。奇峰※〈[#「山/頽」、7巻-59-下-6]〉作雨。澄鏡暗揚波。蓑笠無遑著。漫趨数里坡。」

 第四日。「廿二日卯時に発す。一里十九丁高崎駅なり。郊に出て顧望するときは高崎城を見る。小嶺に拠て築けり。此郊はなはだ平坦にして、野川清浅、さろう岸を護し長堤村をめぐる。或渠流を引いてすゐたいを設く。幽事喜ぶべし。時正に巳。豊岡村を過ぐ。路傍の化僧一もくぐうを案上に安んじて銭を乞ふ。閻王なりといふ。其状鎧をかうぶぼくとうくわんし手にこつを持る、顔貌も甚おごそかならず。造作の様頗る古色あり。豊岡八幡の社にいたる。境中狭けれども一もりんなり。ばうじの鐘楼あり。一里卅丁板鼻駅、二里十六丁松井田駅なり。時正に未。円山坂に到る。茶釜石といふ者あり。大さ三尺許り。形れんくわのごとし。叩くときは声を発す。せきり及其声きんけいせきなり。うすひのせき。二里坂本駅。信濃屋新兵衛の家に宿す。暑はなはだしからず。行程八里余。」

 詩が三首ある。「早発高崎過豊岡村。駅市連荒径。村駄犢雑駑。繅車桑下舎。水碓澗辺途。遠岳朝雲隠。新秧昨雨蘇。未知行旅恨。探勝費工夫。経琵琶渓到碓冰関作。琵琶渓上路。曲々繞崔嵬。山破層雲起。水衝奇石洄。拠高孤駅在。守険大関開。詩就叩岩額。金声忽発来。宿阪本駅聞杜鵑。五更雲裏杜鵑飛。遠近啼過幾翠微。此去探幽今作始。遮渠不道不如帰。」



その三十一編集

 第五日は文化三年五月二十三日である。「廿三日卯時に発す。駅を出れば直に碓氷峠のはね石坂なり。上ること廿四丁、はんくわい屈曲して山腹岩角を行く。石塊ぐわん/\大さ牛のごとくなるもの幾百となく路に横りがいそばたつ。時すでに卯後、残月光曜し山気冷然としてはだへとほれり。撫院をはじめ諸士歩行せし故、路険に労して背汗しふ/\たり。すなはち撫院きぬひとつぬぎたり。忽ち岩頭に芭蕉の句碑あり。一つ脱で背中に負ぬころもかへといふ句なり。古人の実境を詠ずる百歳の後合する所あり。四軒茶屋あり。(此まで廿四丁也。)わらび餅を売る、妙なり。又上ること一里きよ、山少くおもむろに石も亦少し。路傍はさうもうにて、いたゞきとくせり。ほくみし(此地方言牛葡萄)しやじんつりがねさうしようまはくくわひつ様のもの)りうきど(おとぎりさう)蘭草(ふぢばかま、東都は秋中花盛なれども、此地は此節花盛なり、蘭の幽谷に生ずる語証とすべし、世人は幽蘭をもつて真蘭とす、幽蘭いかでかかくのごとき地に生ずべけん)の類至て多し。やまなかといふ所にいたる。へきたりとうろがいこくみな眼下指頭にあり。東南のかたひらけて武蔵下野上野、筑波日光の諸山を望む。今春江戸の回禄せしときも火光を淡紅にあらはせりと、ちやてんの老婦語れり。日本紀にやまとたけのみことあづまを望れし事あり。此所ならん。又山をうえいして上る。大仁王のやしろにいたる。喬木数株あり。一坂こゆれば熊野社なり。社庭に正応五年の鐘あり。社前にせきしやりん一隻を造れり。わたり一尺五六寸なり。往年此むらのをさ社前の石階を造りてなれり。名を後世にのこさんことを欲してこのものを造りおけり。すなはち其家の紋なりと社主かたる。門前に上野信濃国界の碑あり。半里下山して軽沢の駅にいたる。蕎麦店に入りて喫するに其清奇いふべからず。しかれどもとうしやう渋苦惜むべし。一里五丁沓掛駅。浅間岳を間近く望む。此とき巓に雲えんえいして烟見えず。一里三丁追分駅。一里十丁小田井駅。一里七丁岩村田なり。駒形明神にいたる。駒形石全くれいとうせきの類なり。一里半塩灘駅。大黒屋義左衛門の家に宿す。主人少く学を好む。このごろ佐藤一斎のてつ佐藤ばいはといふもの此に来て教授す。天民大窪酔客も亦来遊すといふ。此日天赫々なれども、山間の駅ゆゑ瘴気冷然たり。行程八里きよ。」碓氷峠の天産植物に言及してゐるのは、蘭軒の本色である。北五味子は南五味子のびなんかづらと区別する称である。砂参は鐘草とあるが、今はつりがねにんじんと云ふ。桔梗科である。つりがねさうは次の升麻と同じくまうこん科に属して、くさぼたんとも云ふ。劉寄奴は今菊科のはんごんさうに当てられ、おとぎりさうは金糸桃科の小連翹に当てられてゐる。蘭軒は前者を斥してゐるのであらう。

 詩が二首ある。「碓氷嶺。碓氷危険復幽深。五月山嵐寒透襟。蘿掛額般途九折。雲生脚底谷千尋。顧看来路人如豆。仰望前巓樹似簪。欲訪赤松応不遠。群羊化石石成林。望浅間岳。信陽第一浅間山。劣与芙蓉伯仲間。岳勢肥豊不危険。焔烟日日上天闤。」

 第六日。「廿四日卯時に発し、てうむはれんとするとき、筑摩川の橋を渡る。此より浅間岳を望む。烟ののぼる焔々たり。此川おほいなれども水至て浅し。礫砂至て多し。万葉新続古今雪玉集みなさゞれ石をよみたり。古来よりのれきせんと覚ゆ。廿七町八幡駅。卅二町望月駅。城光院にいたる。一里八丁蘆田駅。一里半長窪駅也。下和田に至て若宮八幡のやしろあり。此社前に小渠ありて九尺きよの橋を架たり。其上に屋根をふき欄干をつけたり。世人和田義盛の墳なりといふ碑に天正十九年の字あり。実は大井信定の墓なり。上和田駅風越山しんぢやうじといふ禅寺のまもるところにして、寺後に信定の城墟あり、石塁今に存といふ。二里上和田の駅。比野屋又右衛門の家に宿す。(信定のこと主人の話なり。寺は余ゆいて見る。)此地蚊なし。かやを設ず。暑亦はなはだしからず。行程六里許。」信定は武石大和守信広の二男で、始て和田氏を称した。武石氏も和田氏も、皆いはゆる大井党の支流であつた。和田氏は武田晴信に滅された。蘭軒は晴信のすゑであつたので、特に信定の菩提所をも訪うたのであらう。

その三十二編集

 第七日は文化三年五月二十五日である。「廿五日卯時に発す。和田峠を過ぐ。山気至て冷なり。水晶花(卯の花)ししうきう(あぢさゐ)蘭草花開たり。さいしん(加茂葵)とかう(ひきのひたひ草)多して上品なり。なかんづくかこさう(うつぼ草、全く漢種のごとし)くわんざう(わすれ草、深黄色甚多し)最多し。満山に紫黄相まじりて奇麗繁華限なし。喬木一株もなく亦鳥雀なし。(これよりまへうすひ峠その外木曾路の山中鳥雀いたつてまれなり。王安石一鳥不鳴山更幽の句めうをおぼゆ。)谷おほくありて山形甚円くかざんのごとし。下諏訪はるみやに詣り、五里八丁下諏訪の駅に到る。温泉あり。綿の湯といふ。かみなかしもわかつている。上の湯はせいしやにして臭気なし。これを飲めば酸味あり。上の湯の流あまりをたむるを中といひ、又それにつぐを下といふ。けうふたじの類浴する故くわいだくなり。此湯疝ある人浴してよく治すといへり。〔此辺温泉おほし。こゆといふあり。せうさうによし。たんぐわの湯といふあり。性熱なり。小瘡をうれふるもの小湯に入まさに治んとするとき此湯にいる。又上諏訪山中に渋の湯といふあり。はなはだ温ならず。しかれどもりうわうの気強して性熱なり。一口のむときはたちまちしやりす。松本城下に浅間の湯といふあり。綿の湯と同じ。疝を治す。山辺の湯といふあり。疝癪の腹痛によし。至てぬるしといふ。〕下の諏訪秋宮に詣り、田間の狭路をすぐ。せいたう脚を掩ひ鬱茂せり。せきせんあり。急流さう/\としてに通ず。諏訪湖水面漾々たり。塩尻峠を越え、三里塩尻駅。堺屋彦兵衛の家に投宿す。げでう兄弟迎飲す。(兄名せいぎよくあざなはしゆくたくじゆせんとがうす、弟名せいかん、字きふしゆんたいとがうす、松本侯臣、兄弟共泉豊洲門人なり。)家居頗富。書楼薬庫山池泉石尤具す。薬方両三を伝。歓話夜半に及てかへる。此日暑甚。行程八里半きよ。」細辛はアサルムの数種に通ずる名だから、此文はかもあふひの双葉細辛を斥してゐるのであらう。杜衡はかんあふひか。うつぼぐさはぢよしう夏枯草か。

 詩。「和田嶺。一渓渓尽復巌阿。路自白雲深処過。薬艸如春花幾種。黄萱最是満山多。諏訪湖。琉璃鏡面漾新晴。粉堞浮沈高島城。遙樹如薺波欲浸。低田接渚緑方平。漁船数点分烟影。駅馬一行争晩程。繚繞湖辺千万嶺。芙蓉雪色独崢嶸。宿塩尻駅下条兄弟迎飲。嘗結茗渓社。今来塩里廬。山泉宜煮薬。岩洞可蔵書。爽籟涼生処。旧遊談熟初。暑氛与客恨。酔倒一時虚。」

 第八日。「廿六日卯時に発す。一里三十丁、洗馬駅。三十丁本山駅なり。此駅前月火災ありてくわうくわいなり。これより木曾路にかかる。此辺に喬木おほし。ゆく先も同じ。崖路を経堺橋をすぎて二里熱川駅。一里半奈良井駅。午後鳥居峠にいたる。御嶽山近く見ゆ。白雪いたゞきを覆ふ。けうふいふ。御嶽山上に塩ありと。いはゆる崖塩なるべし。一里半藪原駅。二里宮越駅。若松屋善兵衛の家にやどる。此日暑甚し。三更のとき雨降。眠中しらず。行程九里きよ。」



その三十三編集

 第九日は文化三年五月二十七日である。「廿七日卯時に発す。てうむ深し。郊辺小沢といふ所ちやてん(泉屋善助)のかたはらせうじゆりを囲ていしづくりしかんの墓あり。墓表隷字にてくせきせき先生之墓と題す。碑文紀平洲撰せり。一里半福島駅にいたる。関庁荘厳なり。桟道の旧跡を経て新茶屋といふに到る。屋後に行きて初てしちうを見たり。竹箆にはあらず。広一寸弱長四五寸の片木なり。二里半あげまつ駅にいたる。りんせん寺は駅路けうばくてんかんより二丁きよの坂を下りている。此書院に古画幅を掛たり。広一尺一二寸たけ三尺許装潢もふるし。一人物きんを頂ききうたり。舟に坐して柳下に釣る。欵なし。筆迹松花堂様の少く重きもの也。寺僧うらしまがこかたなりといふ。全くげんしりようの図なり。庭上に碑あり。碑表は石牀先生之墓と題す。三村三益、あざなはきこんといふ木曾人の碑なり。ゆうじよしようゆう撰するところなり。をのたきみの茶屋にこやすみして三里九丁須原の駅。大島屋唯右衛門家に投宿す。時已未後なり。此辺さんさうぼく(小なつめ)蔓生のわうぎ(やはら草)多し。民家にりろ(棕櫚草)をううるもの数軒を見る。おほよそ信濃路水車おほし。此辺尤多し。又一種すゐしよあり。岩下或は渓間に一せうおくを構臼をながえぎね(大坂ふみきね也)を設け、人のふむべき処にくぼみをなして屋外に出す。泉落て凹処降る故、たちまち水こぼる。こぼれて空しければしよとう降りて米穀ける也。常勝寺にいたる。義清奉納の大鼓あり。(図後に出す。)此日暑甚し。行程八里半きよ。」

 小沢に葬られた石作駒石は名を貞、字を士幹と云ふ。通称は貞一郎である。尾張家のふよう山村氏に仕へた。山村氏は福島を領していはゆる木曾の番所の関守であつた。駒石は明和の初に、伊勢国桑名でなんぐうたいしうに従学した。即ち蘭軒の師泉豊洲のあにでしである。寛政八年正月十四日に五十七歳で歿した。時に大湫の歿後十八年で、豊洲は三十九歳になつてゐた。駒石は晩年山村氏のためにいふせいつかさどつて、頗る治績があつた。その二宮尊徳に似た手段は先哲叢談続編に見えてゐる。序に云ふ。叢談に此人のあざなを子幹に作つたために、世に誤が伝へられてゐた。蘭軒は平洲の墓誌銘を目睹して、士幹と書してゐる。士幹を正となすべきであらう。

 三村三益、名はぼく、字はきこん、一に道益と称した。山脇東洋の門人にして山村氏の医官である。木曾の薬草は始て此人によつて採集せられた。宝暦十一年に六十二歳で歿した。三益は採薬に土民を役したから、藜蘆を植うる俗の如きも、或は此人の時に始つたのではなからうか。

 臨川寺の僧が厳子陵の図を浦島が子となしたのは、木曾の寝覚の床に浦島が子のてうたいがあると云ふ伝説に拠つて言つたのであらう。

 紀行の此辺よりしもには往々欄外書がある。中には狩谷棭斎森きゑん等の考証もある。惜むらくは製本のために行首一二字を截り去られた所がある。枳園の筆迹と覚しき水杵の考証の如きも其一である。わづかに読み得らるゝ所に従へば、水杵は中国の方言にそうづからうすと云ふ、せいけい叢語のせんしようの類だと云ふのである。

 村上義清が常勝寺に寄附したと云ふ大鼓は、図後に出すと註してあつて、其図は闕けてゐる。前の蓮生寺の碑以下皆さうである。これに反して水杵の図が格上に貼つてあつて、方言どつたりと記してある。

 詩。「早発宮腰駅到須原駅宿。其一。朝来旅服染青嵐。山似重螺水似藍。途莫敢経矸犬谷。底何可測斬蛇潭。関門厳粛松千鎖。岳脊昂低雪一担。忽捨肩輿誇勝具。卭莱叱馭且休談。其二。険路絶将懸桟通。灘深滝急激声雄。臨川古寺僧迎客。看瀑孤亭嫗喚童。家畜猪熊郷自異。樹遮日月影将空。偶与帰樵行相語。自是葛天淳朴風。其三。小憩茅檐問里程。吹烟管歛竹筒行。蚕簾斉曬横斜架。泉杵時聞伊軋声。碧蘚開花岩脚遍。黄蓍作蔓石頭生。晩陰投宿山中駅。蠅子為群縈菜羹。」



その三十四編集

 第十日は文化三年五月二十八日である。「廿八日卯時発。一里三十丁野尻駅。木曾川せきがんえいざんこう盛に開く。あいはんすることうゝるがごとし。わがふしゆを買ふ。(酒店和合屋もくゑもんなづく。)二里半三との駅。一里半妻籠駅。二里馬籠駅。扇屋兵次郎家に宿す。苦熱たへがたし。行程七里半きよ。」映山紅はやまつつじである。花木考に「山躑躅一名映山紅」と云つてある。

 詩。「野尻駅至三富野途中。谷裏孤村雲裏荘。僻郷却是似仙郷。餻摶粉蕨甘兼滑。酒醸流泉清且香。板屋畏風多鎮石。桑園防獣為囲墻。詩吟未満奚嚢底。已厭山程数日長。雌雄瀑布。瀑泉遙下翠嵐中。迸勢争分雌与雄。誰是工裁長素練。十尋双掛石屏風。」

 第十一日。「廿九日卯時に発す。とまがり峠をすぐ。美濃信濃の国境なり。一里五丁落合駅。よさかふくわんありて一里五丁中津川駅なり。此駅に一老翁の石をうるあり。白黒石英の類なり。其いづる所を問へば、此国苗木城西二里きよ水晶が根といふ山よりとり来るといふ。二里半大井駅。十三峠をのぼる。此れいはなはだ険ならず、けいなくこくあり。石も少してあかきはにつちなり。木曾路のごとく山腹の崖路にあらず、山頭の道なり。松至て多く幽鬱の山なり。三里半おほくて駅。小松屋善七の家に宿す。午後風あり涼し。かみなる。雨ふらず。行程八里半余。」

 詩。「巻金村。離信已来濃。行行少峻峰。望原莎径坦。臨谷稲田重。五瀬雲辺嶺。七株山畔松。炊烟人語近。半睡聴村舂。」五らいはいせである。「此地遠望勢州之諸山、翠黛於雲辺」と註してある。

 第十二日。「六月ついたち卯発。琵琶嶺をすぎ山を下れば松林あり。右方に入海のさまにて水滔々たり。諸山の影うつる。海の名をけうふに問へば谷間の朝霧なりと答ふ。はじめて此時仙台政宗の歌をときえたり。(仙台政宗の歌に、山あひの霧はさながら海に似て波かときけば松風の声。)一里三十丁ほそくて駅。此近村に一のみの清水といふあり。いうえんつまびらかならず。然ども鬼のいはや、鬼の首塚等の名あれば、好事者鬼といふより伊勢もの語にひきあてゝつけし名ならんか。三里御嶽駅。一里五丁伏見駅。太田川を渡り二里太田駅。芳野屋庄左衛門の家に宿す。熱甚。しかれども風あり。此駅に到て蠅大に少し。蚊は多し。此夜かやを設く。行程七里きよ。」

 第十三日。「二日卯発し駅をいづれば、渓水浅流の太田川にながれ入る所あり。方一尺許の石塊をならべてその浅流を渡る。直にのぼる山すなはち勝山なり。一山みな岩石也。きりて坂となし坦路となしゝものあり。窟の観音に詣る。佳境絶妙なり。河幅至てひろく、水心に岩石しうしようし、はんしようあいじゆううるがごとく生ず。水勢の石に激する所あり。淵をなして蒼々然たる所あり。浅流底砂を見る所あり。美濃山中の勝地ならん。二里鵜沼駅にいたる。犬山の城見ゆる。四里八丁加納駅。一里半河渡駅。ぬし屋久左衛門の家に宿す。気候前日のごとし。行程七里半余。」

 詩。「観音阪。観音山畔望。渓水濶且奇。源自東西会。瀬因深浅移。小航工避石。壊岸却成逵。只見宜玄対。愧余未忘詩。」



その三十五編集

 第十四日は文化三年六月三日である。「三日、此日は南宮山にいたらんとして未明撫院にさきだつて発せり。一貫川を経て一里六丁みえでら駅に到る。ろく川を渡り大垣堤をよぎるとき、旭日初て明に養老山望前に見ゆ。二里八丁赤坂の駅に到る。青野原のかたはらを経てたるゐ駅なり。駅中に南宮一の鳥居あり。七八丁入り社人若山八兵衛といふものをみちびきとして境内を歴覧す。空也上人建るところの石塔みかげ石字なし。図巻末に出す。仏師春日の造る狛犬はずゐじんもんの後にあり。古色朴実にして猛勢怖るべきがごとし。左方の狛犬玉眼一隻破たり。本社の内にも狛犬あれども新造のものにして観るに足らず。全く春日の作を摸するものと思はる。鐘あり。銅緑を一面に生じて古色なり。銘なし。しやはうに五重の石塔婆あり。高さ三尺七八寸苔蘚厚重して銘かつてよめず。(りたうよくも見たり。)図後に出す。鉄塔あり。古色実に五百年前のもの也。銘よみうれども鉄衣あつき故摺得ず、やうやく年号のみすりたり。往年は屋前も作らずありしを中川飛騨守(勘定奉行たりしとき)検巡のとき命じて作らしむといふ。好古の意見つべし。銘は板に書し屋上に掲たり。此より山中奥の院は十八丁ありといふ故ゆかずして駅へ帰りければ撫院已に駅長の家に来れり。一里半関が原の駅にいたる。駅長の家に神祖陣営の図ををさむ。駅長図をひらいゆく/\委細にとけり。駅中に土神八幡の祠あり。これは昔年よりありしを慶長の乱に西軍これを焼けり。後元和中越前侯たゞなほ(一はく)再脩せり。此所神祖ぎよたふの迹なり。土人の説に此より北国道へ少し入りて松間なりといふ。旧図にあはず。当時石田の意は青野原にて決戦と謀しを、神祖不意に此処に出て三方の山に軍陣を列し、関が原へ西軍を包がごとく謀りし故西軍大に敗せりといふ。首塚二たいあり。数里にして不破関の迹なり。今に土中よりましうこぐわいづるといへり。こうのう両国境を経一里柏原駅。一里半さめがゐ駅。虎屋藤兵衛の家に宿す。暑尤甚し。行程九里きよ

 空也上人の建てた石塔も、五重の石塔婆も、後に図を出だすと云つてあるが、其図は佚亡してしまつた。中川勘三郎たゞひで、叙爵して飛騨守と云ふ。寛政九年二月十二日に長崎奉行より転じて勘定奉行となり、こくようかたを命ぜられた。まがりぶち甲斐守けいぜんの後をいだのである。尋で六月六日に忠英は関東の郡代を兼ねた。此年正月に至つて、大目附指物帳鉄砲改に転じた。南宮山古鐘のために屋舎を作らしめたのは此忠英である。

 詩。「関原駅。村長披来御陣図。平原指点説須臾。転知黎庶帰明主。遂是奸雄成独夫。首馘千年䨇塚在。祲氛万里一塵無。行行今拝山河去。酒店茶亭満駅途。不破関古址。関門陳迹旧藤河。此境先賢佳句多。林裏荒簷三両戸。昇平今不復誰何。江濃界。落日村墟涼似秋。農人相伴過青疇。帰家仍隔疎籬語。便是江濃分二州。」

 第十五日。「四日卯時に発し一里番場駅。蓮華寺に詣り、午後すりばりれい望湖堂に小休す。数日木曾山道の幽邃にあきし故此にきたり湖面滔漫を遠望して胸中のうつくわい一時消尽せり。時に天曇りつきのでさき竹生島模糊として雨色を見れども、雨足過行て比良山を陰翳し竹生島実に画様なり。(人ありいはく。琵琶湖はたくといふべし。にあらず。余あんずるに震沢を太湖と称するときは湖といふも妨なし。)一里六丁とりゐもと駅。此辺に床の山あり。(往年朝妻舟の賛に床の山を詠ぜしは所ちかき故入れしなり。此に到て初てしる。)一里半高宮駅。二里えちかは駅なり。松原あり。片山といふ山を望む。二里半むさ駅。仙台屋平六の家に宿す。此日午前後晴。晩密雲あめふらずかみなる。暑甚し。行程八里許。」

 此日の記事中深艸元政を引いた一節があつたが、棭斎が其誤を指擿してゐるから削つた。棭斎は又蘭軒が蓮花寺弘安年間の古鐘を見なかつたのをうらみとしてゐる。

 詩。「磨針嶺。磨嶺旗亭巌壑阿。望湖堂上観尤多。漁村浦遠疑無路。洲寺市通還有坡。一掃雲従仙島起。暫時雨逐布帆飛。西行瓊浦逢清客。欲問洞庭囲幾何。」



その三十六編集

 第十六日は文化三年六月五日である。「五日五更に発す。三里半守山駅。守山寺を尋ぬ。一里半草津駅。うばがもちちやてんに小休す。勢田橋西茶店にて吉田大夫に逢ふ。三里半六丁大津駅。牧野屋熊吉の家に宿す。駅長の家にして淀侯の侍医留川周伯といふ者に逢ふ。森養竹のしよしきなりといふ。此日熱甚し。行程八里半きよ。」

 詩。「粟津原。戦場陳迹望湖山。荒冢碑存田稲間。十里松原途曲直。柳箱布幞旅人還。」松原と云ひ、柳箱と云ふ、用ゐ来つて必ずしも眼をがいせず。

 第十七日。「六日寅時に発し四の宮川橋十禅寺橋を経過す。みな小橋なり。十禅寺門前を過ぎ追分に到る。(柳緑花紅碑をたづぬ。夜いまだあけざる故尋不得。)矢弓茶店(奴茶屋といふ、片岡流射術の祖家なり)に小休す。数里行て夜まさにあけたり。うばふところより日の岡峠にいたる。かう高からず。けあげちややに休す。白川橋三条大橋三条小橋を経て押小路柳馬場島本三郎九郎の家に至る。(長崎宿というて江戸の長崎屋源右衛門大阪の為川辰吉みな同じ。)日正辰時なり。撫院はてうせり。余は寺町御池下る町銭屋総四郎を訪ふ。(姓ささき、名しゆんかうちくはうろうとがうす。)主人家に在て応対歓晤はなはだかなへり。古物数種を出して観しむ。所蔵の大般若第五十三巻零本巻子なり。神亀五年の古鈔跋文中に長王の二字あり。又古鈔零本玉篇一本辺格上短下長、(延喜式図書令の度なり)その裏を装修せしも古鈔本の仏経なり。「治安元年八月廿八日 以石泉御本写之已了 康平六年七月 於平等院 奉受此経 仏子快算」とあり。右くだんの年号にて玉篇の古鈔知べし。古鈔孝経七八種あり。みな古文なり。一部後宇多帝の花押あり。尤珍貴とすべし。又類編群書画一元亀丁部巻之二十一の古鈔零本金沢文庫の印あるものあり。唐代所著のものと見ゆ。又白氏文集巻子零本三巻会昌□年鈔僧えがく将来によりて書する本あり。亦金沢文庫の印あり。又太子伝全本「永万元年六月十九日書 借住円舜」とあり。又今出川内大臣はるすゑ公(秀頼同代人)帯する所の木魚刀一あり。皆古香馥郁たるものなり。且語次にいふ所の書数種なり。新撰六旬集占病占夢の書なり。跋文に「斯依滋兵川人貞観十三年奉勅撰進爾甲撰進之」とあり。又三帰翁十巻といふものあり。其書ありといへども百味作字の一巻なきときは薬名考べからずといへり。又弘法大師将来の五嶽真形図あり。普通の図と異なり。又篁公書する所の仏書あり。無仏斎とうていかんの蔵するもの也。其古物珍貴しるべし。又日本国現在書目ありといふ。又医書一巻元亀の古鈔本にてすゑにいはく「耆婆宮内大輔施薬大医正五位上国撰」とあり。日已未時。さりて智恩院に行き祇園の茶店中村屋に至て休す。(豆腐あぢはひ尤よし。他ざつかう箸をくだすべからず。)樹陰清涼大に佳なり。此日祭神日の前一日なり。しかれども甚雑喧ならず。八坂にゆき塔下を経て三年坂を上る。はんそくみなえうこなり。烟影ふんでうせり。うばだう経書堂の前をすぎ清水寺門前の町に至る。酒店多し。みな提燈に酒肴の名を書して竿上に掲ぐ。清水寺中を歴観し台上に休してかへる。蓮花王院方広寺に行く。大仏殿災後いまだ経営なし。只洪鐘のみ存ぜり。耳塚を経て寺門前茶店に至て撫院を待。まさに申後なり。薄暮撫院来る。遂に従て行く。伏見街道に至れば已に夜なり。三峰稲荷ふぢのもりの前をすぎ墨染深草の里を経、初更後伏見布屋七兵衛の家に宿す。伏見の境は東都江戸橋四日市の地と家居地勢頗同じ。此日暑甚しからず。旅家女商来る。はんけん蠅のごとし。行程九里許。」



その三十七編集

 是日に蘭軒はけいに入り京を出でた。一行は敢てえんりうすることをなさなかつたのである。奴茶屋の条に、片岡流射術の祖と云つてあるのは、片岡平右衛門家次の一族を謂つたものであらうか。そのつまびらかなることはわたくしの知らざる所である。

 蘭軒が京都銭屋総四郎の許でけみした古書の中に、治安中の鈔本玉篇がある。蘭軒は其裏を装修するに古鈔仏経を以てしてあると云つた。然るに狩谷棭斎が欄外に下の如くに書してゐる。「ばうし云。背面の仏経は玉篇の零本を料紙にして写したるものなり。巻子儒書の背に仏書あるもの皆これ也。仏書の故紙を以て装修せしにはあらず。」

 同じ銭屋の蔵本の中に又画一元亀の零本があつた。蘭軒はそれを「唐代所著のものと見ゆ」と云つた。棭斎は此にも筆を加へて、「画一元亀は趙宋の書にして唐代のものにはあらず」と云つてゐる。画一元亀は多く舶載せられなかつた書である。徳川家康が嘗て僧某のこれを引いたのを聞いて林羅山にたゞした。羅山はそんな書は無いと云つたさうである。いかに博識でも、そんな書は無いなどと云ふことは、うかと云はれぬものである。

 今出川内大臣晴季は左大臣きんひこの子で、豊臣秀吉の密友になつた。秀吉をして関白を奏請せしめたのは此人である。永禄四年女婿秀次の事に坐して北国にたくせられ、慶長元年赦されて還り、元和三年七十九歳で薨じた。

 詩は七律一、五律二、七絶一が集に載せてある。今其七律を録する。「入京。家々櫛比且豊饒。千載皇京属聖朝。仙署客鳴珠履過。青雲路向紫宸遙。東西䨇寺金銀閣。上下長橋三五条。観得都人風化好。陌頭来往不相驕。」

 第十八日は文化三年六月七日である。「七日卯時伏見舟場より乗船、撫院に侍す。淀の小橋をすぐ。てうむいまだはれず。水車の処に舟をよせて観たり。ゆき/\て右淀の大橋を見、左に桂川の落口を見て宮の渡の辺に到て、きりはれ日光あきらかに八幡の山ひらかたの民家一覧に入て画がけるがごとし。淀川十里の間あしかやの深き処、浅瀬の船底石にる処、深淵の蒼みたるところ、堤に柳ありて直曲なる処、やとのせばき処、遠き山見るところ、近き村ある処、彼此観望する間、未後大坂城を前に望て、遂にくわしよまちの河岸に著く。撫院は為川辰吉の家に入る。余は伏見屋庄兵衛の楼上に寓す。此楼下は大河に臨み、舟に乗来し処、てんま橋天神橋難波橋より西は淀屋橋辺を望て、遊船しやうくわう日夜喧嘩なり。夜に入ば烟火戯光映照波絃歌相和。ことに涼風満楼ぶんよう絶てなし。数日旅程の暑炎鬱蒸盪瀉し尽せり。此日天晴。」

 詩。「暁下淀河。其一。舟舷置棹順流行。離岸茫々傷客情。数叫杜鵑何処去。暁雲深籠淀河城。其二。疎鐘渡水報清晨。山翠雲晴濃淡新。雞犬声聞蘆荻外。先知村市近河浜。其三。波光泛日霧初消。次第行過大小橋。猶有篷舟泊洲渚。折来枯柳作薪焼。浪華。其一。豊公旧築浪華城。都会繁華勝帝京。民俗猶余雄壮気。路傍攘臂動相争。其二。縦横廛市夾河流。商舸来従数十州。大賈因能処奇貨。驕奢時有擬公侯。」

 第十九二十の両日は、蘭軒が大阪に留まつてゐた。「八日土佐堀の藩邸に到る。中根五右衛門を訪。帰路に心斎橋街に行き書肆を閲す。凡三四町書肆しつぴす。塩屋平助、秋田屋太右衛門の店にて購数種書。伏見宇兵衛来て秋田屋に家居せり。両本願寺へ行き道頓堀を経過して日暮かへる。此日晴。」

「九日田沼玄仙雲林院玄仲を訪不遇。日薄暮玄仲来。年六十二。謙遜野ならず。此日暑甚し。」



その三十八編集

 第二十一日は文化三年六月十日である。「十日辰後に客舎を発し、難波橋を渡りてんまの天神へいたり、巳時じふさう村に到る。此地平遠にして青田広濶なり。ろうほの中数処にけつかうせいを施て灌漑の用をなす。十䨇川を渡り尼崎城下をすぐ。此地市街城をめぐり二十余町人家みなぐわをくにして商賈多く万器乏しき事なし。人喧都下の郭外に似たり。五里西宮駅。上田屋平兵衛の家に宿す。時いまだひつじならず。西宮に到りてかみをはいす。世人ひるこのみことを称すれども祭神中央は天照太神宮にして左素盞嗚尊、右蛭児尊なり。拾玉集慈鎮の歌にて只蛭児を称するのみ。下馬碑あり。関東みな牌なり。此碑となす亦奇也。宝多山六湛寺を尋ぬ。康永中虎関禅師の開基なり。古鐘あり。銘曰。「摂津国西成郡舳淵荘盛福寺鐘文永十一年甲戌四月九日鋳。」いづれの頃此寺に移ししか寺僧に問ども不知。あまり大鐘にあらず。わたり一尺八寸七分きよ厚二寸許緑衣生ぜり。此日寺中書画を曝す日にて蔵画を見たり。大横幅著色寿老人一くわい寺僧てうでんすゑがくところなりといへども新様にして疑ふべし。しかれども図式は頗奇異なり。まつたく摸写のものならん。名識印章並になし。じゆふく二掛一対墨画十六羅漢明兆画とありて印なし。飛動気韻ありて且古香きくすべし。殿司の真迹疑べからず。駅長の家烏山侯霞崖の書せる安穏二字をばうす。此日暑甚し。行程五里許。」

 詩。「已発浪華将就山陽道到十䨇村作。其一。朝嵐欲霽半蒼茫。村市人声未散場。菜畝千塍青似海。桔槹数十賽帆檣。其二。六月凌霄花政開。暑炎如燬起塵埃。行程未半西遊道。已是離郷廿日来。」

 第廿二日。「十一日卯時に発す。駅を離れて郊路なり。うはら住吉祠に詣り海辺の田圃をる。村中醸家おほし。もくけんきよくちよくして水を引こと遠きよりす。一望の中武庫摩耶の諸山近し。生田祠にいたる。此日祠堂落成せんしんす。社前の小流生田川と名く。(古今六帖に出。)荷花盛に開く。門を出桜の馬場の半より左曲す。坂本村田圃を過。楠公碑を拝し湊川をすぐ。水なし。五里兵庫駅。六軒屋定兵衛の家に休す。日まさになり。尻池村をすぎたひらのともあきらのはかけんもつよりかたのはか平通盛墓を看る。かるも川の小流を経て東須磨に到る。いなば薬師に詣り西須磨をすぐ。西須磨の家毎軒竹簾を垂る。平家内裏を遷しし時の遺風なりといへり。此近村大手村、けいび山勝福寺といふ寺に文翰詞林三巻零本ありとさゝきしゆんかうかたりたり。此日尋ることを不得遺憾といふべし。須磨寺にいたる。しやうやさん福祥寺といふ。此亦下馬碑あり。蔵物を観る。辨慶の書は、さうこうてんぼくのものゝごとし。源空の書は東都屋代輪池蔵するせんぢやくしふの筆跡ににたるがごとし。敦盛の像及甲冑古色可掬。大小二笛高麗笛古色なり。寺の後山一二三のたにをすぎ海浜に出て敦盛塔を看。(一説平軍戦死合墓なりといふ。)五輪石塔なかばうづもれたるなり。此海浜山上まんけいし多し。花盛にひらく。界川に到る。是摂播二国の界なり。たるみの神祠を拝し遊女冢をすぎちつぼのをかに上つて看る。烏崎舞子浜山田をすぎ五里大蔵谷駅。樽屋四郎兵衛の家に宿す。此日暑尤も甚し。此夜月明にして一点の雲なし。兼松弥次と荒木一次とを拉して人麿祠の岡に上る。路にたゞのりのはかあり。かみに一大松あり。田間の小路より上るときは大海千里如銀岡上の松間清月光を砕く。石階を下ること三四町にして数町の松堤あり。堤に上りて下れば即海辺の石砂平遠なり。すべて是あかしの浦といふ。石上に坐するに都て土塵なし。波濤来りて人を追がごとし。海面一仮山のごときものは淡路島なり。夜帆往来して島陰より出るものは微火揺々たり。島前をすぐるは掌中に見るがごとし。数十日炎暑旅情風月に奪ひ去らる。夜半に及で帰る。行程十里許。」

 此日の詩には楠公墓の七律一、須磨の五律二、舞子の五律一、赤石の五律一がある。今須磨舞子赤石の五律おの/\一を録する。「須磨浦。石磯迂曲路。行避怒濤涵。嶺続東西北。谷分一二三。古書尋寺看。往事向僧談。恃険知非策。平軍遂不戡。舞子浜。数里千松翠。奇枝歴幾年。雨過藍島霽。濤洗雪砂旋。曬網張斜日。飛帆没遠天。不妨村酒苦。一酌即醺然。宿大蔵谷駅溽暑至夜猶甚納涼海磯乃赤石浦也。駅廬炎暑甚。乗月到長湾。銀界明天末。竜鱗動浪間。連檣遮漢影。一島犯星班。涼歩多舟子。斉歌欸乃還。」



その三十九編集

 第二十三日は文化三年六月十二日である。「十二日卯時に発す。あかし総門を出て赤石川を渡りくわうじ村を経て一里半大久保駅、三里半加古川駅にいたる。一商家に小休す。駅吏中谷三助(なはせいあざなはゐいんえいきとがうす、頼春水の門人なり)来訪、頼きやうへいの書を達す。此駅いぎよあじはひなり。方言牛の舌といひ又略して舌といふ。加古川を渡りあみだじゆく村をすぎ六騎武者塚(里俗喧嘩塚)といふを経て三里ごちやく駅に至り一里姫路城下本町表屋九兵衛の家に宿す。庭中より城楼直起するがごとし。ひとかまびすしく器用甚備。町数八十ありといふ。此日暑甚し。夜微風あり。行程九里きよ。」いはゆる鮧魚はリノプラグシアであらうか。

 第二十四日。「十三日早朝発す。いかるがに到て休。はんきう寺あり不尋。三里半正条。半里片島駅。藤城屋六兵衛の家に休。日正午也。鶴亀村をすぎ宇根川を渡り二里宇根駅、紙屋林蔵の家に宿す。此日暑甚からず。行程六里許。」

 第二十五日。「十四日卯時に発す。大山峠を経て三里みついし駅。中屋弥二郎兵衛の家に休す。是より備前なり。二里片上駅。京屋庄右衛門の家に宿し、夜兼松弥次助と海浜ひるこのしに納涼す。此地山廻て海入る。しかして山みな草卉にして木なし。形円にして複重す。山際をすぎて洋に出れば三里ありといふ。真の入り海なり。すべてこれ仮山水のごとし。えんぼう二里許あり。土人小舟にてりゆうしゆさいをとるもの多し。又海船の来り泊するあり。忽舟に乗じて来るものあり。歌謡東都様なり。之をみれば山村九右衛門樋口小兵衛なり。因て四人同舟して山腹の日国寺に詣る。寺北斗を祭てす。燈火昼のごとし。村人群来す。雑喧たへずまた舟にのぼり逍遙漕してかへる。時正に二更後なり。此日苦熱不可忍。この納涼に因て除掃す。行程五里許。」

 詩。「宿片上駅買舟納涼。藻葅魚羮侑杜醅。買舟暫遶水村回。岡頭燈火人如市。道是星祠祈雨来。」

 第二十六日。「十五日卯時発す。をさふね村を経吉井川を渡り四里藤井駅。豆腐屋又六の家に休す。いんべを経る。陶器をうる家あり。此辺みなへいきはよをもつて石にかふ。或は堤を護す。二里岡山城下五里板倉駅。古手屋九兵衛の家に宿す。まさに此駅にいらんとして備前備中の国界碑あり。吉備神祠あり。此日暑尤甚し。行程八里半。」欄外に「陶器はいんべ也、片上の少し西也、それよりかゞとそれより長船吉井川也」と註してある。

 第二十七日。「十六日卯時発す。三里川辺駅。三里矢掛駅。(三里の内七十二町一里、五十町一里ありといふ。)吉備寺あり。吉備公の墓あり。かふど屋兵右衛門の家に休す。時正に午後陰雲起て雷雨そゝぎきたり数日にして乾渇をいやすがごとし。未後にいたりてる。江原をすぐ。此地広遠にして見るところの山はなはだ不高。長堤数里砂川にふ。牧童三人許り来て雨余の濁水を伺て魚を捕す。牛みな草を喰て遅々として水を渡り去る。牧童捕魚に耽て不知、忽然として大に驚き牛を尋ね去る。田野の一佳景といふべし。三里七日市。藤本作次郎の家に宿す。此家戸外にきびつみやの神符をてふす。符云。「寒言神尊利根陀見」と。熟察するに八卦なり。抱腹噴飯す。此日雨を得少しく涼し。夜尤清輝。初更菅茶山来訪歓晤徹暁して去る。行程九里許。」欄外に「七十二町の一里土人旅人の云ところなれども実はしからず」と註してある。

 詩。「江原。軽雷雨霽暑初微。数輩牧童行浅磯。昏暮捕魚猶未去。不知牛犢已先帰。宿七日市駅菅先生自神辺駅来訪有詩次韻賦呈。昔年自嘗賦分離。何料今宵有此期。尤喜詞壇一盟主。儼然不改旧霜髭。」次韻の絶句引首「訪」の字の傍に、茶山が「迎か要か」と註してゐる。茶山が境を越えて蘭軒を七日市に訪うたのは、蘭軒をかんなべの家に立ち寄らせようとして、案内のために来たのだといふことが、此推敲の跡に徴して知られる。当時茶山が蘭軒に贈つた原唱は集に載せない。



その四十編集

 第二十八日は文化三年六月十七日で、蘭軒は此日に茶山を訪うた。「十七日卯時発す。一里十二町たかや駅。すでに備後なり。やすな郡に属す。(こせきあなのくにあなのわたりあなのうみやまとだけのみこと悪神を殺戮するの地なり。日本紀景行紀によるに此辺みな海也。)一本榎上御領村下御領村平野村を経て一里廿七町神辺駅。菅茶山を訪。みちに横井敬蔵に逢ひ駅長の家にして細井磯五郎に逢。みな撫院の応接にいづるとなり。茶山の廬駅に面して柴門あり。門に入て数歩流渠あり。いけうを架て柳樹茂密その上を蔽ふ。茅屋瀟灑夕陽黄葉村舎の横額あり。堂上より望ときは駅を隔て黄葉山園中に来がごとし。園をわたつて屋後の堤上に到れば茶臼山より西連山翠色淡濃村園寺観すべて一図画なり。堤下川あり。茶山春川釣魚の図に題する詩を天下の韻士にもとむ。即此川なり。屋傍に池あり。荷花盛に開く。渠を隔て塾あり。槐寮といふ。学生十数人案に対して書を読む。茶山堂上酒肴をそなふ。その妻及男養助歓待恰も一親族の家のごとし。墨水詩巻対岳堂詩巻を展覧す。福山志を観る。三浦安藤岩野三大夫より酒肴を贈る。庄兵衛(茶山に従て東都にありし僕なり)来りまみゆ。午前より来て未後にいたり大に撫院の駕に後る。辞してさる。横尾をすぐ。鶴橋あり。あした川の下流を渡り山手村かや村赤坂村神村をすぐ。此辺堤上より福山城を松山の間に望む。城楼は林標に突兀たり。四里今津駅なり。高洲をへてばうしれいにいたる。(一ばうじといひ一に牡牛といふ。)一本榎より此に至て我藩知に属す。土地清灑田野開闢溝渠相達して今年のひでりに逢ふといへども田水乏きことなし。嶺を下て二里尾道駅なり。此駅海に浜して商賈富有諸州の船舸来て輻湊する地。人物家俗浪華の小なるもの也。今夜観音寺に詣拝するもの雑喧我本郷真光寺薬師詣拝の人のごとし。駅長の家は豊太閣薩摩をせむるとき留宿の家なりといふ。上段の画壁彩色金銀を用ふ綺麗にして古色なり。(細川幽斎九州道の記に備後の津公儀御座所に参上して十八日朝ともまでこし侍るとあり。すなはち此尾の道に太閣の留宿するをいふなるべし。)余升屋半兵衛の家に宿す。初更後茶山神辺より来り其門人油屋元助の家に迎へて歓飲す。家居頗大一豪富賈なり。主人なはせきあざなげんじよ嘉樹堂といふ。がくをこのみて雅致なり。ひんざ劇談暁にいたりて二人に別る。此日じんしよにあらず。行程九里きよ。」

 此所にも亦欄外に三件の考証があるが、其一は文字を截り去られて読むべからざるに至つてゐる。余の二件は高屋駅と津との事に就いて誤を正したものである。本文には高屋駅を備後の地だとしてあるのに、欄外にはかう云つてある。「高屋駅は備中也。この西に一本榎あり。これ中後の界也。」本文には又備後の津の公儀御座所を豊公の宿だとしてあるのに、欄外にはかう云つてある。「備後の津公儀御座所といふは義昭将軍をいふ也。津といふは今の津の郷村也。」筆跡に依つて推するに、此考証は森きゑんの手に出でたものらしい。

 穴海は景行紀二十七年十二月の条に出でてゐる。「到於熊襲国(中略)。既而従海路還倭。到吉備以渡穴海。」あなのわたりは又其二十八年二月の条に出でてゐる。「日本武尊奏平熊襲之状曰。(中略)唯吉備穴済神及難波柏済神。(中略)並為禍害之藪。故悉殺其悪神。」穴国は国造本紀に「吉備穴国造」がある。亦景行帝の時置く所である。



その四十一編集

 蘭軒が黄葉夕陽村舎を訪うた記事は、山陽の文と併せ読んで興味がある。「後就其家東北河堤竹林下築村塾。帯流種樹。対面之山名黄葉。因曰黄葉夕陽村舎。舎背隔野望連阜。有茶臼山。因自号茶山。」此対面の山は初めもみぢやまと呼ばれてゐたが、茶山に由つて世に聞え、今はくわうえふざんと音読せられてゐる。茶山が号の本づく所の茶臼山は、もとの名あきまるやまである。みちのうへ城址の在るところで、形より茶臼の称を得た。

 茶山が当時の身分は、さきに江戸に客たりし時より俸禄が倍加せられてゐる。茶山は寛政四年に五人扶持を給せられ、享和元年に儒官に準ぜられ、文化二年に五人扶持を増して十人扶持にせられた。即ち蘭軒の来訪した前年である。これより後茶山は十人扶持づつの増俸を二度受けて三十人扶持になり、大目附に準ぜられて終つた。

 蘭軒を欵待した家族は紀行に「その妻及男養助」と記してある。妻は継室もんでん氏であらう。養助は要助の誤で、茶山の弟猶右衛門じよへんの子要助、名はばんねんあざなこうじゆである。汝楩の楩はしばしやうじよの賦にへんなんよしやうとあつて、南国香木の名である。

 酒肴を贈つて来た「三大夫」の中、三浦は当時の家老に平十郎、勘解由、軍記などがあつて、どの人とも定め難い。安藤はくらであらう。岩野は与三右衛門であらう。

 茶山は既に蘭軒を七日市に迎へたやうに、又蘭軒を尾の道に送つた。即ち油屋もとすけ方の徹宵の宴飲である。

 尾の道観音寺の参詣人を見て、蘭軒がこれを江戸の真光寺のにぎはひに比してゐるのが面白い。これは本郷桜木天神のかたはらに住んだ蘭軒でなくては想ひ到らぬ事である。真光寺の縁日は、寺門が電車の交叉点に向つて開いてゐる今日も、猶相応に賑しい。しかし既に昔日のざつたふの面影をば留めない。明治の初年にわたくしは桜木天神の神楽殿に並んだ裏二階に下宿してゐたが、当時の薬師の縁日は猶頗殷盛であつた。わたくしは大蛇の見せもの、かつぱの見せものを覗いて見たことを記憶してゐる。彼の三尺帯三本を竿に懸けて孔雀だと云つて見せた類で、極て原始的な詐偽であつた。そしてそれに銭を捨てて入るものがくびすを接したものである。

 かんさい詩集にかんなべで蘭軒が茶山に贈つた一絶がある。「過神辺駅、訪菅先生夕陽黄葉村舎、柴門茅屋、茂園清流、入其室則窓明軒爽、対山望田、甚瀟灑矣、先生有詩、次韻賦呈。田稲池蓮美且都。柳陰風柝架頭書。鳥啼山客猶眠熟。便是輞川摩詰廬。」原作は茶山の集に載せない。蘭軒の詩の転句は頼千秋の書した黄葉夕陽村舎の襖の文字ださうである。

 茶山は尾の道の油屋で蘭軒に詩を贈つた。即ち集中の「尾道贈伊沢澹父」の七絶である。「松間明月故人杯。此会他年能幾回。記取牡牛関下駅。遙輿脚疾送君来。」転句のぼぎうくわんは即ちばうしれいであらう。結句の言ふ所は蘭軒の脚疾ではなくて、東道主人の脚疾である。蘭軒のこれに酬いた詩が其集にある。「宿尾道駅、菅先生追送至此、迎飲于其門人油元助家、先生有詩、次韻賦呈。擲了郷心不擲杯。七分蘸甲逓千回。謝君迎送能扶疾。昨夜今宵越境来。」



その四十二編集

 蘭軒が旅行の第二十九日は文化三年六月十八日である。「十八日卯時発す。駅を離るれば海辺なり。磯はたの路にして海上島々連続せり。海のかたち大川のごとし。みなもとのさだよ豊臣勝俊の紀行にも地形を賞したる文見ゆ。海辺に八幡の社あり。松数株ありて此地第一の眺望なり。三原城も見ゆ。三里三原駅一商家に休す。青木屋新四郎を訪。主人讚州へ行てあらず。その弟吉衛に逢うて去る。備後安藝の国界は駅路の山上にあり。二里半ぬた本郷駅。松下屋木曾右衛門の家に宿す。駅長の屋後に山あり。雀が嶽といふ。小早川隆景の城址なり。今の三原城こゝより遷移すと土人いへり。此日暑甚しからず。曇る。行程五里半きよ。」

 貞世の道ゆきぶり、いつくしままうでの記、勝俊の九州道の記、いづれも原文が引いてあるが、詞多きを以て此に載せない。

 第三十日。「十九日卯時発。沼田川を渡り入野山中を経小野たかむらきやうなり。辰後一里半たまりいち。堀内庄兵衛の家に休す。主人みづからせんさうと号す。常に広島城市に入て骨董器を売る。頼兄弟及竹里みな識ところなり。山中を出て松原あり。未前二里半西条駅。(一名西条四日市。)小竹屋庄兵衛の家にやどる。此駅小吏余輩を迎ふるに小紙幟上姓名を書して持来けうぜんに在て先導す。駅東三四町国分寺あり。行尋ぬ。当光山金岳寺といふ。真言宗なり。旧年わざはひにかかりて古物存するものなし。茅葺仁王門あり。金剛力士は雲慶の作といふ。松五本ありて五輪塔存す。これ聖武のみさゝぎなりといふ。此日暑甚し。晩間せふうあり。暑少減ず。夜三更青木新四郎使を来らしむ。僕林助といふ。行程四里許。其二里は五十町一里也。」

 小野篁の郷の条に、蘭軒は又貞世の道ゆきぶりを引いてゐる。「此ところはむかし小野の篁の故郷とぞ、やがてたかむらともをのとも申侍るとかや」の語がある。

 第三十一日は蘭軒が広島の頼氏を訪うた日である。「廿日卯時発。半里許ゆきて大山峠なり。上下二里許なり。山中をなほ行こと二里許、瀬の尾といふ里ありて上中下に分る。(瀬の尾又瀬野といふ。)山中松樹老古にして渓辺にかいきんさおほし。(海金砂方言さみせんくず。)平地漸く近して砂川緩流広四五間なり。此に至て山尽く。勝景。貞世紀行妙を得たり。八里半かいた駅。根石屋十五郎の家に休す。午後なり。駅を出ればすなはち海浜なり。坂を上下して田間の路に就く。青稲漠々として海面の蒼々たるに連る。行こと遠して海いよ/\隔遠す。岩鼻といふ所にいたる。北の山延続し此に至て尽るなり。岩石屹立して古松千尋天を衝く。攀縁して登ときはかみ稍平なり。方丈許席のごとき石あり。其上に坐して望めば南海に至り西広島城下につらなる。万里蒼波一こうのえんかみな掌中にあり。又本途に就き遂に二里広島城下藤屋一郎兵衛の家にやどる。市に入てゑんこうばし京橋を過来る。繁喧は三都に次ぐ。此日朝涼、午時よりじんしよにたへず。夜風あり。頼春水の松雨山房を訪。(国泰寺のかたはらなり。)春水いへにありて歓晤。男子賛亦助談。子賛名のぼる、俗称ひさたらうなり。次子竹原へ行てあはず。談笑夜半にすぐ。月のぼりてかへる。(春水年五十九、子賛二十六。)行程十里許。」

 瀬の尾の条には又貞世の道ゆきぶりが引いてある。中に「もみぢばのあけのまがきにしるきかなおほやまひめのあきのみやゐは」の歌がある。

 蘭軒と春水とは此日広島で初対面をしたのである。



その四十三編集

 いはゆる松雨山房は春水が寛政元年に浅野家から賜つた杉木小路の邸宅である。是より先春水は浅野家のせいし侍読としてしば/\江戸に往来した。寛政十一年八月に至つて、世子は江戸に於て襲封した。世子とは安藝守なりかたである。備後守しげあきらが致仕して斉賢が嗣いだのである。十二年に春水は又召されて江戸に入り、享和元年に主侯と共に国に返つた。次で二年にも亦江戸に扈随し、三年に帰国した。然るに文化元年の冬病を獲、二年に治してからは広島に家居してゐる。山陽の撰ぶ所の行状に「甲子冬獲疾、明年漸復、自是不復有東命」と書してある。蘭軒は江戸に於て春水と会見する機会を得なかつたので、此日に始て往訪したのである。即ち春水の病の治した翌年である。

 春水は天明元年の冬重晟に召し出された。状に「天明元年辛丑冬、本藩有司伝命、擢為儒員、食俸三十口」と云つてあるのが即是である。其後天明八年戊申と寛政十一年己未とに列次を進め俸禄を加へられた。状に「戊申進班近士(奥詰)、己未更賜禄百五十石、班侍臣列(側詰)」と云つてある。蘭軒が往訪した時の春水の身分は、百五十石の側詰であつた。其後文化四年丁卯と十年癸酉とに春水は又待遇を改められた。状に「丁卯加禄卅石、十年癸酉進徒士将領(歩行頭)之列、職禄百二十石、并旧禄為三百石」と云つてある。春水は三百石のかちがしらを以て終つたのである。

 山陽の事が紀行に「子賛」と書し又其齢が「子賛二十六」と書してある。山陽の字は子成であつた。或は少時子賛と云ひ、後子成と改めたのであらうか。二十六は二十七の誤又春水の五十九は六十一の誤である。

 会見の日、六十一歳の春水は三十歳の蘭軒を座にいて欵待し、二十七歳の山陽が出でて談を助けた。

 かんさい詩集に「宿広島、訪春水頼先生松雨山房、歓飲至夜半」として一絶がある。「抽身騶隊叩間扉。雨後園松翠湿衣。月下問奇宵已半。艸玄亭上酔忘帰。」

 わたくしは此会見が春水蘭軒の初対面だと云ふ。これは確拠があつて言ふのである。かくき詩稿に蘭軒が春水の弟春風に逢つた詩があつて、其引首と自註とを抄すればしもの如くである。「安藝頼千齢(名惟疆)西遊来長崎、訪余居、(以下自註、)其兄春水、余去年訪其家而初謁、其弟杏坪旧相識于東都、千齢今日方始面云」と云ふのである。是に由つて観れば、春水春風きやうへいの三兄弟の中で、蘭軒が旧く江戸に於て相識つたのは杏坪だけである。只其時日が山陽の伊沢氏に来り投じたのといづれか先孰か後なるをつまびらかにすることが出来ない。次で蘭軒は文化三年に春水を広島の邸宅に往訪し、最後に四年に春風を長崎の客舎に引見したのである。春風の九州行は春水が「嗟吾志未死、同遊与夢謀、到処能報道、頼生已白頭」の句を贈つた旅である。

 しかしこれは蘭軒と頼氏ちやうちゆうきとの会見の時日である。その書信を通じた前後遅速は未だつまびらかにすることが出来ない。

 松雨山房の夜飲の時、蘭軒の春水に於けるは初見であるが、山陽は再会でなくてはならない。わたくしは初めにはかに紀行の此段を読んで、又すこしく伊沢氏が曾て山陽をやどしたと云ふ説を疑はうとした。それは「男子賛亦助談、子賛名襄、俗称久太郎なり」の数句が、故人を叙する語に似ぬやうに覚えたからである。しかし更に虚心に思へば、必ずしもさうではなからう。春水との初見も、特に初見として叙出しては無い。春水も山陽も、此紀行にあつては始て出づる人物である。父は已に顕れた人物だから名字を録することをもちゐない。子は猶暗い人物だから名字を録せざることを得ない。此の如くに思惟すれば、此疑はけ得るのである。

 且山陽の伊沢氏と狩谷氏とに寄つたのは、山陽の経歴中暗黒面に属する。品坐の主客はおの/\心中に昔年の事を憶ひつつも、一人としてこれを口に出さずにしまつたと云ふことも、亦想像し得られぬことは無い。

 わたくしは既に述べた諸事実と、後に引くべき茶山のしゆかんとに徴して思ふ。伊沢氏と頼菅二氏とは、たとひいかに旧く音信を通じてゐたとしても、山陽が本郷の伊沢氏に投じたのは、春水兄弟や茶山に委託せられたのでは無からう。山陽自己がイニチアチイヴを把握したのであらう。そして身をいしうの二家に寄せた山陽の、寓公となり筆生となつた生活は、よしや数月の久しきに亘つたにしても、後年に至るまで関係者の間に一種の秘密として取り扱はれてゐたのであらう。

 蘭軒が春水を訪うた日に、たま/\竹原に往つてゐて坐に列せなかつた「次子」は、春水の養子権次郎げんていである。



その四十四編集

 蘭軒が旅行の第三十二日は文化三年六月二十一日である。「廿一日五更発す。城下市街をすぐるに数橋を経たり。みな砂川の大なるに架す。たみちに至て海浜に出づ。一小山あり。轎夫脚を愛して海中てうせきの処を行く。又松樹千株の海浜山上を経て二里廿日市。宇佐川文好の家に休す。主人痛風せつぎやくの二方を伝ふ。駅に山あり。屈曲はんくわいして上る。海上宮島を望こと至て近がごとし。此山を桜尾と名く。又篠尾山と名く。くわんじんしあり。山伏正覚院といふもの居住す。文好云。寿永年間桜尾周防守(周防国桜尾城主)ちかざねといふ者天神七代を此山にまつる。年歴ひさしうして天満天神の祠となすのみ。時正巳なり。上村源太夫鈴木順平藤林藤吉石川五郎治及余五人舟にて宮島にいたる。海上二里間風なく波面席のごとし。午後宮島にいたる。祭事後故に市商甚盛なり。千畳敷二畳にのぼつて酒肴を喫。勝景、源貞世、近来水府ちやうせきすゐ説こと甚つまびらかなり。已未後。船に乗じて海上一里久波駅。醸家沢本屋吉兵衛の家にやどる。主人池田瑞仙と知己なりといふ。駅長の園臥竜松長延十三四間なるあり。此日暑甚し。夜海中の塩火を見る。行程六里きよ。」

 宮島の事は蘭軒自ら記せずして、貞世の道ゆきぶりと赤水の長崎紀行とを引いてゐる。道ゆきぶりの文にはあたとと云ふ地名の下に歌がある。「島守にいざこととはむ誰がためになにのあたとと名にしおひけむ。」

 長赤水は長久保氏、名は玄珠、あざなは子玄、通称は源五兵衛である。著書中に長崎紀行と長崎行役日記とがある。長崎紀行に日本の三大市といふことがある。六月十七日安藝宮島の市、三月二十四日下の関阿弥陀寺の市、八月十五日豊後浜の市である。「中にも此宮島第一なりとぞ」と云つてある。又童謡が載せてある。「安藝の宮島めぐれば七里浦が七浦七えびす。」七浦は杉野、腰細、青海苔、山白、すやみとこ、網である。七えびすは昔佐伯部の祀つた神ださうである。

 池田瑞仙は初代錦橋であらう。此年七十二歳であつた。

 詩。「厳島。棹子占風告艤船。張帆数里忽飛然。廻廊曲院蒼波浸。尖塔危楼翠樹連。華表一䨇離岸立。燈籠百八繞簷懸。治承姦相修斯宇。土俗于今却説賢。又。厳島延回七里強。浦居蜑戸市居商。豈知波浪無辺地。別有人烟如此郷。呦鹿馴童眠石岸。吟猿送客下松岡。昔年帝裂蓬莱半。封得霊姫鎮一方。」

 第三十三日。「廿二日卯時発。駅を出る所昔の黒河なり。一山路をさけて潮斥の処を行く。漁家両三軒ありて山下海岸に倚る。海面朝靄蒼茫として宮島あたたしま壁島隠見す。小瀬川を渡る。周防の国界なり。国史に大竹川を分て周防国とすとあるは此川をいふ歟。川を渡るところ木柱一株をたつ。書して云。「自小瀬至赤間三十六里」と。此国毎里に程を記することかくのごとし。関戸の山路に入り三里関戸駅。(山中の村なり。)中屋重五郎の家に休す。一山をすぐれば多田といふ所あり。少く坦道を経て御庄川を渡る。里人に岩国山をとへば此川南の松山にして今城山といふ所なりと答ふ。柱野をすぎ入山の山路にいる。渓谷相分れて坂梯甚嶮なり。すべて雑樹なし。老松多して鬱葱たり。谷間の道甚長し。土人一にばかだにといふ。城主より撫院迎接の為に山上に茶亭を作る。皆まつがえ青葉をつかねはんりをくてんを作る。欽明寺坂を下りて四里久賀本郷駅なり。駅の南に嵯峨として聳たる嶺見ゆ。ふぼく集中に詠ずるひむろならんか。土人冰室が嶽といふ。(夫木集に、周防氷室池詠人不知、こほりにし氷室の山を冬ながらこちふく風に解きやしぬらむ。)半里高森駅。愛宕屋与三郎の家に宿す。此日午後驟雨微涼。晩間暑はなはだし。夜尤甚し。行程七里半許。」

 黒河、小瀬川及岩国山の下にさだよの道ゆきぶりが引いてある。岩国山の歌が三首ある。「とまるべき宿だになきを駒なづむいはくに山にけふやくらさむ。たちかへり見る世もあらば人ならぬ岩国山を我友にせむ。たらちねのおやにつげばやあらしてふいは国山をけふはこえぬと。」小瀬川一名大竹川の所に所謂国史は続日本紀である。



その四十五編集

 第三十四日は文化三年六月二十三日である。「廿三日卯時発す。二里今市駅。よびざかを経るに人家街衢をなす。撫院河内屋藤右衛門といふものの家に小休す。薬舗なり。蔵書数千巻を曝す。主人他に行故をもつてけみすることをゆるさず。呼坂はけだし昔にいふところの海老坂なり。松山峠を経二里久保田駅(一名久保市)なり。二十八町花岡駅。山崎屋和兵衛の家に休す。主人手みづからひもくぎよを裁切してりくえふさくに浸し食せしむ。あじはひ最妙なり。山路を経るに田畝のぞみつきて海漸くあらはる。廿五町久米駅。廿四町とほいし駅なり。右の岡上八幡の祠あり。又市中えいかういしといふものあり。大石なり。上に馬蹄痕あり。土人の説に古昔宇佐八幡の神飛びきたつて此石上にとゞまるなりといへり。貞世紀行には此石海中にある文見ゆ。桑田碧海の歎おもふべし。人家の所尽て松原なり。青田瀰望また列松数千株めぐれり。松外は大海雲晴遠島飛帆その間に隠見す。半里野上駅。すなはち徳山城下なり。鶴屋新四郎の家に小休す。城此をはなるゝこと十町きよなり。浅井金蔵谷祐八(金蔵あざなは子文祐八字子哲徳山の臣なり)のことを物色するに、みな安寧なりといへり。海面に佐島大山島を望。一里十二町富田駅にいたる。駅は山の半腹なり。山東南に面して海中に出るがごとし。海面は遠山延繚して中断し水天一色なり。海にひたる坂をめぐりくだるとき、已夕陽紅を遠波にしきたり。やち川を渡り十九町福川駅。米屋七五郎の家に宿す。此駅より海面に島々見ゆる中に、せん島黒髪山島尤大なり。此日暑甚しけれども風あり。此日立秋なり。行程八里廿四町許。」

 貞世の道ゆきぶりを引くもの凡そ三箇所である。呼坂、遠石、富田が是である。呼坂は貞世が海老坂と書いてゐる。遠石の馬蹄を印した石は、貞世が過ぎた時まだ「浜の汐干のかた遙なる沖に」あつた。富田の浦から見える島々の中に、厳島といふ島もあつたと、貞世は記してゐる。

 詩。「宿福川駅、此日立秋。涼飇水国早知秋。聒耳驚濤鳴枕頭。櫓響暗帰漁浦岸。燈光未寐酒家楼。短宵強半眠難熟。遠旅多般疾是憂。我已倦兮僕其痡。経過十有二三州。」旅疲が詩の後半に見えてゐる。「疾是憂」とは云つても、猶幸にむには至らなかつたらしい。

 第三十五日。「廿四日卯時発。一里矢地駅。一里半とのみ(一名)駅なり。駅つきて山路にかかる。うきのたうげといふ。すべる所、望む所、貞世紀行尽せり。山陽道中第一の勝景と覚ゆ。一里浮野駅。一里宮市駅。三倉屋甚兵衛の家に休す。さなたうげといふ所をすぐ。山海園村の勝尤よし。富海山道に比するに路短しとす。金坂峠岩淵大とう村末村をへて四里半をごほり駅。麻屋弥右衛門の家に宿す。居北に山を望南田畝平遠なり。庭前蓮池あり。荷葉からかさのごとく花はわたり八九寸許。白花多して玉のごとし。此日暑甚しからず。行程八里許。」

 浮野峠のもとに又貞世の道ゆき振が引いてある。橘坂桑の山の歌おの/\一首がある。「あら磯のみちよりもなほ足曳のやま立花の坂ぞくるしき。花すゝきますほの糸をみだすかな賤がかふこの桑の山風。」欄外に森きゑんの筆と覚しき書入がある。「此あたりに佳境ありてむかしより詩歌にも人口にもあらはれざりしを、ちかごろ江戸人見出して絶景なりとし、はるかに大田南畝などに詩をつくらしむ。それより土人もしりて詩を諸方に乞ふ。此に引ところを見れば近世すでに賞せられしと見えたり。あるひは別に一嶺の佳処ありや。」此に引くところとは道ゆきぶりの語を謂ふのである。

 詩。「富海途中。天容海色望悠々。浮碧一桁豊後州。曲岸吾過東畔去。前人已在水西頭。小郡駅逆旅、池蓮盛開、花葉頗大、都下所未見、応主人需賦。芙蕖清沼遍。香気帯秋寒。葉是青羅傘。花為白玉盤。飜風声策々。経雨露溥々。剰有新肥藕。採来供晩餐。」



その四十六編集

 第三十六日は文化三年六月二十五日である。「廿五日卯時発す。山路を経るに周防長門国界の碑あり。二里半山中駅なり。二又川を渡り二里半舟木駅。櫛屋太助の家に休す。くしをうるいへ多し。土人説に上古此地に大なるくすのきあり。神功皇后の三韓を征する時艨艟四十八艘を一木にて造れり。因て船木となづく。其枝の延し所をすゞきといひ(船木より四里)こずゑの倒し所を木の末といふ。(船木より六里。)此近地より出る石炭は古樟の木片なるべし。木の末今はきよすゑとあやまるといふ。船木川を渡り、くしめ坂を越え一里半浅市駅。福田より蓮台にいたる間美田長し。朝野弥太郎のちまちだといふ。一里廿八町吉田駅。山城屋重兵衛の家に宿。此日暑不甚。行程八里きよ。」船木の伝説は諸書に見えてゐる。宗祇の道の記にもある。

 第三十七日。「廿六日卯時発す。豊浦を経(豊浦は長府に神功皇后の廟ある故けだし名くる也)海辺の松原をすぎ一里卯月駅なり。榎松原をすぐれば海上に干珠満珠島見ゆ。一里半長府。松屋養助の家に休す。れんぐうを食せしむ。あぢはひ尤妙なり。しかれども関東の柔滑と自異なり。神功皇后廟あり。頗荘麗なり。左に武内宿禰を祀り右にかふらたまたれのかみを祀る。小祠甚多し。西に面し海を望て建つ。側に大樹松。めぐり三人抱余なり。皇后征韓の時てづからうゑて、もし凱陣ならば蒼栄すべし、しからずんば枯亡せよといへり。その松なりと土人の説なり。貞世の説と異なり。舞台もあり。(余童子のとき匠人金次といふもの長府侯江戸のていてい補修のとき長府二の宮舞台のはふのごとくなれと好のよし語れり。今目のあたり見ることを得たり。)此宮は長府の二の宮にて一の宮は此より一里北に住吉の神をまつると也。大内よしたか造作のふるみやなりといへり。竜宮より奉る鐘ありといへり。又神功寺(真言宗)といふ寺二の宮の鳥居の側にあり。是亦義隆創立なりしが旧年火ありて今は一小寺なり。前田といへる山崖の海浜をすぐ。松樹万株連りて雑樹なし。図後に附す。壇の浦に至る。豊前の山々一眼にありて甚近がごとし。漁家千戸道路狭し。阿弥陀寺にいたる。寺僧先導して観しむ。安徳帝の陵上に廟を造て帝の木像を立。十年已前までは素質なるを近年彩色を加ふといふ。左右の障子に二位女公内侍より以下へいせきの像を画く。古法眼元信の筆蹟なり。又廟廡金紙壁に平氏西敗の図あり。土佐光信の筆蹟なり。後山にじゆすゐへいせきの塔あり。此寺古昔大内義隆のつくるところなり。しかるを近年修補せり。寺を出て亀山八幡に詣る。一小岡にして海にのぞみ涼風そゝぐがごとし。土人の説に聖武帝の貞観元年に宇佐より此地に移し祀といへり。是亦大内義隆の所造なり。舞台上より望ときは小倉内裏より長府の洋面に至まで一矚の中にあり。遂に二里下の関川崎屋久助の家に宿。地形は貞世の紀行尽せり。大坂より已来尾の道大輻湊の地なれども赤馬関は勝ること万々ならん。此日暑甚しからず。行程五里許。」

 神功皇后廟と馬関との下に又貞世の道ゆきぶりが引いてある。皇后手栽の松を記する本文に接して、「貞世の説と異なり」と云つてあるが、道ゆきぶりには松の事は言つて無い。貞世の文中皇后征韓の事に関するものはしもの如くである。「壇のうらといふ事は皇后のひとの国うち給ひし御とき祈のために壇をたてさせ給ひたりけるよりかく名けけるとかや申也。其時の壇の石にて侍るとてみやしろの前のみちの辺にしめ引まはしたる石あり。此御社はあなと豊浦の都の大内の跡にて侍とかや。」馬関のくだりは貞世の文が長いから、此に省く。大要はかうである。昔馬関と門司が関との間には山があつて、其山に「潮の満干の道ばかり」の穴があつた。皇后がふなよそほひせさせ給うた後、一夜の程に山が裂けてはやとものせととなつたと云ふのである。此伝説とあなとの語とが後人の議論に上つたことは人の知る所である。

 詩。「赤馬関。瀕海商船会。既庶而且豊。寺存安徳廟。山古応神宮。蟹甲成奇鬼。硯材如紫銅。数家娼妓在。漫学浪華風。」



その四十七編集

 第三十八日は文化三年六月二十七日である。「廿七日暁より雨大に降る。風亦甚し。因てなほ川崎屋にあり。一商人平家蟹を携て余にかはんことをすゝむ。すなはちゆしりやうかいふに載する蟹殻じんめんのごときものありと称するものなり。午後風をさまりはる。すなはち撫院の船に陪乗す。船大さ十四間幅五六間。たこう三十余人。一堂に坐するごとし。少も動揺をおぼえず。撃鼓唱歌して船を出す。巌竜島を経て内裏の岸につき撫院舟よりのぼつて公事あり。をはりきたつて船を出す。日久島をすぐ。石上に与次兵衛といふものの碑あり。豊臣太閤征韓のとき船此洲にかうして甚危かりし故船頭与次兵衛自殺せしとなり。北方は玄海灘渺々然として飛帆鳥のごとくうしろのしまはみな盃のごとし。壮雄限なし。日已申時。また大雨にはかに来り海面暗々たり。しかれども風なし。遂三里豊前小倉のみかどに著船す。余船主に乞て唱歌を書せしむ。黄帝といふ曲なり。小倉伊賀屋平兵衛の家に宿す。主人一書巻を展覧せしむ。わうばくふくがんてつぶんといふ元禄年中の僧の書なり。いうけい運動看るに足れり。此地亦一湊会なれども遠く赤馬関に不及。此日雨によりて涼し。海上三里きよ。」

 註に所謂くわうていの曲が載せてある。くわてきと云ふものが蜘蛛の木葉に乗るを見て舟を造り、黄帝に献じたと云ふ伝説を叙したものである。詞の初にみつまた、駒形、待乳山の地名を挙げ、「見れば心もすみ田川流に浮ぶ一葉の舟の昔は」と云つて、舟の由来に入る。末に「此外に数曲ありといへり、撫院の云、文中に東都の地名あれば東都御舟歌ならんと、定て然らん」と云つてある。

 詩。「赤馬渡海、海雨驟至。長州絶海是豊州。撃鼓揚帆進鷁頭。玄海北連千万里。宝珠東現一䨇洲。風迎驟雨瀟々至。潮浸低雲闇々流。縦得呉児能踏浪。駆来許怒水神不。」さうしうは干珠満珠の二島である。

 第三十九日。「廿八日卯時発す。豊筑の界及純素の城墟を経て海の入る処あり。くきの浦といふ。二里卅一丁黒崎駅。植松屋三郎兵衛の家に休す。二里卅四丁こやの瀬。三輪屋久兵衛の家に宿す。此日午後風ありて小雨降。大に涼し。行程六里許。」純素の城墟は未だ考へない。

 第四十日。「廿九日卯時発す。のうかた川を渡り岩はな堤を経て小竹堤を行く。望ところ連山ゑんしやうのごとく東南にとつこつたる山あり。かはらやまといふ。(春はらとよむ又同国にはるたといふ所あり、原をはると訓す、ゆゑいまだつまびらかならず。)一山みなつげのみといへり。五里飯塚駅。伊勢屋藤次郎の家に休す。此駅天満宮及納祖八幡の祠あり。此日祇園祭事ありて大幟をたつ。「神道以祈祷為先、冥加以正直為本」の十四字を大書せり。亦一奇なり。未時雨大来。泥濘を衝て三里半内野駅。青山げんていの家に宿。此日涼し。行程八里許。」

 詩。「内野駅田家。茅茨半破竹扉斜。雨滴籬笆豌豆花。野犢随童過曲径。村雞驚客去隣家。」



その四十八編集

 第四十一日は文化三年七月ついたちである。「七月ついたち四更に発す。ひやみづ峠を越るに風雨甚し。轎中唯脚夫のつゑを石道に鳴すを聞のみ。夜明て雨やむ。こばうするに木曾のうすひにも劣らぬ山形なり。六里やまが駅。一商家(米家五兵衛)に休。日午なり。駅中に石を刻してひるこのかみを造りて街頭に立つるあり。(宰府辺にいたるまで往々有り。)駅を離れて六本松の捷径を取りせうれきせんそうて行く。右の方に巍然たるものははふまんざんなり。古歌に詠ずる所筑前第一の高山なり。古名かまどやまといふ。寺院廿五房ありともいへり。天正年間には高橋某城を築けり。細川幽斎の紀行に見ゆ。芝山のきはの狭路をすぎて二里大宰府にいたる。染川をすぎて境内に入る。染川まことに小流なり。天正年間すらすでにしかり。況や今にいたりてをや。境内に入るときは石鳥居、石橋、二王門、別殿、東西法華堂、薬師堂、うきだう、中門、回廊、本社、神楽堂、鐘楼、文庫等及末社おほし。此祠は延喜五年八月十九日あんぎやうそうづに勅定ありて造営あり。数百年を経て兵火のために炎失す。今の神殿は天正年中小早川たかかげ筑前国主たるとき境内東西五十三間南北百七十間に定め、本殿は長九間横七間にして南面せり。後年黒田長政此国主たるによりて中門回廊諸堂末社の廃絶を継興す。(のぶさだ按ずるに兵火のために炎失せしは天正八年に当れり。)飛梅社前の右にあり。博多ぐわへうばうの説に、明応七年へいせんにかかりて枯しを社僧祠官等歌よみて奉りたれば再び栄生せりといへり。其後天正の兵燹にもやけしこと幽斎紀行に見ゆ。左に一株の松あり。みな柵を以て囲む。池は心の字の形なり。がんかもけいせき群集し鯉鮒游泳して人の足声を聞て浮み出づ。島ありて雁の巣ありといふ。三橋を架す。社地は古の安楽寺の地なり。延寿王院(神宮寺といふ)に入りて菅公真蹟を拝観す。さうじゆふく。「離家三四年。落涙百千行。万事皆如夢。得々仰彼蒼。」〔此詩はとしびの詩にして、誤て文草に入れたる論林羅山文集に見えたり。此等は公の古人の詩をかかせ給へるを見て、後人しらずして編集せしなり。かしの詩をさんこく集に入れし類ならんか。〕毎幅二行字三四寸大にしていうけいせうしやたる行書なり。又せうかいふもんぼん毎行十七字にしてじのおほきさ五分ばかり楷法厳正なり。日已未後にして寺を出で五里原田駅なり。筑肥界をすぎ二里田代駅。難波屋喜平次の家に宿す。夜已初更なり。駅吏ちくへいきよを持て迎ること里余。俗尤野陋とす。此日午後快晴。大に秋風あり。行程十二里きよ。」

 竈山のくだりに清原元輔の連歌と細川幽斎の九州道の記とが引いてある。元輔連歌。「春はもえ秋はこがるゝかまど山霞も霧も烟とぞなる。」幽斎は此山の沿革を説いてゐる。初め山にさうもんざんはうぢゆうじと云ふ寺があつて、山伏が住んでゐた。そこへ高橋某が城を築いた。後島津氏が岩屋の城を陥れた時、高橋も城を棄てて去り、山伏が又帰り来つたと云ふのである。「立つづく雲をちさとのけぶりにてにぎはふ民のかまど山かな。」

 染川の条には歌が四首引いてある。古歌。「染川を渡らむ人のいかでかは色になるてふことのなからむ。」又「染川に宿かる波の早ければなき名立つとも今は恨みじ。」家隆。「山風のおろすもみぢの紅をまたいくしほか染川の浪。」藤孝。「老の波むかしにかへれ染川や色になるてふ心ばかりも。」幽斎の記にも「思ひしにはかはりたる小河のあさき流なり」と云ひ、長嘯子の記にも「水さへかれはてて昔のあとといふばかりなり」と云つてあるを引いて、其末に蘭軒は記した。「信恬按ずるに、此両記幽斎紀行は天正十五年勝俊は天正末つ方也。」

 菅廟の条には蘭軒が幽斎の文を引いて炎上の年を考へてゐる。「幽斎九州紀行は天正十五年豊太閣島津義久を討伐せしときしたがひて九州に下りし紀行なり。其文中に宰府は天神の住給ひし所と聞及しまま見物のためまかりける。彼寺は七とせばかりさき炎上してかたばかりなるかりとのなりと書きたり。すなはち炎上は天正八年に当れり。」

 飛梅の条にも亦幽斎の文が引いてある。「幽斎九州道の記、飛梅も古木は焼てきりけるに若ばえの生出て有を見て、鶯のはねをやとひて飛梅のかごにはいかでのらで来にけむ。」

 詩。「太宰府菅廟。行々筑紫旧山河。更向菅公祠廟過。一樹飛梅遺愛古。数般享祭歴年多。官途事業兼編史。謫地風光入詠歌。天道是非無奈得。聖賢従昔易蹉跎。」



その四十九編集

 第四十二日は文化三年七月二日である。「二日五更発す。一里とゞろき駅。一里半なかはる駅。二里神崎駅。小淵清右衛門の家に休す。駅中櫛田大明神祠あり。頗大なり。一里さかひはら駅にいたる。無量寿山浄覚寺といへる一向宗の境内にかうらいがらすあり。常の烏より小にして羽翼端半白し。声鶉に似たり。一にいたづらがらすと名づく。此辺往々ありといへり。形状全くきじやくと覚。一里半佐賀城下。こが新内の家に宿す。晩餐の肴にあげまきといふ貝を供す。長さ一寸五分きよ横五六分。あぢはひいかに似たり。佐賀侯より金三方を賜ふ。此日暑不甚。行程六里半許。」わたくしは九州に居ること三年、又其前後に北支那に従征して、高麗烏のじやくたること蘭軒の説の如くなるを知つた。

 第四十三日。「三日卯時発す。田間を過るに西南にたらがたけ、南に温泉嶽(又雲仙と書)東南に柳川の諸山、東に久留米の山、西南間川上山、北に阿弥嶽、筑前のちふりやま等四面にさいくわいれうぜうして雲間に秀突せり。二里牛津駅。二里小田駅なり。駅中道北に巨大のくすのきあり。くわつぼくなり。就て馬頭観音を彫刻せり。はんかん也。堂を構てせうえふその上を蔽庇す。堂の大さ二間余にして観音の像中に満るの大さなり。樹の大なることしるべし。二里成瀬駅。(五十丁一里。)二里塚崎駅。一商家に休す。駅長の家の温泉に浴す。清潔にしてあぢはひ淡し。脚気、疝気をいやすといへり。三里(五十丁一里)うれしの駅。茶屋正兵衛に宿す。此駅毎戸茶商なり。温泉あり。此日秋暑尤甚し。行程九里許。」

 詩。「嬉野。羿輿何趨歩。駅程将晩時。山痩多見骨。松老尽蟠枝。芳茗連家売。温泉一洞奇。村人秉竹火。迎我立荒岐。」

 第四十四日。「四日卯時発す。三の瀬村のこうに十ゐきよの樟木あり。中くうきうの処六七畳席をくべし。九州地方たいしやう尤多しといへどもかくのごときはいまだみず。江戸を発して已来道中第一の大木なり。三里そのき駅(一にそのきと書)なり。駅に出んとする路甚勝景なり。図巻末に附。鶴屋又兵衛の家に休す。三里松原駅。海辺路を経て桜の馬場といふ処あり。桜樹三四丁の列樹なり。花時おもふべし。又松林平にして海を環る二里大村城下。荒物屋三郎兵衛の家に宿す。かぶらきうんたん(名祥胤、あざなはさんきつかせいやの次子)大村侯の命によりて今春よりこゝに家居して此夜来訪す。歓晤あかつきにおよびてかへる。此日暑甚し。行程八里許。」

 欄外に森きゑんの樟の大木の考証がある。樟の木の最大なるものは伊予国越智郡大三島にあると云ふのである。「樟の大樹いよの大三島にあるもの大さ廿八人めぐりを第一とす。次は廿一人囲、次は十八人囲、この類は極て多し。第一のものは今枯たりと云。」薗木駅の図も例の如く闕けてゐる。

 鏑木雲潭、名字は本文自註に見えてゐる。「河西野の次子」と云つてある。

 河西野は市河寛斎で、其長子がべいあんがい、次子が雲潭祥胤である。出でて鏑木梅渓の養子となつた。梅渓、名はせいいん、字はくんちうである。長崎の人で江戸に居つた。梅渓は享和三年二月四日に五十五歳を以て終つた。当時雲潭を肥前国に召致してゐたのは大村上総介すみよしである。

 詩。「大村駅舎逢鏑雲潭。松原連古駅。残日照汀洲。忽値同郷客。却添思国愁。図成真海嶽。趣合旧風流。何把東都酒。共談此遠遊。」



その五十編集

 第四十五日は文化三年七月五日である。「五日卯時発す。三里いさはや。四里やかみ駅。一商家に宿す。海浜の駅にして蟹尤多し。家に入りむしろに上る。此辺より婦人老にいたるまで眉あり。此日暑甚し。晩雨あり。行程七里許。」

 欄外に女子の眉を剃らざる風俗の事が追記してある。「二十年前長崎の徳見某の妻京にゆくとてかんなべ駅に宿す。四十ばかりの婦人眉あるを見んとて、四五人其宿にゆき窓に穴して見たるに、眉はなくして他国の人にことならず。後にきけば上方にゆくものはしばらく剃おとすと云。」蘭軒が菅茶山などの話を思ひ出でてきゑんに命じて記せしめたものか。

 蘭軒の長崎に著いた旅行の第四十六日は、即ち文化三年七月六日である。「六日卯時発。一里ひみ峠なり。険路にして天下の跋渉家九州の箱根となづく。山を下るとき撫院を迎ふるもの満路、余が輩にいたりても名刺を通じてむかふるもの百有余人なり。無縁堂一の瀬八幡をすぎ長崎村桜の馬場新大工町馬町勝山町八百屋町を経て立山庁邸にいたり、午後寓舎に入る。此日暑甚し。行程三里きよ。」

 長崎奉行の役所は初め本博多町の寺沢志摩守広高が勤番屋敷址にあつた。これを森崎に移したのが寛永十年である。寛文十一年に至つて、いははらがう立山に地を賜はり、延宝元年に新庁が造られた。これより立山を東役所、森崎を西役所と云ふ。まがりぶちは此立山庁邸に入つたのである。東役所址は今の諏訪公園の南麓県立女子師範学校の辺に当る。

 長崎紀行は此に終る。末に伊沢蘭軒の自署と印二顆とがある。白文は伊沢のぶさだ朱文はあざなはたんふで、澹は水に従ふ字を用ゐてある。

 詩集には長崎に到つた時の作として、長崎二絶、こうえいしんしやうくわん、蘭商舘各一絶がある。長崎の一首と清商館の作とを此に録する。「長崎。隔歳分知両鎮台。満郷人戸有余財。繁華不減三都会。都頼年々舶商来。清商館。入門如到一殊郷。比屋通街居舶商。西土休誇文物美。逸書多在我東方。」鎮台は奉行である。逸書の七字は蘭軒の手に成つて殊に妙を覚える。

 此より以下かくき詩稿中に就いて月日を明にすべきものを拾つて行くことゝする。

 八月十四日に江戸御茶の水の料理店で、大田南畝が月を看て詩を作り、蘭軒に寄せ示した。南畝は長崎の出役を命ぜられたのが二年前であるから、丁度蘭軒と交代したやうなものである。書中には定めて前年の所見を説いて、わかい友人のために便宜を謀つたことであらう。蘭軒が長崎にあつてこれに和した詩は、「風露清涼秋半天」云々の七律である。当時南畝が五十八歳、蘭軒が三十歳であつた。

 十五日には蘭軒が「中秋思郷」の七絶を作つた。「各処歓歌風裏伝。雲収幽岫月皎然。一千里外家山遠。応照団欒内集筵。」

 十七日には月前に詩を賦して江戸の友人に寄せた。「八月十七夜、対月寄懐木駿卿柴担人、去年此夜与両生同遊皇子村、駿卿有秋風一路稲花香句。村店浦笛夜清涼。窓竹翻風月満房。去歳今宵君記否。酔帰郊路稲花香。」しゆんけいは木村さだよしで前にも見えてゐる。たんじんは未だ考へない。

 九月の初に蘭軒は病のために酒を断つてゐたらしい。「九日。病余休酒怯秋風。佳節登高興政空。想得萱堂抱穉子。買花乱插小瓶中。」蘭軒の想像した家庭では、五十七歳の母そのが二歳の常三郎を抱いて菊を活けてゐた。しかし曾能は或は既に病褥にあつたかも知れない。後二月にして客遊中の子を見ること能はずして歿したからである。



その五十一編集

 蘭軒が長崎に来た文化三年の九月十三日は後の月が好かつた。「十三夜偶成。瓊浦山環海似盤。参差帆外月輪寒。半宵偏倚南軒柱。抛却許多郷思看。」郷思は容易に抛ち得て尽きなかつたらしい。

 十三夜の詩の次に石崎鳳嶺に次韻した作がある。鳳嶺は千秋亭観月の詩を扇に題して、持つて来て見せた。月日はつまびらかにすることが出来ぬが、後の月よりは更に後の事であつただらう。「石崎士整与諸子同千秋亭賞月、題詩扇面、携来見示、即次韻。黄壚秋醸熟盈瓶。乗月諸賢叩野扃。恰好清談親対朗。更教妙画酔通霊。曲渓泉響添幽趣。叢桂花開送遠馨。扇面写来良夜興。新詩標格自亭亭。」しせいの下に「なはゆうしほうれいとがうすくわんぐわのりしぐわをよくす」と註し、又観画吏のかたはらたうゑめきゝと朱書してある。

 鳳嶺の事はたのむらちくでんの竹田荘師友画録及竹田荘詩話に見えてゐる。画録に云く。「石融思。鎮之老画師也。予相識最旧。与渡辺鶴洲。為書画目利職。掌検閲清舶所齎古今書画。辨真贋定価直事。又鎮台有絵事。則必与焉。如中川侯之清俗紀聞、遠山侯之全象活眼此也。旁善西洋画。其子融済。亦善画。不墜家声矣。」詩話には士整が「士斉」に作つてある。そして「詩非其所長、故不録」と云つてある。竹田は鳳嶺の画を取つて其詩を取らなかつたものと見える。しかし猶これを待つに読書家を以てするををしまなかつたことは、「贈瓊浦石崎君」の作に徴して知られる。「聞君踪跡不尋常。杜絶柴門読老荘。三尺枯桐焦有韻。千年古柏朽生香。松花院静落鋪径。鶗鴂簾低声入堂。相思魚箋題句了。已看簷隙満蟾光。」

 画録にする所の鳳嶺が同僚渡辺鶴洲はもと小原氏、京都より長崎にうつつた小原慶山の後だと、同じ画録に見えてゐる。しかしとせきさゝろくには慶山の子は勘八、其すゑは書物目利役某で、鶴洲は只長照寺の慶山の墓を祭つてゐるのだと云つてある。前者は天保四年に成り、後者は早く文政二年に集録したものだと云ふから、晩出の画録に従ふべきであらう。しかし長崎の人の記載に、「小原慶山、又渓山に作る、字は霞光、丹波の人、元禄中長崎絵師兼唐絵目利に任官、其子小原勘八、名は克紹、巴山と号す、聖堂書記役なり」と云つてある。屠赤瑣々録の文も遽に排斥すべきでは無い。竹田は小原、大原と二様に書してゐるが、小原が正しいらしい。

 これも九月中の事であらう。蘭軒はながかはせいちやうの菊の詩に次韻した。正長、あざなほじん、観書の吏である。「六月拾遺菊於街上。植之園中。培養得功。遂至季秋。著花黄白両種。香満籬笆。」正長は七絶三首を作り、蘭軒はこれに和したのである。詩は略する。

 十月三日に蘭軒はぶんひつほうに登つた。「十月三日登文筆峰、帰路過茂樹六松蓼原諸村」として七絶三首がある。今其一を録する。「登臨文筆最高巓。勝景来供岩壑前。鏡様蒼溟拳様島。卸帆閩浙数州船。」茶山の集に「次韻伊沢澹父登文筆峰」として二絶が見えてゐる。「尋石聴禽到絶巓。忽驚大観落尊前。雲濤北擁三韓地。帆席西来百粤船。」「酔対空洋踞絶巓。風帆直欲到尊前。傍人相指還相問。底是呉船是越船。」

 十一月二十二日に江戸で蘭軒の母が歿した。隆升軒信階の妻伊沢氏曾能で、いはゆる家附のむすめである。年は五十七歳であつた。はふしけらくゐんぜさんていによ大姉と云ふ。先霊名録には快楽院が快楽室に作つてある。伊沢分家の古い法諡に、軒と云ひ室と云つて、ことさらに院字を避けたらしい形迹のあるのは、伊藤東涯の「本天子脱屣之後、居于其院、故崩後仍称之、臣下貴者亦或称、今斗筲之人、父母既歿、必称曰某院、尤不可也、蓋所謂窃礼之不中者也、有志者忍以此称其親也哉」と云つた如く俗をたゞすに意があつたのではなからうか。

 曾能は歴世略伝に拠るに、一子二女を生んだ。蘭軒ときせあさの二女とである。幾勢は蘭軒の姉であるが、安佐は其序次を詳にすることが出来ない。只安佐の生れたのが幾勢より後れてゐたことだけは明である。先霊名録に「知遊童女、隆升軒末女安佐、安永八年己亥十一月」として十日の条に載せてある。安永八年には幾勢は九歳、蘭軒は三歳であつた。末女とあるから幾勢よりをさなかつたことは知られるが、蘭軒といづれか長孰か幼なるを知ることが出来ない。

 曾能の臨終には、定て三十六歳の幾勢が黒田家に暇を請うて来り侍してゐたであらう。これに反して三十歳の蘭軒は三百里外にあつて、母の死を夢にだに知らずにゐた。



その五十二編集

 文化四年の元旦は蘭軒が長崎の寓居で迎へた。此官舎は立山の邸内にあつて、井の水が長崎水品の第一と称せられてゐたと云ふことが、とくみじんだうを接待した時の詩の註に見えてゐる。

 此年の最初の出来事にして月日を明にすべきものは明倫堂のさくてんである。明倫堂と云ふ学校は金沢、名古屋、小諸、たかなべ等にもあるが、長崎にも此名の学校があつた。山口、倉敷の学校は同じく明倫と名けたが、堂と云はずして館と云つた。わたくしはかんさい詩集に於て明倫堂の名を見て、はぎのよしゆきさんにたゞし、始て諸国に同名のくわうしやがあつたことを知つた。

 長崎の明倫堂はもと立山にあつたが、正徳元年中島ちうせんざしに移された。当時祭酒を向井元仲と云つて、此年に堂宇をちようしうすることになつてゐた。

 蘭軒は恰も好し春の釈奠の日に会して、向井祭酒を見、又高松南陵の講書を聴いた。

 蘭軒の釈奠の詩は二首あつて、丙寅の冬「聞雪」の作と、丁卯の春徳見訒堂に訪はれた作との間にはさまつてゐる。そこでわたくしはこれを春の釈奠と定めた。釈奠は春二月と秋八月とに行ふもので、しやうていの日に於てする。萩野さんに質すに、朝廷の例が上丁であるゆゑ、武家はこれを避けて中丁とした。しかし往々上丁を以てしたこともあるさうである。わたくしはしばらく長崎明倫堂の丁卯春の釈奠は中丁を以てしたものと定める。

 さて暦を繰つて見れば、文化四年二月の丁日は五日、十五日、二十五日であつた。中丁は即ち二月十五日である。

 蘭軒は二月十五日に明倫堂に上つて釈奠の儀に列した。「明倫堂釈菜席上贈祭酒向井元仲。瓦屋石階祀聖堂。百年経歴鎮斯郷。遺言総是乾坤則。明徳長懸日月光。匏竹迎神声粛調。粢盛在器気馨香。更忻世業君能継。今歳重修数仞墻。」向井元仲の下に「なはふあざなはたいらい」と註し、又第八の下に「今年有堂宇重修之挙、故云」と註してある。

 向井元仲は霊蘭のすゑである。霊蘭元升は肥前神崎郡酒村の人向井兼義の孫であつた。兼義の次男が由右衛門兼秀で、兼秀の次男が霊蘭であつた。霊蘭はちはつして医を業としてゐたが、万治元年に京都にうつり、伊勢大神宮に詣でて髪を束ねた。霊蘭に五子四女があつた。長子仁焉子元端は一に雲軒と号し、医を以て朝に仕へ、益寿院と称した。長女春は早世した。二子義焉子元淵、名は兼時、をさななは平二郎、後俳人落柿舎去来となつた。二女佐世は宇野氏に嫁した。三子礼焉子元成は一にろていと号して儒となつた。通称は小源太であつた。四子智焉子利文、通称は七郎左衛門、出でて久米氏を嗣いだ。三女千代は清水氏に嫁した。田能村竹田の記に霊蘭の女せんこが俳諧を善くしたと云ふのは此人か。五子信焉子兼之は通称城右衛門であつた。四女は八重と云つた。元成は延宝七年に長崎に還り、りくちんけん南部草寿の後を襲いで、立山の学職に補せられた。元成より兼命元欽を経て兼般元仲に至り、元仲の後兼美、兼哲、兼通、兼雄を経て今の向井兼孝さんに至つたのださうである。

 蘭軒が元仲に贈つた詩の後に、又七律一首がある。「同前席上呈南陵高松先生、是日先生説書。久聞瓊浦旧儒宗。今日明倫堂上逢。霽月光風存徳望。霜鬚仙眼見奇容。詩書講義人函丈。音韻闡微誰比縦。桃李君門春定遍。此身覊絆奈難従。」南陵高松先生のしもに「先生なはぶんきあざなはきせき、於音韻学尤精究、しやくぶんゆう以来一人也」と註してある。

 竹田詩話に「余遊鎮、留僅一旬、所知唯四人、曰迂斎、東渓、南陵、石崎士斉、而南陵未及読其作」と云つてある。迂斎は吉村正隆、東渓は松浦陶である。南陵は此高松文熈であらうか。

 蘭軒は南陵を以て文雄以来の一人だとしてゐる。文雄の事は細説をたぬであらう。磨光韻鏡等の著者で、京都の了蓮寺、大坂の伝光寺に住してゐた。字はくわつねん、蓮社と号し、又了蓮寺が錦町にあつたので、しやうけいだうと号した。多く無相の名を以て行はれてゐる。



その五十三編集

 此年文化四年に蘭軒は長崎にあつてなにごとしたか、わたくしはこれをつまびらかにすることが出来ない。かんさい詩集を検するに、その交つた人々には徳見じんだうがあり、りうむたくがあり、長川某がある。又しゆんぷうらいゐきやうの来り訪ふに会した。しんひとにして蘭軒と遊んだものには、先づ伊沢信平さんの所蔵の蘭軒文集に見えてゐるちやうしうきんがある。次にていせきじやうがあり、こてうしんがあると、歴世略伝に見えてゐる。又わたくしが嘗て伊沢良子刀自を訪うて検し得た文書の中に、りくしうじつといふものの蘭軒に次韻した詩があり、柏軒門の松田だうふさんの話にはこううんかくも亦蘭軒と交つたさうである。

 徳見訒堂、名はしやうである。「長崎宿老」と註してある。「春日徳見訒堂来訪、手携都籃煮茶、賦謝」として七絶一首が集に載せてある。蘭軒の寓舎のせいすゐが長崎水品の第一だと云ふことは、此詩の註に見えてゐる。

 劉夢沢は長崎崇福寺の墓に山陽の撰んだ碑陰の記がある。「諱大基。字君美。号夢沢。通称仁左衛門。家系出於彭城之劉。因氏彭城。世為訳吏。君独棄宦。下帷授徒。多従学者。文政三年庚辰十月廿九日病歿。享年四十三。友人藝国頼襄惜其有志而無年也。為識其墓如此。」蘭軒の集には、「劉君美春夜酔後過丸山花街、忽見一園中花盛開、遂攀樹折花、誤墜園中、有嫖子数人来叱、看之即熟人也、君美謝罪而去云、詩以調之」として七絶が二首ある。其一に「謾被誰何君莫怪、仙姝旧自識劉郎」の句がある。

 長川某との応酬には、「賦蘭、寿長川翁」の五律がある。かみに見えた長川せいちやうと同人か異人かを詳にしない。

 張秋琴には二月に面晤した。蘭軒がこれに与ふる書にかう云つてある。「今年二月詣館中也。訳司陳惟賢引僕見先生。僕層々喜可知。当日戯曲設場。観者群喧。故不得尽其辞。(中略。)夫説書之業。漢儒専於訓詁。宋儒長於論説。而晋唐者漢之末流。元明者宋之余波也。至貴朝。則一大信古考拠之学。涌然振起。注一古書。必讐異於数本。考証於群籍。以僕寡見。且猶所閲。有山海経新校正。爾雅正義。明道板国語札記。大戴礼補註。古列女伝考証。呂覧墨子晏子春秋等校注。是皆不以臆次刪定一字。而讐異考証。所至尽也。不似朱明澆薄之世。妄加殺青。古書日益疵瑕也。只怪未見古医書之有考証者。近年有楓橋周錫瓚所刻華氏中蔵経。全拠宋本。而其脱文処。由呉氏本補入。毎下一按字以別之。不敢混淆。雖未得考拠之備。蓋信古者也。其他似斯者。亦無見矣。謹問貴邦当時医家者流。於信古考証之学。其人其書。有何等者歟。」わたくしは張のいかに答へたかを知らない。蘭軒を張に紹介したちんゐけんも或は清客か。

 程霞生赤城、一しやうたうである。しば/\長崎に来去して国語を解しげんぶんを識つてゐた。「こりずまに書くや此仮名文字まじり人は笑へど書くや此仮名」とか云ふ歌をさへ作つた。程の筆迹は今猶存してゐて、往々見ることがあるさうである。

 胡振、字は兆新、号は星池である。医にして書を善くした。江戸の人はたせいちは胡の書法を伝へて名を成したのだと云ふ。「星池秦其馨、書法遒逸、名声日興、旧嘗遊崎陽、私淑呉人胡兆新、遂能伝其訣、独喜使羊毫筆」と五山堂詩話に見えてゐる。山陽とりくじよきんと云ふものとの筆話に胡に言及し、「施薬市上」と云つてある。

 陸秋実の詩箋は、わたくしは一読過して鈔写するに及ばなかつた。

 こうかほ、芸閣の兄弟は清商中善詩善画を以て聞えてゐたと云ふ。松田道夫さんの話に、蘭軒が筆話の序に、国自慢の詩を書して示すと、程であつたか江であつたか、「江戸つ子ちゆうつ腹」と連呼したと云ふことである。恐くは彼「西土休誇文物美、逸書多在我東方」の一絶であらう。以上の数人の長崎に来去した年月は、必ずや記載を経てゐるであらう。願はくはそれを見て伝聞の確なりや否やを知りたいものである。

 頼春風は蘭軒を立山の寓舎に訪うた。「安藝頼千齢西遊来長崎、訪余客居、喜賦。遊跡遙経千万峰。尋余客舎暫停筇。対君今日称奇遇。兄弟三人三処逢。」長春水ゐくわんを広島に見、仲春風惟疆を長崎に見、季杏坪ゐじうを江戸に見たのである。

 蘭軒は此年何月に至るまで長崎にえんりうしたか、今これを知ることが出来ない。その長崎を去つた日も、江戸に還つた日も、並に皆不明である。しかしわたくしは此年八月十九日に蘭軒がまだ江戸にゐなかつたことを知つてゐる。それは後に云ふ所の留守中の出来事が、分明に八月十九日の事たるを徴すべきであるからである。

 既に蘭軒が八月十九日に未だ家に還らなかつたことを知れば、其父のぶしなが留守中に死んだことも亦疑を容れない。

 蘭軒の父隆升軒信階は此年五月二十八日を以て本郷の家に歿した。其妻に後るゝこと半年であつた。寿を得ること六十四、はふしして隆升軒興安信階居士と云つた。蘭軒は足掛二年の旅の間に、こじ併せ喪つたのである。

 信階の肖像は阿部家の画師むらかたあうみの作る所で、今富士川游さんの手に帰してゐる。わたくしは良子刀自の蔵する所の摸本を見た。広いひたひの隆起した、峻厳な面貌であつたやうである。村片はこたうと号して、狂歌狂句をも善くしたことが、伊沢分家所蔵のじんび贈答に見えてゐる。

 わたくしは此にかみに云つた八月十九日の出来事を記すこととする。分家伊沢の人々はしもの如くに語り伝へてゐる。蘭軒の長崎へ往つた留守中に深川八幡宮の祭礼があつて、しんけんの乳母の夫が近在から参詣に来た。蘭軒の妻益は乳母に、榛軒を背に負うて夫と倶に深川に往くことを許した。然るに榛軒は何故か急に泣き出して、いかに慰めても罷めなかつた。乳母はこれがために参詣を思ひ留まり、夫も昼よつどき前に本郷を出ることを得なかつた。これが永代橋の墜ちた時の事だと云ふのである。



その五十四編集

 此年文化四年の深川の八幡宮の祭は八月十五日と定められてゐた。隔年に行はるべき祭が氏子の争論のために十二年間中絶してゐたので、此年の前景気は非常に盛であつた。然るに予定の日から雨が降り出して、祭が十九日に延びた。当日は「至つて快晴」と明和誌に云つてある。江戸の住民はいふもさらなり、近在の人も競つて祭のねりものを看に出た。「昼四時霊巌島の出し練物永代橋の東詰まで来りし時、橋上の往来へんてん群集の頃、真中より深川の方へよりたる所三間ばかりを踏崩したり。次第に崩れて、跡より来るものもいかにともする事ならず、いやが上に重りて落掛り水に溺る。」伊沢氏の乳母と夫とは、をさなしんけんが泣いたために、此難を免れたのである。当時伊沢氏の子供は榛軒のたうすけが四歳、常三郎が三歳であつた。益は棠助を乳母に託して、自ら常三郎を養育してゐたのであらうか。

 蘭軒は長崎から還つた。其日は八月二十日より後であつた。此時に当つて蘭軒を薦めて幕府の医官たらしめようとしたものがあつた。しかし蘭軒は阿部家を辞するに忍びぬと云つて応ぜなかつた。

 かんさい詩集にはかくき詩稿の次に、森きゑんの手迹と覚しき文字で文化四年丁卯以後と朱書してある。此処に秋冬の詩が三首あつて、此より春の詩に移る。春の詩の中には戊辰の干支を記したものがある。わたくしはしばらく右の秋冬の詩を此年文化四年帰府後の作として視る。

 蘭軒は八九月の交に病んで、次で病のゆるに及んで、どこか田舎へ養生に往つてゐたかと思はれる。「山園雑興」の七律に、「病余只苦此涼秋」の句がある。

 季冬には蘭軒が全く本復してゐた。十二月十六日は立春で、友人の来たのを引き留めて酒を供した。「此日源士明、木駿卿、頼子善来話。昨来凝雪尚堆蹊。不惜故人踏作泥。壚酒交濃忘味薄。瓶梅春早見花斉。欲添炭火呼家婢。更覔菜羮問野妻。品定吾徒詩格罷。也評痴態没昂低。」

 げんしめいは植村氏、名はていかう、通称は彦一、江戸の人である。しゆんけいは木村さだよししぜんらいせんで、並に前に出てゐる。

 蘭軒雑記に士明の名が見えてゐる。それは或りげんの来歴を語つてゐるのである。「源士明いはく。俗に藪の中かう/\といふ事あり。人熱田之事をひけどもさにあらず。ようちゆうのかう/\といふ語の転音ならむ」と云ふのである。やぶのなかのこうのものと云ふ語は、古来随筆家しうしようの資となつてゐる。わたくしは今ことさらにこれを是非することを欲せない。しかし士明の説の如きは、要するに彼徂徠のなるべし系に属する。此系は今猶連綿として絶えない。最近松村任三さんの語源類解の如きも、亦此げんゐの一線上に占位すべき著述である。

 頼家では此年春水が禄三十石を増されて百五十石取になつた。

 文化五年には先づ「春遊翌日贈狩谷卿雲」の二絶がある。想ふに同行翌日の応酬であらう。近郊の花を看て、帰途柳橋辺で飲んだものかと推せられる。但近郊が向島でなかつたことは後に其証がある。「籬落春風黄鳥声。淡烟含雨未酣晴。日長踏遍千花海。晩向垂楊深巷行。」「解語新花奪酔魂。翠裳紅袖映芳尊。朝来総似春宵夢。贏得軽袗飜酒痕。」

 三月中に蘭軒は居を移した。伊沢分家の口碑には、此遷移の事が伝へられてゐない。集にする二律に「戊辰季春移居巷西」と題してあり、又「巷西茀地忽移家」の句もある。新居は旧居の西に当つてゐたが、相ること遠からず、或は町名だに変らなかつた位の事であらう。敷地は借地であつた。「借地開園方十歩」の句がこれを証する。家は前より広くなつたが、随つて相応に費用もかかつた。「今歳掃空強半禄、書斎薬室得微寛」の句がこれを証する。



その五十五編集

 此年文化五年の夏蘭軒は墨田川にすゞみ舟を泛べた。「夏日墨水舟中。抽身忙裏恰逢晴。潮満長江舟脚軽。西土帰来猶健在。復尋鴎鷺旧時盟。又。回風小艇自横斜。夏月遊宜在水涯。蘆岸柳堤行欲尽。一村開遍合歓花。」自註に云く。「余在西崎二年。帰後已一年。此日始来此地。顧思前遊。有如隔世。故云。」蘭軒の長崎行は往つた時が記してあつて、反つた時が記してない。蘭軒は文化三年五月十九日に江戸を発し、七月六日に長崎に著いた。そしてその江戸に帰つたのは四年八月二十日後であつたらしい。さうして見れば蘭軒は十五箇月以上江戸を離れてゐた。十二箇月以上長崎に留まつてゐた。此期間が余り延びなかつたことは、帰府後の秋の詩があるのを見て知られる。今「在西崎二年」と云つてあるのは、いはゆる足掛の算法である。又「帰後已一年」と云つてあるのも、十二箇月に満ちた一年とはみなされない。したがつて切角の自註が考拠上におほいなる用をばなさぬのである。只さきに狩谷棭斎に贈つた此年の春遊の詩が、向島の遊を謂ふのでなかつたことのみは、此に拠つて証せられる。

 夏の詩の後、秋の詩の前に、植村ていかうの大坂にくを送る詩がある。「源士明将之浪華、臨別詩以為贈。瀕海浪華卑湿郷。為君将道避痾方。酒宜微飲魚無飽。食飼案頭不撤姜。」医家の手に成つた摂生の詩である。

 秋に詩が四首ある。「秋晴」の五律の自註を見るに、此秋は雨のために酒の舟が入らなかつた。「今歳夏秋之際、霖雨数月、酒舸不漕港、以故都下酒価頗貴」と云ふのである。武江年表を検するに、うるふ六月より八月に至るまで雨が多く、七月二十五日の下に「酒船入津絶えて市中酒なし」と書してある。

「秋園詠所見」の詩の中にふぢばかまの一絶がある。「蘭草。世上栽蘭各自誇。蜂英菖葉映窓紗。要知楚畹真香物。請看簇生浅紫花。」蘭軒は後文政四年に長子しんけんと倶に再び蘭草を詠じた。「蘭花。元是清高楚畹芳。細花尖葉露瀼々。奈何幽致黄山谷。不賞真香賞贋香。」此詩のしもに自註がある。「世以幽蘭。誤為真蘭。西土已然。真蘭俗名布知波加末者是也。白楽天詩。蘭衰花始白。孟蜀韓保昇云。生下湿地。葉似沢蘭。尖長有岐。花紅白色而香。即是合所謂布知波加末者。而山谷云。一幹一花為蘭。是今所謂幽蘭也。世人襲誤。真蘭遂晦。但朱子楚辞辨証云。古之香草。必花葉倶香。而燥湿不変。故可刈佩。今之蘭蕙。但花香。而葉乃無気。質弱易萎。不可刈佩。必非古人所指。陳間斎亦云。今人所種如麦門冬者。名幽蘭。非真蘭也。朱陳二説。可謂為真蘭禦侮矣。今余詩聊寓復古之意云。」蘭軒と同じく此復古を謀つたものには狩谷棭斎がある。「楚辞にいふらには今云ふ藤ばかま今いふらには何といふらむ」の三十一字は、その嘗て人に答へた作である。しかし此の如く古の蘭草のために冤を洗ふことは、蘭軒棭斎等に始まつたのでは無い。単にわたくしの記憶する所を以てしても、貝原益軒の如きははやく蘭の藤袴なることを言つてゐた。

 蘭軒は道号に蘭蕑等の字を用ゐたので、特に蘭草のために多く詞を費すことを厭はなかつたのである。むらかたあうみの作つた蘭軒の画像には、背後のじへいにふぢばかまの花が插してある。村片はのぶしなのぶさだ二世の像を作つた。蘭軒の像の事は重て後に言ふこととする。

 わたくしはかんさい詩集に阿部侯そうけんの評語批圏のあることを言つたが、侯の閲を経た迹は此年の秋の詩に至るまで追尋することが出来る。是より以下には菅茶山の評点が多い。

 冬の詩は五首ある、十月には蘭軒が病に臥してゐた。「病中雑詠。空負看楓約。抱痾過小春。酒罌誰発蓋。薬鼎自吹薪。業是兼旬廃。家方一段貧。南窓炙背坐。独有野禽親。」業を廃ししよを失つたと云ふを見れば、病は稍重かつたであらう。

 蘭軒の病は十一月後にえてゐた。冬の詩の中には「雪中探梅」の作もある。

 此年蘭軒の家庭は主人三十二歳、妻益二十六歳、嫡子たうすけ五歳、次子常三郎四歳の四人から成つてゐた。



その五十六編集

 文化六年の春の初には、前年の暮に又病んでゐた蘭軒が回復したらしい。「早春登楼」の詩に「蘇暄身漸健、楼上試攀躋」と云つてある。蘭軒はかくの如く忽ち病み忽ちゆるを常としてゐたが、その病める間も大抵学業を廃せず往々公事をも執行してゐた。次年以下の勤向覚書を検すれば、此間の消息を知ることが出来る。

 二三月の交であらう。蘭軒のぐわいきう飯田休庵が七十の賀をした。「歌詠学成仙府調、薬丹伝得杏林方」は蘭軒が贈つた詩の頷聯である。わたくしは休庵が事迹の徴すべきものがあるために、ことさらに此二句を録する。歌詠の句の下に蘭軒は「翁嘗学国歌于亜相冷泉公」と註してゐる。休庵のぶかたの師は恐くはれいぜいためやすであらう。しゆくはつごとうがくと云つた人である。

 三月十三日に蘭軒は詩会を家に催した。「三月十三日草堂小集」の七律がある。「会者七人。犬塚印南、頼杏坪、石田梧堂、鈴木暘谷、諸葛某、木村文河、頼竹里也。」

 いんなんきやうへいぶんかちくりは既にかみに見えてゐる。文河はさだよし、竹里はせんである。

 石田梧堂、名はだうあざなは士道と註してある。秋田の人であらう。茶山集甲子の詩に「題文晁画山為石子道」の七律、丁丑の詩に「次梧堂見寄詩韻兼呈混外上人」の七絶、庚辰の詩に「題石子道蔵松島図」の七古がある。家は不忍池のほとりにあつたらしい。

 鈴木やうこくは名は文、字は良知と註してある。皇国名医伝には名は素行と云つてある。博学の人で、殊に本草に精しかつた。読書のために目疾を獲たと伝へられてゐる。

 もろくず某は或はきんたいではなからうか。手近にある二三の書を検するに、琴台の歿年は文化四年、七年、十年等と記してある。七年を正とすべきが如くである。果して然りとすると、此筵に列する後一年にして終つたのである。

 此春蘭軒が柴山謙斎の家の詩会にのぞんで作つた詩がある。謙斎は其人をつまびらかにしない。蘭軒の交る所に前にさいたんじんがある。人物の同異未詳である。

 夏の初と覚しき頃、蘭軒は又家を移した。しかし此わたましの事も亦伊沢分家の口碑には伝はつてゐない。「移家湖上。択勝構成湖上家。雨奇晴好向人誇。緑田々是新荷葉。白糝々為嫩柳花。烟艇載歌帰遠浦。暮禽連影落平沙。童孫采得蒓糸滑。菜品盤中一雋加。」時は蓮葉の開いて水面に浮び初むる比、所は其蓮の生ずる湖のほとりである。或は此家は所謂「湯島天神下薬湯」の家かとも疑はれる。しかし蘭軒の語に分明に「移家」と云ひ、「構成湖上家」と云ふを見れば、どうも薬湯の家とは認め難い。わたくしはしばらく蘭軒が一時不忍の池の辺に移住したものとみなして置きたい。但蘭軒は久しく此に居らずに、又本郷に還つたらしい。

 五月七日に蘭軒の師泉豊洲が歿した。年は五十二歳、身分は幕府さきてよりきの隠居であつた。先妻平洲のぢよは夫にさきだつて歿し、跡には継室麻田氏が遺つた。紀氏は一男一女を生んで、男は夭し、麻田氏は子がなかつた。

 豊洲は浅草新光明寺に葬られた。伊沢総宗家の墓のある寺である。豊洲の墓は墓地の中央本堂に近い処にある。同門の友人かばしませきりやうがこれに銘し、阿部侯そうけんが其面に題した。碑陰に書したものは黒川敬之である。豊洲の墓は幸にして猶存じてゐるが、既に久しく無縁と看做されてゐる。久しく此寺に居る老僕の言ふ所によれば、従来豊洲の墓にかうげを供したものはわたくし一人ださうである。

 樺島石梁、名は公礼、あざなせいぎ、通称は勇七である。豊洲が墓には「友人久留米府学明善堂教授樺島公礼銘」と署してゐる。



その五十七編集

 此夏、文化六年の夏、蘭軒は石坂はくけいと石田士道との家に会して詩を賦した。士道はかみに見えた梧堂であるが、白卿は未だ考へない。梧堂の居る所は小西湖亭と名づけ、蘭軒の詩にも「門蹊欲転小天台、窓歛湖光三面開」と云つてあるから、不忍池のほとりであつただらう。若し蘭軒の新に移り来つた湖上の家が同じく不忍池のほとりであつたなら、両家は相ること遠くなかつたかも知れない。蘭軒が詩の一には「酔歩重来君許否、観蓮時節趁馨香」の句もある。梧堂は恐くは蘭軒と同嗜の人であつただらう。わたくしは「箇裏何唯佳景富、茶香酒美貯書堆」と云ふよりかくの如く推するのである。

 茶山の集には此秋に成つた「寄蘭軒」と題した作がある。「一輪明月万家楼。此夜誰辺作半秋。茗水茶山二千里。無人相看説曾遊。」

 秋冬の蘭軒が詩には立伝の資料に供すべきものが絶て無い。しかし次年二月に筆を起してある勤向覚書に徴するに、蘭軒は此年十二月下旬より痼疾の足痛をうれへて、医師谷村げんみんの治療を受けた。谷村は伊予国大洲の城主加藤遠江守やすずみの家来であつた。或はおもふに谷村は蘭軒が名義上の主治医として願届に書した人名に過ぎぬかも知れない。

 頼菅二家に於て、山陽にかんなべの塾を襲がせようとする計画が、漸く萌し漸く熟したのは、此年の秋以来の事である。頼氏の願書が浅野家に呈せられたのが十二月八日、浅野家がこれを許可したのが二十一日、山陽が広島を立つたのが二十七日である。「回頭故国白雲下。寄跡夕陽黄葉村。」

 此年蘭軒は年三十三、妻ますは二十七、嫡子しんけんのぶあつは六つ、次子常三郎は五つであつた。

 文化七年は蘭軒がために詩の収穫の乏しかつた年である。集に僅に七絶三首が載せてあつて、其二は春、其一は夏である。皆考拠に資するには物足らぬ作である。これに反していはゆる勤向覚書が此年の二月に起藁せられてゐて、蘭軒の公生涯を知るべきギイドとなる。

 正月十日に蘭軒の三男柏軒が生れた。母はてきしつ飯田氏益である。をさななは鉄三郎と云つた。

 二月七日に蘭軒は湯島天神下薬湯へ湯治に往つた。「私儀去十二月下旬より足痛相煩引込罷在候而、加藤遠江守様御医師谷村玄珉薬服用仕、段々快方には候得共、未聢と不仕、此上薬湯え罷越候はゞ可然旨玄珉申聞候、依之月代仕、湯島天神下薬湯え三廻り罷越申度段奉願上候所、即刻願之通山岡衛士殿被仰渡候。」これが二月七日附の文書である。

 蘭軒は二十三日に至つて病え事を視ることを得た。「私儀足痛全快仕候に付、薬湯中には御座候得共、明廿三日より出勤仕候段御達申上候。」これが二十二日附である。しもに「翌廿三日出勤番入仕候」と書き足してある。今届と云ふ代に、当時たつしと云つたものと見える。

 夏は蘭軒がすこやかに過したことだけが知れてゐる。「夏日過両国橋。涼歩其如熱閙何。満川強半妓船多。関東第一絃歌海。吾亦昔年漫踏過。」素直に聞けば、余りに早く老いたのを怪みたくなる。しかし素直に聞かずには置きにくい詩である。三十四歳の蘭軒をして此語をなさしめたものは、恐くは其足疾であらうか。

 秋になつて八月の末に、菅茶山が蘭軒に長い手紙を寄せた。此かんどくは伊沢信平さんがわたくしに借してくれた二通の中の一つで、他の一つは此より後十四年、文政八年十二月十一日に裁せられたものである。わたくしは此二通を借り受けた時、ちとの遅疑することもなく其年次を考ふることを得て、大いにこれを快とし、直に記して信平さんに報じて置いた。今先づ此年八月二十八日の書を下に写し出すこととしよう。



その五十八編集

 茶山が文化七年八月二十八日に蘭軒に与へた書はしもの如くである。

「御病気いかが。死なぬ病と承候故、念慮にもかけずと申程に御座候ひき。今比は御全快奉察候。」

「中秋は十四日より雨ふり、十五日夜九つ過には雨やみ候へども、月の顔は見えず、十六日は快晴也。然るに中秋半夜の後松永尾道は清光無翳と申程に候よし。松永はわづか四里許の所也。さほどの違はいかなる事にや。そしいうは中秋万里同陰晴など申候。むかしより試もいたさぬ物に候。此中秋(承候処周防長門清光)松永四里之処にては余り之違に御座候。(其後承候に半夜より清光には違なし。奇と云べし。)海東二千里さだめて又かはり候事と奉存候。御賞詠いかゞ、高作等承度候。」

もくわうゑん主人時々御陪遊被成候哉。石田巳之介かきざき君などいかが、御出会被成候はば宜奉願上候。」

「特筆。」

「津軽屋いかゞ。春来は不快とやら承候。これも死なぬやまひにもやさふらふらむ。何様宜奉願上候。市野翁いかが。」

「去年申上候はなはしよのこと大事之事也。ねがはくは御帰城之便に二三巻づゝ四五人へ御託し被下候慥に届可申候。必々奉願上候。」

「長崎徳見茂四郎西湖之柳を約束いたし候。必々無間違贈候様、それよりも御声がかり奉願上候。」

「此辺なにもかはりなく候。あぶらやもとすけも同様也。久しく逢不申候。福山へんより長崎へ参候輩も皆々無事也。其うちやすへいと申は悼亡のいたみ御座候。玄間は御医者になり威焔赫々。私方養介も二年煩ひ、去年やうやく起立、豊後へ入湯道中にて落馬、やうやく生て還候。かくては志もとげず、医になると申候。」

「私方へ頼久太郎と申を、寺のごぢゆうと申やうなるもの、養子にてもなしに引うけ候。文章は無䨇也。ひととなりは千蔵よく存ゐ申候。年すでに三十一、すこし流行におくれたをのこ、廿前後の人の様に候。はやく年よれかしと奉存候事に候。」

「庄兵衛も店を出し油かみなどうり候。妻をむかへ子も出来申候。このちゆうも逢候へば辞安様はいかがと申ゐ候。」

「詩を板にさせぬかと書物屋乞候故、ばうへいていが集一巻あまりあり、これをそへてほらばほらせんと申候所、いかにもそへてほらんと申候故、ほらせ候積に御座候。幽霊はくらがりにおかねばならぬもの、あかりへ出したらば醜態呈露一笑の資と存候。銭一文もいらず本仕立は望次第と申候故許し候。さても可申上こと多し。これにて書とどめ申候。恐惶謹言。八月廿八日くわんたいちゆうしんすゐ。伊沢辞安様。」

「まちまちし秋の半も杉のかどをぐらきそらに山風ぞふく。これは旧作也。此ころの事ゆゑ書候。」

 以上が長さ三尺ばかりの黄色を帯びた半紙の巻紙に書いた手紙の全文である。此手紙の内容は頗豊富である。そしてそれが種々の方面に光明を投射する。わたくしはその全文を公にすることのとゐにあらざるを信ずる。

 最初に茶山は地の相ること遠からずして、気象の相殊なる例を挙げてゐる。此年の中秋には、神辺ははじめ雨後陰であつた。松永尾の道は半夜後晴であつた。周防長門も晴であつた。松永は神辺を距ること四里に過ぎぬに、早く既に陰晴を殊にしてゐた。茶山はそうひとの中秋の月四海陰晴を同じくすと云ふ説を反駁したのである。茶山は後六年文化十三年丙子に至つて、此庚午の観察を反復し、その得たる所を「筆のすさび」に記した。丙子の中秋は備中神辺は晴であつた。備前の中でしりうみは陰であつた。岡山は初晴後陰、北方は初陰後晴であつた。讃岐は陰、筑前は晴であつた。播磨は陰、摂津(須磨)は晴、山城(京都)は陰、大和(吉野)は大風、伊勢は風雨、みかは(岡崎)は雨であつた。観察の範囲は一層拡大せられて、旧説の妄はいよ/\明になつた。「常年もかかるべけれども、今年はじめて心づきてしるすなり」と、茶山は書してゐる。しかし茶山は丙子の年に始て心づいたのではない。五六年間心に掛けてゐて反復観察し、丙子の年に至つて始てこれを書に筆したのである。わたくしは少時井沢長秀のぞくせつべんを愛して、九州にゐた時其墓を訪うたことがある。茶山の此説の如きも、亦俗説辨を補ふべきものである。



その五十九編集

 庚午わうしうの茶山のせきどくには種々の人の名が見えてゐる。皆蘭軒の識る所にして又茶山の識る所である。

 其一はもくわうゑん主人である。かみに云つた犬塚いんなんで、此年六十一歳、蘭軒は長者として遇してゐた。茶山もこれをつまびらかにしてゐて、一ばいじを下してゐる。このごろ市河三陽さんが印南の事は「雲室随筆」を参照するが好いと教へてくれた。

 しやくうんしつの記する所を見れば、印南がいかなる時に籍を昌平黌に置いたかと云ふことがわかる。祭酒林家は羅山より鵞峰、ほうかう、快堂、鳳谷、竜潭、鳳潭の七世にして血脈が絶えた。八世錦峰信敬は富田能登守の二男で、始て林家へ養子にはいつた。市河寛斎は林家の旧学頭せきしようそうの門人にして、又新祭酒錦峰の師であつたので、学頭に挙げられた。聖堂は寛斎、やよすがしは松牕を学頭とすることとなつたのである。印南は此時代に酒井うたのかみたゞざね浪人結城唯助として入塾した。これが田沼とのものかみおきとも執政の間の聖堂である。松牕は意知に信任せられて聖堂の実権を握つてゐた。錦峰の実家富田氏は柳原松井町に住んでゐた七千石の旗下であつた。

 尋で田沼意知が死んで、楽翁公松平越中守定信の執政の世となつた。柴野りつざん、岡田寒泉が擢用せられ、松牕は免職離門の上虎の門外に住み、寛斎も亦罷官の上浅草に住んだ。聖堂は安原三吾、八代巣河岸は平沢旭山が預つた。然るに未だいくばくならずして祭酒錦峰が歿し、美濃国岩村の城主松平能登守乗保の子熊蔵が養子にせられた。いはゆるせういんこうしで、これが林家九世述斎のりひらとなつた。安原平沢両学頭は罷められて、安原は向柳原の藤堂佐渡守たかのぶが屋敷に移り、平沢はお玉が池に移つた。聖堂は平井澹所と印南とに預けられ、八代巣河岸は鈴木作右衛門に預けられた。後聖堂八代巣河岸、皆学頭を置くことを廃められて新に簡抜せられた尾藤二洲、古賀精里が聖堂にあつて事を視たと云ふのである。

 安原三吾と鈴木作右衛門とはやゝくらい人物である。市河三陽さんは寛斎漫稿の安原きそう、安原せいしゆくかみに見えた三吾を同一人とすると、名は希曾、あざなは省叔、通称は三吾となる筈だと云つてゐる。又同書の鈴木とくほは或は即作右衛門ではなからうかと云つてゐる。鈴木が後に片瀬氏に更めたことは雲室随筆に註してある。

 此に由つて観れば印南は犬塚、青木、結城、犬塚と四たび其氏を更めたと見える。又昌平黌に於ける進退出処もほゞ窺ひ知ることが出来る。官を罷めた後の生活は前に云つたとほりである。

 其二は石田巳之助である。茶山蘭軒二家の集に石田だう、字は士道、別号は梧堂と云つてあるのは、或は此人ではなからうか。

 其三はかきざき氏で、いはゆるげんはきやうである。此年四十一歳であつた。

 其四の津軽屋は狩谷棭斎である。「春来不快とやら」と云つてある。此年三十六歳であつた。

 其五の市野翁は迷庵である。此年四十六歳であつた。

 其六のはなはほき一である。此年六十五歳であつた。茶山は群書類従の配附を受けてゐたと見える。阿部侯「御帰城の便に二三巻宛四五人へ御託し被下候はば慥に届可申候」と云つてゐる。

 其七の徳見茂四郎は或はじんだう若くは其族人ではなからうか。長崎にある津田繁二さんは徳見氏のえいゐき二箇所を歴訪したが、名字号等をらず、皆単に宗淳、伝助等の称を彫つてあるので、これを詳にすることが出来なかつた。只天保十二年に歿した昌八郎光芳と云ふものがあつて、たま/\訒堂のいみなを通称としてゐたのみである。徳見茂四郎は長崎から西湖の柳を茶山に送ることを約して置きながら、久しく約を果さなかつた。そこで蘭軒に、長崎へ文通するとき催促してくれいと頼んだのである。

 其八の「あぶらや本介」は即ちゆげんじよである。其九其十の保平、玄間は未だ考へない。保平はことさらに「やすへい」と傍訓が施してある。妻などを喪つたものか。未だ其人を考へない。玄間は三沢氏で阿部家の医官であつた。「御医者」になつていばると云ふのは、町医から阿部家に召し抱へられたものか。

 其十一の「養介」は茶山の行状に所謂要助万年であらう。わたくしは蘭軒が紀行に養助と書したのを見て、誤であらうと云つた。しかし茶山も自ら養に作つてゐる。既に油屋の元助を本介に作つてゐる如く、拘せざるの致す所である。容易に是非を説くべきでは無い。果して伯父茶山の言ふ所の如くならば、万年の否運は笑止千万であつた。

 茶山のしよどくは此より山陽の噂に入るのである。



その六十編集

 菅茶山が蘭軒に与へた庚午の書には、人物の其十二として山陽が出てゐる。

 茶山は此書に於て神辺に来た山陽を説いてゐる。彼の神辺を去つた山陽を説いた同じ人の書は、嘗て森田思軒の引用する所となつて、今所在を知らぬのである。二書は皆蘭軒に向つて説いたものであるが、初の書は猶伊沢氏宗家の筐中に留まり、後の書は曾て高橋太華の手を経て一たび思軒の有に帰したのである。

 此書に於ける茶山の口気は、恰も蘭軒に未知の人を紹介するものゝ如くである。「頼久太郎と申を」の句は、人をして曾て山陽の名が茶山蘭軒二家の話頭に上らなかつたことを想はしむるのである。蘭軒はしば/″\茶山に逢ひながら、何故に一語のしゆくえんある山陽に及ぶものが無かつただらうか。これは前にも云つた如く、蘭軒が未だ山陽に重きを置かなかつた故だとも考へられ、又江戸に於ける山陽の淪落的生活が、好意を以て隠蔽せられた故だとも考へられる。

 神辺に於ける山陽の資格は「寺の後住と申やうなるもの」と云つてある。茶山が春水に交渉した書には「りよじゆく附属」と云ひ、春水が浅野家に呈した覚書には「稽古場教授相譲申度趣」と云つてあるが、後住の語は当時しば/\茶山の口にし筆にした所であつて、山陽自己も慥にこれを聞いてゐた。それは山陽がつきやまほうえいに与へた書に、「学統相続と申て寺の後住の様のものと申事」と云つてあるのに徴して知られる。

 又「養子にてもなしに」の句も等間看過すべからざる句である。前に云つた春水の覚書にも「尤先方家続養子に相成、他姓名乗様の儀には無之」とことわつてある。

 要するに家塾を譲ると云ふことと、菅氏を名乗らせて阿部家に仕へさせると云ふこととの間には、初より劃然としたしやべつがしであつた。後に至つて山陽の「上菅茶山先生書」に見えたやうな問題の起つたのは、福山側の望蜀の念に本づく。

 茶山が山陽を如何に観てゐたかと云ふことは、事新しく言ふことをもちゐない。此書は既に提供せられたきよたの証の上に、更に一の証を添へたに過ぎない。「文章は無䨇也」の一句は茶山が傾倒の情を言ひ尽してゐる。傾倒の情いよ/\深くして、其しびやうあきたらぬ感も愈切ならざるを得ない。「年すでに三十一、すこし流行におくれたるをのこ、廿前後の人の様に候、はやく年よれかしと奉存候事に候。」其才には牽引せられ、其迹には反撥せられてゐる茶山の心理状態が遺憾なく数句の中に籠められてゐて、人をして親しく老茶山のことを聴くが如き念をさしむるのである。

 わたくしは此書を細検して、疑問の人物頼遷が稍明に姿を現し来つたかと思ふ。それは「為人は千蔵よく存ゐ申候」の句を獲たるが故である。千蔵は山陽を熟知してゐる人でなくてはならず、又江戸にゐて蘭軒の問に応じ得る人でなくてはならない。わたくしは其人を求めて、直に遷に想ひ到つた。即ちかんさい詩集及長崎紀行に所謂頼遷、字は子善、別号は竹里である。

 然るに載籍に考ふるに、千蔵は頼公遷の通称である。公遷、通称は千蔵別号は養堂として記載せられてゐる。

 是に於て遷即公遷であらうと云ふ木崎好尚さんの説の正しいことが、ほゞ決定したやうに思惟せられる。わたくしは必ずしも頼氏の裔孫の答を待たなくても好ささうである。

 わたくしはしばらしもの如くに湊合して見る。「頼公遷、省いて遷とも云ふ、あざなは子善、通称は千蔵、別号は竹里、又養堂。」



その六十一編集

 菅茶山の書中には猶其十三庄兵衛と云ふ人物が出てゐる。庄兵衛は茶山の旧僕である。茶山の供をして江戸に往つて蘭軒に識られ、蘭軒が神辺に立ち寄つた日にも、主人に呼ばれて挨拶に出た。しよどくは、殆ど作物語の瑣細な人物の落著をも忘れぬ如くに、此庄兵衛の家を成し業を営むに至つたさまをも記してゐる。

 其十四として茶山のこといはゆる「亡弊弟」に及んでゐる。即ち茶山の季弟ちあんしんぱうしんけい、通称はけいじである。茶山の行状等には晋宝が「晋葆」に作つてある。

 茶山は書肆に詩を刻することを許すとき、恥庵の遺稿を附録とすることを条件とした。こはらげふふの序にも同じ事が言つてある。「先生曰。我欲刻亡弟信卿遺稿。因循未果。彼若成我之志。則我亦従彼之乞。書肆喜而諾。乃斯集遂上木。附以信卿遺稿。」大抵詩を刻するものは自らを投ずるを例とする。古今東西皆さうである。然るに茶山は条件を附けて刻せしめた。「銭一文もいらず、本仕立御望次第と申候故許し候」と云つてある。其喜は「京師書肆河南儀平損金刊余詩、戯贈」の詩にも見えてゐる。「曾聞書賈黠無比。怪見南翁特地痴。伝奇出像人争購。却損家貲刻悪詩。」小説の善くれるに比してあるのは妙である。小原も亦云つてゐる。「余嘗聞袁中郎自刻其集。幾売却柳湖荘。衒技求售。誰昔然矣。先生之撰則異之。不自欲而書肆乞之。乞之不已。則知世望斯集。不翅余輩。」すゐせきよりしかりちんぷうぼもんの章からそつくり取つた句である。じがに「誰昔昔也」と云つてある。

 黄葉夕陽村舎詩が附録恥庵詩文草と共に刻成せられたのは文化九年三月である。此手紙は「ほらせ候積に御座候」と云つてあるとほり、しやうぼくに決意した当時書かれたもので、小原の序もまだ出来てはゐなかつたのである。

 狩谷氏では此年文化七年に棭斎のぢよしゆんが生れた。後に同齢の柏軒に嫁する女である。伊沢分家の人々は、此ぢよの名は初めたかと云つて、後しゆんと更めたと云つてゐる。俊は峻と相通ずる字で、初めたかと訓ませたが、人は音読するので、終に人の呼ぶに任せたのかも知れない。

 多紀氏では此年十二月二日に桂山が歿した。二子の中りうはんは宗家を継ぎ、さいていは分家を創した。後に伊沢氏と親交あるに至つたのは此茝庭である。

 此年蘭軒は年三十四、妻益は二十八、三子しんけんたうすけ、常三郎、柏軒鉄三郎は長が七つ、仲が六つ、季が当歳であつた。

 文化八年は蘭軒にやすらかな春を齎した。「辛未早春。除却旧痾身健強。窓風軽暖送梅香。日長添得讐書課。亦奈尋紅拾翠忙。」とへい転じ風物改まつても、蘭軒は依然としてかうしうの業を続けてゐる。

 此年には葌斎詩集に、前の早春の作を併せて、只二首の詩が存してゐるのみである。わたくしは余の一首の詩を見て、堀江いんと云ふものが江戸から二本松へ赴任したことを知る。允、字は周輔で、蘭軒は餞するに七律一篇を以てした。頷聯に「駅馬行駄緗布帙、書堂新下絳紗帷」と云ふより推せば、堀江は聘せられて学校に往つたのであらう。七八は「祖席詞章尽神品、一天竜雨灑途時」と云ふのである。茶山が「一結難解」と批してゐる。此句はわたくしにもよくは解せられぬが、雨は恐くは夏の雨であらうか。果して然らば堀江の江戸を発したのも夏であつただらう。

 わたくしは又詩集の文化十三年丙子の作を見て、蘭軒がしやくこんげと交を訂したのは此年であらうと推する。丙子の作は始て混外を見た時の詩で、其引にかう云つてある。「余与混外上人相知五六年於茲。而以病脚在家。未嘗面謁。丙子秋与石田士道、成田成章、太田農人、皆川叔茂同詣寺。得初謁。乃賦一律。」此によつて逆算するに、若し二人が此年に相識つたとすると、辛未より丙子まで数へて、丙子は第六年となるのである。

 混外、名はいうきん、王子金輪寺の住職である。「上人詩素湛深、称今寥可」と、五山堂詩話に云つてある。



その六十二編集

 頼氏では此年文化八年の春、山陽が三十二歳でかんなべの塾を逃げ、上方へ奔つた。うるふ二月十五日に大坂篠崎小竹の家に著き、其紹介状を貰つて小石元瑞を京都に訪うた。次で山陽はを新町に下して、京都に土著した。嘗て森田思軒の引いた菅茶山の蘭軒に与ふる書は、此比裁せられたものであらう。当時の状況を察すれば、書にゑんたいの語多きは怪むことをもちゐない。しかし山陽の諸友は逃亡の善後策を講じて、ほゞ遺算なきことを得た。五月には叔父春風が京都の新居を見に往つた。山陽が歳暮の詩に「一出郷国歳再除」と云つたのは、庚午の除夜を神辺で、辛未の除夜を京都で過すと云ふ意である。「一出郷国歳再除。慈親消息定何如。京城風雪無人伴。独剔寒燈夜読書。」

 わたくしは此年十二月十日に尾藤二洲が病を以て昌平黌の職を罷めたことを記して置きたい。当時頼春水の寄せた詩に、「移住林泉新賜第、擬成猿鶴旧棲山」の一聯がある。していは壱岐坂にあつた。これは次年の菅茶山の手紙の考証に資せむがために記して置くのである。

 此年蘭軒は三十五歳、妻益は二十九歳、榛軒は八歳、常三郎は七歳、柏軒は二歳であつた。

 文化九年は蘭軒がために何か例にたがつた事のあつたらしい年である。何故かと云ふに、かんさい詩集に壬申の詩が一首だに載せて無い。

 わたくしは先づ蘭軒が病んだのではないかと疑つた。しかし勤向覚書を見るに、春より夏に至るまで、阿部家に於ける職務をば闕いてゐなかつたらしい。わたくしはしばらく未解決のままに此疑問を保留して置く。

 正月二日に蘭軒の二女が生れて、八日に夭した。先霊名録に第二女として智貌童子の戒名が書してある。童子が童女の誤であるべきことは既に云つた。このごろ聞く所に拠れば、夭折した長女はてつで、次が此女であつたさうである。

 勤向覚書に此一件の記事がある。「正月二日卯上刻妻出産仕、女子出生仕候間、御定式之通、血忌引仕候段御達申上候。同月四日血忌引御免被仰付候旨、山岡治左衛門殿被仰渡候。翌五日御番入仕候。同月八日此間出生仕候娘病気之処、養生不相叶申上刻死去仕候、七歳未満に付、御定式之通、三日之遠慮引仕候段御達申上候。同月十一日御番入仕候。」

 五月に蘭軒が阿部家の職に服してゐた証に充つべき覚書の文はしもの如くである。「五月九日永井栄安、成田玄良、岡西栄玄、私、右四人丸山御殿え夜分一人づゝ泊り被仰付候段、御用番町野平助殿被仰渡候。」蘭軒の門人録に成田良純、後竜玄がある。玄良は其父か。岡西栄玄は蘭軒の門人玄亭と渋江抽斎の妻徳との父である。

 秋に入つて七月十一日に飯田休庵信方が歿した。先霊名録に「寂照軒勇機鉄心居士、(中略)墓在西窪青竜寺」と記してある。即ち蘭軒のぐわいきうである。家は杏庵が襲いだ。伊勢国こものの人、黒沢退蔵の子で、休庵の長女の婿となつた。蘭軒の妻益は休庵の二女であつた。

 休庵は豊後国大野郡岡の城主中川修理大夫ひさたかの侍医であつた。平生歌道を好んで、教を冷泉家に受けた。上にも云つた如く、恐くはためやすにふだうとうがくの門人であつたのだらう。伊沢分家所蔵の源氏物語にしもの如き奥書がある。「右源氏物語三十冊、外祖父寂照軒翁之冷泉家之御伝授受、書入れ給之本也、伊沢氏。」

 頼氏では此年春水が六十七歳になつた。「明君能憐我、膴養上仙班、(中略)如此二十載、光陰指一弾」の二十は恐くは三十ではなからうか。安永九年に浅野家に召し出されてから三十三年、広島の邸を賜つてから二十四年になつてゐる筈である。

 此年蘭軒は年三十六、妻益は三十、長子榛軒は九つ、常三郎は八つ、柏軒は三つであつた。



その六十三編集

 文化十年には蘭軒が正月にづふううれへたことが勤向覚書に見えてゐる。「正月十日私儀頭風相煩候に付、引込保養仕候段御達申上候」と云つてある。

 しかし病は甚だ重くはなかつたらしい。詩集に「癸酉早春、飜刻宋本国策、新帰架蔵、喜賦」として二絶が載せてある。奇書を獲た喜がちよへうに溢れてゐて、其意気の旺なること病褥中の人の如くでは無い。「宏格濶欄箋潔白。学顔字画勢遒超。呉門好事黄蕘圃。一様影摸紹興雕。」「世間謾道善蔵書。纔入市門得五車。我輩架頭半奇籍。窃思秘閣近何如。」茶山の評に「寇準事々欲抗朕」と云つてある。句々蘭軒にあらでは言ふこと能はざる所で、茶山の一謔も亦頗る妙である。

 経籍訪古志に「戦国策三十三巻、清刊覆宋本、漢高誘註、清嘉慶中黄丕烈依宋木重刊、末附考異」としてある。或は此本であらうか。しかし酌源堂蔵の註を闕いでゐる。

 二月に入つても、蘭軒は猶病後の人であつたと見える。覚書にかう云つてある。「二月二十五日頭風追々全快仕候に付、月代仕、薬湯え三廻り罷越度段奉願上候処、即刻願之通被仰付候段、山岡治左衛門殿被仰渡候。」さかやきはしても猶湯治中で、職には服してをらぬのである。

 然るに詩集には春游の七律があつて、其起には「東風送歩到江塘、翠浪白砂花亦香」と云つてある。又「上巳与余語觚庵犬冢吉人、有泛舟之約、雨不果、賦贈」の七絶さへある。「雨不果」と云つて、「病不果」とは云はない。春游の詩は実を記したので無いとも見られようが、舟を泛ぶる約は必ずあつたのであらう。或は想ふに、当時養痾中の外游などは甚しく忌まなかつたものであらうか。

 よご氏はよゝ古庵の号をいだものである。古庵一に觚庵にも作つたか。当時の武鑑には、「五百石、奥詰御医師、余語良仙、本郷弓町」として載せてある。

 いぬづかきつじんいんなんか、又は其族人か。印南は此年文化十年十一月十二日に歿したと、らうちよけんの墓所一覧に云つてある。若し舟遊の約をしたのが印南だとすると、それは冬死ぬべき年の春の事であつた。序に云ふ。老樗軒はわたくしは「らうちよけん」と訓んでゐたが、今これを筆にするに当つて疑を生じ、手近な字典を見、更にせつもんをも出して見た。説文にくわは「从木雩声、読若華」、ちよは「从木虖声」と云つてある。字典は樗のもとに集韻を引いて「又作㯉、丑居切」と云ひ、㯉の下には只「同樗」と云つてゐる。文字を知つた人の教を受けたい。

 覚書と詩集とにはかくの如きていごがあるが、蘭軒が病なくして病と称したのでないことは明である。集に「病中偶成」の五律がある。「時節頃来好。抱痾倦日長。晴山鳩穀々。春社鼓鏜々。盃酒将忘味。薬湯頻換方。花期看自過。昏夢繞池塘。」茶山は「医人之病、往々如此、詩則妙」と評してゐる。

 春の詩の後に白氏文集の善本を獲た時の作がある。「余蔵白氏集活字版本、旧年売却、頃書肆英平吉携来一本、即旧架物也、購得記喜。物帰所好不関貧。得失従来如有神。富子蔵書都記印。奇書自属愛書人。」経籍訪古志に、「白氏文集七十一巻、元和戊午那波道円活字刊本」と云つてあるのは是か。訪吉志は「戊午」を「戊半」と誤つてゐるが、後文に「戊午七月」と云つてある。此にも酌源堂蔵とは註して無い。

 わたくしは前の戦国策と云ひ、此白氏文集と云ひ、伊沢氏酌源堂のざうきよと覚しきものが、皆其所在の記註を闕いでゐるのを見て、心これを怪まざることを得ない。和田万吉さんは「集書家伊沢蘭軒翁略伝」にかう云つてゐる。「経籍訪古志本文中酌源堂の蔵儲を採録せるは僅に六七種に過ぎず、之を求古楼、崇蘭館、宝素堂等の所蔵に比べて、珍本良書の数量上に著き遜色あるが如く見ゆるは怪むべし」と云つてゐる。おもふにわたくしの彼疑がけたら、随つて和田さんの此疑も釈けるのではなからうか。多く古書の聚散遷移の迹を識つてゐる人の教を乞ひたい。



その六十四編集

 わたくしは前年文化九年に蘭軒が詩を作らなかつたことを怪んだ。然るに此年文化十年にも亦怪むべき事がある。かみに引いた春の詩数首は茶山の批閲を経たものが多い。批閲は後に加へたものである。これに反して茶山は春以来しば/\書を蘭軒に寄せたのに、蘭軒は久しくこれに答へなかつた。蘭軒は病んではゐたが、其病は書を裁することをさまたぐる程のものではなかつたらしい。前年ぎんがを絶つてゐた故が不審である如く、此年に不沙汰をした故も亦不審である。

 茶山は六月十二日に今川槐庵に書を与へた。これは槐庵をして蘭軒の報復を促さしめようとしたのである。此書はわたくしがあへばくわうそんさんに借りた茶山しゆかんの中の一通である。

 わたくしは茶山の書の全文を此に写出する。

「大暑の候いよ/\御安祥御勤被成候由、奥様にもさだめて御安祥、恐悦奉賀候。先頃はしんやうほうひ沢山に御恵被下、忝奉存候。御蔵版に御座候而又も可被下旨、べつして雀躍仕候。近比は御多事に御座候由、御推察申上候。」

「伊沢いく度状遣候も、一字隻言之返事もなく候。此人今は壮健之由可賀候。」

「蘇州府の柳をもらひ、庭前にさしおき、活し申候。おほきになり、枝をきられ候時に至候はば進上可致候やと御伝へ可被下候。柳は早き物に候。来年あたりは被贈可申候。徳見茂四郎より囉申候。」

「伊沢正月金子入書状之返事も無御座候而、頼遣し候ことも、なしともつぶてとも無之候。これらのことちと御尋被下度奉希候。御忙劇之中へかかること申上候、これも伊沢返事なき故也。このかんを御しかり可被下候。」

せんだつて伊沢話に、津軽屋へ便御座候家、大坂筑前屋と申に御座候由、それがししまとやら承候而忘れ申候。只今も其家より便御座候はば、伊沢より被申下候様御頼可被下候。近比御便すくなく、ちと大なる封などはいたしかたなく候。筑前あき長門等之御参勤をまち候へども、儀衛中に知音無之ときは夫も出来不申こまり申候。御面倒之御事伊沢と御一緒に御覧、彼方より申参候様御頼可被下候。恐惶謹言。六月十二日。くわんたいちゆうしんすゐ。今川剛八様侍史。筑前屋より津軽屋へ之便一年にいくたび御座候やいつごろ御座候やも奉願上候。」

 此書を読めば、蘭軒が数回の茶山の書に答へずにゐたことが知られる。なかんづく正月に発した金子入の書は、茶山が必ず報復を得ることを期してゐたのに、蘭軒はこれにさへ答へずにゐた。蘭軒がかくまで通信を怠つてゐたのは何故か不審である。

 茶山が徳見に託して西湖の柳を取り寄せようとしてゐたことは前にも見えてゐた。茶山は柳の来るを待ち兼ねて、蘭軒をして徳見に書を遣つて督促せしめようとしたのである。此書を見るに、柳は既に来た。そして茶山は蘭軒に其枝を分たうと云つてゐる。山田はうこくが茶山の家の此柳を詠んだ和歌がある。「西湖柳。もろこしのたねとしきけど日の本の風にもなびく糸やなぎかな。」当時長崎から柳を得たものは、独り茶山のみではなかつたと見えて、石原某の如きもこれを栽ゑて柳庵と号し、頼春水に詩を索めた。「石原柳庵得西湖柳、以名其庵、索詩。分得西湖堤上翠。併烟移植読書槞。春風応引蘇公夢。万里来遊日本東。」

 当時福山と江戸との間の運輸通信がいかに難渋であつたかは、此書に由つて知られる。茶山が蘭軒に不満であつたのも、此難渋に堪へずして焦燥した余の事である。そして茶山が其不満を説いて露骨を嫌はず、「このかんを御しかり可被下候」と云ふに至つたのは、たま/\以て二人の交の甚深かつたことを証するに足るのである。



その六十五編集

 茶山は書を槐庵に与へた後、又一箇月の間忍んで蘭軒の信書をつてゐた。気の毒な事にはそれはそらだのめであつた。然るに此年文化十年七月下旬にたま/\江戸への便があつたので、茶山は更に直接に書を蘭軒に寄せた。即ち七月二十二日附の書で、亦わたくしがあへばくわうそんさんに借りた一括のせきどくの中にある。わたくしはこれをも省略せずに此に挙げる。

「春来一再書状差上候へ共、漠然として御返事もなし。いかにと人に尋候へば、辞安も今は尋常的の医になりし故、儒者めけるものの文通などは面倒に思候覧などと申候。我辞安其ていにはござあるまじく、大かたは医をおこなひいそがしき事ならむと奉存候。しかしたとひいそがしくとも、折節寸札御返事はこひねがひたてまつり候。只今にては江戸之時事一向にしれ不申、隔世之様に被思候。これは万四郎などといふものの往来なく、倉成善司(奥平家儒官)卒去、尾藤先生老衰隠去と申様之事にて候。しかるを我辞安行路之人のごとくにては、外に手蔓無之こまり申候。何分今度は御返事可被下候。こりてもこりず又々用事申上候。」

「用事。一、御腰に下げられ候巾著、わたくしへも十年前御買被下候とのゐものの形なり。あたひ十匁と申を九つか十か御こし被下度候。これは人にたのまれ候。皆心やすき人也。金子は此度之便遣しがたく候。よき便の時さし上可申候。ねだん少々のぼも不苦候。必々奉願上候。」

「私詩集東都へ参申候哉。書物屋うりいそぎをいたし、校正せぬさきにすり出し候も有之候。もし御覧被下候はば、まつせうとうに五言古詩の長き作入候本よろしく候。(とう/\あんぶげんしつと申人の跋の心にいれたる詩也。)これのなき方ははじめ之本に候。」

「津軽屋へ出入候筑前船之便に而、津軽屋へ頼遣候へば、慥に届申候由、前年御書中に被仰下候大阪えびすじま筑前屋新兵衛とやら、慥には無之覚ゐ申候。向後頼候而も不苦候哉。只今はほしうつりものかはり候事也。此事も承はり度奉存候。此御返事早く奉願候。」

「一、はなはへ之頼之本少々のこり候品、何卒可相成候はば早く御越奉願上候。これも熱のさめぬうちに非ざれば出来不申候もの也。」

「一、前年かきざきしやうげん殿へ遣候書状御頼申候。其後はびんしよも出来候事に御座候哉。又々書状遣度候へ共、よき便所を得不申候。犬塚翁などへ、通路も御座候や御聞合可被下候。是亦奉願上候。」

「得意ざきへ物買に行ごとく、用事ばかり申上候事、思召も恥入候。然ども外にはいたしかた無之、よんどころなく御頼申上候。これまた前世より之ごふなどと思召、御わきまへ被下度奉願上候。」

「御内上様へついでに宜奉願上候。敬白。七月廿二日。くわんたいちゆうしんすゐ。伊沢辞安様侍史。猶々妻もわたくしより宜申上候へとまをしたくし候。」

 茶山は蘭軒の返信を促すに、一たび間接の手段を取つて、書を今川槐庵に与へたが、又もとの直接の手段に立ち戻つて此書を蘭軒に寄せた。神辺にあつて江戸の消息を知るには、蘭軒にる外に途が無かつたのである。

 茶山は頼きやうへいが江戸に往来しなくなつたり、倉成りゆうしよが死んだり、尾藤二洲が引退したりしたと云ふやうな江戸の時事が知れぬのに困ると云つてゐる。要するに茶山の知らむと欲するは騒壇の消息であつて、遺憾なくこれを茶山に報ずることを得るものは、蘭軒を除いては其人を得難かつたのであらう。江戸の騒壇は暫く顧みずにゐると、人をして隔世の想をなさしめる。これを知らぬものはさうふになつてしまふ。これは茶山の忍ぶこと能はざる所であつた。そこで「儒者めけるものの文通は面倒に思候覧」と人が云ふと云ひ、「行路之人のごとく」になられては困ると云つて、不平を漏らしたのである。



その六十六編集

 頼きやうへいは此年文化十年に五十八歳になつてゐた筈である。わたくしは特に杏坪の事をしらべてをらぬが、これは天保五年に七十九歳で歿したとして逆算したのである。しかし竹田は文政九年丙戌に七十二歳だと書してゐる。若し竹田に従ふと一歳を加へなくてはならない。わたくしがつうづの説に従ふのは、蘭軒が春水父子の齢を誤つた如く、竹田も杏坪の齢を誤つたかと疑ふからである。

 杏坪が江戸にわうへんしなくなつたのは何故であらうか。こほりぶぎやうにせられたのが此年の七月ださうだから、早く年初若くは前年より東遊せずにゐたのであらうか。頼氏の事に明るい人の教を受けたい。

 倉成りゆうしよの歿したのは前年文化九年十二月十日で、齢は六十五であつた。名はけいであつたらしい。えんじの世となつてから、経と書しかうと書し、諸書まち/\になつてゐる。あざなは善卿、通称は善司であつた。豊前国字佐郡の人で、同国中津の城主奥平大膳大夫昌高に仕へた。初め京都に入つて古義堂を敲き、後せいしまさのぶの侍読となつて江戸に来り、紀平洲等と交つた。寛政八年藩校進脩館の興るに当つて、竜渚はこれが教授となつた。諸書に見えてゐる此人の伝は、主に樺島石梁の墓表に本づいてゐるらしい。

 尾藤二洲の病免は前々年文化八年十二月十日で、当時六十七歳であつた。春水遺稿の詩引にいはゆる「製小車逍遙」も暫しの間の事で、此手紙に書かれた年の十二月四日には、六十九歳で歿したのである。

 手紙の「用事」と題した箇条書のはじめに、巾着の註文がある。そして此巾着はわたくしに重要な事を教へる。わたくしははやく蘭軒と茶山との交通はいつ始まつたかと云ふ問を発した。此交通は寛政四年に茶山が阿部家に召し抱へられた後に始まつただらうとは、わたくしの第一の断案であつた。次でわたくしは文化元年二月に小川町の阿部邸に病臥してゐる茶山の許へ、蘭軒が菜の花を送つた事実を見出だし、これを認めて「記載せられたる最初の交通」となし、二人の相待つに故人を以てしてゐたことを明にした。これを第二の断案とする。さて今此巾着の註文を見るに、「十年前御買被下候とのゐものゝ形なり」と云つてある。文化十年より溯つて十年前とすれば、享和三年である。蘭軒は享和三年に巾着を買つて茶山に送つたのである。蘭軒と茶山との間には、既に亨和三年に親交があつたのである。享和三年は文化紀元に先だつこと僅に一年ではあるが、わたくしがためには此小発見も亦重要である。

 次に黄葉夕陽村舎集が始て発行せられた時の事が言つてある。当初此集に悪本と善本とが市に上つた。悪本は「書物屋うりいそぎをいたし校正せぬさきにうり出し候」と云ふ本である。後に校正済の善本が出た。わたくしはこれを読んで独り自ら笑つた。文化の昔も大正の今も、学者は学者、商人は商人である。世態人情古今同帰である。茶山は蘭軒に善悪二本を鑑別する法を授けた。それは巻尾にとう/\あんの五古を載せたものが善本だと云ふのである。「読恥庵集書感」の詩で、「垂老空掻首、人間鎮寥閴」を以て結んであるのが即是である。

 次は狩谷えきさいの店津軽屋と筑前船との事、はなはほき一から取り寄せる書籍の残の事、かきざきはきやうへ文通の事である。初わたくしは前に引いた書に波響だけが「君」と書してあり、又此書にも「殿」と書してあるのを何故かと疑つた。既にして詩集の「蠣崎公子」「蠣公子」「波響公子」等の称呼に想ひ及んで、わたくしの疑は一層の深きを加へた。そこで五山堂詩話を検すると、波響は「松前侯族」だとしてある。又茶山自家の文中「題六如上人手写詩巻首」にも「公子従政于国」と云つてある。わたくしは此に至つて波響が松前若狭守あきひろの親戚であることを知つた。わたくしは進んでどう云ふ筋の親戚かと云ふことをも知りたくなつた。数日の後の事である。偶然六によの詩集を飜して見てゐると、「寄題波響楼」の長古が目に触れた。題のもとにはかう云ふ自註がある。「松前人源広年。字世祜。別号波響。今藩主親弟。出嗣大夫家。冒姓蠣崎氏。(中略。)所居有楼。前臨大洋。名以波響。因亦自号焉。」是に由つて観れば、波響広年は美作守道広の弟であつたと見える。わたくしは始て釈然とした。茶山しよどくの波響の条には猶犬塚いんなんの名も出てゐる。印南も亦此書に名を列した文化十年の十一月十二日に歿した。茶山の友人は次第に凋落して行くのであつた。



その六十七編集

 此年文化十年の秋に入つてから、集中に詩十二首があつて、其七首は「晩秋病中雑詠」である。爾余は野遊の七律一、菊ともみぢとの七絶各一、柳橋を過ぐる七絶一、木村さだよしに訪はれた五律一である。

 菊の詩は巣鴨のつくりぎくあざけつたものである。武江年表に拠れば、巣鴨の造菊は前年文化九年九月に始まつて、十三年に至るまで行はれた。「巣鴨村有藝戸数十、毎戸栽菊、培養頗精、有高丈許、枝亦数尺者、繊竹構楦、巧造人物禽獣山水楼閣舟車之状、至花時、都人看者為群、漫賦一絶。菊花種法戸争新。衒世巧粧妙入神。不奈逸然彭沢令。強為郷里折腰人。」茶山の評に云く。「十一年前余在都下。菊月歴観諸藝戸。未見奇巧如此者。人巧日競。天真漸微。読此詩亦発一慨。」序に楓の詩をも録する。「看楓。菊花看尽又看楓。村路吟行暖似烘。猶是秋光有深浅。半渓未染半渓紅。」看楓の地は滝の川か。「野遊」の律も亦恐くは同じ時の作であらう。「黄葉林間茶店榻、黄蘆岸上酒家旗」の聯がある。

 柳橋を過ぐる詩とかしぞのに訪はれた詩とには、稍衰残の気象が見える。「過柳橋。嘗酔江辺春酒楼。如今袖手過橋頭。杜娘何去韋娘老。岸柳条々餞暮秋。」茶山の評に云く。「昨日少年今白頭。」橿園に訪はれた詩には、蘭軒が自ら白髪を語つてゐる。「秋日木駿卿来訪、閑談至夕。竹門風政柝。熟客不驚禽。新醸香猶浅。旧歓談自深。数茎看白髪。十載想青衿。開口宜共笑。天公定有心。」三四のもとに茶山が「字法」の二字を著けてゐる。

 此秋の蘭軒が病は例の足疾であつた。勤向覚書にしもの如き記事がある。「九月十九日足痛相煩候に付、引込保養仕候段御達申上候。」

「晩秋病中雑詠」七首の中、わたくしは此に其二を採録する。「琴尊已廃復休茶。薬鼎風炉病子家。新得奇書三両種。幽忻猶且向人誇。」「禍福自然応有時。風花雲月各相宜。古人言尽人間事。推枕軒中聴雨詩。」前詩を見れば蘭軒はたゞに酒を廃するのみならず、又茶を廃したらしい。しかし猶奇書を獲て自ら慰めてゐる。後詩は元人の「人間万事塞翁馬、推枕軒中聴雨眠」を用ゐてゐる。後にちようししんけんは此語よりすゐちんけんの号を取つた。

 此冬は集に十首の詩がある。皆病中の消遣若くは応酬の作である。病が漸く重く、戸外に出ることが出来なかつたのであらう。

 十月の小春びよりに、先づ「愛閑」の五律がある。其一二は「五風将十雨、暖日小春天、」五六は「文章元戯楽、安逸是因縁」である。「冬晴」二絶の一は例の愛書の癖を忘れない。「新霜頃日染幽叢。橘柚金黄楓錦紅。童子亦遭乃公役。拾銀杏葉挾書中。」覚書にはかう云つてある。「十月二十三日足痛追々快方には御座候得共、未聢と不仕、且月代仕度段奉願上候処、即刻願之通被仰付候。」いはゆる快方は痛が退いて心が爽になつたので、足疾がえたのではなかつたらしい。

 蘭軒は此冬よりして漸く起行することが難渋になつた。あしなへになりかかつたのである。其証拠をばわたくしが三年後の詩引中より見出だした。文化十三年の歳首の詩の引に、「丙子元日作、余今年四十、以脚疾不能起坐已三年」云々と云つてある。

 蘭軒は医である。自らプログノジスの隻眼を具してゐる。嘗て茶山に「死なぬやまひ」を報じたやうに、今又起行の期し難きをさとつたであらう。其胸臆をそんたくすれば、真に愍むべきである。「病中口占。丈夫居世当雄飛。多病近来心事違。五十生涯三十七。数年贏得亦何為。」



その六十八編集

 尋で此年文化十年の冬の詩中に、二三の留意すべき応酬がある。其一つは「酬真野冬旭見贈之作賡韻」の七律である。頷聯の「元知郢国音難和、況復鳳雛毛有文」に父子が称へてあつて、三は冬旭の詩を言ひ、四は其子の書を言ふ。「其男善書、甫九歳」と自註してある。頸聯の「竜土烟霞連海気、神田草樹映城雲」は、わたくしをして冬旭が麻布竜土町辺に住んでゐたかを思はしめるが、さるにても神田は何故に点出せられてゐるだらうか。

 次に「茶山菅先生之在江戸、一日犬冢印南、今川槐庵、及恬、同陪先生、為墨水舟遊、先生帰郷、十年於此、而今年犬冢今川倶逝、頃先生集刻成、至読其詩慨然」として、七絶が載せてある。「吟船尋柳更聴鶯。二客已為泉下行。往事欲談君只在。黄薇二百里余程。」茶山は「感愴」と云つてゐる。

 いぬづかいんなんは此年十一月十二日に歿した。今川槐庵が此年に歿したことは蘭軒の詩に由つて知られるのみで、其終焉の月日は未詳である。二人の相いで木に就いた時、蘭軒は始て黄葉夕陽村舎詩の刻本を手にすることを得、甲子の旧遊を想起して此を賦したのである。

 次に「雪日余語古庵、木村文河、小山吉人来訪」の七絶がある。「雪花一日満園春。修竹無風伏復伸。回艇戴門交素薄。笠簑訪我客三人。」よご、木村は前に見えてゐる。小山きつじんは初出であるが、未だ考へない。蘭軒のきふもんじんめいろくに小山りやうさいがある。吉人は或は良哉若くは其族人か。

 勤向覚書を見るに、蘭軒は十二月十一日に例の湯島の薬湯に往つた。「十二月十一日足痛追々全快には御座候得共、未聢と不仕候間、湯島天神下薬湯え三廻り罷越度奉願上候処、即刻願之通被仰付候。」余語等三人を引見したのは、自宅に於てしたらしくも聞えるが、或は天神下にやどつた後の事であつたかも知れない。

 蘭軒は此年病の為に困窮に陥つて、蔵書をさへらなくてはならぬ程であつた。そこで知友があひはかつて、たのもし講様の社を結んで救つた。彼の茶山にそらんを怪まれたのも、勝手の不如意が一因をなしてゐたのではなからうか。「癸酉終歳臥病、家貲頗乏、数人為結義社、仮与金若干、記喜。経年常負債。一歳総投痾。窮鬼難駆逐。儲書将典過。東西人倶眷。黄白術相和。政是逢江激。轍魚帰海波。」蘭軒がためには「儲書将典過」が、シヤイロツクに心の臓をゑぐり取られるより苦しかつたであらう。

 蘭軒はかくの如く病と貧とに苦められて、感慨なきこと能はず、歳暮に「自責」の詩を作つた。「官路幸過疎放身。一家暖飽十余人。従来無手労耕織。不説君恩却説貧。」

 此年尾藤二洲、犬冢印南、今川槐庵の亡くなつたことはかみに云ふ所の如くである。

 頼氏では此年春水がしようとう加禄の喜に遇つたが、冬より「水飲病」を得て、終身ぜんゆするに至らなかつた。山陽は一たび父を京都の家に舎すことを得て、此に亡命事件の落著を見た。春水は山陽を訪ふとき、養嗣子いつあんを伴つて往つた。即ち山陽の実子みその氏の出げんけふである。

 此年蘭軒は三十七歳、妻益三十一歳、三児中榛軒十歳、常三郎九歳、柏軒四歳であつた。

 文化十一年の元旦は臘月願済の湯治日限の内であつた。これは前年の十二月が大であつたことを顧慮して算しても、亦同じである。しかし一日を遅くすることが養痾に利があるわけでもないから、除夜には蘭軒は家に帰つてゐたであらう。

「甲戌早春。嚢槖掃空餞臘来。辛盤椒酒是余財。逢喧脚疾漸除却。杖屨遍尋郊野梅。」当時蘭軒のびやうこうには消長があつて、時に或は起行を試みたことは、記載の徴すべきものがある。しかし「杖屨遍尋」は恐くは誇張を免れぬであらう。



その六十九編集

 甲戌早春の詩の後に、はご、追羽子の二絶がある。亦此正月の作である。わたくしは其引の叙事を読んで奇とし、此に採録することとした。二絶の引はもと分割して書してあつたが、今写し出すに臨んで連接せしめる。「初春小女輩。取槵子一顆。植鳥羽三四葉於顆上。以一小板。従下逆撃上之。降則又撃。升降数十。久不落地者為巧。名曰羽子戯。蓋清俗見踢之類。又数伴交互撃一羽子。一人至数撃者為勝。失手而落者為負。名曰逐羽子戯。」其詩はかうである。「街頭日夕淡烟通。何処梅香月影朧。嬉笑女郎三両伴。数声羽子競春風。」「春意一場娘子軍。羽児争打各成群。女兄失算因含態。小妹軽僄却立勲。」

 正月の末に足の痛が少しく治したので、蘭軒は又出でて事を視ようとしたと見える。そこで二十三日に歩行願と云ふものを呈した。勤向覚書に云く。「文化十一年甲戌正月二十三日足痛追々全快には御座候得共、未聢と不仕候間、歩行仕度奉願上候所、即刻願之通被仰付候。」次で二月三日に、蘭軒は出でて事を視た。覚書に云く。「二月二日、明三日より出勤御番入仕候段御届申上候。」

 蘭軒はかくの如く猶時々起行を試みた。そして起行し得る毎に公事に服した。後に至つて両脚全く廃したが、蘭軒は職を罷められなかつた。或はふくかうして主に謁し、或はかれて庁に上つたのである。

 二月二十一日に阿部まさともの未亡人津軽氏比佐子が六十一歳で、蘭軒の治を受けて卒した。比佐子の父は津軽越中守のぶやすであつた。勤向覚書に「廿五日霊台院様御霊前え献備物願置候所、勝手次第と被仰付候」と記してある。霊台院は即比佐子である。

 かんさい詩集に剰す所の春の詩数首がある。わたくしは其中に就いて神童水田某を褒めた作と、児に示した作とを取る。

 水田某は幼い詩人であつた。「水田氏神童善賦詩、格調流暢、日進可想、聊記一賞。撥除竹馬紙鳶嬉。筆硯間銷春日遅。可識鳳雛毛五彩。驚人時発一声奇。」

 蘭軒が児に示す詩は病中偶作の詩の後に附してある。「病中偶作。上寿長生莫漫求。百年畢竟一春秋。彭殤雖異為何事。花月笑歌風雨愁。」「同前示二児。富貴功名不可論。只要文種永相存。能教誦読声無断。便是吾家好子孫。」

 此詩題に二児と云つてあるは注目すべき事である。当時蘭軒三十八歳、妻益三十二歳で、子供は榛軒の棠助十一歳、常三郎十歳、柏軒の鉄三郎五歳であつた。わたくしは初め読んだとき、二児とは稍長じてゐた棠助、常三郎を斥して言つたので、幼い鉄三郎はしばらく措いて問はなかつたのだらうとおもつた。既にして伊沢分家の人々の常三郎が事跡を語るを聞いて、憮然たること久しかつた。

 常三郎は生れていくばくもあらぬに失明した。しかのみならず虚弱にしてものまなびも出来なかつた。それゆゑ常に怏々として楽まず、やゝもすれば日夜悲泣してまなかつた。それの年のおほつごもりに常三郎の心疾がおこつて、母益は慰撫のために琴を弾じてやらんに及んだことさへあるさうである。

 詩に謂ふ二児は、即ち十一歳の榛軒と五歳の柏軒とで、常三郎はあづからなかつたのである。

 夏に入つて四月八日に、蘭軒の三女が生れた。このごろ伊沢分家にたゞして知り得たる所に従へば、蘭軒の長女はてつで、文化二年に夭した。其生年月をつまびらかにしない。二女智貌童女は文化九年中生れて七日にして夭した。三女は今生れたものが即是である。名をちやうと云ふ。以上皆嫡出である。そして長が独り長育することを得た。勤向覚書に云く。「四月八日妻安産仕、女子出生仕候、依之御定式之血忌引仕候段御達申上候、同月十一日血忌引御免被仰付候、明十二日御番入仕候段御達申上候。」

 此月二十一日蘭軒に金三百疋を賜つた。「霊台院様御病中出精相勤候に付」と云ふ賞賜である。かみに云つた如く、霊台院殿信誉自然現成大姉は津軽氏比佐子で、墓は浅草西福寺にある。比佐子夫人の事は岡田よしあきさんに請うて阿部家の記録を検してもらつた。



その七十編集

 此年文化十一年五月に菅茶山が又東役の命を受けた。行状に「十一年甲戌五月又召赴東都」と書してある。いはゆる「七十老翁欲何求、復載沉痾向武州」の旅である。紀行などもあるか知らぬが、わたくしの手元には只詩集があるのみである。五月になつてから命を承けたのではあるが、「午日諸子来餞」の午日は四日の初午であらう。「梅天初霽石榴紅、何限離情一酔中」の句に、節物が点出せられてゐる。

 茶山は岡山、伊部、舞子、尼崎、石場、勢田、石部、桜川、大野、関、木曾川、万場、油井、薩陀峠、箱根山、六郷、大森等にかうさうの痕を留めて東する。伊部を過ぎては「白髪満頭非故我、記不当日旧牛医」と云ひ、尼崎を過ぎては「輦下故人零落尽、蘭交唯有旧青山」と云ひ、又富士を望んでは「但為奇雲群在側、使人頻拭老眸看」と云ふ。到処今昔の感に堪へぬのであつた。きうぎういは嘗て牛医とあやまり認められたことがあつたのを謂ふ。此間江戸にある蘭軒は病のため引込保養をしてゐた。「六月廿日疝積相煩候所、兎角不相勝候に付、明日より引込保養仕候段御達申上候」と、勤向覚書に云つてある。足疾のために消化を害せられてゐたのであらう。

 茶山が江戸にいたころほひには、蘭軒のせんしやくも稍おこたつてゐた。「扶病歩園。従来遊戯作生涯。酔歩吟行少在家。病脚連旬堪自笑。扶筇纔看薬欄花。」そのさるすべりがさいてゐたので、蘭軒は折らせて阿部邸の茶山が許に送つた。「園中紫薇花盛開、乃折数枝、贈菅先生。紫薇花発横斜影。寄贈満枝朝露多。百日紅葩能得称。輸君終歳酔顔酡。」

 七月に蘭軒は病中ながらさかやきをした。「七月九日疝積追々快方には御座候得共、未聢と不仕候間、月代仕度奉願上候所、早速願之趣被仰付候」と、覚書に云つてある。

 茶山は此月に鵜川しじゆん等を伴つて、不忍池へ蓮を看に往つて、帰途に蘭軒の病牀を訪うた。前にわたくしは蘭軒が家を湖上に移したことを言つたが、それは一時の仮寓であつたと見えて、此時は又本郷にゐたらしい。鵜川子醇、通称は純二、茶山の旧相識である。前度文化紀元の在府中に茶山が此人のために詩を作つたことがある。「関帝、応鵜川純二需」の七絶が即是である。「茶山菅先生携鵜川子醇及諸子、看荷花於篠池、帰路訪余、余時臥病、喜而賦一絶、昔年余亦従二君同看、今已為隔世之想云。十歳重携旧酒徒、荷花時節小西湖。酔帰猶有芳情在。満袖清香襲病夫。」

 次韻は茶山の集中江戸に於ける最初の詩である。「七月看小西湖荷花、帰路訪伊沢憺父、余与憺父狩谷卿雲諸子、曾作此賞、距今十一年矣、憺夫有詩、次韻以答。此間佳麗世間無。十里芙蓉花満湖。不料旗亭雲錦裏。尊前重著旧樵夫。」

 嘗て茶山が蘭軒のそくわつを責めた後、わたくしは二人の間にいかなる書信の往復があつたかを知らない。茶山と江戸にあつた井上四明との応酬に徴するに、茶山の東命は期せずして至つたらしいから、必ずや茶山は相見る日を待たずしてしば/\報復を促し、蘭軒は遂に一たび断えたコレスポンダンスの緒を継いだことであらう。

 此初度の訪問は何日であつたか知らぬが、少くも十四日よりは早かつたらしい。次で雨の日が続いた。蘭軒に「秋霖」の二絶がある。此間勤番暮しの茶山は、衣食何くれとなく不自由な事がある毎に、救を蘭軒に求めた。なかんづく茶山は菜蔬をたしんだので、其買入を伊沢の家に託した。本郷の伊沢の家と、神田の阿部邸との間には、始終使の往反が絶えなかつたのである。



その七十一編集

 此秋文化十一年の雨の中元に、蘭軒は菅茶山を家に招いた。当時宴を張つて茶山を請ずるものは甚多かつたので、茶山はこれがために忙殺せられてゐたが、遠慮のいらぬ故人の案内に応ずるのは苦にはならなかつたであらう。

 茶山が此案内を受けた時の返事が、たま/\わたくしのあへばくわうそんさんに借りた一束のしよどくの中に遺つてゐた。これを見て茶山と蘭軒との間の隔なき交のさまが窺はれる。

「盆前とていはゆる書出してふ物つかはされ、帖面なしのかけ取など御使にわたし申候。此中ののこりをさへに御受取可被下候。」

「十六日辱奉存候。外にすこし約束ありかけ候其方をのべさせ可申候。只今状かき初申候。のべ候はば参可申候。いづれこれより可申上候。」

「八百屋物の代銭百文先さき金に奥様へ御わたし申候。あとは追々さし上可申候。御買おき可被下候。部屋番とりにさし上可申候。其品は いも なすび ふぢ豆の類なににてもよし かいわり菜(備後方言まびき菜) 外名をしらず きらひもの たうなす さつまいも ぼうふら(南瓜) 太中。辞安様。」

 十六日の請待は延びて十七日となつた。そして此日に幸に雨が霽れた。茶山の詩の自註にかう云つてある。「十五夜圃公舟遊。十六夜卿雲別業集。並阻雨不果。是日訪憺父病。」ほこうは中村圃公である。茶山が蘭軒に招かれた故を以て、会期を延すことを交渉した相手が狩谷棭斎であつたのは意外である。棭斎の催を蘭軒の知らなかつたのは意外である。しかし棭斎は会期を病褥にある蘭軒に告げなかつたのであらう。

 茶山は蘭軒を訪うた帰途「茗渓即事」の二絶を得た。これは蘭軒の本郷にゐた証につべきであらう。「中元時節雨霏霏。両夜遊期各処違。此日無端問人病。長橋独踏月光帰。」「林頭月走夜雲忙。数店燈毬閃閃光。茗水橋辺行客少。満街風露進新涼。」

 茶山の集をはんえつすれば、宴飲の盛なることは秋冬の交が尤甚しかつた。此時に当つて綻びたきぬつくろひ、朝夕の飲饌の世話などは、蘭軒の家が主としてこれに当つてゐたらしい。伊沢氏は詞場に酣戦してゐる茶山がために兵站の用をなしてゐたらしい。

 菜蔬は蘭軒の妻が常にてんとうの物を買つて送つたが、或日それに自園の大根を雑へて、蘭軒の詩を添へて遣つた。「園蔬頗肥、贈菅先生、誇其美云。学圃近来術不疎。肥醲自愛満畦蔬。贈君莱菔尤佳味。却勝市門店上魚。」

 十一月には茶山の官事が稍忙しくなつたらしい。「霜月廿九日」とした手紙に、「此頃府誌いそがしく他出むづかしく候」と云つてある。府誌とは福山地志か。此書は文化六年に成つてたてまつつたものである。更に筆削などを命ぜられたものであらうか。

 同じ書に「御姉様よりめづらしき御茶碗御恵被下、私かねて望候物、別而難有奉存候」と云ひ、又「下著御仕たて被下、奥方様へ御世話の御礼宜御申可被下候」と云つてある。「御姉様」は黒田家に仕へてゐた蘭軒の姉きせか。幾勢には茶碗の礼、ますには下著の礼が言つてある。



その七十二編集

 此冬文化十一年の冬の間に、菅茶山は幾度蘭軒をおとづれたか不明である。しかし前に引いた十一月二十九日の書にも「其内とうかん可申候」と云つてある。

 十二月六日に至つて、茶山は果して夕方に蘭軒を訪うた。蘭軒夫妻は厚くもてなし、主客の間には種々の打明話も交換せられた。茶山は襦袢が薄くてさぶさに耐へぬと云つて、益に繕ふことを頼んだ。又部屋の庖厨の不行届を話したので、蘭軒夫妻はげぶつ飯菜の幾種かをおくつた。茶山はよふけて、其品々を持ち、提灯を借りて神田の阿部邸に還つた。

 翌七日に茶山の蘭軒に寄せた書も、亦あへばくわうそんさんの所蔵の中にある。しもに其全文を写す。

「夜前の襦袢もたせ上申候。袖は少しやぶれ絹をつけてもよし、あたたかにさへあれば宜候。奥様まかせに可仕候。鱈かへると草々たべ申候。けつみ私が口に適候而悦申候。いれもの重箱やきもの提燈御かへし申候。みそとくしこ入候はとゞめおき申候。早々。十二月七日。太中。辞安様。ころくわいしも三字急に出不申候。出候はば可申上候。詩集二つ懸御目申候。」

 文中「くしこ」はくしこであらうか。「枯髏一塊」云云はわたくしはかう考へる。当時大森某と云ふものがあつて、所蔵の髑髏の図のために題詩を諸家に求めた。茶山は早く既に一絶を作つて与へた。「題髑髏図、応大森子索。古来誰信死生同。只笑荘叟弄筆工。至竟狐狸猶不顧。髐然百歳坐枯蓬。」蘭軒も亦嘱を受けて構思してゐると、茶山の来るに会した。そこで枯髏一塊の下三字を求めたのである。しかし蘭軒は後に枯髏一塊の句を抛棄して、別に一首を成した。「髑髏図。枯骨長依狐兎逕。誰知昔日辱与栄。寄言世計営々客。不若別求身後名。」二詩は二家の集にある。

 此冬山本きよがいと云ふものが江戸を立つて小田原に往つた。蘭軒のこれを送つた五律がある。尋で去害が小田原から七律を寄せたので、蘭軒は又次韻して答へた。去害は市河三陽さんの考証に拠るに、伊豆の三島の人山本せいあの子である。井蛙、名は義質、字はじゆれい、甚兵衛と称した。商家にして屋号を丸屋と云つた。其子が順、あざなは去害、通称はとよすけである。享和三年九月三日に、市河米庵が吉原に宿つたとき、去害が三島から送つて来てゐたことが西遊日記に見えてゐる。蘭軒の「君家清尚襲箕裘」の句に、「其先人亦脱俗韻士、遊賞没世」と註してあるのを見れば、丸屋はうんかうある家であつた。去害が医師にして古書を好んだことは、蘭軒に似てゐた。「学医術将仙」と云ひ、「玉笥蔵書古」と云ふを見てこれを知る。年は既に老いてゐた。「似僧頭已禿」と云ふを見てこれを知る。小田原行は遊賞のためで、仕宦のためではなかつた。「応識間中官爵貴、探幽使者酔郷侯」と云ふを見てこれを知る。

 同時の茶山の応酬は、交遊の範囲が頗る広くて、一一挙ぐるにへぬが、此に其人の境遇に変易を見たもののみを記して置く。其一は井上四明である。四明はじめ戸口氏、名は潜、字は仲竜、居る所を佩弦堂と云つた。井上蘭台の後を承けて、備前の文学になつてゐたが、此冬致仕して町ずまひの身となつた。茶山は「四明先生告老、藩主加賜以金、燕喜之辰、余亦与会、賦此奉呈」として七律を作つた。其一二に「賜金不必買青山、心静城居即竹関」と云つてある。藩主は松平上総介なりまさである。

 其二は大田南畝である。南畝は文化七年に幕府の職を辞して、閑散の身となつてゐた。茶山の此冬の作に、「蜀山人移家于学宮対岸、扁曰緇林、命余詩之」とした七絶がある。「杏壇相対是緇林。吏隠風流寓旨深。毎唱一歌人競賞。有誰聴取濯纓心。」学宮対岸の家は即ち駿河台こうばいざか大田姫稲荷前の家であらう。南畝は小石川小日向金剛寺坂から此に移つたのであらう。



その七十三編集

 頼氏では此年文化十一年に春水が六十九歳になつた。「累霑位禄愧逢衣。霜鬢明朝忽古稀。」京都では山陽が後妻をめとつた。小石元瑞の養女、近江国にんしやうじの人某氏のぢよりゑである。後藤松陰は脩して梨影と書した。つうづの説には、此婚嫁が翌年乙亥の事だとなつてゐるやうである。しかし天保三年じゆん十一月二十五日に、新に夫を喪つた里恵が赤馬関の広江秋水の妻に与へた書にかう云つてある。「わたくしも十九年が間そばにをり候。誠にふつづか不てうはふに候へとも、あとの所、ゆゐごん、何も/\私にいたし置くれられ、私におきまして、誠にありがたく、十九年の間に候へども、あのくらゐな人ををつとにもち、其所存なか/\出来ぬ事と有りがたく存候。」女が夫を持つた年を誤ると云ふことは殆ど無からう。山陽の九月に歿した天保三年を一年と算し、十八年溯れば、文化十一年となる。

 田能村竹田は秋水が此書を出して示した時の事を記して、「去年壬辰九月廿三日に頼山陽物故す、此年の閏十一月に内人(りゑといふ)より秋水の夫人におくられたる書を、秋水出ししめす」と云つてゐる。にはかに読めば「去年」と「此年」とは別年の如くにも見える。若し別年とするときは、里恵が書を裁して寄せたのは天保四年癸巳である。癸巳より算する十九年間は文化十二年乙亥に始まる。即ち通途の説に合する。

 しかし果してかくの如しとすると、「十九年が間そばにをり候」とは云はれぬ筈である。かく云ふには天保三年壬辰より算せざることを得ない。且いはゆる「此年」は即ち前の「去年壬辰」をして云つたもので、秋水が書を出し示した四年癸巳より見れば去年も此年もひとしく一年前でなくてはならない。何故と云ふに、里恵の書には単に「閏月廿五日」としてあるが、天保四年癸巳には閏月は無く、閏月のあるは只三年壬辰の十一月のみだからである。

 里恵の墓は松陰が其文を撰んだが、但「頼山陽先生入京、娶為継室」と書して、婚嫁の年を言はない。山陽自家の詩文を検するに、只文政三年庚辰の詩引に「余娶婦、未幾丁艱」と云つてあるのみである。「丁艱」とは文化十三年二月十九日に父春水を喪つたことを斥す語である。いまだいくばくならずは一年とも見られ、二年とも見られる。此故にわたくしは里恵の云ふ所を以て拠るべしとする。

 此年蘭軒は三十八歳であつた。「歳晩偶成」の七律が「歳華卅八属駒馳、筆硯仍慚立策遅」を以て起してある。此語を味へば初より著述はせぬと意を決してゐたのではないかも知れない。妻益は三十二歳、榛軒十一歳、柏軒五歳、ちやう一歳であつた。

 文化十二年の元旦には、茶山が猶江戸に留まつてゐたので、蘭軒茶山二人の集に江戸の新年の作が並び存してゐる。

 蘭軒の七絶二首の中、其一を此に録する。「夏葛冬裘君寵光。痴夫身計不知忙。更将長物誇人道。梅有新香書古香。」先づ梅花と共に念頭に浮ぶものは、旧に依つてちよしよの富である。茶山の七律は頷聯に「蒲柳幸将齢七十、枌楡猶且路三千」と云ひ、七八に「自笑樵夫寓朱邸、謾班群彦拝新年」と云つてある。

 蘭軒は元旦の詩に梅と書とを点出した。わたくしは其梅の詩を今一つ写し出して置きたい。それは前年の暮に新井白石のゆきの詩に倣つて作つたものである。「詠梅、傚白石容奇詩体。陽春自入難波調。已与桜花兄弟分。枝古瑤箏絃上曲。色濃彤管巻中文。嬌娘拒詔安禽宿。壮士飛英立戦勲。尤美菅公遺愛樹。追随千里護芳芬。」

 自註は煩を憚つて省く。一はわに、四は紫式部、五は紀内侍、六は梶原影季、七八は菅原道真である。



その七十四編集

 此春、文化十二年の春となつてから、菅茶山が初て蘭軒を訪うたのは、伊沢家に於て例として客を会するとうじつさうだうしふの日であつたらしい。「豆日草堂集、茶山先生来、服栗陰長嘯絶妙、前聯及之。野鶯呼客到茅堂。忽使病夫起臥牀。錦里先生詩調逸。蘇門高士嘯声揚。一窓麗日疎梅影。半嶺流霞過雁行。自愧畦蔬村酒薄。難酬満室友情芳。」

 錦里先生は茶山をし、蘇門の高士はりついんを斥したのである。服は服部だとして、服部栗陰の何人なるかは未だ考へない。蘇門服天遊にせうをうの号があり、嘯台余響、嘯台遺響の著述さへあつたから、善嘯の栗陰を以てこれに擬したのであらう。天遊は明和六年に歿した人である。扨栗陰とは誰か。りつさいふくはうは号に栗字があるが、寛政十二年に歿してゐる。蘭軒の門人に服部良醇がゐるが、此客ではなからう。

 二月六日に茶山は又招かれて蘭軒の家に来た。「二月六日菅茶山、大田南畝、久保筑水、狩谷棭斎、石田梧堂集於草堂、時河原林春塘携酒。簷外鵲飛報喜声。恰迎佳客値新晴。林風稍定衣裳暖。泥路初晞杖屨軽。席上珍多詩好句。尊中酒満友芳情。酔来春昼猶無永。夕月到窓梅影横。」

 茶山の相伴として招かれた客の中で南畝、棭斎、梧堂の三人は既出の人物である。そして南畝が蘭軒の家に来たことは、始て此に記載せられてゐる。

 新に出た人物は筑水と春塘とである。久保愛、あざなくんせつ、筑水と号した。通称は荘左衛門であつた。荀子増註の序、標注ゑなんしの序等の自署に拠るに、信濃の人で、一説に安藝の人だとするは疑はしい。天保六年じゆん七月十三日に歿したとすると、此時五十七歳であつた筈である。ついでに云ふ。あをやぎとうりの続諸家人物誌にはそんぼくそうの次に此人を載せてゐながら、目次に脱逸してゐる。かはらばやし春塘は未だ考へない。

 茶山は此月の中に帰途に上つた。行状に「十二年乙亥在東邸、増俸十口、二月帰国」と書してある。「簡合春川」の詩に「漸迫帰程発軔期、江城梅落鳥鳴時」と云ひ、「留別真野先生」の詩に「帰期已及百花辰、恨負都門行楽春」と云つてある。「釣伯園集」は茶山のために設けた別宴であらう。其詩には「名墅清遊二月春、島声花影午晴新」と云つてある。わたくしは只茶山の江戸を去つた時の二月なるを知つて、何日なるを知らない。「真野先生」は或はまのとうきよくか。

 茶山の此旅には少くも同行者の紀行があつた筈である。一行の中には豊後のかふはら玄寿があり、讚岐のうすき直卿があつた。玄寿、名は義、漁荘と号した。きつき吉広村の医玄易の子である。直卿、名は古愚、通称は唯助、黙庵と号した。後牧氏にあらためた。此甲原臼杵二氏の外に、又伊勢の河崎良佐があつた。いはゆる「驥䖟日記」を著した人である。後に茶山がこれに序した。大意はかうである。河崎は自らばうに比して、我を驥にした。敢て当らぬが、主客の辞となして視れば差支なからう。しかし河崎がためには此路は熟路である。我は既に曾遊の跡を忘れてゐる。「則其尋名勝、訪故迹、問奇石、看異木、唯良佐之尾是視、則良佐固驥、而余之為䖟也再矣」と云ふのである。此記にして有らば、茶山の江戸を発した日を知ることが出来よう。わたくしは未だ其書を見るに及ばない。

 茶山が江戸にある間、諸侯の宴を張つて饗したものが多かつた中に、白川楽翁公は酒間梅を折つて賜はつた。茶山は阿部邸に帰つた後、たくだしをして盆梅に接木せしめた。枝は幸にして生きた。茶山はわづかに生きた接木の、途次にやぶられむことを恐れて、此盆栽の梅を石田梧堂に託した。梧堂は後三年にして文政紀元に、茶山が京都に客たる時、小野梅舎をして梅を茶山に還さしめた。茶山は下の如く記してゐる。「歳乙亥、余秪役江戸邸、一日趨白川老公招飲、酒間公手親折梅一枝、又作和歌并以賜余、余捧持而退、置于几上、翌日隣舎郎来云、賢侯之賜、宜接換移栽故園、不容徒委萎薾、余従其言、及帰留托友人石子道、以佗日郵致、越戊寅春、余在京、会備中人小野梅舎至自江戸、訪余僑居、携一盆卉、視之乃曩所留者也、余驚且喜、梅舎与余、無半面之識、而千里帯来、其意一何厚也、既帰欲遺一物以表謝意、至今未果、頃友人泉蔵来話及其事、意似譴魯皐、因先賦此詩。以充乗韋、附泉蔵往之。穉梅知是帯栄光。特地駄来千里強。縦使盆栽難耐久。斯情百歳鎮芬芳。」当時の白川侯は松平越中守定永であつたので、楽翁公定信を老公と書してある。泉蔵は備中国長尾村の人小野れきをうの弟である。



その七十五編集

 蘭軒には「送茶山菅先生還神辺」の七絶五首がある。此に其三を録する。「其一。新誌編成三十多。収毫帰去旧山阿。賢侯恩遇尤優渥。放使烟霞養老痾。其二。西遊昔日過君園。翠柳蔭池山映軒。佳境十年猶在目。方知帰計値春繁。其三。詞壇赤幟鎮山陽。藝頼已降筑亀惶。騶騎一千時満巷。門徒七十日升堂。」第三のげいらいは安藝の頼春水、ちくきは筑前の亀井南溟である。此一首は頗る大家の気象に乏しく、蘭軒はその好む所におもねつて、語に分寸あること能はざるに至つたと見える。わたくしがことさらに此詩を取るのは、蘭軒の菅にはなはだ親しく頼に稍うとかつたことを知るべき資料たるが故である。

 蘭軒は又茶山にくわへいを贈つた。前詩の次に「同前贈一花瓶」として一絶がある。「天涯別後奈相思。駅使梅花有謝期。今日贈君小瓶子。插芳幾歳侍吟帷。」

 蘭軒は既に茶山を送るに詩を以てして足らず、けいは更に其同行者にも及んだ。「送臼杵直卿甲原元寿従菅先生帰。追師負笈促帰行。不遠山河千里程。幾歳琢磨一䨇璞。底為照乗底連城。」

 茶山は文化十二年二月某日昧爽に、小川町の阿部ていを発した。友人等は送つて品川の料理店に至つて別を告げた。茶山の留別の詞に「長相思二闋がある。「風軽軽。雨軽軽。雨歇風恬鳥乱鳴。此朝発武城。人含情。我含情。再会何年笑相迎。撫躬更自驚。」これが其一である。

 東海道中の諸作はつぶさに集に載せてある。河崎良佐は始終かごを並べて行つた。二人が袂を分つたのは四日市である。「一発東都幾日程。与君毎並竹輿行。」きばう日記は恐くは品川より四日市に至る間の事を叙したものであらう。

 東海道を行つた間、月日をつまびらかにすべきものは、先づ三月二日にりうげじの対岸を過ぎたことである。「岡本醒廬勧余過竜華寺曰。風景為東海道第一。三月二日過其対岸。而風雨晦冥。遂不果遊。」

 三日には大井川を渡り、佐夜の中山を過ぎ、菊川で良佐と小酌した。集に「上巳渉大猪水作、懐伊勢藤子文」の長古がある。「帰程忽及大猪水、水阻始通灘猶駛、渉夫出没如鳧鷖、須臾出険免万死」の初四句は、当時せふかの光景を写し出して、広重の図巻をぶるが如くである。まつかいはかうである。「吾願造觴大如舟。盛以鵞黄泛前頭。乗此酔中絶洋海。直到李九門前流。」佐藤子文は伊勢国五十鈴川のほとりに住んでゐた。遠江国とは海を隔てて相対してゐたので、此の如く著想したのである。

 良佐は茶山への附合に、舟を同じうして佐屋川にさをさした。「数派春流一短篷。喜君迂路此相同。」かみに云つたとほり、訣別したのは四日市である。

 茶山は大坂に著いて蘭軒に書を寄せた。其書は今伝はつてゐない。只添へてあつた片紙があへばくわうそんさんの蔵儲中に遺つてゐる。

「三月三日道中にて。けふといへば心にうかぶすみだ川わがおもふ人やながすさかづき。大井川をわたりて。大井川ながるゝ花を盃とみなしてわたるけふにもあるかな。このたびは花見てこえぬこれも又いのちなりけりさやの中山。池田の宿にてゆやが事をおもひ出しとき江戸の人に文つかはすことありしそのはしに。古塚をもる人あらばまつち山まつらむ友にわかれはてめや。さく花をなどよそに見むわれもはた今をさかりとおもふ身ならば。かかる事どもいうてかへり候。此ついでにおもひ出候。はまおみのうた卿雲に約し候。おそきつぐのひにたんともらひたく候。御取もち可被下候。」

 茶山は清水浜臣に歌を書いて貰ふことを、狩谷棭斎に頼んで置いた。棭斎が久しく約を果さぬから、怠状の代には多く書かせて貰ひたいと云ふのである。浜臣は此年四十歳であつた。



その七十六編集

 菅茶山は京都で嵐山の花を看、雨中に高瀬川を下つた。大坂では篠崎小竹、中井履軒を訪うた。なかんづく「訪履軒先生、既辞賦此」の五古は、茶山と履軒との平生の交を徴するに足るものである。「毎過浪華府。無不酔君堂。此度君在蓐。亦能共伝觴。(中略。)我齢垂古稀。君則八旬強。明日復修程。後期信茫茫。」履軒は当時八十歳、兄竹山を喪つてから十一年を経てゐた。茶山は六十八歳であつた。

 茶山はかんなべに還つた後、「帰後入城途上」の作がある。「官駅三十五日程。鶯花随処逐春晴。今朝微雨家林路。筍※〈[#「竹かんむり/擧」、7巻-156-下-8]〉徐穿暗緑行。」頃は三月の末か四月の初であつただらう。

 蘭軒は夏の初に長崎のりうむたくがために、其母の六十を寿する詩を作つた。「時節南薫好、開筵鶴浦干」云々の五律である。夢沢、名は大基、あざなくんび、既出の人物である。長崎通司にして劉姓なるものには、猶田能村竹田の文政九年に弔した劉梅泉と云ふものがある。「時梅泉歿後経数歳、有母仍在」と記してある。わたくしは母を寿した夢沢と母に先だつて死んだ梅泉とを較べて思つて見た。わたくしは此等の諸劉の上を知らむことを願つてゐる。長崎ぜつじんの事跡にくわしい人の教を得たい。

 此年文化十二年五月に入つて、伊沢分家には又移居の事が起つた。これは蘭軒一族の存活上に、頗る重大なる意義があつたらしい。

 勤向覚書にかう云つてある。「文化十二年乙亥五月七日、私儀是迄外宅仕罷在候所、去六月中より疝積、其上足痛相煩、引込罷在、種々療治仕候得共、兎角聢と不仕、兼而難渋之上、久々不相勝、別而物入多に而、此上取続無覚束奉存候間、何卒御長屋拝借仕度奉存候得共、病気引込中奉願上候も奉恐入候、依而仲間共一統奉顧上候所、願之通被仰付候。」移転は町住ひを去つて屋敷住ひに就くのである。阿部家に請うて本郷丸山の中屋敷内に邸宅を賜ることになつたのである。按ずるに願書に謂ふところの難渋は、必ずしも字の如くに読むべきではあるまい。しかし当時伊沢分家が家政整理を行つたものと見たならば、過誤なきにちかからう。

 覚書には次でしもの三条の記事が載せてある。「同月廿一日。丸山御屋敷に而御長屋拝借被仰付候」と云ふのが其一である。「六月十六日、拝借御長屋附之品々、御払直段に而頂戴仕度段奉願上候所、同月十九日願之通被仰付候」と云ふのが其二である。又七月の記事中に、「同月廿二日、丸山御屋敷拝借御長屋え今日引移申候段御達申上候」と云ふのが其三である。

 蘭軒の一家は七月二十二日に、本郷真砂町桜木天神附近の住ひから、本郷丸山阿部家中屋敷の住ひにうつつた。

 旧宅は人に売つたのである。「売家。天下猶非一人有。売過何惜小園林。担頭挑得図書去。此是凡夫執著心。」蘭軒のわたましが主に書籍のわたましであつたことは想像するに余がある。「同前呈後主人。構得軒窓雖不優。却宜酔月詠花遊。竟来貧至兌銭去。在後主人莫効尤。」わたくしは此首に於て蘭軒の善謔を見る。たま/\来つて蘭軒の故宅を買ふものが、いかでか蘭軒の徳風にのつとることを得よう。



その七十七編集

「君恩優渥満家財。況賜新居爽塏開。公宴不陪朝不坐。沈痾却作偸間媒。」これは蘭軒が「移居於丸山邸中」の詩である。いはゆる丸山邸は即ち今の本郷西片町十番地の阿部邸である。蘭軒の一家は一たび此に移されてより、文久二年三月に至るまで此邸内に居つた。

「公宴不陪朝不坐」の句は大いに意義がある。阿部侯が宴を設けて群臣を召しても、独り蘭軒はおもむくことを要せなかつた。わたくしはこれを読んでビスマルクの事を憶ひ起す。かれは一切の燕席に列せざることを得た。わたくしは彼国に居つたが、いかなる公会にのぞんでも、鉄血宰相のおもてを見ることを得なかつた。これを見むと欲すれば、議院に往くより外無かつたのである。渠は此の如くにしてせふりの任を全うした。蘭軒は同一の自由をゆるされてゐて、此に由つて校讐の業にもつぱらにした。人は或は此ことを聞いて、ひぎの当らざるをわらふであらう。しかし新邦の興隆をはかるのも人間の一事業である。古典の保存を謀るのも亦人間の一事業である。ホオヘンツオルレルン家の名相に同情するも、阿部家のへきじゆに同情するも、固よりわたくしの自由である。

「朝不坐」も亦阿部侯の蘭軒に与へた特典である。初め蘭軒は病後に館に上つた時、玄関から匍匐して進んだ。既にしててぐるまに乗ることを許された。後には蘭軒のかごが玄関に到ると、侍数人が轎の前に集り、円い座布団の上にこざしてゐる蘭軒を、ふとんごめてがきにして君前に進み、そこに安置した。此の如くにして蘭軒は或は侯の病を診し、或は侯のために書を講じた。蘭軒は平生よりこんを著くることを嫌つた。そして久しく侯の前にあつて、時に衣のそうかいしたのをさとらずにゐた。侯は特に一種のへいしつを裁せしめて与へたさうである。座布団と蔽膝との事はそのこ刀自の語る所に従つて記す。

 蘭軒は阿部邸にうつるために、長屋を借ることを願つた。しかし阿部家ではいはゆるこくどりの臣を真の長屋には居かなかつた。此年に伊沢氏の移つた家も儼乎たる一かまへをなしてゐたらしい。伊沢分家の人々は後に文久中に至るまで住んだ家が即ち当時の家だと云つてゐるが、勤向覚書をけみするに、文化十四年に蘭軒は同邸内の他の家に移つた。高木氏の故宅と云ふのがそれである。今分家に平面図を蔵してゐる家屋は、恐くは彼高木氏の故宅であらう。平面図の事は猶後に記さうとおもふ。兎に角丸山邸内に於ける初の居所は、二年後にうつつた後の居所に比すれば、幾分か狭隘であつたのだらう。蘭軒の高木氏の故宅に移つたのは、特に請うて移つたのである。

 菅茶山は此年文化十二年二月に江戸を発して、三月の末若くは四月の初に神辺に帰つた。途中で大坂から蘭軒に書を寄せたが、其書は佚亡してしまつて、只大井川其他の歌を記した紙片が遺つてゐる。次で茶山は秋の半に至るまで消息を絶つてゐた。

 大坂より送つた書には、江戸を発して伊勢にいたるまでの旅況が細叙してあつた筈である。茶山は秋にいたつて又筆を把つた時、最早伊勢より備後に至る間の旅況を叙することの煩はしきに堪へなかつた。そこで旅物語を廃めてしまつた。此間の事情は八月二日に茶山の蘭軒に与へた書に就いてつくすことが出来る。これも亦あへばくわうそんさんの所蔵である。



その七十八編集

 茶山が此年文化十二年秋の半に蘭軒に与へた書はかうである。

「大坂より一書いせ迄のひざくりげ申上候。相達可申候。其後御病気いかが、入湯いかが、御案じ申候。物かくに御難義ならば、卿雲見え候節代筆御たのみ御容子御申こし可被下候。小山にてもよし。扨帰後早速に何か可申上候処、私も病気こゝかしこあしくなり、やうやく此比把筆出来候仕合、延引御断も無御坐候。」

「事ふり候へば道中はいせ限にてやめ可申候。帰後はをかしき咄もきかず、日々東望いたし、あはれ、江戸が備中あたりになればよいとのみ痴想いたし候。滞留中何かと御懇意は申つくしがたく、これはいはぬはいふにまさると思召可被下候。定て卿雲、市野、古庵様、服部、小山、市川あたり、日日しうわ可有之、御羨敷奉存候。」

「扨私宅に志摩人北条譲四郎と申もの留守をたのみおき候。此人よくよみ候故、私ぢよてつ二十六七になり候寡婦御坐候にめあはせ、くわん三と申てつそん生長迄の中継にいたし候積、しばらく思案仕候。」

「私は歯痛今以いえず、豆腐ばかりくひ申候。酒は少々いけ候へども、老境御垂憐可被下候。姉御様も御障なく御勤被成候覧。おんはなむけ之御礼つど/\御申可被下候。きんいうは時々いんがふ(此七字不明)一興をそへ申候。此よしも御申つたへ可被下候。何ぞさし上申度候へ共なし。豊が絵御入用候はばまたさし上可申と御伝可被下候。豊は尾道ぢよぐわし也。はないけは日々坐右におき、いまに草花たえずいけ申候。活花はゑんちゆうらうへいしにより候。御一笑可被下候。これよりも又備前やきたうそん一つ進申候。これまたあんさにて御插可被下候。山陽近邦何のかはり候事もなく候。ことしも豊年と見え候。」

「扨去年の月はすみだ川、ことしの花はあらし山、無此上候。此秋はいかがいたし可申哉。独酌むしを聞候外いたしかたなく候。御憐察可被下候。花生は舟にて廻し候へば遅かるべし。帰路詩歌少し御坐候へ共、どうもえうつさせ不申候。いつにてもさし上可申候。先書状延引御断かた/″\早々申上残候。恐惶謹言。八月二日。くわんたいちゆうしんすゐ。伊沢辞安様。」

れいらう様追々御おひたち想像仕候。たんと御叱被成まじく候。あまりはやく成就いたさぬ様に御したて可被成候。くれ/″\も吾兄御近状にても御もらし可被下候。」

「又。」

「さて御いとま乞に参候せつ御目にかかり不申今に心あしく候。辞安様追々御こゝろよく御坐候哉。せつかく御いたはりなさるべく候。まことにたいりう中はかぎりなく御せわなし下され、わすれがたくぞんじ上候。只々御目にかからず帰候こと御のこり多く御坐候。ずゐぶん御身御よう心御わづらひなさらず候へかしといのり申候。かしこ。右御おくさま。太中。」

「おさよどのへ申候。たび/\参候ていろ/\さしつかひ候御せわのだん申つくしがたく候。ずゐぶん御すこやかに御せわなさるべく候。」

「又。」

「麻布令兄御によし御両処へ宜奉願上候。」

「又。」

「古庵様、卿雲、市野、服部、小山諸君へ御会合之度に宜御申可被下候。市川は別に一書あり。」

 以上長四尺ばかりの半紙の巻紙に書いたしよどくの全文である。としよくの処が少しあるが、幸に文字を損ずること甚しきに至つてゐない。



その七十九編集

 此書牘、文化乙亥の茶山の第一書に、主要なる人物として北条譲四郎の出て来たのは、あたかも庚午の書に頼久太郎の出て来たと同じである。わたくしは第一書と云ふ。これは此歳の初冬には茶山が更に第二書を蘭軒に寄せたからである。

 北条譲、あざなしじやう又景陽、霞亭、天放等の号がある。志摩国まとやの医師道有の子に生れた。弟りつけいに父の業をがせて儒となつた。乙亥には三十六歳になつてゐた。

 茶山が前年の夏より此年の春に至るまで、江戸に旅寝をした間、北条をかんなべの留守居に置いたことは、黄葉夕陽村舎詩にも見えてゐる。百せんろうに勝田ろくこくの寿筵があつた。茶山は遅く往つた。すると途上で楼を出て来た男が茶山を捉へて、「お前さんは菅茶山ぢやないか、わしは亀田ぼうさいだ」と云つた。二人はかつて相見たことはないのである。鵬斎は茶山を伴つて、再び楼に登つた。茶山は留守居の北条が鵬斎を識つてゐるので、自ら鵬斎に贈る詩を賦し、鵬斎の詩をももとめて、北条に併せ送つた。「陌上憧々人馬間。瞥見知余定何縁。明鑑却勝褚季野。歴相始得孟万年。拏手入筵誇奇遇。満堂属目共歓然。儒侠之名旧在耳。草卒深忻遂宿攀。吾郷有客与君善。遙知思我復思君。余将一書報斯事。空函乞君附瑤篇。」たしゆえんに入るの十四字、儒侠文左衛門の面目が躍如としてゐる。読んで快と呼ぶものは、独り此詩筒を得た留守居の北条のみではあるまい。

 鵬斎が茶山をつうくじやうに捉へて放さなかつた如く、茶山は霞亭を諸生間に抜いてはなつまいとした。「わたくし女姪二十六七になりし寡婦御坐候にめあはせ、菅三と申姪孫生長迄の中継にいたし候積」と云つてある。行状を参照すれば、「二弟曰汝楩、(中略)曰晋葆、(中略)無後、汝楩亦夭、有子曰万年、(中略)亦夭、有子曰惟繩、称三郎、於先生為姪孫、今嗣菅氏、(中略)又延志摩人北条譲、為廉塾都講、以妹女井上氏妻焉」と云つてある。茶山はぢよてつ井上氏を以て霞亭にめあはせ、しづかくわんさんまんねんの長ずるを待たうとした。即ち「中継」である。

 茶山はさきに久太郎を抑止しようとした時はごぢゆうと云ひ、今譲四郎をくけいしようとする時は仲継と云ふ。その俗簡を作るに臨んでも、字を下すこと的確動すべからざるものがある。わたくしは其印象の鮮明にして、ぜにの新にを出でたるが如くなるを見て、いまさらのやうに茶山の天成の文人であつたことを思ふのである。

 北条霞亭よりして外、茶山の此書は今一人の新人物を蘭軒に紹介してゐる。それは女である。「尾道女画史」とよである。

 蘭軒の姉、黒田家の奥女中きせは茶山にはなむけをした。いはゆる餞は前に引いた短簡に見えてゐる茶碗かも知れない。わたくしは此餞を云々したくだりしもに、不明な七字があると云つた。此所にはとしよくは無い。読み難いのは茶山の艸体である。蘭軒の姉は彼餞以外に別に何物をか茶山に贈つた。茶山は帰後時々それをつて興を添へると云つてゐる。其物は「金柚」と書してある如くである。柚はきついうか。果して然らば疑問は本草の疑問である。兎に角茶山は此種々の贈遺に酬いむと欲した。茶山は嘗て豊が絵を幾勢に与へたことがある。そこで「御入用候はばまたさし上可申」と云ふのである。



その八十編集

 菅茶山は嘗て蘭軒の姉きせに尾道のぢよぐわしとよが画を贈つたことがあつて、今又重て贈るべしや否やを問うてゐる。豊とは何人であらうか。

 わたくしは豊はぎよくうんの名ではないかと推測した。竹田荘師友画録にかう云つてある。「玉蘊。平田氏。尾路人。売画養其母。名聞于時。居処多種鉄蕉。扁其屋曰鳳尾蕉軒。画出於京派。専写生翎毛花卉。用筆設色倶妍麗。又画人物。観関壮穆像。頗雄偉。女史阿箏語予曰。玉蘊容姿裊娜。其指繊而秀。如削玉肪。其画之妙宜哉。常愛古鏡。襲蔵十数枚。茶山杏坪諸老及山陽各有題贈。」竹田は氏を書して名を書せない。しかし茶山集に「玉蘊女画史」と称してゐるのを見て、かんどくの尾道女画史におもひくらべ、玉蘊の平田豊なるべきを推測したのである。

 わたくしは師友画録を読んで、今一つ推測を逞しうした。それは玉蘊は或はくさかまうしんの族ではなからうかと云ふことである。竹田の記する所に拠れば、玉蘊は居る所に匾してほうびせうけんと曰つたさうである。然るに頼春水の集壬子の詩に、「春尽過尾路題草香生鳳尾蕉軒」の絶句がある。玉蘊と孟慎とは、同じく尾道の人であつて、皆鳳尾蕉軒に棲んでゐた。若し居る所がたま/\其名を同じうするのでないとすると、二人の間に縁故があるとも看られるのである。

 此段を書しをはつた後に、わたくしは林中将太郎さんの蔵する玉蘊の画幅に「平田氏之女豊」の印があることを聞いた。玉蘊の名は果して豊であつた。次でわたくしは茶山集中に「草香孟慎墓」の五律があるのを見出した。其七八に「遺編托女甥、猶足慰竜鍾」とある。ぢよせいは豊ではなからうか。

 茶山は此書を作るに当つて、蘭軒の親族のために一々言ふ所があつた。

 先づ榛軒がためには、父蘭軒に子を教ふる法を説いてゐる。「たんと御叱被成まじく候。あまりはやく成就いたさぬ様に御したて可被成候。」至言である。茶山は十二歳のたうすけのためにこれを発した。

 飯田氏ますに対しては、茶山は謝辞を反復してこんくわんを尽してゐる。江戸を発する前に、まのあたり告別することを得なかつたと見える。

 側室さよに対しては、「さしつかひ候御せわ」を謝し、又「御すこやかに御せわなさるべく」と嘱してゐる。前の世話は客を欵待するいひ、後の世話は善く主人を視る謂である。「さしつかひ候」は耳にうとい感がある。或は当時の語か。

「麻布令兄様御女子御両処へ宜奉願上候。」此句を見てわたくしは少く惑ふ。しかし麻布は鳥居坂の伊沢宗家をして言つたのであらう。令兄はしんびであらう。蘭軒の父のぶしなの養父しんえいの実子が即ち信美である。家系上より言へば蘭軒のしゆくふに当る。蘭軒には姉があつて兄が無かつた筈である。わたくしはしばらく茶山が信美と其ぢよとを識つてゐたものと看る。

 以上は茶山が蘭軒の家眷宗族のために言つたのである。次に蘭軒の交る所の人々の中、茶山の筆に上つたものが六人ある。

 よごこあんをば特に「古庵様」と称してある。大府の御医師として尊敬したものか。「卿雲」は狩谷棭斎、「市野」は迷庵、「服部」はりついん〈[#ルビの「りついん」は底本では「りつりん」]〉、「小山」はきつじんか。中にも卿雲吉人には、茶山が蘭軒に代つてしよどくを作つて貰はうとした。独り稍不明なのは書中にいはゆる「市川」である。

 わたくしは市川は市河であらうかと推する。寛斎若くは米庵であらうかと推する。市河を市川に作つた例は、現に刻本山陽遺稿中にもあるのである。此年寛斎は六十七歳、米庵は三十七歳であつた。



その八十一編集

 菅茶山と市河寛斎父子との交は、たま/\茶山集中に父子との応酬を載せぬが、之れを菊池五山、大窪天民との交に比して、決して薄くはなかつたらしい。茶山の五山との伊勢の邂逅は、五山が自ら説いてゐる。その五山及天民との応酬は多く集に載せてある。山陽の所謂「同功一体」の三人中、茶山が独り寛斎に薄かつたものとはおもはれない。市河三陽さんの云ふを聞くに、文化元年に茶山の江戸に来た時、米庵は長崎にゐた。帰途頼春水を訪うて、山陽と初て相見た時の事である。米庵は神辺に茶山の留守を訪うた。此年文化十一年の事は市河氏のしよどくにかう云つてある。「這次は寛斎崎に祗役して帰途茶山の留守に一泊、山陽と邂逅致申候。茶山未去、江戸に帰来して、三人一坐に歓候事、寛斎遺稿の茶山序中に見え居候。」蘭軒に至つては、既にかぶらきうんたんと親善であつた。多分其兄米庵をも、其父寛斎をも識つてゐたことであらう。

 老いたる茶山は神辺に住み、豆腐をげぶつにして月下に小酌し、耳を夜叢の鳴虫に傾け、遙に江戸に於ける諸友聚談の状をおもひやりつゝ、「あはれ、江戸が備中あたりになればよい」とつぶやいた。しかし此年文化十二年八月既望の小酌は、書を裁した十四日前に予測した如き「独酌」にはならなかつた。「十五夜分得韻侵。去載方舟墨水潯。今宵開閣緑峰陰。浮生不怪浪遊迹。到処還忻同賞心。両度秋期無片翳。孤村社伴此聯吟。明年知与誰人玩。松影斜々露径深。」幸に此しやはんの聯吟があつて、稍以て自ら慰むるに足つたであらう。

 九月には茶山の詩中にぐわじよくの語がある。しかし客至れば酒を飲んだ。「斯客斯時能臥蓐。勿笑破禁酒頻傾。」たゞに然るのみではない。往々此の如きもの連夜であつた。「月下琴尊動至朝。十三十四一宵宵。」

 十月に入つて茶山は蘭軒の書を獲た。これは丸山にうつつたことを報ずる書で、茶山の八月の書と行き違つたものである。十日に茶山は答書を作つた。亦あへばくわうそんさんの蔵儲中に存してゐる。

「御手教めづらしく拝見仕候。御気色之事のみ案じゐ申候処、足はたたねど御気分はよく候由、先々安心仕候。円山へ御移之由、これは御安堵御事、御内室様もおさよも少々間を得られ可申と奉存候。六右衛門、古庵様など折ふし御出之由、かくべつ寂寥にもあらざめりと悦申候。高作ども御見せ、感吟仕候。売家の詩は妙甚候。せつわどもていし申度候へ共、急に副し不申候。とくに一書さし出候へども、いまだ届不申候よし、元来帰国早々可申上候処、日々来客、そのうちに不快(此一字不明)になり、夏中すぐれず、又秋冷にこまり申候而延引如此に御坐候。くわへいは日々坐右におき、今日はかきつばた二りんいけゐ申候。四季ざき也。」

「市翁麦飯学者之説、歎服いたし候。麦飯にても学者あればよけれど、麦飯学者もなく候。日々生徒講釈などこまり申候。」

「伊勢之川崎りやうさ、帰路同道、江戸へ二十度もゆき、初両三度ははやくいにたい/\とのみおもひ候。近年にては今しばらくもゐたし、住居してもよしと思候と物がたり候。私もまた参たらば、其気になり可申やと存候へ共、何さま七十に二つたらず、生来病客、いかんともすべからず候。」

「帰路之詩も少々有候へ共、人に見せおき、此便間に合不申候。あとよりさし上可申候。先便少々はさし上候やとも覚申候が、しかと不覚候。」

「狐は時々見え候や承度候。千蔵がいふきつね也。千蔵も広島にこだなをかり教授とやら申ことに候。帰後はなしともつぶてとも不承候。げんちよくけいきうにより候。源十軽浮、時々うそをいふこと自若。直卿きうにより候。かぞへはとう/\矢代君へ御たのみ被下候よし、忝奉存候。八月には帰ると申こと。舟にて沖をのり、もはやりうり(此二字又不明)へ落著と奉存候。服部子いかが。これこそもとよりしげく参らるべし。おんついでに六右衛門、古庵様などへ、一同宜奉願上候。近作二三醜悪なれども近況を申あぐるためうつさせ候。小山西遊はいかが。十月十日。くわんたいちゆうしんすゐ。伊沢辞安様。」

「歯痛段々おもり、今は豆腐の外いけ不申候。酒はあとがあしけれど、無聊を医し候ため時々用候。」



その八十二編集

 菅茶山の乙亥八月十月の二書は、これを作つた日時が隔絶してをらぬので、文中の境遇も感情も殆ど全く変化してゐない。それゆゑ此二書には重複を免れぬ処がある。紀行の詩を云云するが如きに至つては、自らぜんどくの字句をさへ踏襲してゐる。

 茶山は旧に依つて江戸を夢みてゐる。前牘に「備中あたりになればよい」と云つた江戸である。茶山ははしなく、漸く江戸に馴れて移住してもよいと云ふ河崎りやうさと、猶江戸を畏れつゝ往反になやむ老を歎く自己とを比較して見た。そして到底いかんともすべからずと云ふにをはつた。

 わたくしは此に少しく河崎の事を追記したい。これは同時に茶山西帰の行程を追記したいのである。河崎にきばう日記の著があつたことは既に言つた。しかしわたくしは未だ其書を見るに及ばなかつた。

 このごろわたくしは彼書を蔵するもの二人あることを聞いた。一は京都の藤井おとをさんで、一は東京の三村清三郎さんである。そして二氏皆わたくしに借抄をゆるさうといふ好意があつて、藤井氏は家弟潤三郎に、三村氏は竹柏園主にこれを語つた。たま/\藤井氏の蔵本が先づ至つたので、わたくしは此に由つて驥䖟日記のいかなる書なるかを知つた。

 藤井本は半紙の写本で、序跋を併せて二十七けつである。首には亀田鵬斎の叙と既に引いた茶山の叙とがある。末には北条霞亭と立原翠軒との題贈がある。彼は七絶二、此は七絶七である。最後の半頁は著者の嗣子しようの跋がこれをうづめてゐる。

 本文の初に「伊勢河崎敬軒先生著、友人韓玨聯玉校」と署してある。河崎良佐が敬軒と号したことが知られる。又敬軒の文政二年己卯五月二十七日に歿したことは、子松の跋に見えてゐる。かんかくは山口覚大夫、号あふこうで、著者校者並に伊勢の人である。

 わたくしの日記に期待した所のものは、主に茶山西帰の行程である。それゆゑ先づこれを抄出する。

「乙亥二月二十六日。雨。発東都。聞都下送者觴茶山先生於品川楼。予与竹田器甫先発。宿程谷駅。」はつじんの日は二十六日であつた。河崎竹田は祖筵に陪せずして先発した。竹田きほは茶山集にも見えてゐて、筑前の人である。

「廿七日。巳後先生至。江原与平及門人豊後甲原玄寿讚岐臼杵直卿従。発装及申。宿戸塚駅。」敬軒等は茶山をほどがやに待ち受け、此より同行した。茶山は二十六日の夜を川崎に過したのである。「云昨留于川崎駅」と書してある。江原与平は茶山の族人である。

「廿八日。放晴。鎌倉之遊得遂矣。経七里浜。至絵島。宿藤沢駅。」鎌倉行はしゆくやくがあつた。

「廿九日。宿小田原駅。」

「晦。踰函山。畑駅以西。残雪尺許。宿三島駅。」

「三月朔。好晴。宿本駅。」ほんえきはもとじゆくか。

「二日。天陰。興津駅雨大至。比至阿陪川放晴。宿岡部駅。」

「三日。済大猪川。宿懸川駅。」

「五日。済荒井湖。宿藤川駅。」

「六日。宿熱田駅。」

「七日。極霽。至佐屋駅。下岐蘇川。宿四日市。明日将別。」

「八日。遂別。宿洞津城。」

「九日。未牌帰家。」

 以上が肉を去り骨を存した紀行である。わたくしは全篇を読んで、記すべき事二件を見出だした。一は敬軒が谷文晃に「茶山鵬斎日本橋邂逅図」を作らせ、鵬斎に詩を題せしめて持ち帰つたことである。「身是関東酔学生。公是西備茶山翁。日本橋上笑相見。共指天外芙蓉峰。都下閧伝為奇事。便入写山画図中。」一は茶山自家が日記を作つてゐたことである。「先生客中日記。名東征暦。」知らず、東征暦は猶存せりや、あらずや。



その八十三編集

 蘭軒は菅茶山に告ぐるに、市野三右衛門、狩谷三右衛門、よごこあんの時々来り訪ふことを以てした。茶山は蘭軒のこれによつて寂寥を免るゝを喜び、乙亥十月のしよどくに「六右衛門、古庵様などへ一同宜」しくと云つてゐる。

 蘭軒は又茶山に迷庵三右衛門の麦飯学者の説と云ふものを伝へた。わたくしはそのいかなる説なるかを知らぬが、茶山は「歎服いたし候」と挨拶してゐる。世間に若し此説を見聞した人があるなら、わたくしは其人に垂教を乞ひたい。

 茶山の此書を読んで、わたくしは頼ちくりが此年文化十二年に江戸より広島へ帰り、僦居してに授けたことを知る。このごろわたくしに無名の葉書を投じた人がある。消印の模糊たるがために、わたくしは発信者の居処をだに知ることが出来ない。葉書は単に鉛筆をもつて頼氏の略系を写し出したものである。此に竹里の直接尊卑属を挙ぐれば、「伝五郎惟宣、千蔵公遷、常太綱」であつて、諸書の載する所と何の異なる所も無い。しかし此三人のもとにはおの/\道号が註してある。即ちゐせんゆうがん、公遷は竹里、かうは立斎である。思ふにわたくしに竹里の公遷たることを教へむと欲したものであらうか。惜むらくは無名氏のわたくしに捷径を示したのは、わたくしが迂路に疲れた後であつた。

 茶山の書には猶数人の名が見えてゐる。直卿は初めうすき氏、後牧氏、讚岐の人で、茶山の集に見えてゐる。其他軽浮にして「時々うそをいふ」源十、矢代某に世話を頼んでもらつたかぞへ、次に竹里に狐のあだなをつけられた某である。此等源十以下の人々は皆たやすく考ふることが出来ない。

 此年十二月十九日に、蘭軒は阿部まさきよに請ふに間職に就くことを以てし、二十五日に奥医師より表医師に遷された。「十二月十九日、私儀去六月下旬より疝積其上足痛相煩引込罷在候而、急に出勤可仕体無御坐候に付、御機嫌之程奉恐入候、依之此上之以御慈悲、御番勤御免被下、尚又保養仕度奉願候所、同月廿五日此度願之趣無拠義被思召、御表医師被仰付候。」これが勤向覚書の記する所である。

 奥医師より表医師に遷るは左遷である。阿部侯は蘭軒の請によつて已むことを得ずして裁可した。しかし蘭軒を遇することは旧に依つてあつかつたのである。翌年元旦の詩の引に、蘭軒はかう書いてゐる。「乙亥十二月請免侍医。即聴補外医。藩人凡以病免職者。俸有減制。余特有恩命。而免減制云。」

 此年の暮るゝに至るまで、蘭軒はまた詩を作らなかつた。茶山には数首の作があつて、其中に古賀精里に寄する畳韻の七律三首等があり、又ぢよせきの五古がある。「一堂蝋梅気、環坐到天明」は後者末解の二句である。

 頼氏の此年の事は、春水遺稿の干支の下に最も簡明に註せられてゐる。「乙亥元鼎夭。以孫元協代嗣。君時七十。」夭したのは春風ゐきやうの長子で、養はれて春水の嗣子となつてゐた権次郎げんていしんほである。これに代つたのは山陽が前妻御園氏に生ませた余一げんけふしようちよ、号はいつあんである。春水は病衰の身であるが、其病は小康の状をなしてゐた。除夕五律の五六にかう云つてある。「奇薬春回早。虚名棺闔遅。」

 此年蘭軒は年三十九、妻益は三十三、榛軒は十二、常三郎は十一、柏軒は六つ、長は二つ、黒田家に仕へてゐる蘭軒の姉幾勢は四十七である。



その八十四編集

 文化十三年には、蘭軒は新に賜はつた丸山の邸宅にあつて平穏な春を迎へた。表医師に転じ、また宿直の順番に名を列することもなく、心やすくなつたことであらう。「丙子元日作。朝賀人声侵暁寒。病夫眠寤日三竿。常慚難報君恩渥。却是強年乞散官。」題の下に自註してへきゐの事を言ひ、遷任の事を言つてゐるが、既に引いてあるから省く。

 茶山も亦同じ歳首の詩に同じ間中の趣を語つてゐる。年歯の差は殆三十年を算したのであるが、足疾のために早く老いた伊沢の感情は、将に古稀に達せむとする菅の感情と相近似することを得たのである。「元日。彩画屏前碧澗阿。新禧両歳境如何。暁趨路寝栄堪恋。夜会郷親興亦多。」江戸にあつて阿部侯に謁した前年と、かんなべにある今年とを較べたのである。

 尋で蘭軒に「豆日草堂集」の詩があれば、茶山に「人日同諸子賦」の詩がある。わたくしは此に蘭軒の五律の三四だけを抄する。それは千きんはうを講じたことに言及してゐるからである。「恰迎蘭薫客。倶披華表経。」

 二月十九日に広島で頼春水が歿した。年七十一である。前年の暮から悪候がしりぞいて、春水自身も此の如く急に世を辞することをば期せなかつたらしい。歳首に作つた五絶数首の中に、「春風病将痊、今年七十一、皇天又何心、馬齢開八秩」と云ふのもあつた。山陽が三十七歳の時の事である。茶山に「聞千秋訃」の作がある。「時賢相継北邙塵。知己乾坤余一人。玉樹今朝又零落。此身雖在有誰親。」山陽が「読至此、廃巻累日」と云つてゐる。

 三月十三日に蘭軒は又薬湯の願を呈して、即刻三週の暇を賜はつた。文は例の如くであるから省く。病名は「疝積足痛」と称してある。丙子の三月は小であつたから、三週の賜暇は四月四日に終つた。勤向覚書を検するに、四月六日に二週のおひねがひがしてある。此再度の賜暇は十八日に終つた。覚書には十八日より引込保養が願つてある。

 わたくしは此年の事迹を考へて、当時のりふうが病休中の外遊を妨げなかつたことを知つた。蘭軒は三月二十四日に吉田きくたんの家の詩会に赴いた。「穀雨前一日、与木村駿卿、狩谷卿雲、及諸公、同集菊潭吉田医官堂、話旧」として七絶二首がある。其一。「書堂往昔数相陪。一月行過四十回。已是三年空病脚。籃輿今日僅尋来。」自註に「往年信恬数詣公夫人。試計至一月四十回云」と云つてある。穀雨は三月二十五日であつた。菊潭医官は誰であらうか。わたくしは未だ確証を得ぬが、吉田仲禎ではなからうかとおもふ。「仲禎、名祥、号長達、東都医官」と蘭軒雑記に記してある。且雑記には享和中棭斎長達の二人が蘭軒の心友であつたことを言ひ、一面には棭斎と蘭軒と他の一面には長達と蘭軒とは早く相識つてゐて、棭斎と長達とは享和三年二月二十九日に至つて始て相見たことを言つてある。菊潭は或は此人ではなからうか。しかし当時文化十三年の武鑑にはきじ橋の吉田法印、本郷菊坂の吉田長禎、両国若松町の吉田快庵、お玉が池の吉田秀伯、三番町の吉田貞順、五番町の吉田策庵があるが、吉田仲禎が無い。或は思ふに仲禎は長禎の族か。

 蘭軒は足疾はあつても、心気爽快であつたと見え、初夏より引き続いて出遊することが頻であつた。「会業日、苦雨新晴、乃廃業、与余語天錫、山本恭庭、木村駿卿同遊石浜墨陀諸村途中作、時服部負約」の五律五首、「首夏与余語天錫、山本恭庭、木村駿卿同集石田子道宅」の七絶三首、「初夏過太田孟昌宅」の七絶二首、「再過太田孟昌宅、与余語、山本二医官及木村駿卿同賦」の七律一首等がある。よご、木村、服部、石田、皆既出の人物である。てんせきは恐くはこあんあざなであらう。太田まうしやうは茶山の集中に見えてゐる。文化九年壬申の除夜にも、文化十一年甲戌の元旦にも、孟昌は神辺に於て茶山の詩会に列つてゐて、茶山は「江都太田孟昌」と称してゐる。孟昌、名は周、通称は昌太郎である。父名は経方、省いて方とも云ふ。字は叔亀、通称は八郎、全斎と号した。阿部家に仕へて文政十二年六月七十一歳にして歿した。孟昌は家を弟ぶぐん、通称信助、後又太郎に譲つて分家した。孟昌が事は浜野知三郎さんが阿部家所蔵の太田家由緒書とかはめちよくの校註韓詩外伝題言とに拠つて考証したものである。山本恭庭は蘭軒が時に「恭庭公子」とも称してゐる。恐くは永春院の子法眼宗英であらうか。当時小川町住の奥医師であつた。此夏病蘭軒を乗せた「籃輿」は頗るいそがはしかつたと見える。



その八十五編集

 此夏文化十三年夏の詩凡て十四首を読過して、わたくしは少し句を摘んで見る。固より佳句を拾ふのでは無い。稍誇張の嫌はあるが、歴史上に意義ある句を取るのである。

 いしばますみだの遊は讐書の業を廃してなしたのである。「好擲讐書課。政謀携酒行。」蘭軒は病中の悶を遣らむがために思ひ立つた。「連歳沈痾子。微吟足自寛。」当時今戸の渡舟は只一人の船頭が漕いで往反してゐた。蘭軒は其人を識つてゐたのに、今舟をるものは別人であつた。「渡口呼舟至。棹郎非旧知。」自註に「墨水津人文五、与余旧相識、前年已逝」と云つてある。

 石田梧堂の詩会で主人に贈つた作がある。「贈子道。駒子村南径路斜。碧叢連圃槖駝家。柳翁別有栽培術。常発文園錦様花。」駒込村の南のほそみちで、門並植木屋があつたと云ふから、梧堂は籔下辺に住んでゐたのではなからうか。わたくしは今のせいたいゑんの近所に「石田巳之介」と云ふかどふだが懸けてあつたやうに想像する。「壁上掛茶山菅先生家園図幅、聊賦一律。謾訪王家竹里館。偶観陶令園中図。双槐影映讐書案。六柳陰迎恣酒徒。池引川流清可掬。軒収山色翠将濡。如今脚疾君休笑。真境曾遊唯是吾。」座上まのあたり黄葉夕陽村舎を見たものは「唯是吾」である。

 太田孟昌の家をば二度まで蘭軒が訪うた。「初夏過太田孟昌宅」二絶の一。「喬松独立十余尋。落々臨崖翠影深。下有陶然高士臥。平生相対歳寒心。」次で「再過太田孟昌宅」七律に、「籬連僧寺杉陰老、砌接山崖苔色多」の一聯がある。がいに臨み寺に隣して、松の大木が立つてゐる。「樹陰泉井一泓清」の句もあるから、松の下には井もあつた。いづれ江戸の下町ではないが、はつきり何所とも定め難い。

 五月六日に蘭軒は阿部家にかごに乗る許を乞うた。勤向覚書にかう云つてある。「五月六日、足痛年月を重候得共全快之程不相見候に付、御屋敷内又は他所より急病人等申越候はば駕籠にて罷越療治仕遣度、仲間共一統奉願上候所、同月十三日無拠病用之節は罷越可申旨被仰付候。」いはゆる屋敷内は丸山邸内である。

 六月十一日に蘭軒が妻益のあねむこ飯田杏庵が歿した。杏庵、名はりしんである。先霊名録に従へば、伊勢国薦野の人黒沢退蔵の子であつた。しかし飯田氏系譜に従へば、杏庵はもと立田氏である。父は信濃国松代の城主真田右京大夫幸弘の医官立田玄杏で、杏庵は其四男に生れた。按ずるに立田玄杏は仮親であらうか。杏庵は蘭軒のぐわいきう飯田休菴〈[#「休菴」は「休庵」の誤記か]〉に養はれて、長女の婿となり、飯田氏を嗣いだ。杏庵の後を承けて豊後国岡の城主中川修理大夫ひさのりに仕へたのは、きうほしんぼうである。杏庵は妻飯田氏に子がなかつたので、田辺玄樹の弟休甫を養つて子とし、蘆沢氏のぢよを迎へてこれに配した。いはゆるとりことりよめである。

 秋に入つてから勤向覚書に二件の記事がある。一は蘭軒が神田の阿部家上屋敷へもかごに乗つて往くことを許された事である。一は蘭軒が医術申合会頭の職に就いた事である。此職は山田玄瑞と云ふものの後をいだのであつた。「八月七日、下宮三郎右衛門殿療治仕候に付、御上屋敷内駕籠にて出入御免被仰付候。閏八月十六日、医術申合会頭是迄山田玄瑞仕来候所、此度私え相譲候段御達申上候。」

 此秋蘭軒は始てしやくこんげを王子金輪寺に訪うた。「余与金輪寺混外上人相知五六年於茲、而以病脚在家、未嘗面謁、丙子秋、与石田士道、成田成章、太田農人、皆川叔茂同詣寺、得初謁、乃賦一律。山擎梵宮渓繞山。桂香先認異塵寰。青松凝色懸崖畔。白水有声奔石間。自覚罪根能已滅。漫扶病脚此相攀。陶潜不飲遠公酔。蓮社本来無著関。」自註に、「余病来止酒、而上人尤為大戸」と云つてある。茶山は更に、「病前亦不能多喫」と添加してゐる。果して然らば蘭軒は生来の下戸で、混外はこれに反して大いに別腸を具してゐたのであらう。



その八十六編集

 蘭軒は既に云つた如くに、文化八年の頃よりこんげと音信を通じてゐて、此年十三年の秋まさに纔に王子金輪寺を訪うたのである。わたくしは此五六年間に蘭軒と混外との交が漸く親密になつて、遂に相見ることの已むべからざるに至つたやうに推測する。此年の歳旦に混外が蘭軒に与へた小柬がある。「拙衲は第一、其外世界困窮仕候間、元日之口号誠に御一笑奉願候。丙午元旦口号。藁索疎簾松竹門。家々来往祝三元。寒巌処々猶冰雪。無復人間衣裏温。北郊貧道混外子。」かんどくの散文が詩よりも妙である。せつなふは第一、其外世界困窮の数語、何等の警抜ぞ。わたくしは乙亥の冬から丙子の春へ掛けて、江戸市中不景気と云ふが如き記事はないかとおもつて、武江年表を検したが、見当らなかつた。此小柬は書估文淵堂主人が所蔵の「花天月地」と題するくわんし二軸の中にある。収むる所は皆諸家の蘭軒榛軒父子等に寄せたしよどくしとうである。

 此年蘭軒に「歳晩偶成」の作がある。「富人競富殆将顛。貧子憂貧亦可憐。有食有衣何所慕。書中楽地送流年。」菅茶山には歳晩の詩がなかつた。

 此年幕府の蘭方医官大槻磐水が六十歳になつたので、茶山が寿詩を贈つた。詩は蘭人短命と云ふ処より立意したものであつた。「大槻玄沢六十寿言。君不見西洋諸国奇術多。神医往々出華佗。又不見紅毛之人乏老寿。得及五十比彭祖。我聞上古淳樸時。人無貴賤夭札稀。(中略。)智巧原来非天意。纔鑿七竅渾沌死。先生医学出西洋。自医医人並康強。不亀手方非異薬。運用在心人誰度。吾願先生寿不騫。益錬其術弘其伝。青藍若能播諸域。紅毛亦得享長年。」然るに磐水は此篇を得て喜ばなかつた。次の年に茶山が蘭軒に寄せた書牘に、蘭人の事を言つた紙片が添へてあつた。紙片は今あへばくわうそんさんのざうきよ中にある。其書牘は文淵堂蔵の花天月地中に存するものが或は是であらうか。書牘の事は猶後に記さうとおもふ。

 茶山はかう云つてゐる。「去年カピタンがたづさへきたりし妻は世に稀なる美人にて、日本人が見てもえならず見え、両婢ともにうつくしきこと限なしと、みな人申候。此頃絵すがた来りしに、聞しにかはりてうつくしからず候。先下女はマタルスのむすめかと見えて鼠色也。都下へはさだめて似づらのよきが参可申と存さし上不申候。去年大槻玄琢老に寿詞をたのまれ、つくり進じ候処、気に入不申候よし、わたくしが蘭人短命より趣向いたし候処、短命は舟にのる人ばかりにて、本国は長寿のよし也。吾兄長崎にひさし、いかがや覧。」

 欧洲人を美ならずとなし、短命なりとなす如き菅氏の観察乃至判断が、大槻氏に喜ばれなかつたのは怪むに足らない。美醜の沙汰はしばらく置く。欧洲人の平均命数の延長したのは十九世紀間の事である。文化中の欧洲人は短命とは称し難いまでも、必ずしも長寿ではなかつたであらう。欧洲人を以て智巧に偏すとなしたのは、固よりあやまつてゐた。偏頗は彼の心に存せずして、我の目に存してゐた。

 此年九月六日に池田錦橋が歿し、十一月二十九日に小島宝素が妻をめとつた。



その八十七編集

 池田錦橋は後に一たび蘭軒のまごむすめの婿となる全安の祖父である。錦橋の子が京水、京水の子が全安である。此故にわたくしは今少しく錦橋の事蹟を補叙して置きたい。その補叙と云ふは、さきに渋江抽斎の伝を草した時、既に一たび錦橋を插叙したことがあるからである。

 錦橋は始て公認せられた痘科の医である。もと生田氏、周防国くがごほりつづうらの人である。明の遺民たいりつあざなまんこうが国を去つて長崎に来り、後暫く岩国に寓した時、錦橋の曾祖父すうざんが笠を師として痘科を受けた。

 錦橋は宝暦十二年に広島にうつり、安永六年に大坂に徙り、寛政四年に京都に上り、八年に徳川いへなりの聘を受け、九年に江戸に入つた。

 錦橋は初め京水を以て嗣子となしてゐて、後にこれを廃し、門人村岡善次郎をして家をがしめた。京水は分家して町医者となつた。

 錦橋と其末裔との事にはきよたの疑問がある。疑問は史料のいんめつしたるより生ずるのである。わたくしは抽斎伝中に池田氏の事を叙するに当つて、しもの史料を引用することを得た。一、二世池田瑞仙ちよくけいの撰んだ錦橋の行状。直卿は即村岡善次郎である。瑞仙は錦橋の通称で、後これを世襲した。二、池田氏過去帖。これは三世池田瑞仙ちよくをんの自筆本で、池田氏の菩提所向島れいしようじに納めてあつたものである。わたくしは向島弘福寺主に請うて借閲し、副本を作つて置いた。三、富士川氏の手帳並日本医学史。手帳は富士川游さんが嶺松寺の墓誌銘に就いて抄録したものである。日本医学史には此抄録が用ゐてある。

 以上の史料の載する所は頗る不完全であつた。それゆゑわたくしは嶺松寺の墓石の行方を捜索した。墓誌の全文を見むがためである。しかしそれは徒労に帰した。嶺松寺の廃寺となるに当つて、墓石は処分せられた。此墓石の処分といふことは、明治以後盛に東京府下に行れ、今に至つて猶むことなく、金石文字は日々湮滅して行くのである。わたくしに此重大なる事実を知る機会を与へたものは、彼捜索である。

 抽斎伝を草し畢つた後、わたくしは池田宗家の末裔と相識ることを得た。三世瑞仙直温は明治八年に歿し、直温の妻窪田清三郎のむすめけいが後を襲いだ。これが瑞仙の家の第四世池田啓である。啓の後は啓の仲兄笠原しようざぶらうの子鑑三郎が襲いだ。これが瑞仙の家の第五世池田鑑三郎さんである。

 或日鑑三郎は現住所福島市大町から上京して、さいじゆうけい窪田くわんさんと共にわたくしの家を訪うた。啓の父清三郎の子がもんど、主水の子が即寛で、現にしたやなかかちまちに住してゐる。

 わたくしは鑑三郎に問うて、池田宗家累世の墓が儼存してゐることを知つた。嶺松寺が廃寺となつた後、明治三十年に鑑三郎はがふぼを谷中墓地に建てた。合墓には七人の戒名が刻してある。養真院殿元活瑞仙大居士は初代瑞仙錦橋である。芳松院殿縁峰貞操大姉は錦橋の妻ひしたに氏である。善勝院殿霧渓瑞翁大居士は二世瑞仙直卿である。秋林浄桂大姉は直卿のせふである。養寿院殿本如瑞仙大居士は三世瑞仙直温である。保寿院殿浄如貞松大姉は直温の妻にして瑞仙の家第四世の女主啓、窪田氏である。以上の六は正面につてある。梅嶽真英童子は直温の子洪之助である。此一諡だけは左側面に彫つてある。

 改葬には二つの方法がある。古墓石をありがたの儘に移すこともあり、又別に合墓を立つることもある。森きゑん一族の墓が目白より池袋に遷された如きは前法の例とすべく、池田宗家の墓が向島より谷中に遷された如きは後法の例とすべきである。彼の此に優ることは論をたぬが、事は地積に関し費用に関するから、已むを得ずして後法に従ふこともある筈である。わたくしは池田宗家の諸墓が全く痕跡なきに至らなかつたのを喜ぶと同時に、其墓誌銘の佚亡を惜んで已まぬのである。

 池田宗家の墓が谷中にうつされた時、分家京水の一族の墓は廃絶してしまつたらしい。



その八十八編集

 池田氏宗家の末裔鑑三郎さんは、独りわたくしに宗家の墓の現在地を教へたのみではない。又わたくしに重要なる史料をしめした。わたくしはかみに云つた如く、ちよくけいの撰んだ錦橋の行状、直温の撰んだ過去帖、富士川氏の記載、以上三つのものを使用することを得たに過ぎなかつた。然るにわたくしは鑑三郎と相識るに至つて、窪田くわんさんの所蔵の池田氏系図並に先祖書を借ることを得た。これが新に加はつた第四の材料である。

 わたくしは此新史料を獲て、最初に京水廃嫡の顛末を検した。先祖書に云く。「善卿総領池田瑞英善直、母は家女、病気に而末々御奉公可相勤体無御座候に付、総領除奉願候処、享和三亥年八月十二日願之通被仰付候。然る処年を経追々丈夫に罷成医業出精仕候に付、文政三辰年三月療治為修行別宅為致度段奉顧候処、願之通被仰付別宅仕罷在候処、天保七申年十一月十四日病死仕候。」

 善卿は初代瑞仙のあざなである。先祖書には何故か知らぬが、世々字を以てなのりとしてある。瑞英善直の京水たることは、過去帖の宗経軒京水瑞英居士と歿年月日を同じくしてゐるのを見れば明である。

 是に由つて観れば、錦橋行状の庶子善直が即京水であつたことは、また疑ふべからざることとなつた。行状に云く。「君(錦橋)在于京師時。娶佐井氏。而無子。嘗游于藝華時、妾挙一男二女。男曰善直。多病不能継業。二女皆夭。」

 京水は錦橋の庶子であつた。先祖書の文が行状の文と殆全く相符してゐて、唯先祖書に「母は家女」と書してあるのは、公辺に向つての矯飾であつただらう。そして直卿は行状を撰ぶに当つて、信を後世に伝へむがために、此矯飾を除き去つたのであらう。

 現存する所の先祖書は、元治元年に三世瑞仙直温の官府に呈したものである。しかし其記事は先々代乃至先代のかきあげと一致せしめざることを得ない。他家の書上の例を考ふるに、若しこれを変易するときは、一々拠るところを註せなくてはならない。此故に直温の文中錦橋の履歴は錦橋の自撰と看做すことを得べく、又霧渓直卿の履歴は霧渓の自撰と看做すことを得べきである。

 官府にたてまつる先祖書には、錦橋は京水を以て実子となした。霧渓も亦京水を以て養父錦橋の実子となした。但霧渓は養父の行状を撰ぶに当つて、京水の嫡出にあらざることを言明したに過ぎない。要するに二世瑞仙霧渓の時に至るまでは、京水が錦橋の実子たることに異議をさしはさむものはなかつたのである。

 降つて三世瑞仙直温の時に及んで、始て異説が筆に上せられた。それは過去帖の「宗経軒京水瑞英居士、五十一歳、初代瑞仙長男、実玄俊信卿男、天保七丙申十一月十四日」といふ文である。然らば京水の実父玄俊とは何人ぞ。同じ過去帖に云く。「憐山院粛徳玄俊居士、信卿、瑞仙弟、京水父、同(寛政)九丁巳八月二日、寺町宗仙寺墓あり、六十歳。光嶽林明大姉、同人妻、京水母、宇野氏、天明六丙午、三十六歳。」即ち京水を以て錦橋の弟玄俊信卿の子、宇野氏のしゆつとなすのである。

 わたくしは此より進んで議論することを欲せない。言ふところの臆測に墜ちむことを恐るゝからである。わたくしの京水研究はしばらく此に停止する。今わたくしの知り得た所を約記すればしもの如き文となる。

「池田京水、初の名は善直、後名はいんあざなかちよう、瑞英と称す。父は錦橋独美善卿、母は錦橋の側室某氏なり。天明六年大坂西堀江隆平橋南の家に生る。享和三年八月十二日十八歳にして廃嫡せらる。文政三年三月三十五歳にして分家す。天保七年十一月十四日病歿す。年五十一。一説に京水は錦橋の弟玄俊信卿の子なり。母は宇野氏。錦橋に養はれて嗣子となり、後廃せらる。」



その八十九編集

 わたくしは此年文化十三年に池田錦橋の歿したことを書くついでに、曾て池田氏の事蹟を探討した経過を語つた。既に先祖書を得た今、わたくしは未だこれを得なかつた昔に比ぶれば、暗中に一すゐの火を点し得た心地がしてゐる。しかしあまたの疑問はなか/\解決するに至らない。前に挙げた京水出自の事の如きは其一である。

 錦橋は此年に歿した。しかしその歿した時の年齢が不明である。わたくしは渋江抽斎の伝に於て、霧渓所撰の錦橋行状に年齢の齟齬を見ることを言つた。そして生年より順算して推定を下さうとした。今先祖書を得た上はこれをふくかくして見なくてはならない。

 行状を見るに、錦橋は「以享保乙卯五月二十二日生」としてある。享保二十年錦橋生れて一歳となる。次に「宝暦壬午春、携母遊于安藝厳島、時年二十八」としてある。宝暦十二年二十八歳となる。次に「安永丁酉冬、(中略)抵于浪華、(中略)年四十」としてある。安永六年四十三歳であるべきに、四十歳と書してある。齟齬は此辺より始まる。次に「寛政壬子秋、游于京師、(中略)年五十五」としてある。寛政四年五十八歳であるべきに、五十五歳と書してある。次に「丁巳正月来于東都、年六十四」としてある。寛政九年六十三歳であるべきに、六十四歳と書してある。最後に「文化丙子九月六日病卒、享年八十有三」としてある。文化十三年八十二歳であるべきに、八十三歳と書してある。要するに安永中より寛政の初に至る間三歳を減じ、寛政の末より一歳を加へ、遂に歿年に一歳を加ふるに至つたのである。そこでわたくしはかんしと年歯との符合するものを重視し、生年に本づいて順算することゝした。即ち歿年は八十三にあらずして八十二となるのである。

 然らば直温所撰の過去帖はいかに。過去帖は錦橋の父母妻子のよはひつぶさに載せながら、独り錦橋の齢を載せない。直温ははやく旧記の矛盾に心付いたので、疑はしきを闕いで置いたのではなからうか。

 新に得たる直温所撰の先祖書は奈何。先祖書には、年次若くは干支と年齢とを併せ載せた処が僅に二箇所あるのみである。「八歳之時父(錦橋父)正明病死仕候」と云ひ、「池田杏仙正明、寛保二戌年正月十六日病死」と云ふのが一つである。「同年(文化十三子年)十月晦日病死仕候、年八十三歳」と云ふのが二つである。歿した月日の行状と異つてゐるのは、官府に呈する文書には届出の月日を記したためであらう。

 唯二箇所である。而して年次若くは干支と年齢との齟齬は、その二つのものの間にさへ存してゐる。これは直卿撰の行状に影響した或物が、早く善卿撰の先祖書に影響し、いて直温撰の先祖書にも及んだのであらう。先祖書の寛保二年錦橋八歳は享保二十年乙卯生に符合してゐる。これが安永前の記事である。文化十三年八十三歳は生年より推算して一歳の過多を見る。これが安永以後の記事である。先祖書を受理する慕府刀筆の吏も、一々年次と年齢とを験するために算盤を弾きはしなかつたと見える。

 以上記する所に就いて考ふるに、錦橋が年齢のていごは、どうも錦橋自己より出でてゐるらしい。錦橋は江戸に来た比から、つねに其よはひに一歳を加へて人に告げた。それが自ら作つた先祖書に上り、養子霧渓の撰んだ行状にも入つたのであらう。



その九十編集

 わたくしは池田錦橋の死を語り、又錦橋並に其一族の事蹟に幾多未解決の疑問のあることをも言つた。その主なるものは錦橋の年齢、其廃嫡子京水の出自等である。

 錦橋の末裔鑑三郎さんと姻戚窪田寛さんとの、わたくしに借覧を許した先祖書は、此家の事を徴するに足る重要文書たることは勿論である。しかしわたくしは此に由つて一の難路を通過した後、又前面に一の難路の横はつてゐるのを望見するが如き感をなしてゐる。

 向島嶺松寺の池田氏の諸墓には、誌銘が刻してあつたさうである。推するに錦橋の墓誌は今存する所の行状と大差なからう。これに反してわたくしの切に見むことを願ふものは京水の墓誌である。曾て富士川游さんは其一部を抄写したが、わたくしは其全文を見むことを欲する。且何人が撰んだかを知らむことを欲する。然るに其碑碣は今亡くなつてしまつたのである。

 錦橋の墓は嶺松寺にあつたものが既に滅びても、其名は鑑三郎の建てたがふぼに刻まれてゐる。又黄蘗山にも墓碑を存してゐるさうである。疇昔の日無名氏があつて、わたくしに門司新報の切抜を寄せてくれた。文は何人の草する所なるを知らぬが、想ふにはくさんきしようの一節であらう。「どくりふの塔に隣りて池田錦橋の墓あり。この人は別に檗山に関係あるものにあらねど、氏の祖父は周防国くがごほりつづうらの人にして、岩国に於て独立に就いて痘科の秘訣を伝へて家学とし、氏に至りて幕府の医官たり。独立けごその塔は多分氏の建立せしものならむ。氏の墓は門人近藤げんし、佐井ぶんあん、竹中ぶんすけの同建にかかる。氏の門人録によれば、近藤は下総の人にして、佐井竹中の両氏は録中にその名を見ず、晩年の門人ならむとおもはる。」檗山錦橋の碑には、建立者三人の氏名を除いては、何もつてないのであらうか。わたくしはそれが知りたい。わたくしは此記の誰が手に成れるかを知らぬが、其人は既に錦橋の門人録をけみしてゐる。を執るものに血判せしめた錦橋の門人録は、或は珍奇なる文書ではなからうか。其人は或は池田氏の事にくはしい人ではなからうか。

 嶺松寺の廃せられた後、遺迹の全く亡びたのは京水である。わたくしは最も京水の墓の処分せられ、其誌銘の佚亡に至つたことを惜む。

 こゝに吉永卯三郎さんと云ふ人がある。わたくしに書を寄せてかう云ふことを報じてくれた。「嶺松寺及池田氏墓誌銘は江戸黄蘗禅刹記巻第五に記載有之候。右書は帝国図書館に所蔵有之候。其方差支有之候はば、小生も一本を持居候。池田錦橋氏の墓は山城宇治黄蘗山万松岡独立墓の側にも一基有之候。」想ふに禅刹記には必ず錦橋の墓誌が載せてあるであらう。若し京水のものも併せ載せてあつたなら、それは予期せざる幸であらう。若し富士川氏の手抄にたま/\一節を保存せられた文の全篇が載せてあつたなら、それは予期せざる幸であらう。

 わたくしは蔵書の乏しい癖に、図書館には疎遠である。吉永氏の書を得た後、未だ一訪するに及ばない。識る所の書估の云ふを聞くに、江戸黄蘗禅刹記はいはゆる珍本ださうである。買ひ求むることはむづかしさうである。或はわたくしも早晩遂に図書館に趨らざることを得ぬかも知れない。



その九十一編集

 小島春庵なほかたが初て妻を娶つたのも、此年文化十三年十一月二十九日である。春庵尚質は春庵もとかずの子で、いはゆる宝素である。長井金風さんのことに拠れば、曾てやうじやうぜんたいそけいを獲て、自ら宝素と号したのださうである。尚質の母は蘭学者前野りやうたくよみすむすめである。憙は老後根岸の隠宅から小島の家に引き取られて終つた。尚質の初の妻は山本そうえいの女である。しゆんきを生んだのは此女ではない。此女の歿した後に来た後妻である。

 此年蘭軒は四十歳、妻益は三十四歳、子女は榛軒十三歳、常三郎十二歳、柏軒七歳、長三歳であつた。

 文化十四年には蘭軒が「丁丑新歳作」と題する七律を遺してゐる。「君恩未報抱沉痾。暖飽逸居頭稍皤。梅発暄風香戸牖。靄含春色澹山阿。好文化遍家吟誦。奏雅声調人暢和。新歳不登公館去。椒樽相対一酣歌。」一二七の三句があつて病蘭軒の詩たるにそむかない。「頭稍皤」は恐くは実を記したものであらう。頸聯には自註がある。「註云。我公好学多年。群臣亦大化。他諸侯之国。如我藩者絶少矣。去年来公又以暇日。時或習古楽。有侍臣数人亦学之者。邸中瓟竹之声。頗使人融雍。故五六及之。」阿部侯まさきよは丙子の年から雅楽を習ひはじめたと見える。

 菅茶山は此年正月二十一日に蘭軒に与ふる書を作つた。此書も亦饗庭篁村さんの蔵儲中にある。

「新禧いよ/\御安祥御迎可被成遙賀仕候。晋帥病懶依然御放念可被下候。去年しもみやたいふ臥病の節は御上屋敷迄も御出之由、忙程之事出来候へば大慶也。追々脚力も復し可申やと奉存候。只私がごとくよりによりたる年浪は立帰るなし。御憐察可被下候。」

「扨津軽屋へ約束いたし候院之荘之ふるすだれ、旧冬やう/\と得候故、船廻しにしんじ候。御届可被下候。後醍醐帝御旅館それがしが家に、今簾をかけ候。これは須磨などにあんざいしよの跡とてかけ候を見及たるや。即備後三郎が詩を題せし所也。さくしうつやまより四五里ばかり有之所のよし、院之荘は其地名也。これは十四年前備前之人を頼置候。度々催促すれども得がたし/\と申而居候故、もはやくれぬ事かと思切ゐ申候処、去冬忽然と寄来候。作州より三十里川舟にて岡山へ参、夫よりなだふねにて三十里、児島を廻る故遠し、笠岡てふ所へ参、そこより三里私宅へ参候へば、物は軽く候へども、世話は世話也。銭は一文もいらず候。此世話ばかりをかのとふすがごも之礼と被仰可被下候。」

「扨市野など不相替会合可有之遙想仕候。梧堂はいかが。杳然せうそこなし。其外存候人へごちせい宜奉願上候。べつしてごないせい様おさよどのへ御祝詞奉願上候。このたび状多したため腕疲候而やめ申候。春寒御自玉可被成候。恐惶謹言。正月廿一日。くわんたいちゆうしんすゐ。伊沢辞安様。去年詩画騒動之詩、尺牘とも見申候。番付未参候、あらば御こし可被下候。詩御一笑可被下候。うつさせて梧堂へ御見せ可被下候。」

「尚々卿雲へこたび書状なし。宜御申可被下候。たび/\問屋のやう御頼、いはゆる口銭もなし。御面倒奉察候。」



その九十二編集

 此丁丑正月の菅茶山の書に所謂「下宮大夫臥病」云々は、前に引いた勤向覚書に見えてゐる往診の事である。大夫下宮、通称は三郎右衛門、神田にある阿部家の上屋敷にゐて病に罹つたので、蘭軒は丸山の中屋敷から往診した。此機会に蘭軒はかごに乗つて上屋敷に出入する許可を受けたのである。

 院之荘のすだれの事は興ある逸話である。狩谷棭斎は茶山にとふすがごもを贈つた。茶山は其むくいに院之荘の簾をおくることを約した。それを遷延して果さなかつたのに、今やう/\求め得て送つたのである。

「去年詩画騒動」とはなにごとか未だ考へない。当時寛斎、天民、五山、柳湾の詩、文晁、抱一、南嶺、雪旦の画等が並び行はれてゐたので、「番附」などが出来、其序次が公平でなかつたために騒動が起つたとでも云ふ事か。「詩尺牘とも」見たと、茶山は云つてゐるが、かんさい詩集にはそれかと思はるる詩も見えない。

 慣例のコンプリマンは簾を得て書を得ざる棭斎、茶山の詩を見せてもらふ石田梧堂の外、蘭軒のさいせふててある。

 蘭軒の集中には此年元旦の作の後に、春季の詩七首がある。此にその作者の出入起居を窺ふべきものを摘取することとする。蘭軒の例として催す「豆日草堂集」は、あたかも好し、雪の新に霽れた日であつた。「竹裏数声黄鳥啼。漫呼杖屨到幽棲。恰忻春雪朝来霽。麗日暄風晞路泥。」又「春日即事」の詩に「春困奈斯睡味加、筑炉薩罐煮芳芽」の句がある。筑炉のもとには「家姉之所贈」と註し、さつくわんの下には「家兄之所贈」と註してある。家姉のきせたるは論なく、家兄は蘭軒の宗家伊沢しんびを呼ぶ語であつたことが、此に由つて考へられる。菅茶山が「麻布令兄」と書したゆゑんであらう。此春蘭軒はかごに乗つて上野の花をも見に往つた。「東叡山看花」の絶句に、「劉郎不復曾遊態、扶病漫追芳候来」の句がある。

 長崎にまのそんさいと云ふものがあつて、六十の寿筵が開かれたのも此春である。蘭軒の「遙寿長崎遜斎真野翁六十」の詩に、「嚢中碧籙伝三世、局裏金丹恵衆民」の頷聯があつて、其下に「老人為施薬所主司」と註してある。

 僧こんげが蘭軒に芭蕉を贈つたのも此春である。「清音閣主混外上人見贈芭蕉数根、賦謝」として七絶がある。「懐師方外辱交情。寄贈芭蕉数本清。従此孤吟風雨夕。応思香閣聴渓声。」いうくわいは居る所の室を清音閣と云つて、其清音は滝の川の水声を謂つたものと見える。

 其他此春少壮官医中に蘭軒のきしんを受けたものがあるらしい。わたくしは「戯呈山本莱園小島尚古二公子」の詩を読んでかくの如くに解する。「方怕芳縁相結得、鮮花香裡不帰来」は、たはぶれと称すと雖も、実は規であらう。

 莱園の誰なるかは、わたくしは知らない。或は法眼宗英の家の子弟ではなからうか。しやうこも亦未詳である。海保漁村の経籍訪古志の序に、小島宝素の事を謂つて、「宝素小島君学古」となしてある。なほかたあざなは学古とも尚古とも云つたのではなからうか。尚質は此年二十一歳であつた。

 わたくしは只蘭軒が何故に菅茶山のために寿詞を作らなかつたかを怪む。茶山の七十の寿筵が其誕辰に開かれたとすると、此年二月二日であつた筈である。寛延元年二月二日にすがなみきたらうとして生れたからである。



その九十三編集

 菅茶山の七十の誕辰は、行状に「十四年(文化)丁丑、先生年七十、賜金寿之」と書してある。阿部家から金を賜はつたことである。其日の七律の七八に「展観寿頌堆牀上、且喜諸公未我捐」と云つてある。詩集の載する所のみを以てしても、楽翁白川老侯は「寿歌寿杯」を賜はつた。谷文晁は「磻磎跪餌図」を作つて贈つた。茶山も幸にして病に悩されずに、快くさかづきを挙げたと見える。「不知身上残齢減。猶且欣々把寿巵。」前にも云つたやうに、わたくしは蘭軒の寿詞の闕けてゐるのを憾とする。

 茶山の家では夏に入つてから後も、祝賀の余波が未だ絶えなかつた。「誕辰後諸君持詩来集」の七律に、「新荷嫩筍回塘夕、微暑軽寒熟麦時」の頸聯がある。祝賀はむぎあきの頃にさへ及んだのである。

 此年の夏以後、蘭軒の集中には僅に四首の詩を存してゐて、しかも其一は題があつて詩が無い。人のために画に題する詩の中で、吉田周斎がためにするものは詩があつて、門人はたげんみんがためにするものは詩がないのである。玄民は書家星池の弟で、後に飯田氏を冒したものである。

 旺秋に入つてから、茶山の蘭軒に寄せた書牘が遺つてゐる。是より先七月に茶山は蘭軒の書を得てこれに答へた。次で蘭軒の再度の書が来て、茶山は八月七日に此書牘を作つたのである。これは文淵堂所蔵のくわてんげつち中に収められてゐる。

せんだつて御寸札ならびに論語到来、其御返事先月廿日ごろいたし、大坂便にさし出候。今度御書に而は、右本御恵賜被下候由扨々忝奉存候。いよいよ珍蔵可仕候。棭斎翁へも(隠居故翁と書たり)宜御礼奉願上候。御状も来候へども、此便急に而御返事期他日候。」

「今年御地寒熱之事被仰下、いづかたも同様也。先去冬甚あたたかに、三冬雪を見ず、それにしては春寒ながく候ひき。土用中もつてのほかひややかに、初秋になりあつく候。秋はきのふたちぬときけど中々にあつさぞまさる麻のさごろもなどとつぶやき候。此比又冷気多く候処、今日よりあつさつよく候。いかなる気候に候や。生来不覚位の事也。先冬あたたかに雪なく、夏涼しくて雷なく、凌ぎよき年也。ことに豊年也。世の中も此通ならば旨き物也。諺に夏はあつく冬はさむきがよいと申せばさ様にも無之や。御地土用見廻之人冷気之見廻を申候よし、よつて憶出候。廿五六年前ひとゝせ京にゐ候時、暑甚しく、重陽などことにあつし。今枝某といふ一医生礼にきたり、いつも端午が寒ければ、わたいれの上にかたびらを著す、今日は帷子の上にわたいれを著して可然などと申候。」

「落合敬助太田同居にてたび/\御逢被成候よし、如仰好人物也。詩文はよく候へども富麗に過候。最早あの位に出来候へば、取きめてじようざつならぬ様に被致かしと奉存候。このこと被仰可被下候。」

「長崎游竜見え候時、不快に而其宿へ得参不申候。門人かけんか見え候故、しばらく話し申候。寝てゐる程の事にもあらず候。このかん学問もあり画もよく候。逢不申残念に御坐候。私気色は春よりいろ/\あしく候。然ども浪食もとのごとくに候。今年七十に候へば、元来の病人すゐばうは其所也。」

こんりん上人度々御逢被成候よし、おんついでに宜奉願上候。三瑕之内美僧はうけがたく候。梧堂つてにて御逢被成候ひしや。其外岡本忠次郎君、田内(か川)ちから、土屋七郎なども参候よし、みな私知音之人、金輪へ参候時何の沙汰もなく残念に候。」



その九十四編集

 此年文化十四年八月七日に、菅茶山の蘭軒に与へた書は、文長くして未だ尽きざるゆゑ、此に写し続ぐ。

あさがほ大にはやり候よし、近年上方にてもはやり候。去年大坂にて之番附坐下に有之、懸御目申候。ことしのも参候へども此頃見え不申候。江戸書画角力は相識のかほもあり、此あさがほすまふは名のりを見てもしらぬ花にてをかしからず候。前年御話申候や、わたくし家に久しくしやうしうだねのけんぎうくわあり。もと長崎みやげに人がくれ候。卌年前也。花大に色ふかく、陰りたる日は晩までもしぼまず。あさがほの名にこそたてれ此花は露のひるまもしをれざりけりとよみ候。其たねつたへてかげきといふうたよみの処にゆきたれば、かかるたねあること知らで朝顔をはかなきものとおもひけるかなとよみ候よし。私はしる人にあらず、伝へゆきしなり。これは三十年前のこと也。さて其たねあさがほはやるにつき段々人にもらはれ、めつたにやりたれば、此年は其たねつきたり。はやらぬ時はあり。はやる時はなし。しんすゐこつさうのじゆんもおもふべし。呵々。扨高作は妙也。申分なし。段々上達可思也。曾てきく。上方にはやること、大抵十五六年して江戸へゆき、江戸にはやること亦十五六年して上方へ来ると云。このあさがほは両地一度也。いかなる事や。重厚之風段々減じ、軽薄之俗次第に長ずるにはあらずや。何さま昌平之化可仰可感候。」

「梧堂より両度書状、今以返事いたさず、畳表之便をまち申候。其内先此一首にて、王子と両方への御断也。御届け可被下候。」

「棭斎隠居之譚とくより承候。あたらしく被仰下候而物わすれは老人のみにあらずと、やゝじんいをつようし候。書中に御坐候。松崎ほめ候へ共、れんはいまだ知音を不得候よし申参候。千載の知己をまつの外せんすべなかるべし。この松崎は旧知識也。在都中不逢候を遺恨に覚え候。御逢被成候はば宜御つたへ被下よと、御申可被下候。棭斎西遊之志御坐候よし、これは何卒晋帥が墓にならぬうちに被成よと、御申可被下候。長崎は一とほり見ておきたき所也。私も志ありしかども縁なし。何卒御すすめ可被下候。市野のわる口は前書にあり。こゝにぜいせず。八月七日。是日べつして暑甚し。これまでは涼しきにこまりたり。菅太中晋帥。伊沢辞安様。落合敬介漂流のうち、ここかしこ、いづくもわたくし相しれる所へ参られ候は奇也。別而宜しく御伝可被下候。御地久しく雨ふらず候よし、蒓郷も亦同じ。五六日ふりしのち此ごろまでふらず、此比三度少しづつふりたれども、ちでいをなすにいたらず。然れども此上ふりてはまたあしし。これにてよき程也。これは蒓郷によろし。土地によるべし。」

「尚々古庵様、服部氏、市川先生、凡私を存候人々へ宜奉願上候。別而御内政様、両れいらうは勿論、おさよどのまで不残奉願上候。ふしぎは今年蛇蚊蛙すくなく、燕はいつもしゆんせいももくれなゐに梅雨柳くらき比軒ばに来り、ぢなんかまびすしきに、ことしは三日に一度、五日に一度くらゐ稀に見申候。此比虫語常年のごとし。」

 此手紙は長さ五尺ばかりの半紙の巻紙に細字で書いてある。分註あり行間の書入あり、原本のままには写しにくいので、文意を害せざる限は、本文につづけてしまつた。但「棭斎翁」のもとにある填註のみは括弧内に入れた。



その九十五編集

 菅茶山の書牘にあまたの人名の見えてゐることは、かみに写し出した此年文化十四年八月七日の書に於ても亦同じである。

 狩谷棭斎は此ころ隠居した。恐くは此年隠居したと云つても好からう。わたくしは世に棭斎詳伝のありやなしやを知らない。わたくしの知る所は只松崎かうだうぼけつめいのみである。慊堂はかう云つてゐる。「翁年四十余。謂曰。児已長。能治家。我将休矣。遂卜築浅草以居。扁曰常関書院。署其室曰実事求是書屋。又号蟫翁。皆表其志也。」いはゆる「年四十余」は年四十三に作つて可なることが、此書牘に徴して知られるのである。棭斎の退隠の年を明にすると云ふことは、わたくしの以て大に意義ありとなす所である。若し別に詳伝がないとすると、これも亦一の発見である。

 湯島の狩谷の店にはくわいしあざなせうけいが津軽屋三右衛門の称をいですわつたのであらう。慊堂が「風度気象能肖父」と云つてゐるから、立派な若主人であつたかとおもふ。しかし年は僅に十四であつた。安政三年に五十三歳で歿した人だからである。

 書牘には論語を送られた礼を棭斎にも伝へてくれと云つてある。論語は市野迷庵の覆刻した論語集解であらう。迷庵の所謂「六朝経書、其伝者世無幾」ものであらう。蘭軒は初め短い手紙を添へて茶山に此本を見せに遣つた。ついで「あれは献上する」と云つて遣つた。茶山は蘭軒に其礼を言つて、同時に棭斎にも礼を言つてくれと云つておこせたのである。わたくしは此間の消息を明にするために、覆刻本の序跋を読んで見たくおもふ。しかし其書を有せない。わたくしは市野くわうかうさんのもとで其書を繙閲して、刻本の字体を記憶してゐるのみである。想ふにこれも亦所謂珍本に属するものであらう。

 今一つ注目すべきは棭斎の辛巳西遊の端緒が、早く此年文化十四年に於てあらはれてゐる事である。茶山は「晋帥が墓にならぬうちに被成よ」と云つて催促してゐる。此より後四年にして棭斎は始て志を遂げ、茶山を神辺に訪ふことを得た。

 次に松崎慊堂の名が茶山の此書牘に見えてゐる。しかも其事は棭斎に連繋してゐる。此所の文は少し晦渋である。「書中に御坐候。松崎ほめ候へ共、簾はいまだ知音を得ず候よし申参候。千載の知己をまつの外せむすべなかるべし。」茶山は棭斎に院之荘の簾を贈つた。棭斎の書中に此簾の事が言つてある。棭斎は簾をじつじきうし書屋に懸けて客に誇示してゐる。しかし慊堂一人がこれを歎美したのみで、簾は人の称讚を得ないと云つてある。然らば簾は知己を千載のしもに待つ外あるまい。わたくしは読んでかくの如くに解する。

 香川景樹と菅茶山との関係も亦此書牘に由つて知られる。寧関係の無いことが知られると云つた方が当つてゐるかも知れない。頼氏には深く交つた景樹も、菅氏とは相識らなかつたのである。茶山は四十年前にひるしをれぬ漳州産のけんぎうくわを栽培してゐた。景樹が三十年前に其種子を得て植ゑ、歌を詠んだ。茶山は「私はしる人にあらず、伝へゆきしなり」と云つてゐる。

 茶山が此逸事を筆に上せたのは、蘭軒が江戸に於ける朝顔の流行を報じたからである。蘭軒はこれを報ずるに当つて、詩を寄示した。集に載する所の「都下盛翫賞牽牛花、一絶以紀其事」の作である。「牽牛奇種家相競。不譲魏姚分紫黄。請看東都富栄盛。万銭購得一朝芳。」

 文化十四年より三十年前は天明七年である。朝顔のたねが菅氏から香川氏に伝はつた時、文字の如く解すれば、茶山が四十歳、景樹が僅に二十歳であつた筈である。しかしわたくしは此推定に甘んぜずに、更に討究して見ようとおもひ立つた。



その九十六編集

 菅茶山の書牘中にある香川景樹の朝顔の歌は、わたくしの素人目を以てしても、分明に桂園調で、しかも第五句の例の「けるかな」さへ用ゐてある。わたくしは景樹の集に就いて此歌を捜さうとおもつた。然るに竹柏園主の家が遠くもない処にある。多く古今の歌を記憶してゐる人である。或はことさらに捜すまでもなく此歌が其記憶中にありはせぬかとおもつた。

 わたくしは茶山と景樹との歌を書いて、出典は文化十四年の茶山のせうそこと註し、「景樹の此歌他書に見え候ものには無之候や」と問うた。此歌は園主の記憶中には無かつた。後におもへば目に立つべき歌ではなかつたから、園主の記せざるは尤の事であつた。園主は出典の文化十四年と云ふに注目して、文化十年以後の景樹の歌を綿密に検したが、尋ぬる歌は見えなかつた。只文化十四年に景樹がなにはびと峰岸某から朝顔のたねを得た歌を見出したのみであつた。そしてそれは勿論ことうたであつた。

 これはわたくしの問ざまが悪かつたのである。書牘は文化十四年の書牘だが、茶山は昔語をしてゐたのである。園主に徒労をさせたのは、問ふもののことばが足らなかつたためである。

 書牘の云ふ所に拠るに、茶山は四十年前に漳州けんぎうくわの種子を獲たさうである。文化十四年丁丑より四十年前は安永六年丁酉で、茶山は二十九歳、景樹は十歳である。かくて三十年前に至つて、種子は神辺の茶山の家より景樹の許に伝はつたと云ふ。三十年前は天明七年丁未である。茶山四十歳、景樹二十歳の時である。兎に角景樹は既に京都に上つてゐる。わたくしはこれを竹柏園主に告げて、再び探討の労を取らむことを請うた。園主の答はしもの如くであつた。

「拝見。文化十年以後をずつと調べ候ひしに無之、唯今の御状により更に始の方を調べ候に、享和二年いぬの四月十六日と十八日との中間にまのけいしようぬし漳州の牽牛花の種を給ひける、こはやまとのとはことにて、夕方までもしぼまで花もいとよろしと也、かかる種子あることしらで朝顔をはかなきものとおもひけるかなと有之候を見出、まことに喜ばしく候。茶山のうたは無論無之候。御状の景樹二十歳位とあるは必ず誤と存じ候事にて、三十年前は何か手紙の御よみちがへには無之やと存候。」

 問題は此に遺憾なく解決せられた。菅氏の牽牛花の種子は真野敬勝の手を経て景樹のもとに到つた。時は享和二年壬戌であつた。文化十四年より算すれば十五年前で、三十年前では無い。茶山は五十五歳、景樹は三十五歳の時である。

 しかし茶山が書牘の「卌年前」「三十年前」は、二箇所共に字画鮮明である。わたくしの読みあやまりではない。三十年前は分明に老茶山の記憶の誤である。たゞに書のことごとく信ずべからざるのみではない。古文書と雖、尽く信ずることは出来ない。漳州の牽牛花の種子は何年に誰から誰に伝はつても事にさまたげは無い。わたくしの如き間人の間事業がたま/\これを追窮するに過ぎない。しかし史家の史料の採択を慎まざるべからざることは、此に由つても知るべきである。

 わたくしはさきに山陽の未亡人里恵の書牘に拠つて、山陽さいしゆの年を定めた。しかし女子が己の人に嫁した年を記すると、老人がゑんきしゆしの授受を記するとは、其間に逕庭があらうとおもふ。



その九十七編集

 菅茶山のあさがほの話は、流暢な語気が殆どトリヰアルに近い所まで到つてゐる。想ふに茶山は平素語をしようはんのぼせて後に、口に発する如き人ではなかつただらう。其坐談には諧謔を交ふることをも嫌はなかつただらう。わたくしはたのむらちくでんが茶山のせうだんとして記してゐた事をおもひ出す。それは頼きやうへいを評した語であつた。「万四郎は馬鹿にてござる。此頃は蚊の歌百首を作る。又此頃はいつものむづかしき詩を寄せ示す。其中には三ずゐに糞と云ふ字までも作りてござる。」糞は独りふんくわいのみでは無い。張華は「三尺以上為糞、三尺以下為地」とも云つてゐる。ふんも亦じがに「瀵大出尾下」と云つてある。註疏を検すれば、けいへいは「尾猶底也」「其源深出於底下者名瀵、瀵猶灑散也」などと云つてゐる。今謂ふ地底水であらう。くわくぼくは「人壅其流以為陂、種稲、呼其本出処、為瀵魁」と云つてゐる。即ち水源の謂で、ゐのかしらなどの語と相類してゐる。要するに必ずしも避くべき字では無い。茶山はけぎやくしたに過ぎない。

 茶山は朝顔の奇品を栽培してゐたが、人にたねを与へて惜まなかつたので、種子が遂にきた。「はやらぬ時はあり。はやる時はなし。晋帥骨相之屯もおもふべし。」これは六三の「即鹿无虞」あたりからじゆんに説き到つたのであらう。

 江戸の流行は十五六年にして京都に及び、京都の流行は十五六年にして江戸に及ぶ。「このあさがほは両地共一度也。いかなることや。」こゝまでは猶可である。重厚の風減じ、軽薄の俗長ず。「何さま昌平之化、可仰可感候。」これは余りに廉価なるイロニイである。

 僧こんげも亦茶山の此書牘に見えてゐて、石田、岡本、田内、土屋の四人の名がこれに連繋して出てゐる。これは前年丙子の秋以来蘭軒が混外と往来するに至つた事を指して言つたものである。蘭軒が混外を評した中に僧の三瑕と云ふことがあつた。其一の「美僧はうけがたく候」と茶山が答へた。蘭軒が混外と相会した時、石田梧堂がこれを介したらしい。それゆゑ茶山は「梧堂つてにて御逢被成しや」と云つてゐる。蘭軒は前年初見の時の同行者として、梧堂を除く外、成田成章、大田農人、皆川叔茂を挙げてゐて、岡本、田内、土屋はあづからなかつた。或は再三往訪した時のつれか。茶山は岡本以下の知人が蘭軒とともこんりんじを訪うたのに、それを報ぜなかつたことをあきたらずおもつた。「皆私知音之人、金輪へ参候時何之沙汰もなく残念に候。」

 岡本忠次郎、名は成、あざなは子省である。本近江から出た家で、父まさたねが幕府の勘定方を勤むるに至つた後の子である。忠次郎はなんぐうたいしうに学んだ。韓使のために客館が対馬に造られた時、忠次郎は董工のために往つてゐて、文化八年に江戸に還つた。茶山の手紙に書かれた時は職を罷める前年で、五十歳になつてゐた。

 あんなか侯節山板倉勝明撰の墓碑銘に、忠次郎の道号として、豊洲、花亭、醒翁、詩癡、又くわつなう道人が挙げてある。此中で豊洲、花亭、醒翁の号が茶山の集に見えてゐる。既に老後醒翁と号したとすれば、茶山のためにりうげじの勝を説いた岡本醒廬も或は同人ではなからうか。



その九十八編集

 菅茶山の蘭軒に与へた丁丑八月七日の書牘に、王子金輪寺のこんげが事に連繋して出てゐる人物の中、わたくしは既に石田梧堂と岡本豊洲とを挙げた。剰す所は田内ちからと土屋七郎とである。

 田内は茶山が書を裁するに当つて、はつきり其氏をおもひ浮べることが出来なかつたと見えて、「か川」の傍註が施してある。田内か田川かとおもひまどつたのである。しかし田内の事は茶山集にも山陽集にも、詩題詩註に散見してゐる。始終茶山とはなはうとくは無かつたのである。一説に田内は「でんない」と呼ぶべきであらうと云ふ。しかし茶山が田内か田川かとおもひまどつたとすると、当時少くも茶山はでんないとは呼んでゐなかつたらしい。

 然らば菅頼二家の集は何事を載せてゐるかと云ふに、それは殆ど云ふに足らない。田内主税、名は、月堂と号す、会津の人だと云ふのみである。わたくしは嘗て正堂の一号をも見たことがある。市河三陽さんに聞けば、輔は親輔の省で、あざなは子友であつたと云ふ。いとけない時から白川楽翁侯に近侍してゐた人である。南天荘主はこのごろ田内の裏書のある楽翁侯の歌のくわいふくを獲たさうである。

 土屋七郎は殆ど他書に見えぬやうである。唯一つ頼げんていの新甫遺詩の中に、「要江戸土屋七郎会牛山園亭」と云ふ詩がある。「雨過新樹蔵山骨。燕子銜来泥尚滑。何計同人于野同。深欣発夕履予発。四海弟兄此邀君。三春風物纔半月。地偏無物充供給。独有隣翁分紫蕨。」土屋が江戸の人で安藝に往つてゐたことは、これに由つて知られる。後にわたくしは偶然此人の歿年を知ることを得たが、それは他日書き足すこととする。以上が混外に連繋した人物である。

 茶山の書牘に又游竜の名が見えてゐる。游竜は神辺に来て旅宿にゐたので、茶山が訪はうとおもつた。此人の学殖があつて、画を善くするのを知つてゐたからである。しかるに茶山は病臥してゐて果さなかつた。游竜は門人か従者かをして茶山を訪はしめた。茶山はこれを引見して語を交へた。書牘の云ふ所は、おほよそかくの如くである。

 茶山は単に「長崎游竜」と記してゐる。山陽、霞亭等の事を言ふ時と違つて、恰も蘭軒が既に其名を聞いてゐることを期したるが如くに見える。

 わたくしは游竜の誰なるを知らなかつたので、大村西崖さんに問ひに遣つた。そしてかう云ふ答を得た。「御問合の游竜は続長崎画人伝に見ゆ。長崎の人なるべし。姓つまびらかならずいみなは俊良、あざなは基昌、梅泉又浣花道人とも号す。通称彦二郎。来舶清人かほこうたいらいに学び、親しく其法を伝ふ。歿年闕く。右不取敢御返事申上候。」

 梅泉の一号が忽ちわたくしの目を惹いた。長崎の梅泉は竹田荘師友画録にも五山堂詩話補遺にも見えてゐて、わたくしは其人を詳にせむと欲してゐたからである。若し三書の謂ふ所の梅泉が同一の人ならば、游竜は劉氏であらう。長崎の劉氏は多くは大通事さかき氏の族である。游竜は彭城彦二郎と称してゐたものではなからうか。

 さて游竜の歿年であるが、果して游竜が劉梅泉だとすると、多少の手がかりがないでもない。竹田は「丙戌冬到崎、時梅泉歿後経数歳」と云つてゐる。即ち文政九年より数年前に歿したのである。

 わたくしは此の如くに思量して、長崎の津田繁二さんに問ひに遣つた。津田さんは長崎の劉氏の事を探らむがために、既に一たび崇福寺の彭城氏の墓地を訪うたことのある人である。

 書は既に発した。わたくしは市河三陽さんの書の忽ち到るに会した。「劉梅泉は彭城彦二郎、游竜彦二郎とも称し候。頼きやうへいとも会面したる旨、寛斎宛同人書翰に見え居候。彭城東閣の裔かと愚考仕候。」

 わたくしの推測はあまり正鵠をはづれてはゐなかつたらしい。東閣は彭城仁左衛門のりよしである。「万治二亥年十月大通事被仰付、元禄八亥年九月十九日御暇御免、同九月二十一日病死、行年六十三。」津田さんは嘗てわたくしのために墓碑の文字をも写してくれた。「正面。故考広福院殿道詮徳明劉府君之墓。向左。元禄八年歳次乙亥季秋吉旦。孝男市郎左衛門恒道。継右衛門善聡同百拝立。向右。訳士俗名彭城仁左衛門宣義。」



その九十九編集

 長崎の津田繁二さんはわたくしの書を得て、直に諸書を渉猟し、又崇福寺の墓を訪うて答へた。大要はしもの如くである。

 彦次郎の実父をさかき仁兵衛と云つた。文書に「享和三亥年二月十日せうつうじなみ被仰付」とあり、又「文化二丑年五月十六日より銀四貫目」とある。仁兵衛に二子があつて、長を儀十郎と云ひ、次を彦次郎と云つた。儀十郎が家を継いだ。「文化十五寅年六月十二日小通事並被仰付」とある。

 次男彦次郎は出でて游竜市兵衛の後を襲いだ。市兵衛はもと林氏であつた。昔林道栄が官梅を氏とした故事にならつて游竜を氏とし、役向其他にもこれを称した。長崎の人は游を促音に唱へて、「ゆりう」と云ふ。しかし市兵衛の本姓は劉であるので、安永四年に名を梅卿と改めてからは、劉梅卿とも称してゐた。

 彦次郎の官歴は下の如くである。「享和元酉年七月廿七日稽古通事被仰付。文化七午年十二月十二日小通事末席被仰付。文政二卯年四月二十七日小通事並被仰付。」

 墓は崇福寺にある。「正面。吟香院浣花梅泉劉公居士、翠雲院蘭室至誠貞順大姉。向右。天明六年丙午八月廿日誕、文政二年己卯八月初四日逝、游竜彦次郎俊良、行年三十四歳。向左。文化九年壬申十月廿五日逝、游竜彦次郎妻俗名須美。」

 是に由つて観れば、彦次郎は天明六年に生れ、享和元年に十六歳で稽古通事になり、文化七年に二十五歳で小通事末席になり、九年に二十七歳で妻を喪ひ、文政二年に三十四歳で小通事並になり、其年に歿した。かんなべに宿つてゐて菅茶山の筆にのぼせられたのは三十二歳即歿前二載、田能村竹田に老母を訪はれたのは歿後七載であつた。竹田が「年殆四十、忽然有省、折節読書」と云つてゐるのは、語つてつまびらかならざるものがある。職を罷めてからしまえんせいに従学しようと思つてゐながら、病に罹つて死んだのは事実であらう。

 茶山の書牘に拠るに、梅泉は神辺に往つた時、茶山を訪はなかつた。そして「門人か傔か」と見えるかんしを差遣した。茶山はこれを引見して話を聞いた。そして我より往いて訪ふべきではあつたが、病のために果さなかつたと云つてゐる。

 茶山は梅泉の学問をも技藝をも認めてゐた。然るに其人が神辺にゐて来り訪はぬのである。茶山がいかに温藉の人であつたとしても、自ら屈して其旅舎にうかがふべきではあるまい。茶山の会見を果さなかつたのは、たゞに病の故のみではあるまい。

 わたくしは梅泉が頗る倨傲であつたのではないかと疑ふ。竹田の社友に聞いた所の如きも、わたくしの此疑を散ずるには足らぬのである。「蓋其人才気英発。風趣横生。超出物外。不可拘束。非尋常庸碌之徒也。聞平日所居。房槞華潔。簾幕深邃。衣服清楚。飲食豊盛。異書万巻。及名人書画。陳列左右。坐則煮茗插花。出則照鏡薫衣。置梅泉荘於南渓。挾粉白。擁黛緑。日会諸友。大張宴楽。糸竹争発。猜拳賭酒。既酔則倒置冠履。傞々起舞。」要するに才をたのみ気を負ふもので、此種の人は必ずしも長者を敬重するものではない。

 梅泉は江戸にも来たことがある。それは五山堂詩話に見えてゐる。補遺のけんの一である。中井董堂が五山に語つた董堂とこううんかくとの応酬の事が即是で、梅泉が其間に立つて介者となつてゐるのである。



その百編集

 菊池五山はかう云つてゐる。「董堂来語云。崎陽舌官劉梅泉者客歳以事出都。書画風流。一見如旧。臨去飲餞蕊雲楼上。酒間贈別云。水拍欄干明鏡光。荷亭月浄浴清涼。離歌一曲人千里。間却鴛鴦夢裏香。今春劉寄書至。書中云。前年見贈高作。伝示之芸閣。芸閣云。董堂先生。書法遒美。神逼玄宰。余亦学董者。雖阻万里。猶是同社。我当和韵以贈。乃援筆書絹上。今此奉呈。其詩云。亭々波影悦容光。占得暁風一味涼。曾溌鴛鴦翻細雨。十分廉潔十分香。末署十二瑤台使者江芸閣稿。」

 詩話にいはゆる「客歳」とはいづれの年であらうか。同じ補遺のけんの一に女詩人大崎氏せうさうの死を記して、「女子文姫以今年戊寅病亡」と云つてある。五山が此巻を草したのは恐くは文政元年であらう。果して然らば劉梅泉の江戸に来たのは文化十四年丁丑で、神辺に宿したのと同じ年であらう。

 詩話の文に拠れば、梅泉は江戸に来て、其年に又江戸を去つた。ずゐうんらうの祖筵は其月日を載せぬが、「水拍欄干明鏡光、荷亭月浄浴清涼」の句は、叙する所の景が夏秋の交なることを示してゐる。祖筵の所も亦文飾のために知り難くなつてゐるが、必ずや池の端あたりであらう。

 次に梅泉が神辺に宿したのは何時であらうか。菅茶山の書牘を見るに、事は書を裁した年にあつて、書を裁した日の前にあると知られるのみである。即ち文化十四年の初より八月七日に至るまでの間に、梅泉は神辺に来て泊つたのである。若し夏秋の交に江戸を去つたとすると、春夏の月日をば長崎より江戸に至る往路、江戸に於ける淹留に費したとしなくてはならない。わたくしは梅泉が丁丑の初に江戸に来り、夏秋の交に江戸を去り、帰途神辺に宿したものと見て、大過なからうとおもふ。

 わたくしは既に梅泉の生歿年を明にし、又ほゞその江戸に来去した月日をすゐたくした。わたくしは猶此に梅泉の画をこうかほに学んだ年に就いて附記して置きたい。

 梅泉は長崎の人である。稼圃が来り航した時、恐くは多くきよしよを過すことなく従学したであらう。田能村竹田の山中人饒舌に「己巳歳江大来稼圃者至」と書してある。己巳は文化六年である。梅泉は恐くは文化六年に二十四歳で稼圃の門人となつたのであらう。

 然るに此に一異説がある。それは稼圃の長崎に来たのを聞いて直に入門したと云ふ人のことを伝へたものである。もりけいかうさんは川村雨谷を識つてゐた。雨谷の師は木下逸雲である。雨谷はつねに云つた。逸雲と僧鉄翁との江が門に入つたのは、逸雲が十八歳の時であつたと云つた。逸雲は慶応二年に江戸より長崎に帰る途次、難船して歿した。年は六十七歳であつた。此より推せば、逸雲は寛政十二年生で、其十八歳は文化十四年であつた。逸雲と鉄翁との江が門に入つた年が果して江の来た年だとすると、江は文化十四年に至つてわづかに来航したこととなるのである。

 しかし此両説はあひもとらぬかも知れない。何故と云ふに長崎にゐたしんひとは来去数度に及んだ例がある。文化六年に江が初て来た時は、逸雲は猶をさなかつた。それゆゑ十四年に江が再び至るをつて始て従遊したかも知れない。只わたくしは江の幾たび来去したかをつまびらかにしない。或は津田繁二さんのもとにはこれを徴するに足る文書があらうか。

 わたくしはかくの如く記し畢つた時、市河氏の書を得た。梅泉の市河米庵に与ふる書、並に大田南畝の長崎にあつて人に与へた書に拠れば、稼圃が初度の来航は文化元年甲子の冬であつたさうである。梅泉が其時従学したとすると、年正に十九であつた。



その百一編集

 劉梅泉が文政二年の八月に歿してから七年経て、九年の冬田能村竹田は長崎に往つた。そして梅泉の母に逢つた。「有母仍在。為予説平生。且道。毎口予名弗措。説未畢。老涙双下。」

 按ずるに母は游竜市兵衛の妻ではなくて、さかき仁兵衛の妻であらう。養母ではなくて実母であらう。そして若し更に墓石に就いて検したなら、実母の名、其歿年、その竹田と語つた時のよはひをも知ることが出来るであらう。

 竹田と梅泉とは恐くは未見の友であつただらう。竹田は「屡蒙寄贈、且促予遊崎」と云つてゐる。わたくしは此「屡蒙寄贈」の四字から、梅泉が竹田によしみを通じて、いんもんぞうゐをなしながら、未だ相見るに及ばなかつたものと推するのである。二人は未見の友であつただらう。そして菅茶山が神辺にあつて狩谷棭斎の江戸より至るを待つた如くに、梅泉は長崎にあつて竹田のたけだより至るを待つたものと見える。しかし茶山はながらへてゐて、棭斎を黄葉夕陽村舎に留めて宿せしむることを得、梅泉は早く歿して、竹田の至つた時泉下の人となつてゐた。

 竹田は梅泉の母に逢つて亡友の平生を問ひ、又諸友に就いて其行事のつまびらかなるをたゞした。竹田たるもの感慨なきことを得なかつたであらう。

 或日竹田は郊外に遊んで、たま/\南渓に至り、いはゆる梅泉荘の遺址を見た。梅泉の壮時、「挾粉白、擁黛緑、日会諸友、大張宴楽」の処が即此荘であつた。屋舎の名は吟香館で、こうかほと大田南畝とのだいへんが現に野口孝太郎さんのもとに存してゐる。竹田のこれを記した文は人をして読み去つて惻然たらしむるものがある。

「予与秋琴。一日郊遊。晩過一廃園。垣墻破壊。門扃欹側。満池荒涼。只見瓦礫数堆耳。秋琴乃指曰。昔之梅泉荘是也。予愴然顧視。老梅数株。朽余僅存。有寒泉一条。潺々従樹下流出。其声嗚咽。似泣而訴怨者。植杖移晷。眉月方挂。如視梅泉之精爽。髣髴現出于前也。躊躇久之。冷風襲衣。仍不忍去。」

 竹田がともに郊外に遊んだ秋琴とは誰か。恐くはゆう秋琴であらう。名はゆうあざなはんけいもろくま氏、通称は作大夫である。長崎の波止場に近い処に支那風の家を構へて住んでゐた。竹田は長崎にゐた一年足らずの月日を、多く熊の家に過したさうである。「出入相伴、同遊莫逆」とも云つてゐる。

 秋琴も亦、木下逸雲、僧鉄翁と同じく、江稼圃の門人であつた。又梅泉が梅泉荘を有してゐた如くに、秋琴は睡紅園を有してゐた。

 別に清客張秋琴があつて、蘭軒がこれに書を与へて清朝考証の学を論じたことはかみに云つたが、これは文化三年十一月みそかに長崎に来て、蘭軒は翌年二月にこれと会見したのである。想ふに竹田の長崎に遊んだ頃は既に去つてゐたことであらう。



その百二編集

 菅茶山の丁丑八月七日の書には、猶落合敬介と云ふ人が見えてゐる。敬助は諸国を遍歴して、偶然茶山の曾遊の跡を踏んで行つた。そしてつねに茶山去後に其地に到つた。蘭軒は茶山に、その現に江戸にあつて、大田と同居し、しば/\己を訪ふことを報じた。敬助は文章を善くした。茶山は評して富麗に過ぐと云ひ、蘭軒をしてその冗を去り簡に就くことを勧めしめむとしてゐる。

 落合かうあざなは子載、はじめ鉄五郎、後敬助と称し、䨇石と号した。日向国おびの人である。䨇石の事は三村清三郎、井上通泰、日高無外、清水右衛門七の諸家の教に拠つて記す。

 此年文化十四年八月二十五日に、阿部まさきよいはゆる加判の列に入つた。富士川游さんの所蔵の蘭軒随筆二巻がある。これは後明治七年に森きゑんが蘭軒遺藁一巻として印行したものの原本である。此随筆中「洗浴発汗」と云ふくだりを書きさして、蘭軒は突然しもの如く大書した。「今日殿様被蒙仰御老中恐悦至極なり。文化十四年八月二十五日記。」

 十二月に至つて、蘭軒は阿部家に移転を願つた。丸山邸内に於ける移転である。勤向覚書にかう云つてある。「文化十四年丁丑十二月九日、高木轍跡屋敷御用にも無御座候はば、拝領仕度奉願上候。同月十七日、前文願之通被仰付候。同十七日、願之通屋敷拝領被仰付候に付、並之通拝借金被成下候。同月廿日、拝領屋敷え引移申候段御達申上候。」即ち移転の日は二十日であつた。

 わたくしの考ふる所を以てすれば、伊沢分家が後文久二年に至るまで住んでゐたのは此家であらう。此高木某の故宅であらう。伊沢めぐむさんは現に此家の平面図を蔵してゐる。其間取はおほよそしもの如くである。「玄関三畳。薬室六畳。座敷九畳。書斎四畳半。茶室四畳半。居間六畳。婦人控室四畳半。食堂二畳。浄楽院部屋四畳半。幼年生室二箇所各二畳。女中部屋二畳。下男部屋二畳。裁縫室二畳。塾生室二十五畳。浴室一箇所。別構正宗院部屋二箇所四畳五畳。浴室一箇所。土蔵一棟。薪炭置場一箇所。」此部屋割は後年の記に係るので、榛軒の継室浄楽院飯田氏の名がある。又しやうそうゐんは蘭軒の姉きせである。しかし房数席数は初よりかくの如くであつたかとおもはれる。

 二十三日に蘭軒は医術まうしあはせくわいとうたるを以て賞を受けた。勤向覚書に云く。「廿三日御談御用御座候所、長病に付名代山田玄升差出候。医術申合会頭出精仕候為御褒美金五百疋被成下候旨、関半左衛門殿被仰渡候。」

 冬至の日に蘭軒はそちんりやうはうの跋を書いた。蘇沈良方は古本が佚亡した。そして当時三種の本があつた。一は皇国旧伝本で寛政中いらこくわうつうの刻する所である。一はごせいらん本で嘉慶中にげいかいしゆぢんに収刻せられた。一ははうていはく本で乾隆中にちふそくさい叢書に収刻せられた。鮑本はていえいばい本を底本となし、館本を以て補足した。皇国本は程本と一致して、まゝこれに優つてゐる。呉本は鮑のいはゆる館本である。蘭軒は三本を比較して、皇国本第一、呉本第二、鮑本第三と品定した。

 蘭軒は一々証拠を挙げて論じてゐるが、わたくしは此に蘭軒が鮑本かうじゆさんくだりを論ずる一節を抄出する。「香薷散犬がこぼして雲の峰。」これは世俗の知る所の薬名だからである。「神聖香薷散。注(鮑本注)云。程本作香茸。方中同。疑誤。今遵館本。按。(蘭軒按。)図経本草曰。香薷一作香葇。俗呼香葺。程本茸。即葺之訛。宋板書中。有作香茸者。其訛体亦従来已久。則改作薷者。妄断耳。」所謂宋板の書は宋板百せんがくかい、又本草綱目引く所の食療本草で、皆じように作つてある。蘭軒は鮑廷博の妄に古書を改むるにあきたらぬのである。蘭軒の跋はしもの如く結んである。「嗚呼無皇国本。則不能見其旧式。無呉本。則不能校其字句。無鮑本。則不能知二家之別。三本各成其用。無復遺憾也。宜矣蔵書所以貴多也。古人曰。天下無粋白之狐。而有粋白之裘。余於此書亦云。」

 此年蘭軒は四十一歳、妻益は三十五歳、子女は榛軒十四、常三郎十三、柏軒八つ、長四つであつた。



その百三編集

 文政元年の元旦は立春の節であつた。菅茶山が「閑叟更加悤劇事、一時迎歳又迎春」と云つた日である。蘭軒は