三たび秦辺紀略に就て
余は大正七年に「秦辺紀略の嘎爾旦伝」に就て論ずる所あり、尋で八年に「再び秦辺紀略に就て」を草して、其の遺漏を補ひしが、其後十一年に神田鬯盒君は支那に游で帰り、予章叢書本の懐葛堂集を携へて贈られたり。其書は八巻并附録一巻にして、已に四庫全書存目に収められたる十四巻本と同じからざれども、其中に収載されたる文によりて質人の経歴を考ふれば、従来の未だ知らざりし所を補ふべきこと甚だ多く、粗ぼ其の生卒の年、並びに一生の始末を窺ふことを得るを以て、更に広く諸書を渉猟して、之が為めに年譜を草し、且つ其の重要なる事実を編録せんと欲し、乃ちこの第三稿を草することゝなれり。
二、梁質人年譜【NDLJP:132 】明崇禎十三年庚辰 質人盖し此歳に生れたるならん。李草堂〈名は一鳳〉墓志によるに、
草堂年七十三、康熙四十一年壬午に卒す、而して志中に余弘斎夫子〈邵睿明〉の門牆に在りし日、草堂已に十年以て長ずとあれば、是歳質人年六十三なるより逆算せるなり。四十二年癸未に作れる許尹重六十序に、今余と君と年皆六十を踰ゆとあるも、以て証に備ふべし。
清順治元年甲申 質人五歳。
順治十一年甲午 質人十五歳。李草堂幼にして弘斎邵夫子を師とすること、墓志に見えたれば、李より十歳少き質人が之に従遊せしは、十五六歳以前よりせること明らかなり。国朝耆献類徴巻第四百に呉徳旋の聞見録を引て曰く、
程山〈江西の南豊に在り〉故約斎〈謝文洊の号〉与邵先士講易処也。
郡先士名容明。南豊人。諸生。少穎慧。長以文名邑中。邑中人争延為子弟師。先後受業百許人。先士有兄。為邑吏。及禍破産。不能自贖。先士傾私産脱之。先士性虚受。楽規諫。以執徳不宏〈清の高宗の諱弘字に代用せり〉為已病。因自号曰宏斎。
哭確斎先生文に、今樹廬夫子遠出而未帰、先生与弘斎夫子釈大方師皆舎我而去、世之知我者尽矣とあれば、弘斎の卒せるは林確斎の卒せし康熙十七年戊午以前に在るべし。
康熙元年壬寅 質人二十三歳。
康熙三年甲辰 質人二十五歳。
康熙十二年癸丑 質人三十四歳。始めて彭躬菴士望を師とせしは此歳に在るべし。哭魏勺庭夫子文に份事樹廬夫子、于今八年とあり。魏禧勺庭の卒せしは、十九年庚申にあれば逆算して定めたるなり。樹廬とは躬菴の別号なり。惟癸丑卒歳侍先生、其教份之語、巳備載之書冊と哭確斎先生文に見えたれば、此歳質人は寧都の易堂に在りて、彭躬菴、林確斎等に従遊せしなるべし。
是歳十一月、呉三桂兵を挙げて清朝に叛く。〈東華録、聖武記。〉
康熙十三年甲寅 質人三十五歳、呉三桂の軍四川、湖南、湖北等の地を略す。〈東華録、聖武記。〉
康熙十五年丙辰 質人三十七歳。二月呉三桂の将高大傑〈趙翼の皇朝武功紀盛、競源の聖武記並に高大節に作る、逆臣傅高得捷に作る。〉江西の吉安を陥いる。大傑尋で死す。韓大任之を守る。七月清の簡【NDLJP:133 】親王喇布の軍之を囲みて下すこと能はず。三桂の将馬宝等兵を率ゐて吉安を援ふ。〈東華録、聖武記を参取す。〉
質人是歳二月、江西より長沙に抵り、韓非有〈即ち大任〉の為に、援を呉三桂に乞ふ。三桂之を留め、三月初一日其の清の安親王の軍と官山に戦ふを観せしむ[1]。〈広陽雑記〉 封位斎濬八月に卒す、程山の謝約斎の門人なり。〈墓誌銘〉
康熙十六年丁巳 質人三十八歳。正月馬宝が吉安を援ふの師引き去る。四月韓大任囲を潰して走り。土㓂と合して江西各地に竄踞す、清師未だ勒する能はず。寧都の魏際瑞〈伯子、魏禧の兄。〉大任の豪傑なるを聞き、之を全うして清軍の招撫に就かしめんと欲す、事成らずして大任に害せらる。大任十月を以て営を抜て福建に走る。〈東華録、聖武記、魏禧の伯子基誌銘を参取す。〉
按ずるに質人の韓軍を去る、蓋し此際に在る歟。
康熙十七年戊午 質人三十九歳。正月韓大任一万余人を以て、康親王傑書の軍に降る[2]。八月呉三桂衡州に死す。〈東華録〉是歳林確斎時益卒す、年六十一。〈凝年実録〉確斎は故明の南昌宗室の子、姓名を変じて林確斎と為す。彭躬菴と友たり、躬菴が魏叔子と交を定むるに及び、確斎と偕に妻子を挈げて往き、叔子居る所の翠微峯に家す。所謂易堂九子の一なり。質人が祭確斎先生文に
弘斎夫子嘗問冠石何以待子。份以樹廬夫子殿父。確斎先生慈母為対。而恕份所短。取份所長。於有過中。而諒其無他者。惟先生一人耳。
といひ、又
份前後至冠石。皆不半載。惟癸丑卒歳侍先生。〈冠石とは江四寧都の金精山中の砦名なること、読史方与紀要に見ゆ、林確斎は後に此に従り、茶を種ゑて躬耕せり。翠微峰も亦金精山十二峰の一なること、魏叔子翠微峰記、及び大清一統志に出づ。〉
とあれば、其の易堂に於ける従遊の状を知るべし。
康熙十八年己未 質人四十歳。掲韓然文集序に己未余以古文辞遊四方とあり、又余十年中紆廻数万里閱人多とあれば、是歳より以前の質人の生活も推測するを得べし。
康熙十九年庚申 質人四十一歳。春、彭躬菴浙江に赴く。〈送朱脩齢序〉質人をして魏叔子に従つて出遊せしめ、且つ其の門人たらしむ。〈哭魏勺庭夫子文〉質人叔子に従つて無錫に遊び、秦太翁の館舎を主とす。〈送丁西典試秦太史序〉十一月叔子無錫より揚州故人の約【NDLJP:134 】に赴く。舟儀真に至り、忽ち心気を発し、病むこと一夕にして卒す、年五十七。
時に質人従行せり。〈魏季子撰叔子紀略〉
質人の哭魏勺庭夫子文に、
門人梁份捧新刻夫子詩文集陳柩前。辞踊而哭曰。份奉命較讐有成功矣。乃夫子遽至是耶。夫子固善病。昨僕夫自真州〈即ち儀真なり〉至。暮叩門。心動。従門間問夫子安。然後啓而納之。書中亦言体大健。以是份留数日。待此集之成。悪知二日内而病。病而如是哉。份傷心夫子者。不在不得永訣。不親視含発。為児女子之私耳。
とあれば、質人は叔子に従行したるも、詩文集を校刻せんが為に、姑らく其側を離れたる間に、叔子は急病の為め歿したる者の如し。
康熙二十年辛酉 質人四十三歳。鹿渚〈河南帰徳府鹿邑県〉を過ぎて、明の遺老熊見可を見しこと、熊見可先生哀辞に見え、份三過鹿渚、皆匆匆去、独辛酉留旬日といへり。
康熙二十二年癸亥 質人四十四歳。是歳彭躬菴卒す、年七十四。〈疑年費録〉
康熙二十三年甲子 質人四十五歳。是歳甘粛提督候爵張勇卒す。〈国史館本伝〉遼人王定山、諱は燕賛、張勇の中軍たり。質人と相与にすること甚だ深し。質人之に因て徧く河西の地を歴、著して一書と為す、凡そ数十巻、西陲今略と曰ふ。六年の久しきを歴、寒暑間無し、其書始めて成る。〈広陽雑記〉質人が答劉体元書に、份向在黄定山所、寡聞渺見、未能成書といへば、此時成りし所は未だ定稿たらざること知るべし。黄定山は即ち王定山なり、黄王音近きなり。いふ所の六年とは、魏叔子の卒せし翌年、康熙二十年より、劉継荘の燕京に入りし前年即ち同二十五年迄の間にして、是れ即ち質人が第一次に河西に在りし時期なるべし。
康熙二十六年丁卯 質人四十八歳。是歳劉継荘献廷、呉より都に入る。〈広陽雑記〉継荘が始めて質人の著書を都中に見しは、盖し是歳に在るべし。
康熙二十七年戊辰 質人四十九歳。有美堂集序及び一硯斎集序によれば、是歳質人金州〈陝西興安府の古名〉に客として、劉体元と交を定めて其の一硯斎集に序し、又知府李筠菴の為に其の新刻の有美堂集に序せりとあり。
康熙二十九年庚午 質人五十一歳。夏黄復菴と同じく其の婣茹紫庭の所に客たり。〈黄復菴六十序〉茹紫庭名は儀風、宛平の人。嘗て陝西岐山の知県たりし時、李中孚【NDLJP:135 】顎、李雪木柏、李天生因篤を礼遇して名あり、尋て湖南衡州府同知となりたれば、質人が客たりしは、蓋し衡州任中の事ならん。
是歳劉継荘復た呉に至ること、王崑縄の劉継荘墓表に見えたり。茹紫庭は衡州に在りて、劉継荘及び劉元叔廷献、劉羽逖忠嗣等を招致せるを以て名あり。此事も亦是歳以後、二三年の間に在るべし。
康熙三十年辛未 質人五十二歳。劉継荘質人と星沙〈長沙の地名〉狭路に遇ひ、西陲今略を録副す。二月初一日に経始し、二十二日に至りて畢る。〈広陽雑記による。雑記に壬申の春遇ひしといふは誤りならん。〉質人が送王都督撃菴之遵義序は、是歳寧都にて作れるが如くなれば其の江西に在りしことを証すべし。
康熙三十一年壬申 質人五十三歳。是歳春楚游倦み、帰道鄂渚〈武昌なり〉に出づと掲韓然文集序に見ゆ。潘東柳八十序にも是歳鄂渚に客たること見ゆ。
康熙三十二年癸酉 質人五十四歳。事を以て楡林に之くと、修復甘泉碑記に見えたれば、明年の第二次河西游歴は、是歳に端を発したるなり。与熊孝感書に都城数月云々とありて、其下に秦游の役を説けば、其発程は燕京よりせるならんか。
康熙三十三年甲戌 質人五十五歳。重ねて秦塞に游び道を枹罕即ち秦辺紀略の河州なりに取る。〈贈呉其矩序、張采舒甎槨誌銘。〉七月杪、長安に返る。南方乗舟の人を以て、馬に策つこと五月なり。〈答劉体元書〉此游、陝西駅伝道張霖、百金を出して質人の為めに装を治む。遂に十年前記述を起して未だ成らざりし書を完成することを得たり。詳かに与熊孝感書及び答劉体元書に見ゆ、今別項に両書を抄載するを以て、こゝには略す。 〈張霖は与熊孝感書に張観察と書し、答劉体元書に観察魯菴張公と書せり。〉
是歳秦に在りて張暈字は采舒と交を定む。〈張采舒甎槨誌〉
康熙三十四年乙亥 質人五十六歳。六月張霖陝西駅伝道より升つて安徽按察使と為る。〈東華録。姜湛園宸英の梁質人懐葛堂集序に、安徽按察張公とへる者是なり。〉
明威将軍和鈞天墓志銘を作る。和鈞天は善化に葬るとあれば、此時質人は長沙に在りし歟。
劉継荘是歳七月に卒す、年四十八。
康熙三十七年戊寅 質人五十九歳。十月張霖升つて福建布政使と為る。〈東華録〉周【NDLJP:136 】子儀告別倡和詩序によれば、是歳質人燕京に在りしが如し。姜湛園の集序に参考するに、其の燕に入りしは、三十四年以後に在るべし。張采舒甎槨誌によれば質人は是歳に於て長沙に客たりしか。
康熙三十九年庚辰 質人六十一歳。陶母張孺人墓誌銘によれば、是歳庚辰余客長沙、与奉長定交、〈奉長は陶氏、張孺人の夫。〉因余交劉忠嗣、忠嗣天下奇男子也とあり。
康熙四十年辛巳 質人六十二歳。三月高緝容福建布政使と為る。東華録張霖の任を卸せしは此時に在るべし。畿輔通志に其の雲南巡撫を署して事に縁りて落職家居せしことを記す、亦是歳の事ならん。与劉忠嗣書によれば、上巳後十日、份買舟夏口、比至金陵茹紫庭巳還家、方厳程之任澳南、痛談決日、始南北分行、渡江淮、逾泗、浮津衛、下直沽時已初夏、魯菴張方伯退居一室、竟然為喜、百有六日、暑退凉生、湖潞之燕市、此七閱月、舟行四千里之大略也といへり。是歳燕京に赴きし旅行の大概を見るべし。茹紫庭は此時将さに雲南景東知府の任に赴かんとするなり。質人送茹紫庭守景東序あり、其後紫庭、雲南楚雄の知府に遷り、再び広西広南の知府に遷りしは、何歳に在るを詳かにせず。張魯菴方伯は即ち張霖、此時已に任を卸して天津に帰住せるなり。
茹紫庭墓志に、份至雲南署、飲至夜分とあり。当さに紫庭が雲南に在りし間なるべきも、其年を詳かにせず。
康熙四十一年壬午 質人六十三歳。正月京師に在りて、王源等諸友と万季野斯同の六十を寿す。〈王源居業堂集、万季野六十序。〉四月季野卒す。秋劉忠嗣巴陵舟中に客死す。〈陶母張焉人墓誌銘〉臘月夏口にありて、許尹重正任、陶頭夫岳、郭善夫恒等と熊襄愍復辺将手蹟を覧て其後に書す。
李草堂一鳳の墓誌銘を作る。一鳳は邵弘斎の門人なり。
康熙四十二年癸未 質人六十四歳。是歳質人夏口に在りて、許尹重六十序を作り、已にして復た燕に客たり。〈張采舒甎槨誌〉新安の黄曰瑚宗夏と徒歩して往て十三陵に謁し、図説を作る。〈与朱字緑書、与八大山人書、及び王源の居業堂集、十三陵記を参取す。〉此事は別項に載すべし。
与朱字緑書に四游神京とあれば、此時より以前燕に至りしこと四次なるべし、上の康熙二十六年、三十二年、三十七年、四十年の条を参看すべし。
説秋斎記に、癸未秋、余将南帰とあれば、是歳質人南帰の途に就きたるならん。
【NDLJP:137 】康熙四十三年甲申 質人六十五歳。春初八大山人に書を与へて、前年謁陵の事を報す。書中に長児文起が来りて山人の近状を述べたることを言へり。是歳陳留の阿衡廟記の作あれば、或は南帰の途次、開封附近に淹留せるか。又紫硯銘序に是歳漢上に客たること見えたり。
康熙四十五年丙戌 質人六十七歳。二月王崑縄源、質人の子文中と歩して天寿山に登り、明陵に謁す。〈王源居業堂集、十三陵記。〉
八月張采舒暈、常山正定府に客死す。〈張采舒甎槨誌銘〉
封位斎の墓誌銘を作る。
康熙四十六年丁亥 質人六十八歳。九月王崑縄源、質人の文集に序す。序中に余与質人倶落拓京師、窮且老依人とあれば、此時質人京に在りしなるべし。然るに二十四泉草堂詩集序に、丙戌の明年余将南帰とあり、又張采舒誌に采舒死するの明年、山に還らんとして道を常山に取り、采舒の櫬を訪得たることを記せば、是歳復た南帰の途に就きたるならん。
康熙四十七年戊子 質人六十九歳。漢陽の狂士文賔門の為に問真堂詩集の序を作れるは、是歳に在るべし。
康熙四十八年巳丑 質人七十歳。碧梧軒琴譜序に余北征、道経漢陽とあり、陶母張孺人墓志に道経夏口とあり、文陟予印数序に経由漢口とあり、汪母何孺人生壙志に客漢口とあり、正始書院記に復た北征して郾城を経たることを記し、茹公渠記に重遊粛とありて、皆是歳に係れば、是れ其の江西の郷里より粛州に遊ばんとして、道途の由りし所を明かにするに足る。是歳茹紫庭は観察を以て節を乗りて粛に使したること、其の墓志に見えたれば、質人は七十の老軀を以て、三たび西北辺疆に赴き、紫庭に依りし者なるべし。〈墓誌によれば、紫庭の官職は整飭粛州等処撫治番彝兼管粛鎮屯田事務按察使司副使なりしなり。〉是歳作れる茹公渠記は紫庭が疏鑿せし渠水の利を記せしなり。
康熙四十九年庚寅 質人七十一歳。王崑縄源卒す、年六十三。李恕谷堪王子源伝
康熙五十年辛卯 質人七十二歳。二月南昌の人仲昭呉翁の八十序を作れば、此時已に江西に帰住せるか。
康熙五十一年壬辰 質人七十三歳。茹紫庭再期秩満ち、次を以て江西按察使に推さる、二月忽ち疾作りて卒す、年六十三。質人墓誌銘を作る。是歳佟国勧江【NDLJP:138 】西巡撫と為る、質人其子申之の為に潜修軒詩集序を作る。〈清史稿、東華録を参取す。〉
康熙五十二年癸巳 質人七十四歳。建昌郡の清香閣記を作る。
康熙五十三年甲午 質人七十五歳。新脩建昌府学記を作る。
康熙五十四年乙未 質人七十六歳。重脩建昌城隍廟碑記を作る。以上三年間の作る所の文に拠れば質人は此頃より常に江西の建昌府に居住せしなるべし。其郷里南豊県も亦府内に在り。
康熙五十六年丁酉 質人七十七歳。贈顧玉停序に、秋杪其の質人を予章〈江西の省城南昌なり〉に訪ひしことを記せり。玉停は太倉の人。是歳佟国勲江西巡撫を罷む。
康熙五十九年庚子 質人八十一歳。郭将軍登龍の墓表を作り、〈甲午葬る、今に七年とあるより推算して是歳とす。〉 西安鄠杜間に葬るといひ、郭母陳太君〈即ち登龍の妻なり〉の七十序に、郭子善夫〈名は恒、登龍の子〉関中に寄居し、令子景文純、名諸生を以て、一日匹馬もて余を追ふこと三十里、贐金を致して、寿序を乞ひしこと見ゆれば、是歳初め西安に在りて、それより江西に帰りし者の如し。
涂尚嵂六月に卒す。魏叔子の門人なり。質人為に墓誌銘を作る。
是歳作る所、代石外台重新徳勝門関廟記、〈南昌に在り〉坡山朱氏宗譜序、〈坡山は江西瑞州の西四十里に在り〉帥周合藁序、〈二氏皆南昌の人〉皆江西にて作りしが如くなれば、質人は其郷に在りしならん。
康熙六十年辛丑 質人八十二歳。江西巡撫王企靖に代つて、新修広潤城門記を作る。〈門は南昌に在り。題に唯だ王中丞とあり、企靖の名は清史稿、東華録等に拠る。〉鄜州刺史黄光会の墓誌銘を作る、光会は魏叔子の門人なり。
閩游草序に、冬吾外台石公摂鎮岡将軍事、道出建昌、僕因公接見、〈閩游草の作者章智涌に接見せるなり。〉とあれば、是歳冬まで質人は郷里に在りしが如くなるが、同序に又僕游闘謁外台、与童君数晨夕とあれば未だ幾くならずして福建に游びし者の如し、其の老健知るべし。
康熙六十一年壬寅 質人八十三歳。壬午〈康熙四十一年〉の後二十年にして、再び芝岡〈熊裏愍公延弼の号〉の手蹟に跋する文あれば、是歳に作られしなるべく、文中に其書蹟が郭善夫の手に帰したるを記し又又観山七夕詩序に、質人が武昌に来りて僧舎を僦ひ郭善夫の僑居に近しといひ、明年囂を漢上に避けたるも、郭子問饋初の如かりしこと、郭子が七客を会して七夕会を為せることをいひ、余且逾八十、惟郭子富【NDLJP:139 】春秋、服官政と記したれば、此の一二年は質人武漢の間に在りしならん。
雍正元年癸卯 質人八十四歳。
雍正二年甲辰 質人八十五歳。福建汀州の人雷進士殷薦〈康熙乙未士の進〉父雨潤卒す。
雍正四年丙午 質人八十七歳。雷進士殷薦聞より江西南豊に之くこと五たび、父及び母陰氏〈康熙五十九年卒す〉合葬墓誌銘を乞ふ、質人為めに之を作る。
雍正六年戊申 質人八十九歳。是歳卒す、〈国朝先正事略及び尚友録〉全謝山祖望は雍正七年を以て督学王蘭生の選を以て貢に充てられて京師に入りしが、其の作れる劉継荘伝に、及余出游於世、而継荘同志如梁質人王崑縄皆前死不得見とあれば、質人の是歳に卒せしこと疑ふべき者なきなり。
質人の父祖は詳らかならず。復伯兄書によれば、其の聞人なかりしことを言へる。書中に今両子、一為邑文学、一為博士弟子員とあり、与八大山人書に、長児文起とあり、されば王崑縄の十三陵記に見えたる文中は其の次子なるべし。
三、質人学術の淵源 明季清初に当りて、江西の地、特に隠君子多かりき。世に程山の七子、医山の七子、易堂の九子と称せらるゝ者最も名あり。程山の七子なる者は謝文海約斎を中心として集まれる諸人なり。約斎は明の諸生にして、初め王陽明の学を講ぜしが、王聖瑞なる者が陽明の説を攻撃して約斎と争弁せるに動かされて、程朱の説に帰し、邵睿明弘斎と易を江西南豊の城西程山学舎に講じたり。従つて講学する者甘京健斎、封済位斎、黄熙維緝、危龍光在園、曽曰都美公湯其仁密斎等、皆理学を以て時に名あり。之を程山の六君子といひ、約斎を合して七子といふ、皆南豊の人にして、黄維緝が順治の進士たる外、皆新朝に仕へざりき。約斎は康熙二十年に六十七歳を以て卒したり。医山の七子なる者は星子の宋之盛を主として吁源の黄震、安福の劉渤、豊城の鄢見、分宜の何山、新建の何一泗、高安の劉日杲、清江の蕭弘緒の七人、皆星子の髻山に隠れて仕へざりし者にして、節義を以て時に称せられたり。
易堂の九子は経済文章を以て鳴れり。主として寧都出身の諸生により創められ、県西の金精山十二峯中の一なる翠微峯頂の険阻を利用して、隠棲の地と為せる【NDLJP:140 】者にして、魏氏兄弟三人、祥〈又の名は際瑞〉字は善伯、〈即ち伯子なり〉禧字は氷叔、〈即ち叔子、又勺庭と号す。〉礼字は和公〈即ち季子〉 の外李騰蛟咸斎、彭任中叔、邱維屏邦士は皆寧都の人にして、邱邦士の如きは魏叔子の姉の婿なり。其他彭士望躬菴は南昌の人にして、林時益確斎と共に叔子と交りしによつて、妻子を携へて翠微に託せし者たり。林確斎は又明の宗室、寧藩の後にして、真の姓名は朱議霧奉国中尉たり、二人皆豪邁の傑士なるが、志を乱世に得ず、余生をこゝに送りし者にして、其の寧都に来りし時、躬菴は已に三十六歳の壮年なりしが、確斎は二十八歳にして、叔子、季子兄弟をして之が為めに死せんことを願はしめしといへば、其の豪傑の心を攬るに足りし風采を想ふべし。其の寧都に来りしは順治二年なれば、南京の弘光帝已に敗れ、国事復た為すべからざるを見たるが為なりしが如し。其の一人曽燦青藜は亦寧都の人にして、明の給事中応選の仲子なり。少時、裘馬自ら喜ぶの貴公子たり、世変の際、患難を更歴して、遂に易堂に投じたる者なり。〈以上銭林の文献徴存録、彭紹升の二林居集、唐鑑の国朝学案及び国朝者献類徴引く所の国史館本伝、呉徳旋聞見録、寧都三競集、陸麟書集等に拠る。〉
以上の三山の諸子は江西に鼎峙して、天下に声ありしこと、質人の査小蘇九十序にいへるが如くなりしが、髻山の朱之盛未有は程山の謝約斎を過訪せしより、約斎は遂に易堂の魏叔子彭中叔を遂へて、其郷程山に会し、句余講学せしことあり、是に於て三山の諸子、亦声気相通じて、重きを海内に為したり。而して質人は其の南豊の人なるを以て、幼にして程山の邵先士に学び、已に理学の根柢を養ひ得たるが、其の易堂に往来するに及び、先づ彭躬菴の躬行実践の説に契るあり。躬菴は王陽明、羅念菴を宗として、実用を尚び、行事に試みるの志あり、南京の敗亡の乱には、翠微峯を出でゝ戎馬の間に周旋せしこと、猶ほ後年魏善伯、質人等が韓大任の軍事に関係せしが如くなりしかば質人が強毅敢て任ずるの性は、尤も躬菴に傾倒せしが如く、遂に贄を執りて之に事へ、併せて林確斎の薫陶を受けしなり。後年に及びて魏叔子に師事せしは、躬菴の命ぜし所にして、蓋し躬菴は世益々太平に趣き復た為すべきの機会なきを思ひ、而して質人が文才あるを知りて、之をして魏叔子に就かしめたるなるべし。質人は此等先輩に従遊して、新朝に事ふるを屑とせず、其の熊見可先生哀辞に嗟乎天之所助者順也、先生不能奉承天意、故不能得之父若子更不能得之交遊閱歴之人、求其耳目所及以快心志者、皆帰島有、此刑天舞戚、為無能為不量身不足填東海移太行王屋、徒抱区区愚志、以与天地争所不能争、則摧折坎珂、一無所見於世而【NDLJP:141 】死也、不亦宜哉といふが如き、満腹の不平を見るべく、又其の伯兄に復する書に、不幸罹患難者九年、遂困頓其身、摧残其志気、以至於今日といへる如く、韓大任等の事に関係して、科名を取り世に出づること能はざるに至りたれば、果して後年に於て、魏叔子没後の江西古文家として、蔡静子と並び称せられ、此を以て生計をも維ぎ得るに至りしなり。伯兄に復する書に、其身に於て仕官せんことは断念せしも、猶ほ二子の科名を取らんことを望むの意を示したるは鼎革の際に於ける支那志士の苦衷を見るべき者なり。
魏叔子の学は亦経世実用を旨とし、古の治乱の迹を観て、以て逆しめ其の成敗得失の然る所以を揣ることを好みたれば、質人が地理の学も之に基きたるべく、姜湛園の如きも質人の学は即ち叔子の学を伝へたりといへるも、然かも一は其の遊を喜んで、一生旅行に歳月を銷したる結果、竟に実地踏査を好むに至りしによるべく、与熊孝感書に凡書可閉戸而著、惟地輿必身至其地、否雖虚心訪求、精詳考核、其不為水経之河水経張掖、文荘之六衛所惑者幾希といへるは、已に魏叔子、顧祖禹景范等の著書に比して、更に学術的に傾きしを見るべし。
四、質人の著書に就て 質人の著書は秦辺紀略十三陵図説、及び懐葛堂集あり。秦辺紀略の初稿は、蓋し康熙二十四五年に起されたるべく、而かも質人は之を以て自ら満足せず、更に三十二年に於て、六箇月を費して再び河西の各地を歴遊し、遂に其書を完成せりといふ。其の第二次の踏査に就ては、与熊孝感書は著述に関する概略と、其の自信とを明らかにし、且つ地志を作るの必ず実歴に由らざるべからざるを説き、而して与劉体元書には、其の游蹤の困苦を詳述し、旦つ其の初稿の成る所以を黄定山の好意に帰し、第二稿の張魯菴と之を并称せるは、本を忘れずといふべし。今二書を左に抄録して、紀略の成るの易からざりしを示す。其の書の成績に至りては、劉湘煃が読史方興紀要と比較せる評論は、今之を知るに由なきも、其の河西地方に関する記事は、殆ど上下牀の差ありて、従来之と並馳すべき文字は絶無といふも可なり。明史の稿本を草せる万斯同季野は質人と交ありて、其の書の精密を知れるを以て、其の沙州、罕東左衛等に関する記事は独り質人の説を取りしが如し、以て其価直の一斑を知【NDLJP:142 】るに足る。其の詳細なる研究は更に之を他日に期せんとす。与熊孝感書〈熊孝感とは康熙の宰輔にして、清初理学の大家たる熊賜履を指せるなるべし。熊は湖北孝感の人にして、康熙三十二年頃は北京に在りて、吏部尚書の官に在りしなり。〉
都城数月。朝夕左右承教誨。頃有秦游之役。依恋不能別。惆悵至今。份至秦与居停張観察相得甚歓。因得徧交達官及諸名下士。頃一游楡林。縦覧河套地。増益所不知。因念向客河西。妄有記述。於四郡山川険阻。凡耳目所及。既可無疑。其他得之伝聞。見於方策。亦皆可信。然身未游歴。所知非真。採撫旧聞。豈無踵訛増偽縁飾成書之病。此份十年中有不能自信者。至今益疑。更念河西時事。邇来変遷。向所習見。今有不同。非今昔参観。不足以知得失。擬欲重游。如漁父入桃源。処処識之。篋中多具楮墨。左図右書。見聞並記。以補向所不逮。然雖軽装策塞。非百金不足用。居停主楽成其美。欣然為治装。今方整轡発長安矣。此行自河州西窰、荘浪、涼州、甘州、粛州、折而東南。至靖遠、奪夏而止。合客歳所游。西秦之辺尽是矣。份窃笑言辺事絵方与図者。類多勒襲臆擬。如画鬼魅。欺人所不経見。蓋地既険僻。士君子所罕游。居人又罕能文。間有伝載。得一漏万。置重挙軽。無裨実用。雖衛各有志。而蕪穢虚文。展巻欲昧。宜乎辺事之難言也。西寧之四衛。敦煌之三衛。載在史冊。弘治末改沙州為罕東左衛。著于実録。皆非隠僻。丘文荘知西奪有罕東。不知左衛別為一処。忽略左字之増。遂以七衛為六。祖制藩服。一旦陸沉。其為謬妄。豈浅小哉。夫文献無徴。足跡未及。執空文而肆其臆説。則書之不可尽信。類多如此。文荘博綜今古。猶且不免。他何怪焉。〈下略〉
(非)書中に云ふ所、四寧四衛とは、曲九、罕東、安定、阿端にして、敦煌三衛とは、赤斤蒙古、罕東左衛、哈密衛なり。丘文荘とは丘濬の証にして、濬は大学行義補の著あり。
初春伏�吾兄手書。問西行梗概。併当匁匁。未遑裁答。及今六閱月。邇来眠食何似。幸示我以慰遐思。七月杪。份已返長安。此行往還万里。以南方乗舟之人策馬五月。登頓労苦。脾肉尽消。且天西絶塞。飲饌大異。進食又不以時。饑不得食。飽則羅列当前。夜臥土牀。多蚤。尤苦蟞蝨。大於瓜子。【NDLJP:143 】多至可掬。一士牀蔵可数升。移衾裯臥地上。則従屋椽間自墜下如雨雹密灑。歴歴有声。一為所嘬。則泡高起半寸。搔爬急則痕破血流。一二日内。身無完膚。居人感露宿。或擁妻子避屋上。其地率平房。覆土代瓦。馬䊧牛羊矢所薫蒸。初至。嘔吐不能止。其人強半西羗。次士達。次回。次西彝。男女飲食臥起。尽出人意想外。言語不相通。展転翻訳。多非本意。間為画地作字。百十人無一識者。塞上人与之相習無間。惟操漢音。差強人意耳。份不善騎。手足不便捷。往往墜馬。経河州。漾卑川。為山椒林所触。仰墜馬後。衣頓百結。而身体辛無傷。所経地自名販皮馬客。姓名不使人知。甚至為人叱罵。都不与校。其狡点者詫非賈客。従僕夫詰難。若議察非常。則遇之益恭。常笑語友人曰。謝霊運好山水。所至人疑以為賊。身好山水。所至人疑以為官。大可笑也。走河湟時。資公韓総戎。知而晋接。発馳騎前導。所至謹烽堠。千百夫長間佩刀。属弓矢。盤帯拗転以迎。亟揮之不為止。出長城塞外。則健児十数騎。握弓刀左右。銀塔寺高僧綽爾吉。類有功行。葬奉為活仏。相与握手問労若平生。観語意若能前知者。為設供帳如貴客至。導看金銀仏銀塔諸宝器。黄衣僧百数十。趨蹌執事惟謹。瀕行出氆�為別。往還報称使数輩。交錯道中。絶不一問休咎。河湟間知為総戎客。或厚餽噓。則矢天日郤之。於河西受二牝馬。則皆十年所締交。子輿氏以餽贐為有辞。貪夫往往借口。份切恨之。友人笑曰。河湟四郡。朔方北地。山水城郭各絵図。図各有説。西寒三辺。尽入奚嚢。伏波之聚米。减旻之口陳手画。装矩之西域図記。無能過者。所得多矣。可不為貪乎。份向在黄定山所。寡聞渺見。未能成書。今観察魯菴張公。為成其美。以所著可信今伝後。召梓人剖励以伝。然微定山発端不至此。此則吾兄所素知也。西行之概。詳与孝感熊公書中。別録一通請益。秋深風勁。惟節宣自愛。
十三陵図説の作に就ては、与朱字緑書、及び与八大山人書に詳らかなり。与朱字緑書には著書の由来を説き、其の宋人石刻の開方法、〈蓋し早昌の禹跡図を指せるなるべし。別に出せる「地理学家朱思本」の論文を参看すべし。〉 を応用せることをいひ、又歩測の法を以て独見と称せるが如き、其の地理学家としての自任を示せり。其の故国無量の感慨あることは、生則君臨万方死則抔土莫別、可不痛哉といへるにて知るべし。
【NDLJP:144 】
四游神京。未及一謁陵寝。毎出広寄門。面発赤。痛自詞詆無及矣。与地不身歴。徒聴人言。往往自誤。份問昌平諸陵。率答以路甚遠。費甚多。展謁甚少。啓閉甚艱。而虎甚猛。衆説紛紜。聞之色沮。宜乎数中止於発邁也。献歳脱除俗事客燕。勝友僅得六人。期以元旦偕行。至期。以事不能行者一人。越二日。又止者二人。又踰宿。既発止者一人。份概然奮発。矢之日。旦明即孤身必往也。夜分趣僕拼播以俟。如約者黄宗夏一人耳。乗駝驢出徳勝門。数徒歩者。抵昌平州。日初昃。又賃一傭。樸衣被。詰朝歩陟至長陵。拝謁尽礼。其十一陵以次謁。最後謁烈皇帝撰宮。合三日。乃既天寿諸陵。凡山川楼殿。碑塚宝城。周垣之方位深広。目覧足歩。手書湖成一冊。左図右説。又懼歳久滄桑変。則台殿湮而不存。於是因山之根。河之墻。城之趾。処処計之。某至於某若干跬。某陵至某陵若干跬。又恐迷於所向。則考極相方。定二十四山位。某位某方。某陵位某方。遠近交互参相考。是二法並行。而明室一代之弓劔。百世後不可按図索者。断乎其未有。份毎念漢唐以来之山陵。其存者且彷彿疑似不可別。若湮滅於兎葵燕麦中者。又何可紀極。生則君臨万方。死乃抔土莫別。可不痛哉。唐玨之種冬青樹。心亦良苦。然可百年計。非悠遠也。份之図説不敢調為創始。図用宋人石刻開方法。相方用指南鍼。山麓水浜。取易改邑不改井之義。惟計之以跬。則出於心裁。非有所襲者。蓋律度量衡之不同也久矣。九州之丈引人人殊。至以里計。率漫然計之。一無可考也。份則以人之短長有不同。而跬歩則無以異。司馬法曰。一舉足為跬。再挙足為歩。計跬而里可考矣。世即有能為計里鼓者。有操度而量者。誰与一挙足之不毛髪爽。且近而取諸身也。是份之独見也。図説之成。労瘁於徒行。忍饑渇。五官並用。手足倶勤者。份得宗夏之助為多。至於近代諸書。采撫参考。惟顧炎武之昌平山水記。可謂不刊。身歴其地也。猶不免於一二出入。他如粛松録、燕都遊覧志、小草斎集、春明夢余録湧幢小品、北遊紀方、帝京景物略、芹城小志、無用開談、国朝典彙白頭閒話、方与紀要、水東日記、大政記、治平略、献徴録、野獲編、名山蔵、否泰録、宙載今言諸書。多挂一漏万。且悖謬【NDLJP:145 】舛錯。書不足尽信。不如無書。况乎人言哉。乃者往還五日。人費銭七百。車驢飯飲逆旅賃僕賜守陵皆在焉。是役也僕備皆飢触况 率。不免愁歎。惟宗夏壮年能勉強。份自笑年雖暮。而筋骨猶未之衰也。字緑欲問津。故一一及之。
質人は又八大山人に書を与へて、其の著述の成りしことを報じ、之を流布して明の宗室の裔孫と忠臣義士とに蔵奔せしめ、己も亦之によつて父祖の為に明室の恩を報ぜんとせる旨を告げたり。八大山人なる者は、亦明の宗室にして、諸生として南昌に居り、国変に遭て薙髪して僧と為り、書画を以て生と為し、後佯狂して世を玩びし者なり。
声効不相聞者辛壬癸甲矣。長児文起来。述近視甚悉。碩果之足以見天心也。份年来坎壊。無一足為先生道者。惟徂歳同黄宗夏走昌平州。謁一祖十二宗之陵寝殯宮。留数日。絵図列向。開方記跬。図各有説。為古今所未有之書。尤昭代所必不可無之書。行授之梓。十五国中各流布十冊。天潢之賢肖者与忠孝之後義士仁人。并蔵弄之。俾聖祖神宗之弓剣。永永垂於天壌。不致如歴代帝王棲神之城。或湮没於謄水残山者。庶此挙与種冬青。可教長量短。而份且藉為祖父報数百年茹毛践土之恩矣。想先生聞此。必為開数十年未開之笑口。而展図一覧。又必凄然於此日矣。春冰呵凍。不宣。
惜むらくは此の十三陵図説は今伝はらず。懐葛堂集に就ては、巳に前に道へり。
五、質人の交游 質人の交遊は当世の名人も少からざりしが、中には質人の文集に見ゆる外、殆ど知る所なき者もあり、全謝山が劉継荘の伝を作りて、蓋其人蹤迹、非尋常遊士所閱歴、故似有所諱、而不令人知とある者、質人に於ても亦爾云ふべく、其の至交ともいふべき人々は、皆此等一流の人物なりしが如し。其の敬事従遊せる程山の邵先士、易堂の林確斎、魏叔子等は、其の履歴もほゞ明らかなるも、質人が哭確斎先生文に見えたる釈大方師なる者に就ては、僅かに広陽雑記中に、江西建昌に広済上人あり、大方師【NDLJP:146 】の徒なりとありて、其の薪を曠野に積み、火を挙げて自焚せしことを記し、又質人少時。猶識大方。後病熱昏夢。走荒山曠野中。忽遇大方。偕行数武。私自念言。彼出家人也。我儒者。奈何与之同行。遂駐歩看大方遠去。復取別道而走。又遇二人借行。久之亦失伴。行乱石草莽中。虎跡縦横。甚可畏怖。遂自悔曰。適同大方走。或跟定後二人。皆不至此。今将奈何。忽見一茅屋有一人出曰。汝死矣。来此。汝欲何所為。答曰。平生所願。惟清勤二字耳。其人走入屋。持索而出曰。恁麼則作牛去。遂失声大叫。狂走而覚。此夢亦奇。先生当深思之。
といへる一項あり、自己の身世を况ふる者に似たり。大方は林確斎に先つて没せしことは明らかなるも其没年を知らず。
又熊見可の哀辞によれば、此人も亦質人の最も意気相投ぜる一人なるが如し。河南鹿邑の人、崇禎の恩貢生にして、建寧に知県たりしが、明の亡ぶる時転餉入援せしも及ばず、詩酒間に廃放し、古衣冠を服し、薬を市上に売り、七十三にして死したりといへど、其年を詳かにせず。其父は難に殉じ、其子は名を頤といひしこと、皆哀辞中に見ゆ。律陶序に熊養及とあるは、頤の字なるべし。其の余の事は知るべからす。
八大山人も其の至交の一なりしこと、之に与ふる書によつて明らかなり。
其の平交ともいふべき人々の中にて、熊賜履の如き大官は言ふまでもなし。万斯同、劉献廷、王源、姜宸英の如きも、其の学問文章当世に名ありたれば、更に説くを須ひざるべし。其他朱字緑とは交り頗る密なるが如し、朱は名を書といひ、安徽宿松の人、康熙四十二年癸未の進士にして、方望渓苞。王崑縄源、戴南山潜虚と皆至交あり、望渓は之が墓表を作れり。
劉継荘が以て大事を属すべく、艱難百折して回らすといひし黄復菴、張采舒は、黄には質人の寿序あり、其の偕に十三陵に謁せし継荘の門人黄宗夏の父なり、名を詳かにせず。張采舒は名は暈、質人の甎槨銘あり、王崑縄にも亦其の詩集の序あり。質人は其の交はる所の志識ある士にして、天下の用を為すべき者を挙げて、劉献廷、万斯同、王鉞、劉羽逖輩といへるが、王鉞の人と為りは全く知るべからず。劉羽逖は即ち忠嗣にして、茹紫庭の衡州に在りし時、劉継荘と同じくこゝに客たり、質人は以【NDLJP:147 】て天下の奇男子となせし所の人なるが、巴陵に客死せり、忠嗣が名は広陽雑記中にも見ゆ。質人が忠嗣に与ふる書中には、八図の人傑として黄叔威を挙げ、其の郭母陳太君の寿序を作りし時、黄は猶存せしが如く、又王崑縄と万季野の六十を寿せし時にも、亦其一人たりしも、其の名をさへ知るを得ず。其の交遊の大概此の如し。
六、張魯菴方伯 張魯菴は即ち質人が秦塞の再遊に当り、之が旅資を給せし者にして姜湛園の懐葛堂集序に、梁子嘗游西塞、著西陲今略、未及成書適今安徽按察張公前駐節西安、以千金資梁子、縦遊塞上とあるは、少しく誇張に失せるが如きも、要するに秦辺紀略の成りしは、張魯菴の力によれることは疑なし。魯菴の事は傅雲龍の畿輔通志列伝〈巻二百三十六列伝四十四〉天津県の部に出でたる者左の如し。
張霖字汝作。号魯菴。晩自号臥松老衲。由貢生歴官福建布政使。署雲南巡撫縁事落職家居。遂開堂、一畝囲、問津園思源荘、篆水楼諸勝。園亭甲一郡。集江南北諸名士。唱和其中。一時如姜宸英、梅文鼎、趙執信、呉愛、朱彝尊、徐蘭、方苞。皆主其家。文酒之議無虚日。著有開居堂稿。弟霍字帆史。号念芸。号笨山。貢生。官中書舎人。累試不第。帰里築小室曰帆斎。〈津門詩鈔〉霖官巡撫帰。門業甲三津。霆性孤逸。蕭然無所与。嘗科頭吸履行街衢。為車馬客所避易。与龍震交最篤。詩似李白。草書得張旭神骨。〈陳儀撰龍震伝〉著有帆斎逸稿、欵乃書屋、緑豔亭、弋虫軒、秦遊、晋史諸集。霖子坦。字逸峰。号青雨。康熙三十二年与弟燻同舉於郷。官内閣中書。幼学詩於王士正。学書於趙執信。能得其家法。著有履閣詩集、喚漁亭詩稿。〈津門詩鈔〉曽孫虎拝字錫山。号嘯崖。幼警敏。性至孝。母死。廬墓三年。乾隆三十四年成進士。官内閣中書、宗人府主事。著有妙香閣詩集。従弟虎士字環極。諸生。官奉天錦県典史。母死。毀卒。〈津門詩鈔〉
質人の集中に癸酉即ち康熙三十二年に挙人となれる張子声百の秦游詩序あり、声百とは恐らくは壎の字なるべし。李恕谷塨の王子源伝にも、
初王子数歳。従父於南。迄壬申。〈康熙三十一年〉父八十。思首邱。適天津塩商張霖豪俠好士。延之。遂奉父居天津。中北直癸酉科挙人。
とあれば、魯菴は王崑縄にも資を出し、而して崑縄は魯菴の二子と同年たりしなり。【NDLJP:148 】魯菴が家の来歴は張虎士の嘯崖兄伝略〈津門徴献詩引く所〉に見ゆ、云く、
吾家自洪武四年。由安徽鳳陽府遷居直隷河間府。又徒永平府撫寧県。今所居之傅家店。分属臨検県。去山海関十余里。故家譜云山海張氏。吾高祖魯菴公少孤。既任福建藩司。年方四十余。以母早歳劬労家業。未獲頤養。即告養旋里。不復出仕。因嵯業在蘆。故常在津門。魯菴公一生尊賢重士。済人之急。一時名宿。皆主於家。尤与呉天章相友善。為工部主事時。毎逢郷会両開。四方之士出都者。贈以資斧。留都者多延至津門。築有問津園、一畝園。迎送無虚日。晩年家業頓落。曽祖逸峰公、祖元白公歴四十年。非常貧苦。惟以孝友詩書相守。
其の山海関の人にして天津に住せることは、質人が送張方伯往山海関序に公世家山海、而生長直沽とあるに恰も合せり。津門徴献詩には又龍震が記亡友張帆史交情始末を載せたるが中にも、魯菴に関する事あり、弟帆史が康熙四十三年に没せる時、魯菴は其第七子を以て之を継がしめたりといへり。又津門雑事詩を引けるが中に、窪の事を注して、魯菴に及び、
兄霖字汝作。官福建布政使。園亭声伎之盛甲於津門。構有問津園及遂間堂。晩年被効破家。
とあり。長蘆塩の塩商として家を起せしも、其身に及びて破産せしなり。其の皖江寄懐念芸弟といふ詩あり、即ち安徽布政使の官に在りし時の作なれば、其の単に富翁たるにあらざりしことも亦知らるゝなり。
江上不宜秋。秋容動深省。南岸楓葉丹。北岸荻花冷。天空無碧雲。雁字排高影。挙頭送鳴雁。目断関山迥。豈不美奮飛。同羣苦未整。呉江接楚江。愁思徒歌耿。
附註
- ↑ 官山の戦に就ては、広陽雑記に以て廉熙十五年とせし者(即ち上の「秦辺紀略の嘎爾且伝」に引きし者)と、十六年の事(雑記巻二)とせし者とあり。逆臣伝中の呉三桂伝によれば、十五年とする方正しかるべし。但だ此時穆占は未だ陝西より湖南に抵らざれば、雑記に呉三桂が穆将軍の戦将たるを聞て敵を軽らずといひしは誤なり。
- ↑ 証親王嘯亭雑録巻九に韓大任、馬宝が帰降後の事を載せて云く、
韓大任帰降。其入製時。仁皇帝以其為呉逆将。因留為内務府包衣参領。後随佟忠毅公国網征噶爾丹。官兵巳致勝。面伏賊猝発。忠毅公殉於陣。大任驚曰。吾聞臨陳失帥。兵家大罪。吾以叛逆之党。久合誅戮。蒙上恩不【NDLJP:149 】死。得延残喘已十載矣。今豈可坐必死之律。白頭脱帽。身膺徴経。復対獄吏乎。以此残軀貽芳後世可也。因以花布巾蒙首。馳人賊陣。手刄数十人。然後致死。時呉逆将馬保降命。九卿会鞫。有某将軍。為被所敗。時亦在坐。保昻首目。某帥慎勿多言。吾雖不識汝面。而熟識汝之背矣。蓋譏其敗潰也。某将軍為之靦顔。在獄時必以呉逆所賜袍蒙衣上、曰吾不忘其旧徳。蓋効小説家関帝覆旧袍之故事。亦可謂愍不畏死矣。
馬保は即ち馬宝なり、後梟首せらる。二人の跡を観て呉三桂部下の人を得たるを見るべく、質人一輩の士人が其用を為せるも偶然ならずといふべし。
附記
新印の清史列伝中に梁份伝あれども、主として質人の送張方伯往山海関序及び王崑縄、姜湛園等の質人集序に拠りて文を成せる者にて、別に新事実あるを見ず。
(昭和四年三月稿)
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