万葉集 (鹿持雅澄訓訂)/巻第四

巻第四よまきにあたるまき


相聞したしみうた


難波天皇なにはのすめらみことみいもの、山跡やまといま皇兄すめらみことのいろせのみこと奉上たてまつれる御歌一首ひとつ

0484 一日こそ人をも待ちし長きをかくのみ待てば有りかてなくも


岳本天皇をかもとのすめらみことのみよみませる御製歌おほみうた一首、また短歌みじかうた

0485 神代より れ継ぎ来れば 人さはに 国には満ちて

   あぢむらの 騒きはゆけど が恋ふる 君にしあらねば

   昼は 日の暮るるまで よるは の明くる極み

   思ひつつ いねかてにのみ 明かしつらくも 長きこの夜を

反し歌

0486 山の端にあぢ群騒き行くなれどあれさぶしゑ君にしあらねば

0487 近江路の鳥籠とこの山なる不知哉川いさやがはのこの頃は恋ひつつもあらむ


額田王ぬかたのおほきみの近江天皇をしぬひまつりてよみたまへる歌一首

0488 君待つとが恋ひ居れば我が屋戸の簾動かし秋の風吹く

鏡女王のよみたまへる歌一首

0489 風をだに恋ふるはともし風をだに来むとし待たば何か嘆かむ


吹黄刀自ふきのとじが歌二首

0490 真野まぬの浦の淀の継橋心ゆも思へや妹がいめにし見ゆる

0491 河上のいつ藻の花のいつもいつも来ませ我が背子時じけめやも


田部忌寸櫟子たべのいみきいちひこ太宰おほみこともちのつかさけらるる時の歌四首

0492 衣手に取りとどこほり泣く子にも益れるあれを置きて如何にせむ 舎人千年

0493 置きてゆかば妹恋ひむかも敷細しきたへの黒髪敷きて長きこの夜を 田部忌寸櫟子

0494 吾妹子わぎもこを相知らしめし人をこそ恋の増されば恨めしみ

0495 朝日影にほへる山に照る月の飽かざる君を山越しに置きて


柿本朝臣人麻呂が歌四首

0496 み熊野の浦の浜木綿百重なす心はへどただに逢はぬかも

0497 古にありけむ人もがごとか妹に恋ひつついねかてにけむ

0498 今のみのわざにはあらず古の人ぞ益りてにさへ泣きし

0499 百重にも来かぬかもと思へかも君が使の見れど飽かざらむ


碁檀越ごのだむをちが伊勢国に往く時、留まれるがよめる歌一首

0500 神風かむかぜの伊勢の浜荻折り伏せて旅寝や為らむ荒き浜辺に


柿本朝臣人麻呂が歌三首

0501 処女をとめらが袖布留ふる山の瑞垣みづかきの久しき時ゆ思ひき我は

0502 夏野ゆく牡鹿をしかつぬの束の間も妹が心を忘れてへや

0503 織衣ありきぬのさゐさゐしづみ家のに物言はずにて思ひかねつも


柿本朝臣人麻呂がの歌一首

0504 君がが住坂の家道をもあれは忘らじ命死なずは


安倍女郎あべのいらつめが歌二首

0505 今更に何をか思はむ打ち靡き心は君に寄りにしものを

0506 我が背子は物な思ひそ事しあらば火にも水にもあれ無けなくに


駿河采女するがのうねべが歌一首

0507 敷細しきたへの枕ゆくくる涙にそ浮寝をしける恋の繁きに


三方沙弥みかたのさみが歌一首

0508 衣手のかる今宵ゆ妹もあれいたく恋ひむな逢ふよしを無み


丹比真人笠麻呂が筑紫国に下る時よめる歌一首、また短歌

0509 臣女おみのめの 櫛笥くしげいつく 鏡なす 御津の浜辺に

   さ丹頬にづらふ 紐解き放けず 吾妹子わぎもこに 恋ひつつ居れば

   明け暮れの 朝霧がくり 鳴くたづの のみし泣かゆ

   が恋ふる 千重の一重も 慰むる 心も有れやと

   家のあたり が立ち見れば 青旗の 葛城かつらき山に

   棚引ける 白雲隠り 天ざかる ひなの国辺に

   ただ向ふ 淡路を過ぎ 粟島を 背向そがひに見つつ

   朝凪に 水手かこの声呼び 夕凪に 楫のしつつ

   波のを い行きさぐくみ 岩の間を い行きもとほ

   稲日都麻いなびつま 浦廻を過ぎて 鳥じもの なづさひ行けば

   家の島 荒磯の上に 打ち靡き しじに生ひたる

   名告藻なのりその などかも妹に らず来にけむ

反し歌

0510 白妙の袖解き交へて帰り来む月日をみて往きてましを


伊勢国にいでませる時、當麻麻呂たぎまのまろ大夫まへつきみのよめる歌一首

0511 我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ


草嬢うかれめが歌一首

0512 秋の田の穂田ほたの刈りばかか寄り合はばそこもか人のを言成さむ


志貴皇子の御歌一首

0513 大原のこのいつ柴のいつしかとふ妹に今宵逢へかも


阿倍女郎が歌一首

0514 我が背子がせる衣の針目落ちず入りにけらしな我が心さへ


中臣朝臣東人あづまひとが阿倍女郎に贈れる歌一首

0515 独り寝て絶えにし紐を忌々ゆゆしみと為むすべ知らに哭のみしぞ泣く

阿倍女郎が答ふる歌一首

0516 が持たる三筋みつあひに搓れる糸もちて付けてましもの今ぞ悔しき


大納言おほきものまをしのつかさ大将軍おほきいくさのきみかけたる大伴のまへつきみの歌一首

0517 神樹かむきにも手は触るちふをうつたへに人妻といへば触れぬものかも


石川郎女が歌一首

0518 春日野の山辺の道を随身よそり無く通ひし君が見えぬ頃かも


大伴女郎が歌一首

0519 雨障あまつつみ常せす君は久かたの昨夜きその雨に懲りにけむかも

後の人の追ひてなぞらふる歌一首

0520 久かたの雨も降らぬか雨つつみ君にたぐひてこの日暮らさむ


藤原宇合うまかひの大夫が遷任されてみやこに上る時、常陸娘子ひたちをとめが贈れる歌一首

0521 庭に立ち麻を刈り干し重慕しきしぬ東女あづまをみなを忘れたまふな


京職大夫みさとつかさのかみ藤原の大夫まへつきみ大伴坂上郎女おほとものさかのへのいらつめおくれる歌三首

0522 娘子らが玉匣たまくしげなる玉櫛たまくし魂消むも妹に逢はずあれば

0523 よく渡る人は年にもありちふをいつの程そもが恋ひにける

0524 蒸衾むしぶすまなこやが下に臥せれども妹とし寝ねば肌し寒しも

大伴坂上郎女がこたふる歌四首

0525 佐保川の小石さざれ踏み渡りぬば玉の黒馬くろまは年にもあらぬか

0526 千鳥鳴く佐保の川瀬のさざれ波やむ時もなしが恋ふらくは

0527 来むと言ふも来ぬ時あるを来じと言ふを来むとは待たじ来じと言ふものを

0528 千鳥鳴く佐保の川門かはとの瀬を広み打橋渡すが来と思へば

     右郎女ハ、佐保大納言卿ノ女ナリ。初メ一品ヒトツノシナ

     穂積皇子ニ嫁ギ、寵被ルコトタグヒ無シ。皇子スギマ

     シシ後、藤原麻呂大夫郎女ヲツマドフ。郎女坂上

     ノ里ニ家ス。仍レ族氏ウヂヲ坂上郎女トフナリ。

また大伴坂上郎女が歌一首

0529 佐保川の岸の高処つかさの柴な刈りそね在りつつも春し来たらば立ち隠るがね


天皇の海上女王うなかみのおほきみに賜へる御歌おほみうた一首

0530 赤駒の越ゆる馬柵うませしめ結ひし妹が心は疑ひも無し

     右、今案フルニ、此ノ歌擬古ノ作ナリ。但往当

     便ヲ以テ斯ノ歌ヲ賜ヘルカ。

海上女王のこたへ奉る歌一首

0531 梓弓つまひく夜音よと遠音とほとにも君が御言を聞かくしよしも


大伴宿奈麻呂宿禰おほとものすくなまろのすくねが歌二首

0532 打日さす宮に行く子をま悲しみ留むは苦し遣るはすべなし

0533 難波潟潮干のなごり飽くまでに人の見む子をあれともしも


安貴王あきのおほきみの歌一首、また短歌

0534 遠妻の ここに在らねば 玉ほこの 道をた遠み

   思ふそら 安からなくに 嘆くそら 安からぬものを

   み空行く 雲にもがも 高飛ぶ 鳥にもがも

   明日往きて 妹に言問ひ が為に 妹も事無く

   妹が為 あれも事無く 今も見しごと たぐひてもがも

反し歌

0535 敷細しきたへの手枕まかず間置きて年そ経にける逢はなくへば

     右、安貴王、因幡八上釆女ヲ娶リ、係念極テ甚シク、

     愛情尤モ盛ナリ。時ニ勅シテ不敬ノ罪ニ断ジ、本郷ニ

     退却シリゾク。是ニ王意悼怛、聊カ此歌ヲ作メリト。


門部王の恋の歌一首

0536 飫宇おうの海の潮干の潟の片思かたもひに思ひやゆかむ道の長手を

     右、門部王、出雲守ニマケラル時、部内クヌチノ娘子ヲ娶ル。

     未ダ幾時モ有ラズ、既ニ往来絶ユ。累月ノ後、更ニ

     愛心ヲ起コス。仍レ此歌ヲ作ミテ娘子ニ贈致オクレリ。


高田女王の今城王いまきのおほきみに贈りたまへる歌六首むつ

0537 言清くいともな言ひそ一日だに君いし無くばしぬへぬもの

0538 人言ひとごとを繁み言痛こちたみ逢はざりき心あるごとな思ひ我が背子

0539 我が背子し遂げむと言はば人言は繁くありとも出でて逢はましを

0540 我が背子にまたは逢はじかと思へばか今朝の別れのすべなかりつる

0541 現世このよには人言繁し来生こむよにも逢はむ我が背子今ならずとも

0542 常やまず通ひし君が使ひ来ず今は逢はじと動揺たゆたひぬらし


神亀じむき元年はじめのとし甲子きのえね冬十月かみなつき、紀伊国にいでませる時、従駕みともの人に贈らむ為、娘子にあつらへらえて笠朝臣金村がよめる歌一首、また短歌

0543 天皇おほきみの 行幸いでましのまに 物部もののふの 八十伴男やそとものを

   出でゆきし うつくつまは あま飛ぶや 軽の路より

   玉たすき 畝火を見つつ あさもよし 紀路に入り立ち

   真土山 越ゆらむ君は 黄葉もみちばの 散り飛ぶ見つつ

   親しけく をば思はず 草枕 旅をよろしと

   思ひつつ 君はあらむと あそそには かつは知れども

   しかすがに もだも得あらねば 我が背子が 行きのまにまに

   追はむとは 千たび思へど 手弱女たわやめの が身にしあれば

   道守みちもりの 問はむ答を 言ひ遣らむ すべを知らにと 立ちてつまづく

反し歌

0544 後れ居て恋ひつつあらずば紀の国の妹背の山にあらましものを

0545 我が背子が跡踏み求め追ひゆかば紀の関守い留めなむかも


二年ふたとせといふとし乙丑きのとのうし春三月やよひ三香原みかのはら離宮とつみやに幸せる時、娘子を得て、笠朝臣金村がよめる歌一首、また短歌

0546 三香の原 旅の宿りに 玉ほこの 道の行き逢ひに

   天雲の よそのみ見つつ 言問はむ よしの無ければ

   心のみ 咽せつつあるに 天地の 神事依せて

   敷細しきたへの 衣手ころもてへて 己妻おのつまと 恃める今宵

   秋の夜の 百夜ももよの長さ ありこせぬかも

反し歌

0547 天雲の外に見しより我妹子に心も身さへ寄りにしものを

0548 この夜らの早く明けなばすべを無み秋の百夜を願ひつるかも


五年いつとせといふとし戊辰つちのえたつ太宰おほきみこともち少弐すなきすけ石川足人たりひとの朝臣が遷任みやこにめさるるとき、筑前国つくしのみちのくちのくに蘆城あしき駅家はゆまやうまのはなむけする歌三首

0549 天地の神も助けよ草枕旅ゆく君が家に至るまで

0550 大船の思ひ頼みし君がなばあれは恋ひむなただに逢ふまでに

0551 大和道の島の浦廻に寄する波間あひだも無けむが恋ひまくは

     右の三首みうたは、作者未詳よみひとしらず


大伴宿禰三依みよりが歌一首

0552 我が君はわけをば死ねと思へかも逢ふ夜逢はぬ夜二つゆくらむ


丹生女王にふのおほきみ太宰帥おほきみこともちのかみ大伴のまへつきみに贈りたまへる歌二首

0553 天雲の遠隔そくへの極み遠けども心し行けば恋ふるものかも

0554 古りにし人のたばせる吉備の酒病めばすべなし貫簀ぬきすたばらむ


太宰帥大伴の卿の大弐おほきすけ丹比縣守たぢひのあがたもりの卿の民部卿たみのつかさのかみ遷任さるるに歌一首

0555 君がためみし待酒まちさけ安の野に独りや飲まむ友無しにして


賀茂女王かものおほきみの大伴宿禰三依に贈りたまへる歌一首

0556 筑紫船いまだも来ねば予め荒ぶる君を見むが悲しさ


土師宿禰水道はにしのすくねみみちが筑紫より京に上る海路うみつぢにてよめる歌二首

0557 大船を榜ぎの進みに岩にかへらば覆れ妹に因りてば

0558 ちはやぶる神のやしろが懸けしぬさたばらむ妹に逢はなくに


太宰の大監おほきまつりごとひと大伴宿禰百代が恋の歌四首

0559 事もなくしものを老次おいなみにかかる恋にもあれは逢へるかも

0560 恋ひ死なむ後は何せむ生ける日のためこそ妹を見まく欲りすれ

0561 思はぬを思ふと言はば大野なる三笠の杜の神し知らさむ

0562 いとま無く人の眉根まよねいたづらに掻かしめつつも逢はぬ妹かも


大伴坂上郎女が歌二首

0563 黒髪に白髪しろかみ交り老ゆまでにかかる恋には未だ逢はなくに

0564 山菅の実ならぬことを我に寄せ言はれし君はたれとからむ


賀茂女王の歌一首

0565 大伴の見つとは言はじ茜さし照れる月夜つくよに直に逢へりとも


太宰の大監大伴宿禰百代等が駅使はゆまつかひに贈れる歌二首

0566 草枕旅ゆく君をうつくしみたぐひてぞ来し志賀しかの浜辺を

     右の一首ひとうたは、大監大伴宿禰百代。

0567 周防すはうなる磐國山を越えむ日は手向たむけよくせよ荒きその道

     右の一首は、少典すなきふみひと山口忌寸若麻呂。

     以前天平二年庚午夏六月、帥大伴卿、忽ニ瘡ヲ

     脚ニ生シ、枕席ニ疾苦ス。此ニ因テ駅ヲ馳セテ

     上奏シ、庶弟稲公、姪胡麻呂ニ遺言ヲ語ラムコ

     トヲ望請フ。右兵庫助大伴宿禰稲公、治部少丞

     大伴宿禰胡麻呂ノ両人ニ勅シテ、駅ヲ給ヒ発遣

     シ、卿ノ病ヲ看シム。数旬ヲ逕テ幸ニ平復ヲ得。

     時ニ稲公等病既ニ療タルヲ以テ、府ヲ発チ京ニ

     上ル。是ニ大監大伴宿禰百代、少典山口忌寸若

     麻呂、及ビ卿ノ男家持等、駅使ヲ相送ル。共ニ

     夷守ノ駅家ニ到リ、聊カ飲シテ別ヲ悲シム。乃

     チ此歌ヲ作メリ。


太宰帥大伴の卿の大納言おほきものまをしのつかさされ、京に入らむとする時、府官人つかさひと等、卿を筑前国蘆城駅家に餞する歌四首

0568 み崎荒磯ありそに寄する五百重いほへ波立ちても居ても我がへる君

     右の一首は、筑前のまつりごとひと門部連かどべのむらじ石足いそたり

0569 宮人の衣染むとふ紫の心に染みて思ほゆるかも

0570 大和に君が発つ日の近づけば野に立つ鹿もどよみてぞ鳴く

     右の二首は、大典おほきふみひと麻田連陽春あさだのむらじやす

0571 月夜よし川音かはと清けしいざここに行くも行かぬも遊びて行かむ

     右の一首は、防人佑さきもりのまつりごとひと大伴四綱よつな


太宰帥大伴の卿の京に上りたまへる後、沙弥満誓さみのまむぜいが卿に贈れる歌二首

0572 真澄鏡まそかがみ見飽かぬ君に後れてやあした夕べにびつつ居らむ

0573 ぬば玉の黒髪変り白けても痛き恋には逢ふ時ありけり

大納言大伴の卿のこたへたまへる歌二首

0574 ここに在りて筑紫やいづく白雲の棚引く山の方にしあるらし

0575 草香江の入江にあさる葦鶴あしたづのあなたづたづし友無しにして


太宰帥大伴の卿の京に上りたまひし後、筑後守つくしのみちのしりのかみ葛井連大成ふぢゐのむらじおほなり悲嘆なげきてよめる歌一首

0576 今よりはの山道はさぶしけむが通はむと思ひしものを


大納言大伴の卿の、新しきうへのきぬ攝津大夫つすぶるかみ高安王に贈りたまへる歌一首

0577 我が衣人にな着せそ網引あびきする難波壮士なにはをとこの手には触れれど


大伴宿禰三依が悲別わかれの歌一首

0578 天地と共に久しく住まはむと思ひてありし家の庭はも


金明軍こむのみやうぐむが大伴宿禰家持にたてまつれる歌二首

0579 見まつりて未だ時だに変らねば年月のごと思ほゆる君

0580 足引の山に生ひたるすがの根のねもごろ見まく欲しき君かも


大伴坂上おほとものさかのへの家の大娘おほいらつめが大伴宿禰家持にこたへ贈れる歌四首

0581 生きてあらば見まくも知らに何しかも死なむよ妹と夢に見えつる

0582 丈夫ますらをもかく恋ひけるを幼婦たわやめの恋ふる心にたぐへらめやも

0583 月草の移ろひやすく思へかもふ人の言も告げ来ぬ

0584 春日山朝立つ雲の居ぬ日なく見まくの欲しき君にもあるかも


大伴坂上郎女が歌一首

0585 出でてなむ時しはあらむを殊更に妻恋しつつ立ちて去ぬべしや


大伴宿禰稲公が田村大嬢に贈れる歌一首

0586 相見ずは恋ひざらましを妹を見てもとなかくのみ恋ひは如何にせむ

     右、一云あるはいふ、姉坂上郎女がよめる。


笠女郎が大伴宿禰家持に贈れる歌廿四首はたちまりよつ

0587 我が形見見つつ偲はせ荒玉の年の緒長く我も偲はむ

0588 白鳥の飛羽とば山松の待ちつつぞが恋ひ渡るこの月ごろを

0589 衣手を折りむ里にあるあれを知らずぞ人は待てど来ずける

0590 あら玉の年の経ぬれば今しはとゆめよ我が背子我が名らすな

0591 我が思ひを人に知らせや玉くしげ開きあけつといめにし見ゆる

0592 闇の夜に鳴くなるたづよそのみに聞きつつかあらむ逢ふとはなしに

0593 君に恋ひいたもすべ無み奈良山の小松がもとに立ち嘆くかも

0594 我が屋戸の夕蔭草ゆふかげくさの白露のぬがにもとな思ほゆるかも

0595 我が命のまたけむ限り忘れめやいや日にには思ひ増すとも

0596 八百日やほか往く浜の真砂まなごが恋にあに勝らじか沖つ島守

0597 うつせみの人目を繁み石橋いはばしの間近き君に恋ひ渡るかも

0598 恋にもぞ人は死にする水無瀬川みなせがは下ゆ我痩す月に日に

0599 朝霧のおほに相見し人故に命死ぬべく恋ひ渡るかも

0600 伊勢の海の磯もとどろに寄する波畏き人に恋ひ渡るかも

0601 心ゆもはざりき山河も隔たらなくにかく恋ひむとは

0602 夕されば物ひ増さる見し人の言問ふ姿面影にして

0603 思ふにし死にするものにあらませば千たびぞ我は死に還らまし

0604 剣太刀つるぎたち身に取り添ふと夢に見つ何のしるしそも君に逢はむため

0605 天地の神しことわり無くばこそ我がふ君に逢はず死にせめ

0606 我も思ふ人もな忘れ多奈和丹浦吹く風のやむ時無かれ

0607 人皆を寝よとの鐘は打つなれど君をしへばねがてぬかも

0608 相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼のしりへぬかづく如し

0609 心ゆもはざりき又更に我が故郷に還り来むとは

0610 近くあれば見ねどもあるをいや遠く君がいまさば有りかてましも

     右の二首は、相別わかれて後また来贈おくれるなり。

大伴宿禰家持が和ふる歌二首

0611 今更に妹に逢はめやと思へかもここだ我が胸欝悒おほほしからむ

0612 中々にもだもあらましを何すとか相見めけむ遂げざらなくに


山口女王の大伴宿禰家持に贈りたまへる歌五首

0613 物ふと人に見えじと生強なましひに常に思へど有りそかねつる

0614 相思はぬ人をやもとな白妙の袖づまでに哭のみし泣かも

0615 我が背子は相はずとも敷細しきたへの君が枕は夢に見えこそ

0616 剣太刀名の惜しけくもあれはなし君に逢はずて年の経ぬれば

0617 葦辺より満ち来る潮のいや増しに思へか君が忘れかねつる


大神郎女おほみわのいらつめが大伴宿禰家持に贈れる歌一首

0618 さ夜中に友呼ぶ千鳥物ふと侘び居る時に鳴きつつもとな


大伴坂上郎女が怨恨うらみの歌一首、また短歌

0619 押し照る 難波の菅の ねもころに 君が聞こして

   年深く 長くし言へば 真澄鏡 ぎし心を

   ゆるしてし その日の極み 波のむた 靡く玉藻の

   かにかくに 心は持たず 大船の 頼める時に

   ちはやぶる 神やけけむ うつせみの 人かふらむ

   通はしし 君も来まさず 玉づさの 使も見えず

   なりぬれば いたもすべ無み ぬば玉の 夜はすがらに

   赤ら引く 日も暮るるまで 嘆けども しるしを無み

   思へども たつきを知らに 幼婦たわやめと 言はくもしる

   小童たわらはの 哭のみ泣きつつ 徘徊たもとほり 君が使を 待ちやかねてむ

反し歌

0620 初めより長く言ひつつ恃めずはかかる思ひに逢はましものか


西海道にしのうみつぢ節度使せどし判官まつりごとひと佐伯宿禰東人あづまひとの君に贈れる歌一首

0621 間無く恋ふれにかあらむ草枕旅なる君が夢にし見ゆる

佐伯宿禰東人が和ふる歌一首

0622 草枕旅に久しく成りぬればをこそ思へな恋ひそ我妹わぎも


池邊王いけべのおほきみの宴にうたひたまへる歌一首

0623 松の葉に月はゆつりぬ黄葉もみちばの過ぎしや君が逢はぬ夜多み


天皇すめらみこと酒人女王さかひとのおほきみしぬはしてみよみませる御製歌おほみうた一首

0624 道に逢ひて笑まししからに降る雪のなば消ぬがに恋ひふ我妹


高安王の、つつめる鮒を娘子に贈りたまへる歌一首

0625 沖辺ゆき辺にゆき今や妹がため我がすなどれる藻臥もふし束鮒つかふな


八代女王やしろのおほきみの天皇に献らせる歌一首

0626 君により言の繁きを故郷の明日香の川に禊ぎしにゆく


佐伯宿禰赤麻呂が娘子に贈れる歌一首

0630 初花の散るべきものを人言の繁きによりて澱む頃かも

娘子が佐伯宿禰赤麻呂に報贈こたふる歌一首

0627 我が手本たもとまかむとはむ大夫ますらを恋水なみだに沈み白髪生ひにけり

佐伯宿禰赤麻呂が和ふる歌一首

0628 白髪生ふることは思はじ恋水なみだをばかにもかくにも求めて行かむ


大伴四綱が宴席うたげの歌一首

0629 何すとか使の来たる君をこそかにもかくにも待ちてにすれ


湯原王の娘子に贈りたまへる歌二首

0631 愛想うはへなき物かも人はしかばかり遠き家路を帰せし思へば

0632 目には見て手には取らえぬ月内つきぬちかつらのごとき妹をいかにせむ

娘子が報贈こたふる歌二首

0633 いかばかり思ひけめかも敷細しきたへの枕片去る夢に見え来し

0634 家にして見れど飽かぬを草枕旅にもつまのあるがともしさ

湯原王のまたたまへる歌二首

0635 草枕旅には妻はたらめど櫛笥くしげの内の珠とこそ思へ

0636 我が衣形見にまつる敷細の枕らさず巻きてさ寝ませ

娘子がまた報贈ふる歌一首

0637 我が背子が形見の衣嬬問つまどひに我が身はけじ言問はずとも

湯原王のまた贈へる歌一首

0638 ただ一夜隔てしからに荒玉の月か経ぬると思ほゆるかも

娘子がまた報贈ふる歌一首

0639 我が背子がかく恋ふれこそぬば玉の夢に見えつつ寐ねらえずけれ

湯原王のまた贈へる歌一首

0640 しけやし間近き里を雲居にや恋ひつつ居らむ月も経なくに

娘子がまた報贈ふる和歌うた一首

0641 絶ゆと言はば侘しみせむと焼大刀やきたちへつかふことはからしや吾君わぎみ


湯原王の歌一首

0642 吾妹子わぎもこに恋ひて乱れば反転くるべきに懸けて寄さむとが恋ひそめし


紀郎女が怨恨うらみの歌三首

0643 世間よのなかにしあらばただ渡り痛背あなしの川を渡りかねめや

0644 今はは侘びそしにけるいきの緒に思ひし君をゆるさくへば

0645 白妙の袖別るべき日を近み心に咽び哭のみし泣かゆ


大伴宿禰駿河麻呂が歌一首

0646 丈夫の思ひ侘びつつ遍多たびまねく嘆く嘆きを負はぬものかも

大伴坂上郎女が歌一首

0647 心には忘るる日無く思へども人の言こそ繁き君にあれ

大伴宿禰駿河麻呂が歌一首

0648 相見ずて長くなりぬこの頃はいかにさきくや欝悒いふかし我妹

大伴坂上郎女が歌一首

0649 ふ葛の絶えぬ使の澱めれば事しもあるごと思ひつるかも

     右、坂上郎女ハ、佐保大納言卿ノ女ナリ。

     駿河麻呂ハ、此ノ高市大卿ノ孫ナリ。両卿

     ハ兄弟ノ家、女孫姑姪ノ族ナリ。是ヲ以テ

     歌ヲ題シ送リ答ヘ、起居ヲ相問フ。


大伴宿禰三依がわかれてまたへるを歓ぶ歌一首

0650 我妹子は常世の国に住みけらし昔見しより変若をちましにけり


大伴坂上郎女が歌二首

0651 久かたの天の露霜置きにけり家なる人も待ち恋ひぬらむ

0652 玉主たまもりに珠は授けて且々かつがつも枕と我はいざ二人寝む


大伴宿禰駿河麻呂が歌三首

0653 心には忘れぬものを偶々も見ぬ日さまねく月ぞ経にける

0654 相見ては月も経なくに恋ふと言はば虚言をそろあれを思ほさむかも

0655 思はぬを思ふと言はば天地の神も知らさむ邑礼左変

大伴坂上郎女が歌六首

0656 あれのみぞ君には恋ふる我が背子が恋ふとふことは言のなぐさぞ

0657 思はじと言ひてしものを唐棣はねず色の移ろひやすき我が心かも

0658 思へども験もなしと知るものを如何でここだくが恋ひ渡る

0659 予め人言繁しかくしあらばしゑや我が背子奥も如何にあらめ

0660 をとを人そくなるいで吾君わぎみ人の中言聞きこすなゆめ

0661 恋ひ恋ひて逢へる時だにうるはしき言尽してよ長しとはば


市原王の歌一首

0662 網児あごの山五百重いほへ隠せる佐堤さての崎小網さでへし子が夢にし見ゆる


安都宿禰年足あとのすくねとしたりが歌一首

0663 佐保渡り我家わぎへの上に鳴く鳥の声なつかしきしき妻の子


大伴宿禰像見かたみが歌一首

0664 石上いそのかみ降るとも雨につつまめや妹に逢はむと言ひてしものを


安倍朝臣蟲麻呂が歌一首

0665 向ひ居て見れども飽かぬ我妹子に立ち別れゆかむたづき知らずも

大伴坂上郎女が歌二首

0666 相見ずて幾許いくばく久もあらなくにここだくあれは恋ひつつもあるか

0667 恋ひ恋ひて逢ひたるものを月しあれば夜はこもるらむしましはあり待て

     右、大伴坂上郎女ガ母石川内命婦ト、安倍朝臣

     蟲滿ガ母安曇外命婦トハ、同居ノ姉妹、同気ノ

     ハラカラナリ。此ニ縁テ郎女ト蟲滿ト、相見ルコト

     踈カラズ、相談ラフコト既ニ密ナリ。聊カ戯歌

     ヲ作ミテ以テ問答ヲ為ス。


厚見王の歌一首

0668 朝に日に色づく山の白雲の思ひ過ぐべき君にあらなくに


春日王の歌一首

0669 足引の山橘の色に出でて語らば継ぎて逢ふこともあらむ


娘子が湯原王に贈れる歌一首

0670 月読つくよみの光に来ませ足引の山を隔てて遠からなくに

湯原王の和へたまへる歌一首

0671 月読の光は清く照らせれど惑へる心堪へじとぞ


安倍朝臣蟲麻呂が歌一首

0672 しづたまき数にもあらぬ我が身もち如何でここだくが恋ひ渡る


大伴坂上郎女が歌二首

0673 真澄鏡まそかがみぎし心をゆるしてば後に言ふとも験あらめやも

0674 真玉つく彼此をちこち兼ねて言ひは言へど逢ひて後こそ悔はありといへ


中臣女郎が大伴宿禰家持に贈れる歌五首

0675 をみなへし佐紀沢に生ふる花かつみ嘗ても知らぬ恋もするかも

0676 わたの底おきを深めて我がへる君には逢はむ年は経ぬとも

0677 春日山朝居る雲のおほほしく知らぬ人にも恋ふるものかも

0678 ただに逢ひて見てばのみこそ玉きはる命に向ふが恋やまめ

0679 いなと言はば強ひめや我が背菅の根の思ひ乱れて恋ひつつもあらむ


大伴宿禰家持が交遊ともと久しく別るる歌三首

0680 けだしくも人の中言聞かせかもここだく待てど君が来まさぬ

0681 中々に絶ゆとし言はばかくばかりいきの緒にしてが恋ひめやも

0682 思ふらむ人にあらなくにねもごろに心尽して恋ふる我かも


大伴坂上郎女が歌七首

0683 物言ひの畏き国ぞ紅の色にな出でそ思ひ死ぬとも

0684 今はは死なむよ我が背生けりとも我に依るべしと言ふと言はなくに

0685 人言を繁みや君を二鞘の家を隔てて恋ひつつ居らむ

0686 この頃は千歳や行きも過ぎにしと我やしかふ見まく欲りかも

0687 うるはしとふ心速川のせきくとも猶やえなむ

0688 青山を横ぎる雲のいちしろく我と笑まして人に知らゆな

0689 海山も隔たらなくに何しかも目言をだにもここだ乏しき


大伴宿禰三依が悲別わかれの歌一首

0690 照らす日を闇に見なして泣く涙衣濡らしつ干す人無しに


大伴宿禰家持が娘子に贈れる歌二首

0691 ももしきの大宮人は多けども心に乗りて思ほゆる妹

0692 愛想うはへ無き妹にもあるかもかく許り人の心を尽せるへば


大伴宿禰千室ちむろが歌一首

0693 かくのみに恋ひやわたらむ秋津野に棚引く雲の過ぐとはなしに


廣河女王の歌二首

0694 恋草を力車に七車積みて恋ふらく我が心から

0695 恋は今はあらじとあれは思へるをいづくの恋ぞつかみかかれる


石川朝臣廣成が歌一首

0696 家人に恋過ぎめやもかはづ鳴く泉の里に年の経ぬれば


大伴宿禰像見が歌三首

0697 が聞きに懸けてな言ひそ刈薦かりこもの乱れて思ふ君が直香ただか

0698 春日野に朝居る雲のしくしくには恋ひ増さる月に日に

0699 一瀬には千たびさやらひ逝く水の後にも逢はむ今ならずとも


大伴宿禰家持が娘子の門に到りてよめる歌一首

0700 かくしてや猶や罷らむ近からぬ道の間をなづみまゐ来て


河内百枝娘子かふちのももえをとめが大伴宿禰家持に贈れる歌二首

0701 はつはつに人を相見て如何にあらむいづれの日にかまたよそに見む

0702 ぬば玉のその夜の月夜今日までにあれは忘れず間無くしへば


巫部麻蘇娘子かむこべのまそをとめが歌二首

0703 我が背子を相見しその日今日までに我が衣手はる時もなし

0704 栲縄たくなはの長き命を欲しけくは絶えずて人を見まく欲りこそ


大伴宿禰家持が童女をとめに贈れる歌一首

0705 葉根蘰はねかづら今せす妹を夢に見て心の内に恋ひ渡るかも

童女が来報こたふる歌一首

0706 葉根蘰今せる妹は無きものをいづれの妹ぞここだ恋ひたる


粟田娘子あはたのをとめが大伴宿禰家持に贈れる歌二首

0707 思ひ遣るすべの知らねば片椀かたもひの底にぞあれは恋ひ成りにける

0708 またも逢はむよしもあらぬか白妙の我が衣手にいはひ留めむ


豊前国とよくにのみちのくちの娘子大宅女おほやけめが歌一首

0709 夕闇は道たづたづし月待ちてませ我が背子その間にも見む


安都扉娘子あとのとびらのをとめが歌一首

0710 み空行く月の光にただ一目相見し人の夢にし見ゆる


丹波大女娘子たにはのおほめをとめが歌三首

0711 鴨鳥の遊ぶこの池に木の葉散りて浮かべる心はなくに

0712 味酒うまさけを三輪のはふりいはふ杉手触りし罪か君に逢ひ難き

0713 垣穂なす人言聞きて我が背子が心たゆたひ逢はぬこの頃


大伴宿禰家持が娘子に贈れる歌七首

0714 心には思ひ渡れどよしをなみ外のみにして嘆きぞがする

0715 千鳥鳴く佐保の川門かはとの清き瀬を馬うち渡しいつか通はむ

0716 夜昼といふわき知らにが恋ふる心はけだし夢に見えきや

0717 つれもなくあるらむ人を片思かたもひあれは思へばめぐしくもあるか

0718 思はぬに妹が笑まひを夢に見て心の内に燃えつつぞ居る

0719 丈夫と思へるあれをかくばかりみつれにみつれ片思をせむ

0720 むら肝の心砕けてかくばかりが恋ふらくを知らずかあるらむ


天皇すめらみことに献れる歌一首

0721 足引の山にし居れば風流みさを無み我がせるわざを咎め給ふな


大伴宿禰家持が歌一首

0722 かくばかり恋ひつつあらずば石木いはきにも成らましものを物はずして


大伴坂上郎女が跡見とみたどころより、宅に留まれる女子むすめ大嬢おほいらつめに贈れる歌一首、また短歌

0723 常世にと が行かなくに 小金門をかなとに 物悲しらに

   思へりし 我が子の刀自を ぬば玉の 夜昼といはず

   思ふにし 我が身は痩せぬ 嘆くにし 袖さへ濡れぬ

   かくばかり もとなし恋ひば 古里に この月ごろも 有りかてましを

反し歌

0724 朝髪の思ひ乱れてかくばかり汝姉なねが恋ふれそ夢に見えける


天皇に献れる歌二首

0725 にほ鳥の潜く池水心あらば君にが恋ふる心示さね

0726 よそに居て恋ひつつあらずば君がの池に住むとふ鴨にあらましを


大伴宿禰家持が坂上の家の大嬢に贈れる歌二首 離リ絶エタルコト数年、復会ヒテ相聞往来ス。

0727 忘れ草が下紐に付けたれどしこの醜草言にしありけり

0728 人も無き国もあらぬか我妹子と携さひ行きてたぐひて居らむ


大伴坂上大嬢が大伴宿禰家持に贈れる歌三首

0729 玉ならば手にも巻かむをうつせみの世の人なれば手に巻き難し

0730 逢はむ夜はいつもあらむを何すとかその宵逢ひて言の繁きも

0731 が名はも千名ちな五百名いほなに立ちぬとも君が名立てば惜しみこそ泣け

また大伴宿禰家持が和ふる歌三首

0732 今しはし名の惜しけくもあれはなし妹によりてば千たび立つとも

0733 空蝉の世やもふたゆく何すとか妹に逢はずてが独り寝む

0734 が思ひかくてあらずば玉にもが真も妹が手に巻かれなむ

おやじ坂上大嬢が家持に贈れる歌一首

0735 春日山霞たな引き心ぐく照れる月夜に独りかも寝む

また家持が坂上大嬢に和ふる歌一首

0736 月夜には門に出で立ち夕占ゆふけ問ひ足占あうらをぞせし行かまくを

同じ大嬢が家持に贈れる歌二首

0737 かにかくに人は言ふとも若狭道の後瀬のちせの山の後も逢はむ君

0738 世の中の苦しきものにありけらく恋に堪へずて死ぬべきへば

また家持が坂上大嬢に和ふる歌二首

0739 後瀬山後も逢はむと思へこそ死ぬべきものを今日までも生けれ

0740 言のみを後も逢はむとねもころにあれを頼めて逢はぬ妹かも

また大伴宿禰家持が坂上大嬢に贈れる歌十五首とをあまりいつつ

0741 夢の逢ひは苦しかりけりおどろきて掻き探れども手にも触れねば

0742 一重のみ妹が結ばむ帯をすら三重結ぶべくが身はなりぬ

0743 が恋は千引ちびきいはを七ばかり首に懸けむも神のまにまに

0744 夕さらば屋戸開けけてあれ待たむ夢に相見に来むといふ人を

0745 朝宵に見む時さへや我妹子が見とも見ぬごとなほ恋しけむ

0746 生ける世にはいまだ見ず言絶えてかくおもしろく縫へる袋は

0747 我妹子が形見の衣下に着て直に逢ふまではあれ脱かめやも

0748 恋ひ死なむそこもおやじぞ何せむに人目人言辞痛こちたがせむ

0749 夢にだに見えばこそあれかくばかり見えずてあるは恋ひて死ねとか

0750 思ひ絶え侘びにしものを中々に如何で苦しく相見そめけむ

0751 相見ては幾日いくかも経ぬを幾許ここだくも狂ひに狂ひ思ほゆるかも

0752 かくばかり面影にのみ思ほえば如何にかもせむ人目繁くて

0753 相見てばしましく恋はなぎむかと思へどいよよ恋ひ増さりけり

0754 夜のほどろて来れば我妹子が思へりしくし面影に見ゆ

0755 夜のほどろ出でつつ来らく度多たびまねくなればが胸断ち焼くごとし


大伴の田村の家の大嬢が妹坂上大嬢に贈れる歌四首

0756 よそに居て恋ふれば苦し我妹子を継ぎて相見む事計ことはかりせよ

0757 遠からば侘びてもあらむ里近くありと聞きつつ見ぬがすべ無さ

0758 白雲の棚引く山の高々にふ妹を見むよしもがも

0759 如何にあらむ時にか妹を葎生むぐらふいやしき屋戸に入りいませなむ

     右、田村大嬢ト坂上大嬢ト、并ニ右大弁大伴

     宿奈麻呂卿ノ女ナリ。卿田村ノ里ニ居レバ、

     田村大嬢ト号曰ク。但シ妹坂上大嬢ハ、母坂

     上ノ里ニ居ル、仍テ坂上大嬢ト曰フ。時ニ姉

     妹、諮問トブラヒテ歌ヲ以テ贈答ス。


大伴坂上郎女が竹田のたどころより女子むすめの大嬢に贈れる歌二首

0760 打ち渡す竹田の原に鳴くたづの間なく時なしが恋ふらくは

0761 早川の瀬に居る鳥のよしを無み思ひてありしが子はも鳴呼あはれ


紀女郎が大伴宿禰家持に贈れる歌二首 女郎、名ヲ小鹿ヲシカト曰フ

0762 神さぶといなにはあらずはたやはたかくして後にさぶしけむかも

0763 玉の緒を沫緒あわをに搓りて結べれば在りて後にも逢はざらめやも

大伴宿禰家持が和ふる歌一首

0764 百年ももとせ老舌おいした出でてよよむともあれは厭はじ恋は増すとも


久迩くにみやこに在りて、寧樂のいへに留まれる坂上大嬢をしぬひて、大伴宿禰家持がよめる歌一首

0765 一重山へなれるものを月夜よみ門に出で立ち妹か待つらむ

藤原郎女がこの歌を聞き、即和こたふる歌一首

0766 路遠み来じとは知れるものからにしかぞ待つらむ君が目を欲り

大伴宿禰家持がまた大嬢に贈れる歌二首

0767 都路を遠みか妹がこの頃はうけひてれど夢に見え来ぬ

0768 今知らす久迩の都に妹に逢はず久しくなりぬ行きて早見な


大伴宿禰家持が紀女郎に報贈こたふる歌一首

0769 久かたの雨の降る日を唯独り山辺に居ればいふせかりけり


大伴宿禰家持が久迩の京より坂上大嬢に贈れる歌五首

0770 人目多み逢はなくのみそ心さへ妹を忘れてはなくに

0771 偽りも似つきてそするうつしくもまこと我妹子あれに恋ひめや

0772 夢にだに見えむとあれうけへども相はざればうべ見えざらむ

0773 言問はぬ木すらあじさゐ諸茅もろちらが練のむらとにあざむかえけり

0774 百千遍ももちたび恋ふと言ふとも諸茅らが練のことばあれは頼まじ


大伴宿禰家持が紀女郎に贈れる歌一首

0775 鶉鳴く古りにし里ゆ思へども何そも妹に逢ふよしも無き

紀女郎が家持に報贈ふる歌一首

0776 言出ことでしは誰が言なるか小山田の苗代水の中淀にして

大伴宿禰家持がまた紀女郎に贈れる歌五首

0777 我妹子が屋戸のまがきを見に行かばけだし門より帰しなむかも

0778 うつたへに籬の姿見まく欲り行かむと言へや君を見にこそ

0779 板葺いたふきの黒木の屋根は山近し明日の日取りて持ち参り来む

0780 黒木取り草も刈りつつ仕へめどいそしきわけと誉めむともあらじ

0781 ぬば玉の昨夜きそは帰しつ今宵さへあれを帰すな路の長手を


紀女郎が裹物つとを友に贈れる歌一首 女郎、名ヲ小鹿ト曰フ

0782 風高くには吹けれど妹がため袖さへ濡れて刈れる玉藻そ


大伴宿禰家持が娘子に贈れる歌三首

0783 一昨年の先つ年より今年まで恋ふれどなそも妹に逢ひ難き

0784 うつつには更にも得言はじ夢にだに妹が手本を巻きとし見ば

0785 我が屋戸の草の白く置く露の命も惜しからず妹に逢はざれば


大伴宿禰家持が藤原朝臣久須麻呂に報贈おくれる歌三首

0786 春の雨はいやしき降るに梅の花いまだ咲かなくいと若みかも

0787 夢のごと思ほゆるかもしきやし君が使の数多まねく通へば

0788 うら若み花咲き難き梅を植ゑて人の言しげみ思ひそがする

また家持が藤原朝臣久須麻呂に贈れる歌二首

0789 心ぐく思ほゆるかも春霞たな引く時に言の通へば

0790 春風の音にし出なば在りさりて今ならずとも君がまにまに

藤原朝臣久須麻呂が来報こたふる歌二首

0791 奥山の岩蔭に生ふる菅の根のねもごろ我も相はざれや

0792 春雨を待つとにしあらし我が屋戸の若木の梅もいまだふふめり