巻第三
雑歌
天皇の雷岳に御遊せる時、柿本朝臣人麻呂がよめる歌一首
0235 皇は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも
右、或ル本ニ云ク、忍壁皇子ニ献レリ。其ノ歌ニ曰ク、
王は神にしませば雲隠る雷山に宮敷き座す
天皇の志斐嫗に賜へる御歌一首
0236 いなと言へど強ふる志斐のが強語このごろ聞かずて朕恋ひにけり
志斐嫗が和へ奉れる歌一首
0237 いなと言へど語れ語れと詔らせこそ志斐いは奏せ強語と言る
長忌寸意吉麻呂が詔を応りてよめる歌一首
0238 大宮の内まで聞こゆ網引すと網子調ふる海人の呼び声
右一首。
長皇子の猟路野に遊猟したまへる時、柿本朝臣人麻呂がよめる歌一首、また短歌
0239 やすみしし 我が大王 高光る 我が日の皇子の
馬並めて 御狩立たせる 若薦を 猟路の小野に
獣こそは い匍ひ拝め 鶉こそ い匍ひ廻れ
獣じもの い匍ひ拝み 鶉なす い匍ひ廻り
畏みと 仕へまつりて 久かたの 天見るごとく
真澄鏡 仰ぎて見れど 春草の いやめづらしき 我が大王かも
反し歌一首
0240 ひさかたの天行く月を綱に刺し我が大王は蓋にせり
或ル本ノ反歌一首
0241 皇は神にしませば真木の立つ荒山中に海を成すかも
弓削皇子の吉野に遊せる時の御歌一首
0242 滝の上の三船の山にゐる雲の常にあらむと我が思はなくに
或ル本ノ歌一首
0244 み吉野の三船の山に立つ雲の常にあらむと我が思はなくに
右ノ一首ハ、柿本朝臣人麻呂ノ歌集ニ出デタリ。
春日王の和へ奉れる歌一首
0243 王は千歳に座さむ白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや
長田王の筑紫に遣はされ水島を渡りたまふ時の歌二首
0245 聞きし如まこと貴く奇しくも神さびますかこれの水島
0246 葦北の野坂の浦ゆ船出して水島に行かむ波立つなゆめ
石川大夫が和ふる歌一首
0247 沖つ波辺波立つとも我が背子が御船の泊波立ためやも
又長田王のよみたまへる歌一首
0248 隼人の薩摩の瀬戸を雲居なす遠くも吾は今日見つるかも
柿本朝臣人麻呂が覊旅の歌八首
0249 御津の崎波を恐み隠江の船寄せかねつ野島の崎に
0250 玉藻刈る敏馬を過ぎ夏草の野島の崎に舟近づきぬ
0251 淡路の野島の崎の浜風に妹が結べる紐吹き返す
0252 荒布の藤江の浦に鱸釣る海人とか見らむ旅行く吾を
0253 稲日野も行き過ぎかてに思へれば心恋しき加古の島見ゆ
0254 燭火の明石大門に入らむ日や榜ぎ別れなむ家のあたり見ず
0255 天ざかる夷の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ
0256 飼飯の海の庭よくあらし苅薦の乱れ出づ見ゆ海人の釣船
一本ニ云ク、
武庫の海の船にはあらし漁する海人の釣船波の上ゆ見ゆ
鴨君足人が香具山の歌一首、また短歌
0257 天降りつく 天の香具山 霞立つ 春に至れば
松風に 池波立ちて 桜花 木晩茂み
沖辺には 鴨妻呼ばひ 辺つ方に あぢ群騒き
ももしきの 大宮人の 退り出て 遊ぶ船には
楫棹も なくて寂しも 榜ぐ人なしに
反し歌二首
0258 人榜がず有らくも著し潜きする鴛鴦と沈鳧と船の上に棲む
0259 いつの間も神さびけるか香具山の桙杉の本に苔むすまでに
或ル本ノ歌ニ云ク
0260 天降りつく 神の香具山 打ち靡く 春さり来れば
桜花 木晩茂み 松風に 池波立ち
辺つ方は あぢ群騒き 沖辺は 鴨妻呼ばひ
ももしきの 大宮人の 退り出て 榜ぎにし船は
棹楫も なくて寂しも 榜がむと思へど
柿本朝臣人麻呂が新田部皇子に献れる歌一首、また短歌
0261 やすみしし 我が大王 高光る 日の皇子
敷き座す 大殿の上に 久方の 天伝ひ来る
雪じもの 往き通ひつつ いや重座せ
反し歌一首
0262 矢釣山木立も見えず降り乱る雪に騒きて参らくよしも
刑部垂麿が近江国より上来る時よめる歌一首
0263 吾が馬いたく打ちてな行きそ日並べて見ても我が行く志賀にあらなくに
柿本朝臣人麻呂が近江国より上来る時、宇治河の辺に至りてよめる歌一首
0264 物部の八十宇治川の網代木にいさよふ波の行方知らずも
長忌寸奥麻呂が歌一首
0265 苦しくも降り来る雨か神の崎狭野の渡りに家もあらなくに
柿本朝臣人麻呂が歌一首
0266 淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしぬに古思ほゆ
志貴皇子の御歌一首
0267 むささびは木末求むと足引の山の猟師に逢ひにけるかも
長屋王の故郷の歌一首
0268 我が背子が古家の里の明日香には千鳥鳴くなり君待ちかねて
阿倍女郎が屋部坂の歌一首
0269 忍ひなば我が袖もちて隠さむを焼けつつかあらむ着ずて坐しけり
高市連黒人が覊旅の歌八首
0270 旅にして物恋しきに山下の朱の赭土船沖に榜ぐ見ゆ
0271 作良田へ鶴鳴き渡る年魚市潟潮干にけらし鶴鳴き渡る
0272 四極山打ち越え見れば笠縫の島榜ぎ隠る棚無小舟
0273 磯の崎榜ぎ廻み行けば近江の海八十の水門に鶴さはに鳴く
0274 我が船は比良の湊に榜ぎ泊てむ沖へな離りさ夜更けにけり
0275 いづくに吾は宿らなむ高島の勝野の原にこの日暮れなば
0276 妹も我も一つなれかも三河なる二見の道ゆ別れかねつる
一本、黒人ガ妻ノ答フル歌ニ云ク、
三河なる二見の道ゆ別れなば我が背も吾も独りかも行かむ
0277 早来ても見てましものを山背の高槻の村散りにけるかも
石川女郎が歌一首
0278 志賀の海女は昆布苅り塩焼き暇無み髪梳の小櫛取りも見なくに
高市連黒人が歌二首
0279 我妹子に猪名野は見せつ名次山角の松原いつか示さむ
0280 いざ子ども大和へ早く白菅の真野の榛原手折りて行かむ
黒人が妻の答ふる歌一首
0281 白菅の真野の榛原往くさ来さ君こそ見らめ真野の榛原
春日蔵首老が歌一首
0282 つぬさはふ磐余も過ぎず泊瀬山いつかも越えむ夜は更けにつつ
高市連黒人が歌一首
0283 住吉の得名津に立ちて見渡せば武庫の泊ゆ出づる船人
春日蔵首老が歌一首
0284 焼津辺に吾が行きしかば駿河なる阿倍の市道に逢ひし子らはも
丹比真人笠麻呂が、紀伊国に往き、勢の山を超ゆる時よめる歌一首
0285 栲領巾の懸けまく欲しき妹の名をこの勢の山に懸けばいかにあらむ
春日蔵首老が即ち和ふる歌一首
0286 よろしなべ吾が背の君が負ひ来にしこの勢の山を妹とは呼ばじ
志賀に幸せる時、石上の卿のよみたまへる歌一首
0287 ここにして家やも何処白雲の棚引く山を越えて来にけり
穂積朝臣老が歌一首
0288 我が命のま幸くあらば亦も見む志賀の大津に寄する白波
間人宿禰大浦が初月の歌二首
0289 天の原振り放け見れば白真弓張りて懸けたり夜道は行かむ
0290 倉椅の山を高みか夜隠に出で来る月の光乏しき
小田事主が勢の山の歌一首
0291 真木の葉のしなふ勢の山偲はずて吾が越え行けば木の葉知りけむ
録兄麻呂が歌四首
0292 久方の天の探女が岩船の泊てし高津は浅せにけるかも
0293 潮干の御津の海女の藁袋持ち玉藻苅るらむいざ行きて見む
0294 風をいたみ沖つ白波高からし海人の釣船浜に帰りぬ
0295 住吉の岸の松原遠つ神我が王の幸行処
田口益人大夫が上野の国司に任けらるる時、駿河国浄見埼に至りてよめる歌二首
0296 廬原の清見が崎の三穂の浦のゆたけき見つつ物思ひもなし
0297 昼見れど飽かぬ田子の浦大王の命畏み夜見つるかも
辨基が歌一首
0298 真土山夕越え行きて廬前の角太川原に独りかも寝む
大納言大伴の卿の歌一首
0299 奥山の菅の葉凌ぎ降る雪の消なば惜しけむ雨な降りそね
長屋王の馬を寧樂山に駐めてよみたまへる歌二首
0300 佐保過ぎて寧樂の手向に置く幣は妹を目離れず相見しめとそ
0301 岩が根の凝重く山を越えかねて哭には泣くとも色に出でめやも
中納言安倍廣庭の卿の歌一首
0302 子らが家道やや間遠きをぬば玉の夜渡る月に競ひあへむかも
柿本朝臣人麻呂が筑紫国に下れる時、海路にてよめる歌二首
0303 名ぐはしき印南の海の沖つ波千重に隠りぬ大和島根は
0304 大王の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ
高市連黒人の近江の旧き都の歌一首
0305 かく故に見じと言ふものを楽浪の旧き都を見せつつもとな
伊勢国に幸せる時、安貴王のよみたまへる歌一首
0306 伊勢の海の沖つ白波花にもが包みて妹が家苞にせむ
博通法師が紀伊国に往きて三穂の石室を見てよめる歌三首
0307 はた薄久米の若子が座しけむ三穂の石室は荒れにけるかも
0308 常磐なす石室は今も在りけれど住みける人そ常なかりける
0309 石室戸に立てる松の樹汝を見れば昔の人を相見るごとし
門部王の東の市の樹を詠みたまへる作歌一首
0310 東の市の植木の木垂るまで逢はず久しみうべ恋ひにけり
按作村主益人が豊前国より京に上る時よめる歌一首
0311 梓弓引き豊国の鏡山見ず久ならば恋しけむかも
式部卿藤原宇合の卿に、難波の堵を改め造らしめたまへる時よめる歌一首
0312 昔こそ難波田舎と言はれけめ今は都と都びにけり
土理宣令が歌一首
0313 み吉野の滝の白波知らねども語りし継げば古思ほゆ
波多朝臣少足が歌一首
0314 小波礒越道なる能登瀬川音の清けさ激つ瀬ごとに
暮春之月、芳野の離宮に幸せる時、中納言大伴の卿の勅を奉りてよみたまへる歌一首、また短歌 奏上ヲ逕ザル歌
0315 み吉野の 吉野の宮は 山柄し 貴くあらし
川柄し 清けくあらし 天地と 長く久しく
万代に 変らずあらむ 行幸の宮
反し歌
0316 昔見し象の小川を今見ればいよよ清けく成りにけるかも
山部宿禰赤人が不盡山を望てよめる歌一首、また短歌
0317 天地の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き
駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放け見れば
渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見えず
白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける
語り継ぎ 言ひ継ぎゆかむ 不盡の高嶺は
反し歌
0318 田子の浦ゆ打ち出て見れば真白くそ不盡の高嶺に雪は降りける
不盡山を詠める歌一首、また短歌
0319 なまよみの 甲斐の国 打ち寄する 駿河の国と
此方此方の 国のみ中ゆ 出で立てる 不盡の高嶺は
天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 翔びも上らず
燃ゆる火を 雪もち滅ち 降る雪を 火もち消ちつつ
言ひもかね 名付けも知らに 霊しくも 座す神かも
石花海と 名付けてあるも その山の 堤める海ぞ
不盡川と 人の渡るも その山の 水の溢ちぞ
日の本の 大和の国の 鎮めとも 座す神かも
宝とも なれる山かも 駿河なる 不盡の高嶺は 見れど飽かぬかも
反し歌
0320 不盡の嶺に降り置ける雪は六月の十五日に消ぬればその夜降りけり
0321 富士の嶺を高み畏み天雲もい行きはばかり棚引くものを
右ノ一首ハ、高橋連蟲麻呂ノ歌集ノ中ニ出タリ。
類ヲ以テ此ニ載ス。
山部宿禰赤人が伊豫温泉に至きてよめる歌一首、また短歌
0322 皇神祖の 神の命の 敷き座す 国のことごと
湯はしも 多にあれども 島山の 宣しき国と
凝々しかも 伊豫の高嶺の 射狭庭の 岡に立たして
歌思ひ 辞思はしし み湯の上の 木群を見れば
臣木も 生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず
遠き代に 神さびゆかむ 行幸処
反し歌
0323 ももしきの大宮人の熟田津に船乗りしけむ年の知らなく
神岳に登りて山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌
0324 三諸の 神名備山に
五百枝さし 繁に生ひたる 栂の木の いや継ぎ嗣ぎに
玉葛 絶ゆることなく ありつつも 止まず通はむ
明日香の 旧き都は 山高み 川透白し
春の日は 山し見がほし 秋の夜は 川し清けし
朝雲に 鶴は乱れ 夕霧に かはづは騒ぐ
見るごとに 哭のみし泣かゆ 古思へば
反し歌
0325 明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに
門部王の難波に在して、漁父の燭光を見てよみたまへる歌一首
0326 見渡せば明石の浦に燭す火の穂にぞ出でぬる妹に恋ふらく
或る娘子等、乾鰒を包めるを、通觀僧に贈りて、戯れに咒願を請ふ時、通觀がよめる歌一首
0327 海の沖に持ち行きて放つとも如何ぞこれが蘇りなむ
太宰少弐小野老朝臣が歌一首
0328 青丹よし寧樂の都は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり
防人司佑大伴四綱が歌二首
0329 やすみしし我が王の敷き座せる国の中なる都し思ほゆ
0330 藤波の花は盛りに成りにけり平城の都を思ほすや君
帥大伴の卿の歌五首
0331 吾が盛りまた変若ちめやも殆に寧樂の都を見ずかなりなむ
0332 我が命も常にあらぬか昔見し象の小川を行きて見むため
0333 浅茅原つばらつばらに物思へば故りにし郷し思ほゆるかも
0334 萱草我が紐に付く香具山の古りにし里を忘れぬがため
0335 我が行は久にはあらじ夢の曲瀬とは成らずて淵にありこそ
沙弥満誓が綿を詠める歌一首
0336 しらぬひ筑紫の綿は身に付けて未だは着ねど暖けく見ゆ
山上臣憶良が宴より罷るときの歌一首
0337 憶良らは今は罷らむ子泣くらむ其も彼の母も吾を待つらむそ
太宰帥大伴の卿の酒を讃めたまふ歌十三首
0338 験なき物を思はずは一坏の濁れる酒を飲むべくあらし
0339 酒の名を聖と負ほせし古の大き聖の言の宣しさ
0340 古の七の賢しき人たちも欲りせし物は酒にしあらし
0341 賢しみと物言はむよは酒飲みて酔哭するし勝りたるらし
0342 言はむすべ為むすべ知らに極りて貴き物は酒にしあらし
0343 中々に人とあらずは酒壷に成りてしかも酒に染みなむ
0344 あな醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む
0345 価なき宝といふとも一坏の濁れる酒に豈勝らめや
0346 夜光る玉といふとも酒飲みて心を遣るに豈及かめやも
0347 世間の遊びの道に洽きは酔哭するにありぬべからし
0348 今代にし楽しくあらば来生には虫に鳥にも吾は成りなむ
0349 生まるれば遂にも死ぬるものにあれば今生なる間は楽しくを有らな
0350 黙然居りて賢しらするは酒飲みて酔泣するになほ及かずけり
沙弥満誓が歌一首
0351 世間を何に譬へむ朝開き榜ぎにし船の跡なきごとし
若湯座王の歌一首
0352 葦辺には鶴が哭鳴きて湊風寒く吹くらむ津乎の崎はも
釋通觀が歌一首
0353 み吉野の高城の山に白雲は行きはばかりて棚引けり見ゆ
日置少老が歌一首
0354 繩の浦に塩焼く煙夕されば行き過ぎかねて山に棚引く
生石村主真人が歌一首
0355 大汝少彦名の座しけむ志都の石室は幾代経ぬらむ
上古麻呂が歌一首
0356 今日もかも明日香の川の夕さらずかはづ鳴く瀬の清けかるらむ
山部宿禰赤人が歌六首
0357 繩の浦ゆ背向に見ゆる沖つ島榜ぎ廻む舟は釣しすらしも
0358 武庫の浦を榜ぎ廻む小舟粟島を背向に見つつ羨しき小舟
0359 阿倍の島鵜の住む磯に寄する波間なくこのごろ大和し思ほゆ
0360 潮干なば玉藻苅り籠め家の妹が浜苞乞はば何を示さむ
0361 秋風の寒き朝開を狭野の岡越ゆらむ君に衣貸さましを
0362 雎鳩居る磯廻に生ふる名乗藻の名は告らしてよ親は知るとも
或ル本ノ歌ニ曰ク
0363 雎鳩居る荒磯に生ふる名乗藻のよし名は告らせ親は知るとも
笠朝臣金村が鹽津山にてよめる歌二首
0364 大夫の弓末振り起こし射つる矢を後見む人は語り継ぐがね
0365 鹽津山打ち越え行けば我が乗れる馬ぞ躓く家恋ふらしも
角鹿津にて船に乗れる時、笠朝臣金村がよめる歌一首、また短歌
0366 越の海の 角鹿の浜ゆ 大舟に 真楫貫き下ろし
勇魚取り 海路に出でて 喘きつつ 我が榜ぎ行けば
大夫の 手結が浦に 海未通女 塩焼く炎
草枕 旅にしあれば 独りして 見る験無み
海神の 手に巻かしたる 玉たすき 懸けて偲ひつ 大和島根を
反し歌
0367 越の海の手結の浦を旅にして見れば羨しみ大和偲ひつ
石上大夫が歌一首
0368 大船に真楫繁貫き大王の命畏み磯廻するかも
和ふる歌一首
0369 物部の臣の壮士は大王の任の随に聞くといふものぞ
右、作者審カナラズ。但シ笠朝臣金村ノ歌集ノ中
ニ出デタリ。
安倍廣庭の卿の歌一首
0370 小雨降りとの曇る夜を濡れ湿づと恋ひつつ居りき君待ちがてり
出雲守門部王の京を思ひたまふ歌一首
0371 飫宇の海の河原の千鳥汝が鳴けば我が佐保川の思ほゆらくに
山部宿禰赤人が春日野に登りてよめる歌一首、また短歌
0372 春日を 春日の山の 高座の 御笠の山に
朝さらず 雲居たなびき 容鳥の 間なく屡鳴く
雲居なす 心いさよひ その鳥の 片恋のみに
昼はも 日のことごと 夜はも 夜のことごと
立ちて居て 思ひぞ吾がする 逢はぬ子故に
反し歌
0373 高座の三笠の山に鳴く鳥の止めば継がるる恋もするかも
石上乙麻呂朝臣の歌一首
0374 雨降らば着なむと思へる笠の山人にな着しめ濡れは漬づとも
湯原王の芳野にてよみたまへる歌一首
0375 吉野なる夏実の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山影にして
湯原王の宴の席の歌二首
0376 蜻蛉羽の袖振る妹を玉くしげ奥に思ふを見たまへ我君
0377 青山の嶺の白雲朝に日に常に見れどもめづらし我君
山部宿禰赤人が、贈太政大臣の藤原の家の山池を詠める歌一首
0378 昔看し旧き堤は年深み池の渚に水草生ひにけり
大伴坂上郎女が祭神の歌一首、また短歌
0379 久かたの 天の原より 生れ来し 神の命
奥山の 賢木の枝に 白紙付く 木綿取り付けて
斎瓮を 斎ひ掘り据ゑ 竹玉を 繁に貫き垂り
獣じもの 膝折り伏せ 手弱女の 襲取り懸け
かくだにも 吾は祈ひなむ 君に逢はぬかも
反し歌
0380 木綿畳手に取り持ちてかくだにも吾は祈ひなむ君に逢はぬかも
右ノ歌ハ、天平五年冬十一月ヲ以テ、大伴ノ氏ノ神
ニ供ヘ祭ル時、聊カ此歌ヲ作ル。故レ祭神歌ト曰フ。
筑紫娘子が行旅に贈れる歌一首 娘子、字ヲ兒島ト曰フ
0381 家思ふと心進むな風伺好くして行せ荒きその路
筑波岳に登りて、丹比真人国人がよめる歌一首、また短歌
0382 鶏が鳴く 東の国に 高山は 多にあれども
双神の 貴き山の 並み立ちの 見が欲し山と
神代より 人の言ひ継ぎ 国見する 筑波の山を
冬こもり 時じく時と 見ずて行かば まして恋しみ
雪消する 山道すらを なづみぞ吾が来し
反し歌
0383 筑波嶺を外のみ見つつありかねて雪消の道をなづみ来るかも
山部宿禰赤人が歌一首
0384 我が屋戸に韓藍蒔き生ほし枯れぬれど懲りずて亦も蒔かむとそ思ふ
仙柘枝の歌三首
0385 霰降り吉志美が岳を険しみと草取りかねて妹が手を取る
右ノ一首ハ、或ルヒト云ク、吉野ノ人味稲
ノ柘枝仙媛ニ与フル歌ナリ。
0386 この夕へ柘のさ枝の流れ来ば梁は打たずて取らずかもあらむ
右一首。
0387 古に梁打つ人の無かりせばここにもあらまし柘の枝はも
右ノ一首ハ、若宮年魚麻呂ガ作。
羇旅の歌一首、また短歌
0388 海神は 霊しきものか 淡路島 中に立て置きて
白波を 伊豫に回ほし 居待月 明石の門ゆは
夕されば 潮を満たしめ 明けされば 潮を干しむ
潮騒の 波を恐み 淡路島 磯隠り居て
いつしかも この夜の明けむ と侍ふに 眠の寝かてねば
滝の上の 浅野の雉 明けぬとし 立ち動むらし
いざ子ども あべて榜ぎ出む 庭も静けし
反し歌
0389 島伝ひ敏馬の崎を榜ぎ廻めば大和恋しく鶴多に鳴く
右ノ歌ハ、若宮年魚麻呂之ヲ誦メリ。但シ作者ヲ
審ラカニセズ。
譬喩歌
紀皇女の御歌一首
0390 輕の池の浦廻廻る鴨すらも玉藻の上に独り寝なくに
筑紫観世音寺造りの別当沙弥満誓が歌一首
0391 鳥総立て足柄山に船木伐り木に伐り去きつあたら船木を
太宰大監大伴宿禰百代が梅の歌一首
0392 ぬば玉のその夜の梅を手忘れて折らず来にけり思ひしものを
満誓沙弥が月の歌一首
0393 見えずとも誰恋ひざらめ山の端にいさよふ月を外に見てしか
金明軍が歌一首
0394 標結ひて我が定めてし住吉の浜の小松は後も我が松
笠郎女が大伴宿禰家持に贈れる歌三首
0395 託馬野に生ふる紫草衣染め未だ着ずして色に出でにけり
0396 陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆちふものを
0397 奥山の磐本菅を根深めて結びし心忘れかねつも
藤原朝臣八束が梅の歌二首
0398 妹が家に咲きたる梅の何時も何時も成りなむ時に事は定めむ
0399 妹が家に咲きたる花の梅の花実にし成りなばかもかくもせむ
大伴宿禰駿河麻呂が梅の歌一首
0400 梅の花咲きて散りぬと人は言へど我が標結ひし枝ならめやも
大伴坂上郎女が、親族と宴する日、吟へる歌一首
0401 山守のありける知らにその山に標結ひ立てて結の恥しつ
大伴宿禰駿河麻呂が即ち和ふる歌一首
0402 山守は蓋しありとも我妹子が結ひけむ標を人解かめやも
大伴宿禰家持が同じ坂上の家の大嬢に贈れる歌一首
0403 朝に日に見まく欲しけきその玉を如何にしてかも手ゆ離れざらむ
娘子が佐伯宿禰赤麿に報ふる贈歌一首
0404 ちはやぶる神の社し無かりせば春日の野辺に粟蒔かましを
佐伯宿禰赤麿がまた贈れる歌一首
0405 春日野に粟蒔けりせば鹿待ちに継ぎて行かましを社し有りとも
娘子がまた報ふる歌一首
0406 吾は祭る神にはあらず大夫に憑きたる神ぞよく祭るべき
大伴宿禰駿河麻呂が同じ坂上の家の二嬢を娉ふ歌一首
0407 春霞春日の里の殖小水葱苗なりと言ひし枝はさしにけむ
大伴宿禰家持が同じ坂上の家の大嬢に贈れる歌一首
0408 石竹がその花にもが朝旦手に取り持ちて恋ひぬ日なけむ
大伴宿禰駿河麻呂が同じ坂上の家の二嬢に贈れる歌一首
0409 一日には千重波敷きに思へどもなぞその玉の手に巻き難き
大伴坂上郎女が橘の歌一首
0410 橘を屋戸に植ゑ生ほせ立ちて居て後に悔ゆとも験あらめやも
大伴宿禰駿河麻呂が和ふる歌一首
0411 我妹子が屋戸の橘いと近く植ゑてし故に成らずは止まじ
市原王の歌一首
0412 頂に著統める玉は二つ無しかにもかくにも君がまにまに
某の歌二首
0436 人言の繁きこの頃玉ならば手に巻き持ちて恋ひざらましを
0437 妹も吾も清御の川の川岸の妹が悔ゆべき心は持たじ
大網公人主が宴に吟へる歌一首
0413 須磨の海人の塩焼衣の藤衣間遠くしあれば未だ着馴れず
大伴宿禰家持が歌一首
0414 足引の岩根こごしみ菅の根を引かば難みと標のみそ結ふ
挽歌
上宮聖徳皇子の竹原井に出遊せる時、龍田山に死れる人を見して悲傷みよみませる御歌一首
0415 家にあらば妹が手纏かむ草枕旅に臥やせるこの旅人あはれ
大津皇子の被死はえたまへる時、磐余の池の陂にて流涕みよみませる御歌一首
0416 つぬさはふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
右、藤原宮、朱鳥元年冬十月。
河内王を豊前国鏡山に葬れる時、手持女王のよみたまへる歌三首
0417 王の親魄あへや豊国の鏡の山を宮と定むる
0418 豊国の鏡の山の石戸闔て隠りにけらし待てど来まさぬ
0419 石戸破る手力もがも手弱き女にしあればすべの知らなく
石田王の卒せたまへる時、丹生王のよみたまへる歌一首、また短歌
0420 なゆ竹の 嫋寄る皇子 さ丹頬ふ 我が大王は
隠国の 初瀬の山に 神さびて 斎き坐すと
玉づさの 人ぞ言ひつる 妖言か 吾が聞きつる
狂言か 吾が聞きつるも 天地に 悔しきことの
世間の 悔しきことは 天雲の そくへの極み
天地の 至れるまでに 杖つきも つかずも行きて
夕占問ひ 石卜以ちて 我が屋戸に 御室を建てて
枕辺に 斎瓮を据ゑ 竹玉を 無間に貫き垂り
木綿たすき 肘に懸けて 天なる ささらの小野の
斎ひ菅 手に取り持ちて 久かたの 天の川原に
出で立ちて 禊ぎてましを 高山の 巌の上に 座せつるかも
反し歌
0421 逆言の狂言とかも高山の巌の上に君が臥やせる
0422 石上布留の山なる杉群の思ひ過ぐべき君にあらなくに
同じ〔石田王卒之〕時、山前王の哀傷みよみたまへる歌一首
0423 つぬさはふ 磐余の道を 朝さらず 行きけむ人の
思ひつつ 通ひけまくは 霍公鳥 来鳴く五月は
菖蒲 花橘を 玉に貫き 蘰にせむと
九月の しぐれの時は 黄葉を 折り挿頭さむと
延ふ葛の いや遠長く 万代に 絶えじと思ひて
通ひけむ 君を明日よは 外にかも見む
或ル本ノ反歌二首
0424 隠国の泊瀬娘子が手に巻ける玉は乱れてありと言はずやも
0425 川風の寒き長谷を嘆きつつ君が歩くに似る人も逢へや
柿本朝臣人麻呂が香具山にて屍を見て悲慟みよめる歌一首
0426 草枕旅の宿りに誰が夫か国忘れたる家待たなくに
田口廣麿が死れる時、刑部垂麻呂がよめる歌一首
0427 百足らず八十の隈坂に手向せば過ぎにし人にけだし逢はむかも
土形娘子を泊瀬山に火葬れる時、柿本朝臣人麻呂がよめる歌一首
0428 隠国の泊瀬の山の山際にいさよふ雲は妹にかもあらむ
溺れ死ねる出雲娘子を吉野に火葬れる時、柿本朝臣人麿がよめる歌二首
0429 山際ゆ出雲の子らは霧なれや吉野の山の嶺にたなびく
0430 八雲さす出雲の子らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ
勝鹿の真間娘子が墓を過れる時、山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌
0431 古に ありけむ人の 倭文幡の 帯解き交へて
臥屋建て 妻問しけむ 勝鹿の 真間の手兒名が
奥津城を こことは聞けど 真木の葉や 茂みたるらむ
松が根や 遠く久しき 言のみも 名のみも我は 忘らえなくに
反し歌
0432 我も見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手兒名が奥津城ところ
0433 勝鹿の真間の入江に打ち靡く玉藻苅りけむ手兒名し思ほゆ
和銅四年辛亥、三穂の浦を過ぐる時、姓名がよめる歌二首
0434 風早の美保の浦廻の白躑躅見れども寂し亡き人思へば
0435 みつみつし久米の若子がい触りけむ磯の草根の枯れまく惜しも
神亀五年戊辰、太宰帥大伴の卿の故人を思恋ひたまふ歌三首
0438 愛しき人の纏きてし敷布の吾が手枕を纏く人あらめや
右ノ一首ハ、別去テ数旬ヲ経テ作メル歌。
0439 帰るべき時は来にけり都にて誰が手本をか吾が枕かむ
0440 都なる荒れたる家に独り寝ば旅にまさりて苦しかるべし
右ノ二首ハ、京ニ向フ時ニ臨近キテ作メル歌。
〔神亀〕六年己巳、左大臣長屋王の死賜へる後、倉橋部女王のよみたまへる歌一首
0441 大皇の命畏み大殯の時にはあらねど雲隠り座す
膳部王を悲傷める歌一首
0442 世間は空しきものとあらむとぞこの照る月は満ち欠けしける
右ノ一首ハ、作者未詳。
天平元年己巳、攝津国の班田の史生丈部龍麻呂が自経死し時、判官大伴宿禰三中がよめる歌一首、また短歌
0443 天雲の 向伏す国の 武士と 言はえし人は
皇祖の 神の御門に 外重に 立ち侍ひ
内重に 仕へ奉り 玉葛 いや遠長く
祖の名も 継ぎ行くものと 母父に 妻に子どもに
語らひて 立ちにし日より 足根の 母の命は
斎瓮を 前に据ゑ置きて 一手には 木綿取り持ち
一手には 和細布奉り 平けく ま幸くませと
天地の 神に祈ひ祷み 如何にあらむ 年月日にか
躑躅花 にほへる君が にほ鳥の なづさひ来むと
立ちて居て 待ちけむ人は 王の 命畏み
押し照る 難波の国に あら玉の 年経るまでに
白布の 衣袖干さず 朝宵に ありつる君は
いかさまに 思ひませか うつせみの 惜しきこの世を
露霜の 置きて去にけむ 時ならずして
反し歌
0444 昨日こそ君は在りしか思はぬに浜松の上の雲に棚引く
0445 いつしかと待つらむ妹に玉づさの言だに告げず去にし君かも
〔天平〕二年庚午冬十二月太宰帥大伴の卿の京に向きて上道する時によみたまへる歌五首
0446 我妹子が見し鞆之浦の天木香樹は常世にあれど見し人ぞなき
0447 鞆之浦の磯の杜松見むごとに相見し妹は忘らえめやも
0448 磯の上に根延ふ室の木見し人をいかなりと問はば語り告げむか
右ノ三首ハ、鞆浦ヲ過ル日ニ作メル歌。
0449 妹と来し敏馬の崎を帰るさに独りし見れば涙ぐましも
0450 行くさには二人我が見しこの崎を独り過ぐれば心悲しも
右ノ二首ハ、敏馬埼ヲ過ル日ニ作メル歌。
故郷の家に還入りて即ちよみたまへる歌三首
0451 人もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり
0452 妹として二人作りし吾が山斎は木高く繁くなりにけるかも
0453 我妹子が植ゑし梅の木見るごとに心咽せつつ涙し流る
〔天平〕三年辛未秋七月、大納言大伴の卿の薨へる時の歌六首
0454 愛しきやし栄えし君のいましせば昨日も今日も吾を召さましを
0455 かくのみにありけるものを萩が花咲きてありやと問ひし君はも
0456 君に恋ひ甚もすべ無み葦鶴の哭のみし泣かゆ朝宵にして
0457 遠長く仕へむものと思へりし君し座さねば心神もなし
0458 若き子の匍ひ徘徊り朝夕に哭のみそ吾が泣く君なしにして
右の五首は、資人金明軍が犬馬の慕心に勝へず、
感緒を中べてよめる歌
0459 見れど飽かず座しし君がもみち葉の移りい去けば悲しくもあるか
右の一首は、内礼正縣犬養宿禰人上
に勅ちて、卿の病を検護せしむ。而して医薬
験無く、逝く水留まらず。これに因りて悲慟み
て即ち此歌をよめり。
七年乙亥、大伴坂上郎女が尼の理願の死去れるを悲嘆み、よめる歌一首、また短歌
0460 栲綱の 新羅の国ゆ 人言を 良しと聞かして
問ひ放くる 親族兄弟 無き国に 渡り来まして
大皇の 敷き座す国に うち日さす 都しみみに
里家は 多にあれども いかさまに 思ひけめかも
連れもなき 佐保の山辺に 泣く子なす 慕ひ来まして
敷布の 家をも造り あら玉の 年の緒長く
住まひつつ いまししものを 生まるれば 死ぬちふことに
免ろえぬ ものにしあれば 恃めりし 人のことごと
草枕 旅なる間に 佐保川を 朝川渡り
春日野を 背向に見つつ 足引の 山辺をさして
晩闇と 隠りましぬれ 言はむすべ 為むすべ知らに
徘徊り ただ独りして 白布の 衣袖干さず
嘆きつつ 吾が泣く涙 有間山 雲居棚引き 雨に降りきや
反し歌
0461 留めえぬ命にしあれば敷布の家ゆは出でて雲隠りにき
右、新羅ノ国ノ尼、名ヲ理願ト曰フ。遠ク王徳ヲ感
ジテ聖朝ニ帰化ス。時ニ大納言大将軍大伴卿ノ家ニ
寄住シ、既ニ数紀ヲ経タリ。惟ニ天平七年乙亥ヲ以
テ、忽ニ運病ニ沈ミテ、既ニ泉界ニ趣ク。是ニ大家
石川命婦、餌薬ノ事ニ依リテ有間温泉ニ往キテ、此
ノ喪ニ会ハズ。但郎女独リ留リテ屍柩ヲ葬送スルコ
ト既ニ訖リヌ。仍チ此ノ歌ヲ作ミテ温泉ニ贈入ル。
十一年己卯夏六月、大伴宿禰家持が亡れる妾を悲傷みよめる歌一首
0462 今よりは秋風寒く吹きなむを如何でか独り長き夜を寝む
弟大伴宿禰書持が即ち和ふる歌一首
0463 長き夜を独りや寝むと君が言へば過ぎにし人の思ほゆらくに
又家持が砌の上の瞿麦の花を見てよめる歌一首
0464 秋さらば見つつ偲へと妹が植ゑし屋戸の石竹咲きにけるかも
月移りて後、秋風を悲嘆みて家持がよめる歌一首
0465 うつせみの世は常なしと知るものを秋風寒く偲ひつるかも
又家持がよめる歌一首、また短歌
0466 我が屋戸に 花ぞ咲きたる そを見れど 心もゆかず
愛しきやし 妹がありせば 御鴨なす 二人並び居
手折りても 見せましものを うつせみの 借れる身なれば
露霜の 消ぬるがごとく 足引の 山道をさして
入日なす 隠りにしかば そこ思ふに 胸こそ痛め
言ひもかね 名づけも知らに 跡も無き 世間なれば 為むすべもなし
反し歌
0467 時はしもいつもあらむを心痛くい去く我妹か若き子置きて
0468 出で行かす道知らませば予め妹を留めむ塞も置かましを
0469 妹が見し屋戸に花咲く時は経ぬ吾が泣く涙いまだ干なくに
悲緒息まずてまたよめる歌五首
0470 かくのみにありけるものを妹も吾も千歳のごとく恃みたりけり
0471 家離りいます我妹を留みかね山隠りつれ心神もなし
0472 世間し常かくのみとかつ知れど痛き心は忍ひかねつも
0473 佐保山に棚引く霞見るごとに妹を思ひ出泣かぬ日はなし
0474 昔こそ外にも見しか我妹子が奥津城と思へば愛しき佐保山
十六年甲申春二月、安積皇子の薨へる時、内舎人大伴宿禰家持がよめる歌六首
0475 かけまくも あやに畏し 言はまくも ゆゆしきかも
我が王 御子の命 万代に 食したまはまし
大日本 久迩の都は 打ち靡く 春さりぬれば
山辺には 花咲きををり 川瀬には 鮎子さ走り
いや日異に 栄ゆる時に 逆言の 狂言とかも
白布に 舎人装ひて 和束山 御輿立たして
久かたの 天知らしぬれ 臥い転び 沾ち泣けども 為むすべもなし
反し歌
0476 我が王天知らさむと思はねば凡にぞ見ける和束杣山
0477 足引の山さへ光り咲く花の散りぬるごとき我が王かも
右ノ三首ハ、二月三日ニ作メル歌。
0478 かけまくも あやに畏し 我が王 皇子の命
物部の 八十伴男を 召し集へ 率ひたまひ
朝猟に 鹿猪踏み起こし 夕猟に 鶉雉踏み立て
大御馬の 口抑へとめ 御心を 見し明らめし
活道山 木立の繁に 咲く花も うつろひにけり
世間は かくのみならし 大夫の 心振り起こし
剣刀 腰に取り佩き 梓弓 靫取り負ひて
天地と いや遠長に 万代に かくしもがもと
恃めりし 皇子の御門の 五月蝿なす 騒く舎人は
白栲に 衣取り着て 常なりし 咲ひ振舞ひ
いや日異に 変らふ見れば 悲しきろかも
反し歌
0479 愛しきかも皇子の命のあり通ひ見しし活道の道は荒れにけり
0480 大伴の名に負ふ靫帯びて万代に憑みし心いづくか寄せむ
右ノ三首ハ、三月二十四日ニ作メル歌。
死せたる妻を悲傷み高橋朝臣がよめる歌一首、また短歌
0481 白布の 袖さし交へて 靡き寝し 我が黒髪の
ま白髪に 変らむ極み 新世に 共にあらむと
玉の緒の 絶えじい妹と 結びてし 言は果たさず
思へりし 心は遂げず 白布の 手本を別れ
和びにし 家ゆも出でて 緑児の 泣くをも置きて
朝霧の 髣髴になりつつ 山背の 相楽山の
山際ゆ 往き過ぎぬれば 言はむすべ 為むすべ知らに
我妹子と さ寝し妻屋に 朝庭に 出で立ち偲ひ
夕べには 入り居嘆かひ 脇はさむ 子の泣くごとに
男じもの 負ひみ抱きみ 朝鳥の 啼のみ泣きつつ
恋ふれども 験を無みと 言問はぬ ものにはあれど
我妹子が 入りにし山を 縁とぞ思ふ
反し歌
0482 うつせみの世のことなれば外に見し山をや今は縁と思はむ
0483 朝鳥の啼のみし泣かむ我妹子に今また更に逢ふよしを無み
右ノ三首ハ、七月廿日、高橋朝臣ガ作メル歌。