巻第十八
天平二十一年、春三月の二十三日、左大臣橘の家の使者造酒司の令史田邊史福麿を、守大伴宿禰家持が館に饗す。爰に新歌を作み、また古詠を誦ひて、各心緒を述ぶ
4032 奈呉の海に舟しまし貸せ沖に出でて波立ち来やと見て帰り来む
4033 波立てば奈呉の浦廻に寄る貝の間無き恋にそ年は経にける
4034 奈呉の海に潮の早干ばあさりしに出でむと鶴は今そ鳴くなる
4035 霍公鳥いとふ時なしあやめ草かづらにせむ日こゆ鳴き渡れ
右の四首は、田邊史福麿。
その時明日布勢の水海に遊覧ばむと期りき。かれ懐を述べて各作める歌
4036 いかにせる布勢の浦そもここだくに君が見せむと我を留むる
右の一首は、田邊史福麿。
4037 乎布の崎榜ぎ廻りひねもすに見とも飽くべき浦にあらなくに 一ニ云ク、君が問はすも
右の一首は、守大伴宿禰家持。
4038 玉くしげいつしか明けむ布勢の海の浦を行きつつ玉藻拾はむ
4039 音のみに聞きて目に見ぬ布勢の浦を見ずは上らじ年は経ぬとも
4040 布勢の浦を行きてし見てば百敷の大宮人に語り継ぎてむ
4041 梅の花咲き散る園に我ゆかむ君が使を偏待ちがてら
4042 藤波の咲きゆく見れば霍公鳥鳴くべき時に近づきにけり
右の五首は、田邊史福麿。
4043 明日の日の布勢の浦廻の藤波にけだし来鳴かず散らしてむかも 一ニ頭云ク、ほととぎす
右の一首は、大伴宿禰家持が和ふ。
前の件の十首歌は、二十四日の宴によめる。
二十五日、布勢の水海に往く道中、馬にのりながら口号める二首
4044 浜辺より我が打ち行かば海辺より迎へも来ぬか海人の釣船
4045 沖辺より満ち来る潮のいや益しに吾が思ふ君が御船かも彼
右の一首は、大伴宿禰家持。
水海に至りて遊覧ぶ時、各懐を述べて作める歌六首
4046 神さぶる垂姫の崎榜ぎめぐり見れども飽かずいかに我せむ
右の一首は、田邊史福麿。
4047 垂姫の浦を榜ぎつつ今日の日は楽しく遊べ言ひ継ぎにせむ
右の一首は、遊行女婦土師。
4048 垂姫の浦を榜ぐ舟楫間にも奈良の我家を忘れて思へや
右の一首は、大伴宿禰家持。
4049 疎かにそ我は思ひし乎布の浦の荒磯のめぐり見れど飽かずけり
右の一首は、田邊史福麿。
4050 めづらしき君が来まさば鳴けと言ひし山ほととぎす何か来鳴かぬ
右の一首は、掾久米朝臣廣繩。
4051 多古の崎木晩繁に霍公鳥来鳴き響まばはた恋ひめやも
右の一首は、大伴宿禰家持。
前の件の八首歌は、二十五日よめる。
掾久米朝臣廣繩が館にて、田邊史福麿を饗する宴の歌四首
4052 ほととぎす今鳴かずして明日越えむ山に鳴くとも験あらめやも
右の一首は、田邊史福麿。
4053 木晩になりぬるものを霍公鳥何か来鳴かぬ君に逢へる時
右の一首は、久米朝臣廣繩。
4054 霍公鳥こよ鳴き渡れ灯し火を月夜になそへその影も見む
4055 鹿蒜廻の道ゆかむ日は五幡の坂に袖振れ我をし思はば
右の二首は、大伴宿禰家持。
前の件の四首歌は、二十六日よめる。
太上皇 清足姫天皇なり 難波の宮に御在す時の歌七首
左大臣橘宿禰の歌一首
4056 堀江には玉敷かましを大王を御船漕がむとかねて知りせば
御製歌一首 和
4057 玉敷かず君が悔いて言ふ堀江には玉敷き満てて継ぎて通はむ 或ハ云ク、玉扱き敷きて
右の件の二首歌は、御船江より泝りて
遊宴する日、左大臣の奏す歌、また御製。
御製歌一首
4058 橘の殿の橘弥つ代にも吾は忘れじこの橘を
河内女王の歌一首
4059 橘の下照る庭に殿建てて酒漬きいます我が大王かも
粟田女王の歌一首
4060 月待ちて家には行かむ我が插せるあから橘影に見えつつ
右の件の三首歌は、左大臣橘の卿の宅に在
して、肆宴きこしめす御歌、また奏す歌。
4061 堀江より水脈引きしつつ御船さす賤男の伴は川の瀬申せ
4062 夏の夜は道たづたづし船に乗り川の瀬ごとに棹さし上れ
右の件の二首歌は、御船綱手を以て江より泝り遊宴
せる日作めり。伝へ誦む人は、田邊史福麿なり。
後に追ひて和ふる橘の歌二首
4063 常世物この橘のいや照りにわご大王は今も見るごと
4064 大王は常磐にまさむ橘の殿の橘ひた照りにして
右の二首は、大伴宿禰家持がよめる。
射水郡の駅館の屋柱に題き著くる歌一首
4065 朝開き入江榜ぐなる楫の音のつばらつばらに我家し思ほゆ
右の一首は、山上臣がよめる。名はしらず。或ひと云く、
憶良の大夫の男といへり。但其の正名さだかならず。
庭中の牛麦の花を詠める歌一首
4070 ひともとの撫子植ゑしその心誰に見せむと思ひ始めけむ
右、先の国師の従僧清見、京師に入らむとす。
因飲饌を設けて饗宴す。時に主人大伴宿禰家持、
此の歌詞を作みて、酒を清見に送れりき。
また作める歌二首
4071 しなざかる越の君のとかくしこそ柳かづらき楽しく遊ばめ
右、郡司より下、子弟より上、諸人此の
会にあり。因守大伴宿禰家持、此の歌を作める。
4072 ぬば玉の夜渡る月を幾夜経と数みつつ妹は我待つらむそ
右、此の夕、月の光遅く流れて、和やかなる風稍たちぬ。
即ち目に属るるに因りて、聊か此の歌を作めり。
越前国の掾大伴宿禰池主が来贈れる歌三首
今月十四日を以ちて、深見の村に到来り、彼の北方を望拝す。常に芳徳を思ふこと、何れの日か能く休まむ。兼隣近に以て、忽ちに恋緒を増す。加以、先の書に云はく、「暮春惜しむべし、膝を促くることいつとかせむ」と。生別の悲しみ、それ復た何をか言はむ。紙に臨ひて悽断す。奏状不備。
一 古人の云へらく
4073 月見れば同じ国なり山こそは君があたりを隔てたりけれ
一 物に属きて思ひを発ぶ
4074 桜花今そ盛りと人は言へど吾は寂しも君としあらねば
一 所心歌
4075 相思はずあるらむ君をあやしくも嘆きわたるか人の問ふまで
三月の十五日、大伴宿禰池主。
越中国の守大伴宿禰家持が報贈ふる歌四首
一 古人の云に答ふ
4076 あしひきの山は無くもが月見れば同じき里を心隔てつ
一 物に属きて思ひを発ぶに答へ、兼遷し任さして旧りにし宅の西北の隅の桜の樹を詠める
4077 我が背子が古き垣内の桜花いまだ含めり一目見に来ね
一 所心に答ふ。即ち古人之跡を今日の意に代へたり
4078 恋ふと言ふはえも名付けたり言ふすべのたづきも無きは吾が身なりけり
一 また物に属きてよめる
4079 三島野に霞たなびきしかすがに昨日も今日も雪は降りつつ
三月の十六日、大伴宿禰家持。
四月の一日、掾久米朝臣廣繩が館にて宴せる歌四首
4066 卯の花の咲く月立ちぬ霍公鳥来鳴き響めよ含みたりとも
右の一首は、守大伴宿禰家持がよめる。
4067 二上の山にこもれる霍公鳥今も鳴かぬか君に聞かせむ
右の一首は、遊行女婦土師がよめる。
4068 居り明かし今宵は飲まむ霍公鳥明けむ朝は鳴き渡らむそ
二日ハ立夏ノ節ニ応ル。故明旦ハ喧カムト謂ヘリ。
右の一首は、守大伴宿禰家持がよめる。
4069 明日よりは継ぎて聞こえむ霍公鳥一夜の故に恋ひ渡るかも
右の一首は、羽咋郡の擬主帳能登臣乙美がよめる。
姑大伴氏坂上郎女が、越中守大伴宿禰家持に来贈れる歌二首
4080 常人の恋ふといふよりは余りにて我は死ぬべく成りにたらずや
4081 片思ひを馬に太馬に負ほせ持て越辺に遣らば人詐はむかも
越中守大伴宿禰家持が報ふる歌二首
4082 天ざかる夷の奴に天人しかく恋せれば生ける験あり
4083 常の恋いまだやまぬに都より馬に恋来ば担ひ堪へむかも
別に心をのぶ一首
4084 暁に名のり鳴くなる霍公鳥いやめづらしく思ほゆるかも
右、四日、使に附けて京師に贈上る。
天平感宝元年五月の五日、東大寺の占墾地使の僧平榮等を饗する時、守大伴宿禰家持が、酒を僧に送れる歌一首
4085 焼大刀を礪波の関に明日よりは守部遣り添へ君をとどめむ
同じ月の九日、諸僚少目秦伊美吉石竹の館に会ひて飲宴す。その時主人、百合の花縵三枚を造りて、豆器に畳ね置き、賓客に捧贈ぐ。各此の縵をよめる歌三首
4086 燈火の光に見ゆる我が縵早百合の花の笑まはしきかも
右の一首は、守大伴宿禰家持。
4087 灯し火の光に見ゆる早百合花ゆりも逢はむと思ひそめてき
右の一首は、介内藏伊美吉繩麿。
4088 早百合花ゆりも逢はむと思へこそ今のまさかも睦はしみすれ
右の一首は、大伴家持 和。
短歌 [ママ]
独り幄の裏に居て、霍公鳥の喧を聞きてよめる歌一首、また短歌
4089 高御座 天の日継と すめろきの 神の命の
聞こし食す 国のまほらに 山をしも さはに多みと
百鳥の 来居て鳴く声 春されば 聞きのかなしも
いづれをか 別きて偲はむ 卯の花の 咲く月立てば
めづらしく 鳴く霍公鳥 あやめぐさ 玉貫くまでに
昼暮らし 夜わたし聞けど 聞くごとに 心うごきて
打ち嘆き あはれの鳥と 言はぬ時なし
反し歌
4090 行方なくありわたるとも霍公鳥鳴きし渡らばかくや偲はむ
4091 卯の花の咲くにし鳴けば霍公鳥いやめづらしも名のり鳴くなべ
4092 霍公鳥いと妬けくは橘の花散る時に来鳴き響むる
右の四首は、十日、大伴宿禰家持がよめる。
英遠浦に行くとき、よめる歌一首
4093 阿尾の浦に寄する白波いや益しに立ちしき寄せ来東風をいたみかも
右の一首は、大伴宿禰家持がよめる。
陸奥国より金を出だせる詔書を賀く歌一首、また短歌
4094 葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らしめしける
すめろきの 神の命の 御代重ね 天の日継と
知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には
山河を 広み厚みと たてまつる 御調宝は
数へ得ず 尽くしもかねつ 然れども 我が大王の
諸人を 誘ひ賜ひ 善きことを 始め賜ひて
金かも たのしけくあらむ と思ほして 下悩ますに
鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に
金ありと 奏し賜へれ 御心を 明らめ賜ひ
天地の 神相うづなひ 皇御祖の 御霊助けて
遠き代に かかりしことを 朕が御代に 顕はしてあれば
食す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして
もののふの 八十伴の雄を まつろへの むけのまにまに
老人も 女童児も しが願ふ 心足らひに
撫で賜ひ 治め賜へば ここをしも あやに貴み
嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖の
その名をば 大来目主と 負ひ持ちて 仕へし職
海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍
大王の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと異立て
大夫の 清きその名を 古よ 今の現に
流さへる 祖の子どもそ 大伴と 佐伯の氏は
人の祖の 立つる異立て 人の子は 祖の名絶たず
大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の官そ
梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き
朝守り 夕の守りに 大王の 御門の守り
我をおきて また人はあらじ といや立て 思ひし増さる
大王の 御言の幸の 聞けば貴み
反し歌三首
4095 大夫の心思ほゆ大王の御言の幸の聞けば貴み
4096 大伴の遠つ神祖の奥つ城は著く標立て人の知るべく
4097 すめろきの御代栄えむと東なる陸奥山に金花咲く
天平感宝元年五月の十二日、越中国の守の館にて、
大伴宿禰家持がよめる。
芳野の離宮に幸行さむ時の為、儲めよめる歌一首、また短歌
4098 高御座 天の日継と 天の下 知らしめしける
すめろきの 神の命の 畏くも 始め賜ひて
貴くも 定め賜へる み吉野の この大宮に
あり通ひ 見したまふらし もののふの 八十伴の男も
おのが負へる おのが名名負ひ 大王の 任のまにまに
この川の 絶ゆることなく この山の いや継ぎ継ぎに
かくしこそ 仕へまつらめ いや遠長に
反し歌
4099 古を思ほすらしも我ご大王吉野の宮をあり通ひ見す
4100 もののふの八十氏人も吉野川絶ゆることなく仕へつつ見む
京の家に贈らむが為、真珠を願する歌一首、また短歌
4101 珠洲の海人の 沖つ御神に い渡りて 潜き取るといふ
鮑玉 五百箇もがも 愛しきよし 妻の命の
衣手の 別れし時よ ぬば玉の 夜床片さり
朝寝髪 掻きも梳らず 出でて来し 月日数みつつ
嘆くらむ 心なぐさに 霍公鳥 来鳴く五月の
あやめ草 花橘に 貫き交へ 縵にせよと
包みて遣らむ
反し歌四首
4102 白玉を包みて遣らなあやめ草花橘にあへも貫くがね
4103 沖つ島い行き渡りて潜くちふ鰒玉もが包みて遣らむ
4104 我妹子が心なぐさに遣らむため沖つ島なる白玉もがも
4105 白玉の五百つ集ひを手にむすび遣せむ海人は喜しくもあるか
右、五月の十四日、大伴宿禰家持が興に依けてよめる。
史生尾張少咋を教喩す歌一首、また短歌
七出の例に云はく、
但一条を犯せらば、即ち出るべし。七出無くて輙ち棄らば、徒一年半。
三不去の例に云はく、
七出を犯すとも、棄るべからず。違へらば、杖一百。唯奸悪疾を犯せれば棄れ。
両妻の例に云はく、
妻有りて更に娶らば徒一年。女家は杖一百にして離て。
詔書に云はく、
義夫節婦を愍み賜ふ。
先の件の数条を謹み案ふるに、建法の基、化道の源なり。然れば則ち義夫の道、情存して別無く、一家財を同じくす。豈旧きを忘れ新しきを愛しむる志あるべしや。所以数行の歌を綴作み、旧きを棄る惑を悔いしむ。その詞に曰く、
4106 大汝 少彦名の 神代より 言ひ継ぎけらく
父母を 見れば貴く 妻子見れば 愛しくめぐし
うつせみの 世のことわりと かくさまに 言ひけるものを
世の人の 立つる異立て ちさの花 咲ける盛りに
愛しきよし その妻の子と 朝宵に 笑みみ笑まずも
打ち嘆き 語りけまくは とこしへに かくしもあらめや
天地の 神言寄せて 春花の 盛りもあらむと
待たしけむ 時の盛りを 離り居て 嘆かす妹が
いつしかも 使の来むと 待たすらむ 心寂しく
南風吹き 雪消溢りて 射水川 浮ぶ水沫の
寄る辺無み 左夫流その子に 紐の緒の いつがり合ひて
にほ鳥の 二人並び居 奈呉の海の 奥を深めて
惑はせる 君が心の すべもすべなさ 佐夫流ト言フハ、遊行女婦ガ字ナリ
反し歌三首
4107 青丹よし奈良にある妹が高々に待つらむ心しかにはあらじか
4108 里人の見る目恥づかし左夫流子に惑はす君が宮出後風
4109 紅はうつろふものそ橡のなれにし衣になほしかめやも
右、五月の十五日、守大伴宿禰家持がよめる。
先の妻、夫の君の喚す使を待たず、自ら来たる時よめる歌一首
4110 左夫流子がいつぎし殿に鈴懸けぬ駅馬下れり里もとどろに
同じ月の十七日、大伴宿禰家持がよめる。
橘の歌一首、また短歌
4111 かけまくも あやに畏し 皇祖神の 神の大御代に
田道間守 常世に渡り 八矛持ち 参ゐ出来しとふ
時じくの 香久の木の実を 畏くも 残し賜へれ
国も狭に 生ひ立ち栄え 春されば 孫枝萌いつつ
霍公鳥 鳴く五月には 初花を 枝に手折りて
をとめらに 苞にも遣りみ 白妙の 袖にも扱入れ
香ぐはしみ 置きて枯らしみ 熟ゆる実は 玉に貫きつつ
手に巻きて 見れども飽かず 秋づけば しぐれの雨降り
あしひきの 山の木末は 紅に にほひ散れども
橘の なれるその実は ひた照りに いや見が欲しく
み雪降る 冬に至れば 霜置けども その葉も枯れず
常磐なす いや栄えに しかれこそ 神の御代より
よろしなべ この橘を 時じくの 香久の木の実と 名付けけらしも
反し歌一首
4112 橘は花にも実にも見つれどもいや時じくに猶し見が欲し
閏五月の二十三日、大伴宿禰家持がよめる。
庭中の花を詠てよめる歌一首、また短歌
4113 おほきみの 遠の朝廷と 任きたまふ 官のまにま
み雪降る 越に下り来 あら玉の 年の五年
敷妙の 手枕まかず 紐解かず 丸寝をすれば
いふせみと 心なぐさに 撫子を 屋戸に蒔き生ほし
夏の野の 早百合引き植ゑて 咲く花を 出で見るごとに
撫子が その花妻に 早百合花 ゆりも逢はむと
慰むる 心し無くば 天ざかる 夷に一日も あるべくもあれや
反し歌二首
4114 撫子が花見る毎にをとめらが笑まひのにほひ思ほゆるかも
4115 早百合花ゆりも逢はむと下延ふる心し無くば今日も経めやも
同じ〔閏五〕月の二十六日、大伴宿禰家持がよめる。
国の掾久米朝臣廣繩、天平二十年に、朝集使に附きて京に入り、その事畢りて、天平感宝元年閏五月の二十七日、本の任に還到る。仍長官の館に詩酒宴楽飲べり。その時主人守大伴宿禰家持がよめる歌一首、また短歌
4116 おほきみの 任きのまにまに 取り持ちて 仕ふる国の
年の内の 事結ね持ち 玉ほこの 道に出で立ち
岩根踏み 山越え野行き 都辺に 参ゐし我が兄を
あら玉の 年ゆき返り 月重ね 見ぬ日さまねみ
恋ふるそら 安くしあらねば 霍公鳥 来鳴く五月の
あやめ草 蓬かづらき 酒漬き 遊びなぐれど
射水川 雪消溢りて 行く水の いや益しにのみ
鶴が鳴く 奈呉江の菅の ねもころに 思ひ結ほれ
嘆きつつ 吾が待つ君が 事終り 帰り罷りて
夏の野の 早百合の花の 花笑みに にふぶに笑みて
逢はしたる 今日を始めて 鏡なす かくし常見む 面変りせず
反し歌二首
4117 去年の秋相見しまにま今日見れば面やめづらし都方人
4118 かくしても相見るものを少なくも年月経れば恋ひしけめやも
霍公鳥の喧を聞きてよめる歌一首
4119 古よ偲ひにければ霍公鳥鳴く声聞きて恋しきものを
京に向でむ時、貴人を見、美人に逢ひて飲宴せむ日、懐を述べむ為、儲めよめる歌二首
4120 見まく欲り思ひしなべに縵掛け香ぐはし君を相見つるかも
4121 朝参の君が姿を見ず久に夷にし住めば吾恋ひにけり 一ニ云ク、愛しきよし妹が姿を
同じ〔閏五〕月の二十八日、大伴宿禰家持がよめる。
天平感宝元年閏五月の六日より小旱して、百姓のうゑし田畝稍凋める色あり。六月の朔日に至りて、忽ちに雨雲之気を見、仍て作める歌一首 短歌一絶
4122 すめろきの 敷きます国の 天の下 四方の道には
馬の爪 い尽くす極み 船の舳の い泊つるまでに
古よ 今の現に 万調 奉る長上と
作りたる その農業を 雨降らず 日の重なれば
植ゑし田も 蒔きし畑も 朝ごとに 凋み枯れゆく
そを見れば 心を痛み 緑子の 乳乞ふがごとく
天つ水 仰ぎてそ待つ あしひきの 山のたをりに
この見ゆる 天の白雲 海神の 奥津宮辺に
立ちわたり との曇りあひて 雨も賜はね
反し歌一首
4123 この見ゆる雲ほびこりてとの曇り雨も降らぬか心足らひに
右の二首は、六月の一日の晩頭、守大伴宿禰家持がよめる。
雨落を賀ぶ歌一首
4124 我が欲りし雨は降り来ぬかくしあらば言挙げせずとも年は栄えむ
右の一首は、同じ月の四日、大伴宿禰家持がよめる。
七夕の歌一首、また短歌
4125 天照らす 神の御代より 安の川 中に隔てて
向ひ立ち 袖振り交はし 息の緒に 嘆かす子ら
渡り守 舟も設けず 橋だにも 渡してあらば
その上ゆも い行き渡らし 携はり 項がけり居て
思ほしき ことも語らひ 慰むる 心はあらむを
何しかも 秋にしあらねば 言問ひの 乏しき子ら
うつせみの 世の人我も ここをしも あやに奇しみ
往き更る 年のはごとに 天の原 振り放け見つつ
言ひ継ぎにすれ
反し歌二首
4126 天の川橋渡せらばその上ゆもい渡らさむを秋にあらずとも
4127 安の川い向ひ立ちて年の恋日長き子らが妻問の夜そ
右、七月の七日、天漢を仰見て、
大伴宿禰家持がよめる。
越前国の掾大伴宿禰池主が来贈れる戯歌四首
忽ちに恩賜を辱くす。驚き欣ぶこと已に深し。心の中に咲を含み、独り座りて稍開けば、表裏同じからず。相違何ぞ異れる。所由を推し量るに、率爾に策を作す歟。明かに言の如きことを知りぬ。豈に他の意有らめや。凡そ本物を貿易する、其の罪軽からず。正贓倍贓、急けく并満すべし。今風雲に勒して、徴使を発遣る。早速返報したまへ。延回したまふべからず。
勝宝元年十一月十二日。物貿易せらる下吏、謹みて
貿易の人断る庁官司の 庁の下に訴ふ。
別に白す、可怜の意、黙止り能ず。聊か四詠を述みて、唯睡覚に擬す。
4128 草枕旅の翁と思ほして針そ賜へる縫はむ物もが
4129 針袋取り上げ前に置き返さへばおのともおのや裏も継ぎたり
4130 針袋帯び続けながら里ごとに照らさひ歩けど人もとがめず
4131 鶏が鳴く東をさして誇へしに行かむと思へどよしもさねなし
右の歌の返報歌は、脱漏れて探求め得ず。
更に来贈れる歌二首
駅使を迎ふる事に依りて、今月十五日、部下加賀の郡の境に到来る。面蔭射水の郷に見はれ、恋緒深海の村に結ふ。身胡馬にあらねど、心北風を悲しめり。月に乗りて徘徊り、曽て為す所無く、稍来封を開く。その辞に云く、「著者先に奉る書、返りて疑ひに度れることを畏る歟」とのりたまへり。僕嘱羅を作し、且使君を悩ます。夫れ水を乞ひて酒を得、従来能き口なり。論じて時理に合へり。何か強吏と題さめや。尋ねて針袋の詠を誦むに、詞泉酌めども渇きず。膝を抱き独り咲ふ。能く旅愁をのぞき、陶然として日を遣る。何か慮らむ、何か思はむ。短筆不宣。
勝宝元年十二月十五日。物を徴りし下司、謹みて
伏せぬ使君 記室に上る。
別に奉る云々歌二首
4132 竪さにもかにも横さも奴とそ吾はありける主の殿戸に
4133 針袋これは賜りぬすり袋今は得てしか翁さびせむ
宴席、雪、月、梅の花を詠める歌一首
4134 雪の上に照れる月夜に梅の花折りて送らむ愛しき子もがも
右の一首は、十二月、大伴宿禰家持がよめる。
4135 我が背子が琴取るなべに常人の言ふ嘆きしもいやしき増すも
右の一首は、少目秦伊美吉石竹が館の宴に、
守大伴宿禰家持がよめる。
天平勝宝二年正月の二日、国庁にて諸の郡司等を給饗せる宴歌一首
4136 あしひきの山の木末のほよ取りて挿頭しつらくは千年寿くとそ
右の一首は、守大伴宿禰家持がよめる。
判官久米朝臣廣繩が館の宴の歌一首
4137 正月立つ春の初めにかくしつつ相し笑みてば時じけめやも
同じ月の五日、守大伴宿禰家持がよめる。
墾田の地を検察むる事に縁りて、礪波の郡の主帳多治比部北里が家に宿れる時、忽ちに風雨起こり、え辞去らずてよめる歌一首
4138 荊波の里に宿借り春雨に籠りつつむと妹に告げつや
二月の十八日、守大伴宿禰家持がよめる。