万葉集 (鹿持雅澄訓訂)/巻第十七

巻第十七とをまりななまきにあたるまき


天平てむひやう二年ふたとせといふとし庚午かのえうま冬十一月しもつき太宰帥おほみこともちのかみ大伴のまへつきみの、大納言おほきものまをすつかささされ 帥を兼ねたまふこと旧の如し、みやこに上りたまふ時、陪従人ともひとら、海路うみつぢに別れて京にむかへり。是に羇旅たび悲傷かなしみ、おのもおのも所心おもひを陳べてよめる歌十首とを

3890 我が背子をが松原よ見渡せば海人娘子あまをとめども玉藻刈る見ゆ

     右の一首ひとうたは、三野連石守みぬのむらじいそもりがよめる。

3891 荒津の海潮干潮満ち時はあれどいづれの時かが恋ひざらむ

3892 磯ごとに海人の釣舟泊てにけり我が船泊てむ磯の知らなく

3893 昨日こそ船出はせしか鯨魚いさな取り比治奇ひぢきの灘を今日見つるかも

3894 淡路島渡る船の楫間にもあれは忘れず家をしそ思ふ

3895 玉はやす武庫の渡りに天伝ふ日の暮れ行けば家をしそ思ふ

3896 家にてもたゆたふ命波の上に浮きてし居れば奥処おくか知らずも

3897 大海の奥処も知らず行く我をいつ来まさむと問ひし子らはも

3898 大船の上にしれば天雲のたどきも知らずうたがた我が背

3899 海人娘子いざり焚く火のおほほしくつぬの松原思ほゆるかも

     右の九首ここのうたは、作者よみびと不審姓名しらず


十年ととせといふとし七月ふみつき七日なぬかの夜、独り天漢あまのがはおもひを述ぶる歌一首

3900 織女たなばたふな乗りすらし真澄鏡まそかがみ清き月夜つくよに雲立ち渡る

     右の一首ひとうたは、大伴宿禰家持がよめる。


十二年ととせまりふたとせといふとし十一月しもつき九日ここのかのひ太宰おほみこともちの時の梅の花の歌を追ひてめる新歌にひうた六首

3901 御冬過ぎ春は来たれど梅の花君にしあらねば折る人もなし

3902 梅の花み山としみにありともやかくのみ君は見れど飽かにせむ

3903 春雨に萌えし柳か梅の花ともに後れぬ常の物かも

3904 梅の花いつは折らじと厭はねど咲きの盛りは惜しきものなり

3905 遊ぶ日のたぬしき庭に梅柳折り挿頭かざしてば思ひ無みかも

3906 御苑生みそのふの百木の梅の散る花のあめに飛び上がり雪と降りけむ

     右、大伴宿禰家持がよめる。


十二年ととせまりみとせといふとし二月きさらぎ三香原みかのはら新都にひみやこを讃むる歌一首、また短歌みじかうた

3907 山背やましろの 久迩くにの都は 春されば 花咲きをを

   秋されば 黄葉もみちばにほひ 帯ばせる 泉の川の

   上つ瀬に 打橋渡し 淀瀬には 浮橋渡し

   あり通ひ 仕へまつらむ 万代までに

反し歌

3908 楯並たたなめて泉の川の水脈みを絶えず仕へまつらむ大宮所

     右、右馬頭みぎのうまのつかさのかみ境部宿禰老麿さかひべのすくねおゆまろがよめる。


四月うつき二日ふつかのひ霍公鳥ほととぎすを詠める歌二首

3909 橘は常花とこはなにもが霍公鳥住むと来鳴かば聞かぬ日なけむ

3910 玉にあふちを家に植ゑたらば山霍公鳥れず来むかも

     右、大伴宿禰書持が奈良のいへより兄家持に贈る。


四月の三日みかのひ、和ふる歌三首

橙橘たちばな初めて咲き、霍公鳥かへる。此の時候ときあたりて、なぞも志をべざらむ。かれ三首みつの短歌をよみて、欝結おほほしきおもひるにこそ

3911 足引あしひき山辺やまへれば霍公鳥木の間立ちき鳴かぬ日はなし

3912 霍公鳥何の心そ橘の玉貫く月し来鳴きとよむる

3913 霍公鳥楝の枝にゆきてば花は散らむな玉と見るまで

     右、内舎人うちとねり大伴宿禰家持が久迩の京よりおと書持に報送こたふ。


霍公鳥をしのふ歌一首 田口朝臣馬長たぐちのあそみうまをさがよめる

3914 霍公鳥今し来鳴かば万代に語り継ぐべく思ほゆるかも

     右ハ伝ヘテ云ク、一時交遊集宴セリ。此ノ日

     此処ニ霍公鳥喧カズ。仍チ件ノ歌ヲ作ミテ、

     思慕ノ意ヲ陳ベリト。但其ノ宴ノ所ト年月ハ、

     詳審ラカニスルコトヲ得ズ。


山部宿禰赤人が春鴬うぐひすを詠める歌一首

3915 足引の山谷越えて野づかさに今は鳴くらむ鴬の声

     右ハ年月所処、詳審カニスルコトヲ得ズ。但

     聞キシ時ノ随ニ茲ニ記載ス。


十六年ととせまりむとせといふとし四月の五日いつかのひ、独り平城なら故宅ふるへに居りてよめる歌六首

3916 橘のにほへる香かも霍公鳥鳴く夜の雨にうつろひぬらむ

3917 霍公鳥夜声なつかし網ささば花は過ぐとも離れずか鳴かむ

3918 橘のにほへる苑に霍公鳥鳴くと人告ぐ網ささましを

3919 青丹よし奈良の都は古りぬれどもと霍公鳥鳴かずあらなくに

3920 鶉鳴き古しと人は思へれど花橘のにほふこの屋戸

3921 かきつはた衣に摺り付け大夫ますらを着装きそひ猟する月は来にけり

     右、大伴宿禰家持がよめる。


十八年ととせまりやとせといふとし正月むつき白雪ゆき多く零りつちに積むこと数寸ふかし。時に左大臣ひだりのおほまへつきみ橘のまへつきみ中納言なかのものまをすつかさ藤原豊成朝臣と諸王おほきみたち諸臣おみたちとをて、太上天皇おほきすめらみこと御在所みあらか中宮西院 に参入まゐりて、つかまつりて雪をはらふ。是にみことのりして大臣おほまへつきみ参議おほまつりごとひとまた諸王をば大殿のさもらはしめ、諸卿大夫まへつきみたちをば南の細殿に侍はしめて、おほみき賜ひて肆宴とよのあかりす。みことのりしたまはく、いまし諸王卿等(おほきみたち、まへつきみたち)、此の雪をみて、おのもおのも其の歌をまをせとのりたまへり。

左大臣橘宿禰の詔をうけたまはる歌一首

3922 降る雪の白髪までに大皇おほきみに仕へまつれば貴くもあるか

紀朝臣清人きのあそみきよひとが詔を応はる歌一首

3923 天の下すでに覆ひて降る雪の光りを見れば貴くもあるか

紀朝臣男梶をかぢが詔を応はる歌一首

3924 山のかひそことも見えず一昨日をとつひも昨日も今日も雪の降れれば

葛井連諸會ふぢゐのむらじもろあひが詔を応はる歌一首

3925 あらたしき年の初めに豊の年しるすとならし雪の降れるは

大伴宿禰家持が詔を応はる歌一首

3926 大宮の内にもにも光るまで降れる白雪見れど飽かぬかも

     藤原豊成朝臣、巨勢奈弖麻呂朝臣、大伴牛養宿禰、

     藤原仲麻呂朝臣、三原王、智奴王、船王、邑知王、

     小田王、林王、穂積朝臣老、小田朝臣諸人、小野

     朝臣綱手、高橋朝臣国足、太朝臣徳太理、高丘連

     河内、秦忌寸朝元、楢原造東人。右のくだりおほきみ

     まへつきみたち、詔を応はりてよめる歌、つぎてまにま

     にまをせりき。登時すなはち其の歌の漏失もれしをば記さず。

     ただ秦忌寸朝元は、左大臣橘の卿のたはぶれてのたま

     く、歌を賦みへずば、かほりけだもの以ちてあがなへと

     のりたまへり。此に因りて黙止もだりき。


大伴宿禰家持、天平十八年閏七月のちのふみつき越中国こしのみちのなかのくにかみけられ、即ち七月に任所まけどころく。時にをば大伴坂上郎女が家持に贈れる歌二首

3927 草枕旅ゆく君をさきくあれと斎瓮いはひへ据ゑつが床の

3928 今のごと恋しく君が思ほえば如何にかも為むするすべの無さ

また越中国に贈る歌二首

3929 旅ににし君しも継ぎていめに見ゆが片恋の繁ければかも

3930 道の中国つ御神は旅ゆきもし知らぬ君を恵みたまはな


平群氏女郎へぐりうぢのいらつめが越中守大伴宿禰家持に贈れる歌十二首とをまりふたつ

3931 君により我が名はすでに龍田山絶えたる恋の繁きころかも

3932 須磨ひとの海辺常去らず焼く塩のからき恋をもあれはするかも

3933 ありさりて後も逢はむと思へこそ露の命も継ぎつつ渡れ

3934 なかなかに死なば安けむ君が目を見ず久ならばすべなかるべし

3935 隠沼こもりぬの下ゆ恋ひあまり白波のいちしろく出でぬ人の知るべく

3936 草枕旅にしばしばかくのみや君を遣りつつが恋ひ居らむ

3937 草枕旅にし君が帰り来む月日を知らむすべの知らなく

3938 かくのみやが恋ひ居らむぬば玉の夜の紐だに解きけずして

3939 里近く君がなりなば恋ひめやともとな思ひしあれそ悔しき

3940 万代と心は解けて我が背子がみしを見つつ忍びかねつも

3941 鴬の鳴くくら谷に打ち嵌めて焼けはしぬとも君をし待たむ

3942 松の花花数にしも我が背子が思へらなくにもとな咲きつつ

     右ノ件ノ十二首ノ歌ハ、時々ニ便使ニ寄セテ

     来贈ル。一度ニ送レルニハ在ラズ。


八月はつき七日なぬかの夜、守大伴宿禰家持がたちに集ひて宴する歌

3943 秋の田の穂向き見がてり我が背子がふさ手折り来る女郎花をみなへしかも

     右の一首は、守大伴宿禰家持がよめる。

3944 女郎花咲きたる野辺を行き廻り君を思ひ出徘徊たもとほり来ぬ

3945 秋の夜はあかとき寒し白布しろたへの妹が衣袖ころもて着むよしもがも

3946 霍公鳥鳴きて過ぎにし岡から秋風吹きぬよしもあらなくに

     右の三首は、まつりごとひと大伴宿禰池主がよめる。

3947 今朝の朝明あさけ秋風寒し遠つ人雁が来鳴かむ時近みかも

3948 天ざかるひなに月経ぬしかれども結ひてし紐を解きも開けなくに

     右の二首は、守大伴宿禰家持がよめる。

3949 天ざかる夷にある我をうたがたも紐解き放けず思ほすらめや

     右の一首は、掾大伴宿禰池主。

3950 家にして結ひてし紐を解き放けず思ふ心を誰れか知らむも

     右の一首は、守大伴宿禰家持がよめる。

3951 晩蝉ひぐらしの鳴きぬる時は女郎花咲きたる野辺を行きつつ見べし

     右の一首は、大目おほきふみひと秦忌寸八千島はたのいみきやちしま

古歌ふるうた一首 大原高安真人ノ作。年月審ラカナラズ。但聞キシ時ノ随ニ茲ニ記載ス。

3952 妹が家に伊久里いくりの杜の藤の花今来む春も常かくし見む

     右の一首、伝へむはほうし玄勝げむしやうなり。

3953 雁がねは使ひに来むと騒くらむ秋風寒みその川の

3954 馬めていざ打ち行かな澁谿しぶたにの清き磯廻いそみに寄する波見に

     右の二首は、守大伴宿禰家持。

3955 ぬば玉の夜は更けぬらし玉くしげ二上ふたがみ山に月かたぶきぬ

     右の一首は、史生ふみひと土師宿禰道良はにしのすくねみちよし


大目秦忌寸八千島が館に宴する歌一首

3956 奈呉の海人の釣する船は今こそは船棚ふなだな打ちてあべて榜ぎ出め

     右、館ノ客屋ハ居ナガラニシテ蒼海ヲ望ム。

     仍テ主人八千島此歌ヲ作メリ。


長逝みまかれるおと悲傷かなしむ歌一首、また短歌みじかうた

3957 天ざかる 夷治めにと 大王の まけのまにまに

   出でてし 我を送ると 青丹よし 奈良山過ぎて

   泉川 清き河原に 馬とどめ 別れし時に

   好去まさきくて あれ還り来む 平らけく いはひて待てと

   語らひて し日の極み 玉ほこの 道をた遠み

   山川の へなりてあれば 恋しけく 長きものを

   見まく欲り 思ふ間に 玉づさの 使のれば

   嬉しみと が待ち問ふに 妖言およづれの 狂言たはこととかも

   しきよし 汝弟なおとみこと 何しかも 時しはあらむを

   はたすすき 穂にる秋の 萩の花 にほへる屋戸を 言フハ、斯ノ人、為性ヒトトナリ花草花樹ヲ好愛コノミテ多ク寝院ノ庭ニ植ヱタリ。故レ花薫フ庭ト謂ヘリ。

   朝庭に 出で立ちならし 夕庭に 踏み平らげず

   佐保の内の 里を往き過ぎ 佐保山ニ火葬ヤキハフリセリ。故レ佐保ノウチノサトヲユキスギト謂ヘリ。

   足引の 山の木末こぬれに 白雲に 立ち棚引くと あれに告げつる

3958 好去まさきくと言ひてしものを白雲に立ち棚引くと聞けば悲しも

3959 かからむとかねて知りせば越の海の荒磯ありその波も見せましものを

     右、天平十八年秋九月ながつき二十五日はつかまりいつかのひ、越中守大伴

     宿禰家持が遥かに弟の喪を聞き感傷かなしみてよめるなり。


へるを歓ぶ歌二首

3960 庭に降る雪は千重敷くしかのみに思ひて君をが待たなくに

3961 白波の寄する磯廻を榜ぐ舟の楫取る間なく思ほえし君

     右、天平十八年八月、掾大伴宿禰池主が大帳使に

     附きて、京師みやこ赴向おもむき、同じ年の十一月しもつき、本のつかさ

     に還到かへれり。かれ宴して弾琴ことふえ飲楽あそびせり。時に白雪ゆき

     降りて、つちに積むこと尺余ひとさかあまりなり。また漁夫あまの船、

     入海になみに浮かぶ。爰に守大伴宿禰家持が二つの

     ものをて、聊か所心おもひぶ。


十九年ととせまりここのとせといふとし春二月きさらぎ二十日はつかのひ、忽ち病ひに沈み、ほとほとみうせなむとす。かれ歌詞うたをよみて、悲緒かなしみぶる一首ひとうた、また短歌

3962 大王の まけのまにまに 大夫ますらをの 心振り起こし

   足引の 山坂越えて 天ざかる 夷に下り来

   息だにも いまだ休めず 年月も いくらもあらぬに

   うつせみの 世の人なれば 打ち靡き 床にい伏し

   痛けくし 日にに増さる たらちねの 母の命の

   大船の ゆくらゆくらに 下恋に いつかも来むと

   待たすらむ 心さぶしく しきよし 妻の命も

   明けくれば 門に寄り立ち 衣袖ころもでを 折り返しつつ

   夕されば 床打ち払ひ ぬば玉の 黒髪敷きて

   いつしかと 嘆かすらむそ いもも 若き子どもは

   をちこちに 騒き泣くらむ 玉ほこの 道をたどほ

   間使まつかひも 遺るよしも無し 思ほしき 言て遣らず

   恋ふるにし 心は燃えぬ 玉きはる 命惜しけど

   為むすべの たどきを知らに かくしてや 荒夫あらしをすらに 嘆き伏せらむ

3963 世間よのなかは数なきものか春花の散りのまがひに死ぬべき思へば

3964 山川のそきへを遠みしきよし妹を相見ずかくや嘆かむ

     右、越中国の守の館にて、病に臥し悲傷みて、

     此の歌をよめり。


二十年はたとせといふとし二月の二十九日はつかまりここのかのひ、守大伴宿禰家持が掾大伴宿禰池主に贈れる悲しみの歌二首

忽に病ひに沈み、累旬痛苦す。百神を祷ひ恃みて、且消損を得れども、由ほ身体いたつかれ、筋力怯軟よはくして、未だ謝を展るに堪へず。係恋弥よ深し。方今いま春の朝春の花、春の苑に流馥にほひ、春の暮春の鴬、春の林にく。此の節候にあたりて、琴樽もてあそびつべし。乗興の感有りと雖も、策杖の労に耐へず。独り帷幄の裏に臥して、聊か寸分の歌をよみて、かろがろしく机下に奉り、玉頤を解かむことを犯す。其の詞に曰く、

3965 春の花今は盛りににほふらむ折りて挿頭かざさむ手力たぢからもがも

3966 鴬の鳴き散らすらむ春の花いつしか君と手折り挿頭さむ

     天平二十年二月二十九日、大伴宿禰家持。


三月やよひの二日、まつりごとひと大伴宿禰池主が守大伴宿禰家持に報贈こたふる歌二首

忽に芳音をかたじけなくす。翰苑雲を凌ぎ、兼て倭詩うたたまはる。詞林錦を舒べ、うたながめて能く恋緒をのぞく。春の朝の和気、固より楽しむべく、春の暮の風景、最もたぬしむべし。紅桃灼々とし、戯蝶花を回りて舞ひ、翠柳依々として、嬌鴬葉に隠りて歌ふ。楽しきかも。淡交席を促して、意を得て言を忘る。楽しきかも、うるはしきかも。幽襟いつくしむに足れり。あにはかりきや、蘭蕙叢を隔て、琴樽つかはるること無けむと。空しく令節を過さば、物色人をあなづらむ。怨むる所此に有り。然黙止することを能はず。俗語に云く、藤を以て錦に続ぐと云へり。聊か談咲に擬するのみ。

3967 山峡かひに咲ける桜をただ一目君に見せてば何をか思はむ

3968 鴬の来鳴く山吹うたがたも君が手触れず花散らめやも

     沽洗やよひの二日、掾大伴宿禰池主。


三月の三日みかのひ、守大伴宿禰家持が更に贈れる歌一首、また短歌

含弘の徳、恩を蓬体に垂れ、不貲の思、陋心に報へ慰めしむ。来眷を載荷し、喩ふる所に堪ふること無し。但稚き時、遊藝の庭に渉らず、横翰の藻、自ら彫虫に乏し。幼年山柿の門に逕らず、裁歌の趣、詞を叢林に失ふ。爰に藤を以て錦に続ぐといふ言をかたじけなくす。更に石を将て瓊に同じくする詠をしるす。まことに俗愚懐癖、黙止すること能はず。かれ数行を捧げて、式て嗤咲に酬ふ。其の詞に曰く、

3969 大王おほきみの まけのまにまに しなざかる 越を治めに

   出でて来し ますら我すら 世間よのなかの 常し無ければ

   打ち靡き 床に臥い伏し 痛けくの 日に異に増せば

   悲しけく ここに思ひ出 いらなけく そこに思ひ出

   嘆くそら 安けなくに 思ふそら 苦しきものを

   足引の 山来へなりて 玉ほこの 道の遠けば

   間使も 遣るよしも無み 思ほしき 言も通はず

   玉きはる 命惜しけど 為むすべの たどきを知らに

   こもり居て 思ひ嘆かひ 慰むる 心はなしに

   春花の 咲ける盛りに 思ふどち 手折り挿頭さず

   春の野の 茂み飛びく 鴬の 声だに聞かず

   娘子らが 春菜摘ますと 紅の 赤裳の裾の

   春雨に にほひ湿づちて 通ふらむ 時の盛りを

   いたづらに 過ぐし遣りつれ 偲はせる 君が心を

   うるはしみ この夜すがらに も寝ずに 今日もしめらに 恋ひつつそ居る

3970 足引の山桜花一目だに君とし見てばあれ恋ひめやも

3971 山吹の茂み飛び漏く鴬の声を聞くらむ君はともしも

3972 出で立たむ力を無みとこもり居て君に恋ふるに心神こころどもなし

     三月やよひ三日みかのひ、大伴宿禰家持。


晩春やよひの三日、遊覧する七言のからうた一首、またはしかき

上巳の名辰、暮春の麗景、桃花まなぶたを照して、紅を分つ。柳の色苔を含みて緑を競ふ。時に手を携へて曠く江河の畔をみやり、酒を訪ひて迥かに野客の家に過ぐ。既にして琴樽性を得、蘭契光を和らぐ。嗟乎、今日恨むる所は、徳星已に少きか。若し寂含の章をたたかずは、何を以てか逍遥の趣をべむ。忽に短筆に課して、聊かに四韻を勒すなり。

   余春の媚日怜賞すべし

   上巳の風光覧遊するに足れり

   柳陌江に臨みてゲン服をまだらにし

   桃源海に通ひて仙舟をうか

   雲罍うんらい桂を酌みて三清湛へ

   羽爵人をうながして九曲流る

   ほしきままに酔ひ陶心彼我を忘れ

   酩酊処として淹しく留らざること無し

     三月の四日よかのひ、大伴宿禰池主。


掾大伴宿禰池主が報贈こたふる歌二首、また短歌

昨日短懐を述べ、今朝耳目をけがす。更に賜書を承り、且不次を奉る。死罪々々謹みまをす。下賎をわすれず、頻に徳音を恵む。英雲星気、逸調人に過ぎたり。智水仁山、既に琳瑯の光彩をつつみ、潘江陸海、自ら詩書の廊廟に坐す。思ひを非常に騁せ、情を有理にけ、七歩に章を成し、数篇紙に満つ。巧に愁人の重患を遣り、能く恋者の積思を除く。山柿の歌泉、此に比ぶるにきが如し。彫龍の筆海、粲然として看ることを得。方に僕の幸有ることを知りぬ。敬みて和ふる歌、其の詞に云く、

3973 大王の 命畏み 足引の 山野やまぬさはらず

   天ざかる 夷も治むる 大夫ますらをや なにか物

   青丹よし 奈良道ならぢ来通ふ 玉づさの 使絶えめや

   こもり恋ひ 息づきわたり 下思したもひに 嘆かふ我が背

   古ゆ 言ひ継ぎ来らく 世間よのなかは 数なきものそ

   慰むる こともあらむと 里人の あれに告ぐらく

   山傍には 桜花さくらばな散り 容鳥かほとりの 間なくしば鳴く

   春の野に すみれを摘むと 白布しろたへの 袖折り返し

   紅の 赤裳裾引き 娘子らは 思ひ乱れて

   君待つと うら恋すなり 心ぐし いざ見にゆかな ことはたな知れ

3974 山吹は日に日に咲きぬうるはしとふ君はしくしく思ほゆ

3975 我が背子に恋ひすべなかり葦垣あしかきほかに嘆かふあれし悲しも

     三月の五日、大伴宿禰池主。


守大伴宿禰家持が、また報贈こたふるからうた一首、また短歌

昨暮使をたまはる。幸なるかも、晩春遊覧の詩を垂れ、今朝信を累ぬ。かなじけなきかも、相招望野の歌を賜はる。一たび玉藻を看て、稍欝結を写し、二たび秀句を吟ひて、已に愁緒をのぞく。此の眺翫にあらずは、たれか能く心を暢べむ。但惟ただあれ、禀性り難く、闇神みがくこと靡し。翰を握れば毫を腐し、研に対へば渇を忘る。終日因流して、綴れども能はず。所謂いはゆる文章の天骨、習へども得ず。豈字を探り韻を勒して、雅篇に叶和するに堪へむ。抑々鄙里の少児に聞く、古の人言酬いざるは無しと。聊か拙詠を裁りて、敬みて解咲に擬す。如今いま言を賦し韻を勒し、斯の雅作の篇に同じくす。豈石を将て瓊に同じくし、声遊の走曲に唱ふるに殊ならむ。抑小児の濫謡に譬ふ。敬みて葉端に写し、式て乱に擬すに曰く、

    七言一首

   抄春の余日媚景麗し

   初巳の和風払ひて自ら軽し

   来燕泥を銜えて宇を賀きて入る

   帰鴻廬を引きてはるかにおきに赴く

   聞く君が嘯侶新たに曲を流すことを

   禊飲爵を催して河の清きに泛ぶ

   此の良宴を追尋せむと欲すれども

   還りて知りぬ染懊して脚のレイテイすることを

短歌二首

3976 咲けりとも知らずしあらばもだもあらむこの山吹を見せつつもとな

3977 葦垣のほかにも君が寄り立たし恋ひけれこそは夢に見えけれ

    三月の五日、大伴宿禰家持が病みやりてよめる。


恋のこころを述ぶる歌一首、また短歌

3978 妹もあれも 心はおやじ たぐへれど いやなつかしく

   相見れば 常初花とこはつはなに 心ぐし 目ぐしもなしに

   しけやし が奥妻 大王の 命畏み

   足引の 山越え野行き 天ざかる 夷治めにと

   別れし その日の極み あら玉の 年行き返り

   春花の うつろふまでに 相見ねば いたもすべ無み

   敷布しきたへの 袖返しつつ 寝る夜おちず 夢には見れど

   うつつにし ただにあらねば 恋しけく 千重に積もりぬ

   近くあらば 帰りにだにも うち行きて 妹が手枕

   差し交へて 寝てもましを 玉ほこの 道はしどほ

   関さへに へなりてあれこそ よしゑやし よしはあらむそ

   霍公鳥 来鳴かむ月に いつしかも 早くなりなむ

   卯の花の にほへる山を よそのみも 振り放け見つつ

   近江路あふみぢに い行き乗り立ち 青丹よし 奈良の吾家わがへ

   鵺鳥ぬえとりの うらげしつつ 下恋に 思ひうらぶれ

   門に立ち 夕占ゆふけ問ひつつ を待つと すらむ妹を 逢ひて早見む

3979 あら玉の年返るまで相見ねば心もしぬに思ほゆるかも

3980 ぬば玉の夢にはもとな相見れど直にあらねば恋ひやまずけり

3981 足引の山来へなりて遠けども心しゆけば夢に見えけり

3982 春花のうつろふまでに相見ねば月日みつつ妹待つらむそ

     右、三月の二十日はつか夜裏、忽ち恋のこころを起してよめる。

     大伴宿禰家持。


立夏四月うつきたちはや累日ひかずを経て、由ほ霍公鳥のこゑを聞かず。因れ恨みてよめる歌二首

3983 足引の山も近きを霍公鳥月立つまでに何か来鳴かぬ

3984 玉に貫く花橘をともしみしこの我が里に来鳴かずあるらし

     霍公鳥は立夏うつきたつ日、必ず来鳴きぬ。又越中こしのみちのなか

     風土くにざま橙橘たちばな希なり。此に因りて大伴宿禰家持が懐

     を感発かまけて、此歌をめり。三月二十九日。


二上ふたがみ山のうた一首 此山ハ射水郡ニ在リ

3985 射水川いみづがは い行き廻れる 玉くしげ 二上山は

   春花の 咲ける盛りに 秋の葉の にほへる時に

   出で立ちて 振り放け見れば 神柄かむからや そこば貴き

   山柄やまからや 見が欲しからむ すめ神の 裾廻すそみの山の

   澁谿しぶたにの 崎の荒磯ありそに 朝凪に 寄する白波

   夕凪に 満ち来る潮の いや増しに 絶ゆることなく

   いにしへゆ 今の現在をつづに かくしこそ 見る人ごとに 懸けて偲はめ

3986 澁谿の崎の荒磯に寄する波いやしくしくに古思ほゆ

3987 玉くしげ二上山に鳴く鳥の声の恋しき時は来にけり

     右、三月の三十日つごもりのひことけてよめる。大伴宿禰家持。


四月の十六日とをかまりむかのひ夜裏、遥かに霍公鳥のこゑを聞きておもひを述ぶる歌一首

3988 ぬば玉の月に向ひて霍公鳥鳴く音遥けし里どほみかも

     右、大伴宿禰家持がよめる。


大目おほきふみひと秦忌寸八千島の館にて、守大伴宿禰家持をうまのはなむけする宴の歌二首

3989 奈呉なごの海の沖つ白波しくしくに思ほえむかも立ち別れなば

3990 我が背子は玉にもがもな手に巻きて見つつ行かむを置きかば惜し

     右、守大伴宿禰家持が正税帳を以ちて京師みやこまゐらむとす。

     かれ此歌をよみて、相別わかれの嘆を陳ぶ。四月二十日。


布勢水海ふせのみづうみ遊覧あそべるうた一首、また短歌 此海ハ射水郡ノ舊江村ニ在リ

3991 物部もののふの 八十伴男やそとものをの 思ふどち 心遣らむと

   馬並めて 彼此触うちくちぶりの 白波の 荒磯に寄する

   澁谿の 崎たもとほり 松田江まつだえの 長浜過ぎて

   宇奈比うなひ川 清き瀬ごとに 鵜川立ち か行きかく行き

   見つれども そこも飽かにと 布施の海に 舟浮け据ゑて

   沖へ榜ぎ 辺に榜ぎ見れば 渚には あぢ群騒き

   島廻しまみには 木末こぬれ花咲き ここばくも 見のさやけきか

   玉くしげ 二上山に ふ蔦の 行きは別れず

   あり通ひ いや毎年としのはに 思ふどち かくし遊ばむ 今も見るごと

3992 布勢の海の沖つ白波あり通ひいや毎年としのはに見つつ偲はむ

     右、守大伴宿禰家持がよめる。四月廿四日。


布勢水海に遊覧びたまへるうた敬和こたへまを一首うたひとつ、また一絶みじかうたひとつ

3993 藤波は 咲きて散りにき 卯の花は 今そ盛りと

   足引の 山にも野にも 霍公鳥 鳴きしとよめば

   打ち靡く 心もしぬに そこをしも うら恋しみと

   思ふどち 馬打ち群れて 携はり 出で立ち見れば

   射水川 水門みなと渚鳥すどり 朝凪に 潟に漁りし

   潮満てば つま呼び交す 羨しきに 見つつ過ぎ行き

   澁谿の 荒磯の崎に 沖つ波 寄せ来る玉藻

   片りに かづらに作り 妹がため 手に巻き持ちて

   うらぐはし 布勢の水海に 海人船に 真楫まかぢ掻い

   白布しろたへの 袖振り返し あどもひて 我が榜ぎ行けば

   乎布をふの崎 花散りまがひ 渚には 葦鴨あしがも騒き

   さざれ波 立ちても居ても 榜ぎ廻り 見れども飽かず

   秋さらば 黄葉もみちの時に 春さらば 花の盛りに

   かもかくも 君がまにまと かくしこそ 見も明らめめ 絶ゆる日あらめや

3994 白波の寄せ来る玉藻世の間も継ぎて見に来む清き浜

     右、掾大伴宿禰池主がよめる。四月廿六日追和。


四月の二十六日はつかまりむかのひ、掾大伴宿禰池主が館にて、税帳使守大伴宿禰家持をうまのはなむけする宴の歌、また古歌ふるうた四首

3995 玉ほこの道に出で立ち別れなば見ぬ日さまねみ恋しけむかも

     右の一首は、大伴宿禰家持がよめる。

3996 我が背子が国へましなば霍公鳥鳴かむ五月さつきさぶしけむかも

     右の一首は、すけ内藏忌寸繩麿うちのくらのいみきなはまろがよめる。

3997 あれなしとな侘び我が背子霍公鳥鳴かむ五月は玉をかさね

     右の一首は、守大伴宿禰家持がこたふ。

石川朝臣水通みとほしが橘の歌一首

3998 我が屋戸の花橘を花ごめに玉にそが貫く待たば苦しみ

     右の一首、伝へ誦むは主人あるじ大伴宿禰池主なりき。


守大伴宿禰家持が館にて飲宴さけのみするひの歌一首 四月二十六日

3999 都方みやこへに立つ日近づく飽くまてに相見て行かな恋ふる日多けむ


立山たちやまうた一首、また短歌 此山ハ新河郡ニ在リ

4000 天ざかる 夷に名懸かす 越の中 国内くぬちことごと

   山はしも しじにあれども 川はしも さはにゆけども

   すめ神の うしはきいます 新川にひかはの その立山に

   とこなつに 雪降り敷きて 帯ばせる 片貝川の

   清き瀬に 朝宵ごとに 立つ霧の 思ひ過ぎめや

   あり通ひ いや毎年としのはに よそのみも 振り放け見つつ

   万代の 語らひぐさと いまだ見ぬ 人にも告げむ

   音のみも 名のみも聞きて ともしぶるがね

4001 立山に降り置ける雪を常なつに見れども飽かずかむながらならし

4002 片貝の川の瀬清くゆく水の絶ゆることなくあり通ひ見む

     四月の二十七日、大伴宿禰家持がよめる。


立山の賦に敬和こたへまを一首うたひとつ、また二絶みじかうたふたつ

4003 朝日さし 背向そがひに見ゆる かむながら 御名に負はせる

   白雲の 千重を押し分け あまそそり 高き立山

   冬夏と くこともなく 白布しろたへに 雪は降り置きて

   古ゆ 在り来にければ 凝々こごしかも いはの神さび

   玉きはる 幾代経にけむ 立ちて居て 見れどもあや

   峯だかみ 谷を深みと 落ちたぎつ 清き河内かふち

   朝らず 霧立ち渡り 夕されば 雲居たな引き

   雲居なす 心もしぬに 立つ霧の 思ひ過ぐさず

   行く水の 音もさやけく 万代に 言ひ継ぎゆかむ 川し絶えずは

4004 立山に降り置ける雪の常なつにずてわたるはかむながらとそ

4005 落ち激つ片貝川の絶えぬごと今見る人も止まず通はむ

     右、掾大伴宿禰池主が和ふ。四月廿八日。


みやこまゐらむことやや近く、悲しみのこころはらひ難くて、おもひを述ぶる歌一首、また一絶

4006 かきかぞふ 二上山に 神さびて 立てるつがの木

   もとも おや常磐ときはに しきよし 我が背の君を

   朝らず 逢ひて言問ことどひ 夕されば 手携はりて

   射水川 清き河内に 出で立ちて 我が立ち見れば

   東風あゆの風 いたくし吹けば 水門みなとには 白波高み

   つま呼ぶと 渚鳥すどりは騒く 葦刈ると 海人の小舟をぶね

   入江榜ぐ 楫の音高し そこをしも あやにともしみ

   偲ひつつ 遊ぶ盛りを 天皇すめろきの す国なれば

   御言持ち 立ち別れなば 後れたる 君はあれども

   玉ほこの 道ゆく我は 白雲の 棚引く山を

   岩根踏み 越えへなりなば 恋しけく の長けむそ

   そこへば 心し痛し 霍公鳥 声にあへ

   玉にもが 手に巻き持ちて 朝宵に 見つつゆかむを 置きてかば惜し

4007 我が背子は玉にもがもな霍公鳥声にあへ貫き手に巻きてゆかむ

     右、大伴宿禰家持が掾大伴宿禰池主に贈る。四月卅日。


忽に入京述懐の作を見て、生きながら別るる悲しみ、腸を断つこと万回。怨緒のぞき難し。聊か所心をまを一首うたひとつ、また二絶みじかうたふたつ

4008 青丹よし 奈良を来離れ 天ざかる ひなにはあれど

   我が背子を 見つつしれば 思ひ遣る 事もありしを

   大王おほきみの 命畏み 食す国の 事執り持ちて

   若草の 脚帯あゆひ手装たづくり 群鳥むらとりの 朝立ち去なば

   後れたる あれや悲しき 旅にゆく 君かも恋ひむ

   思ふそら 安くあらねば 嘆かくを 留めもかねて

   見わたせば 卯の花山の 霍公鳥 音のみし泣かゆ

   朝霧の 乱るる心 言に出でて 言はば忌々ゆゆしみ

   礪波となみ山 手向たむけの神に ぬさまつり が乞ひまく

   しけやし 君が直香ただかを 真幸まさきくも 在りたもとほ

   月立たば 時もはさず 撫子が 花の盛りに 相見しめとそ

4009 玉ほこの道の神たちまひはせむが思ふ君をなつかしみせよ

4010 うら恋し我が背の君は撫子が花にもがもな朝旦あさなさな見む

     右、大伴宿禰池主が報贈こたふる和歌うた。五月二日。


放逸そらせる鷹をしぬひ、いめに見て感悦よろこびよめる歌一首、また短歌

4011 大王おほきみの 遠の朝廷みかどと 御雪降る 越と名に負へる

   天ざかる 夷にしあれば 山だかみ 川透白とほしろ

   野を広み 草こそ茂き 鮎走る 夏の盛りと

   島つ鳥 鵜養うかひが伴は 行く川の 清き瀬ごとに

   篝さし なづさひ上る 露霜の 秋に至れば

   野もさはに 鳥多集すだけりと 大夫ますらをの 友いざなひて

   鷹はしも あまたあれども 矢形尾の 大黒おほくろに 大黒ハ蒼鷹ノ名ナリ

   白塗しらぬりの 鈴取り付けて 朝猟に 五百いほつ鳥立て

   夕猟に 千鳥踏み立て 追ふ毎に ゆるすことなく

   手放たばなれも をちも可易き これをおきて または在り難し

   さ並べる 鷹は無けむと 心には 思ひ誇りて

   笑まひつつ 渡る間に たぶれたる しこつ翁の

   言だにも 我には告げず との曇り 雨の降る日を

   鳥猟とがりすと 名のみをりて 三島野を 背向そがひに見つつ

   二上ふたがみの 山飛び越えて 雲隠り 翔りにきと

   帰り来て しはぶれ告ぐれ くよしの そこに無ければ

   言ふすべの たどきを知らに 心には 火さへ燃えつつ

   思ひ恋ひ 息きあまり けだしくも 逢ふことありやと

   足引の 彼面此面をてもこのもに 鳥網となみ張り 守部もりべを据ゑて

   ちはやぶる 神のやしろに 照る鏡 倭文しづに取り添へ

   乞ひ祈みて が待つ時に 少女をとめらが いめに告ぐらく

   が恋ふる そのつ鷹は 松田江の 浜ゆき暮らし

   つなし捕る 氷見ひみの江過ぎて 多古の島 飛び徘徊たもとほ

   葦鴨の 多集すだ舊江ふるえに 一昨日をとつひも 昨日もありつ

   近くあらば いま二日だみ 遠くあらば 七日なぬかのうちは

   過ぎめやも なむ我が背子 ねもころに な恋ひそよとそ いめに告げつる

4012 矢形尾の鷹を手に据ゑ三島野に猟らぬ日まねく月そ経にける

4013 二上の彼面此面に網さしてが待つ鷹をいめに告げつも

4014 松反がへりしひにてあれかもさ山田のをぢがその日に求めあはずけむ

4015 心にはゆるぶことなく須加の山すかなくのみや恋ひわたりなむ

     右、射水郡古江の村にて蒼鷹を取獲たり。形容

     美麗うるはしくて、雉をること群に秀れたり。時に

     養吏たかかひ山田史君麿、調試節を失ひ、野猟候に乖く。

     風に搏る翅、高く翔り雲に匿る。腐鼠の餌、呼

     び留むるに験靡し。是に羅網を張り設けて非常

     を窺ひ、神祇に奉幣して虞らざるを恃む。ここ

     夢裏いめに娘子有り。喩して曰く、使君きみ苦念を作し

     て空に精神を費すこと勿れ。逸放そらせる彼の鷹、

     獲り得むこと未幾ちかけむ。須叟ありて覚寤して、懐に

     悦びて、かれ恨みを却す歌をよみ、式て感信を旌

     す。守大伴宿禰家持。九月二十六日ニ作メリ。


高市連黒人が歌一首 年月審ラカナラズ

4016 婦負めひの野のすすき押しなべ降る雪に宿借る今日し悲しく思ほゆ

     右、此の歌を伝へ誦むは三國真人五百國いほくになり。


二十一年はたとせまりひととせといふとし春正月むつき二十九日はつかまりここのかのひ、よめる歌

4017 東風あゆのかぜ 越ノ俗語ニ東風ヲアユノカゼト謂ヘリ いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小舟榜ぎ隠る見ゆ

4018 水門みなと風寒く吹くらし奈呉の江につま呼び交したづさはに鳴く

4019 天ざかる夷ともしるくここだくも繁き恋かもなぐる日もなく

4020 越の海の信濃 浜ノ名ナリ の浜をゆき暮らし長き春日はるひも忘れて思へや

     右の四首ようたは、大伴宿禰家持。


礪波郡となみのこほり雄神河をかみのかはにてよめる歌一首

4021 雄神川紅にほふ娘子らし葦付 水松ノ類 取ると瀬に立たすらし


婦負郡めひのこほりにて鵜坂河うさかがはを渡る時よめる歌一首

4022 鵜坂川渡る瀬多みこの足掻あがきの水に衣濡れにけり


潜鵜うつかふ人を見てよめる歌一首

4023 婦負川の早き瀬ごとに篝さし八十伴男やそとものをは鵜川立ちけり


新河郡にひかはのこほりにて延槻河はひつきがはを渡る時よめる歌一首

4024 立山の雪しらしも延槻の川の渡り瀬あぶみ漬かすも


氣多の大神宮おほかみのみや赴参まゐるに、海辺を行く時よめる歌一首

4025 志雄路しをぢからただ越え来れば羽咋はくひの海朝凪したり船楫ふねかじもがも


能登郡にて、香島の津より発船ふなでして、熊來くまきの村を射して徃く時よめる歌二首

4026 鳥総とぶさ立て船木ふなき伐るといふ能登の島山今日見れば木立繁しも幾代かむびそ

4027 香島より熊來をさして榜ぐ船の楫取る間なく都し思ほゆ


鳳至郡ふふしのこほりにて饒石川にぎしかはを渡る時よめる歌一首

4028 妹に逢はず久しくなりぬ饒石川清き瀬ごとに水占みなうらはへてな


珠洲郡すすのこほりより発船ふなでして、太沼郡おほみのさとに還る時、長濱のうらに泊てて月光つき仰見てよめる歌一首

4029 珠洲の海に朝開きして榜ぎ来れば長濱の浦に月照りにけり

     右の件の歌詞うたは、春の出挙すいこに依りて諸郡こほりこほり巡行めぐる。

     当時すなはち目にごとによめる。大伴宿禰家持。


鴬の晩哢おそきを怨む歌一首

4030 鴬は今は鳴かむと片待てば霞たな引き月は経につつ


造酒みきたてまつる歌一首

4031 中臣の太祝詞言ふとのりとごと言ひ祓へあがふ命も誰がためになれ

     右、大伴宿禰家持がよめる。