万葉集 (鹿持雅澄訓訂)/巻第十二

巻第十二とをまりふたまきにあたるまき


古今相聞往来歌類下


ただ心緒おもひを述ぶ〔百十一首。十一首、人麿集。百首、人麿集外。〕


2841 我が背子が朝明あさけの姿よく見ずて今日の間を恋ひ暮らすかも

2842 が心息づきへば新夜あらたよの一夜もおちずいめにし見ゆる

2843 うつくしとふ妹を人皆の行くごと見めや手にかずして

2844 この頃のの寝らえぬは敷妙の手枕たまくらまきて寝まく欲りこそ

2845 忘るやと物語して心遣り過ぐせど過ぎずなほそ恋しき

2846 夜も寝ず安くもあらず白妙の衣も脱かじただに逢ふまでに

2847 後に逢はむをな恋ひそと妹は言へど恋ふる間に年は経につつ

2848 直に逢はずあるはうべなり夢にだに何しか人の言の繁けむ

2849 ぬば玉の夜の夢にを見え継ぐやそて乾す日なくあれは恋ふるを

2850 うつつには直に逢はなく夢にだに逢ふと見えこそが恋ふらくに

2944 人言を繁みと妹に逢はずして心のうちに恋ふるこの頃

     以上ノ十一首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。


2864 我が背子を今か今かと待ち居るに夜の更けぬれば嘆きつるかも

2865 玉くしろる妹もあらばこそ夜の長けくも嬉しかるべき

2866 人妻に言ふは誰が言狭衣のこの紐解けと言ふは誰が言

2867 かくばかり恋ひむものそと知らませばその夜はゆたにあらましものを

2868 恋ひつつも後に逢はむと思へこそおのが命を長く欲りすれ

2869 今はは死なむよ我妹わぎも逢はずして思ひ渡れば安けくもなし

2870 我が背子が来むと語りし夜は過ぎぬしゑや更々しこり来めやも

2871 人言のよこすを聞きて玉ほこの道にも逢はず絶えにし我妹

2872 逢はなくも憂しと思へばいや益しに人言繁く聞こえ来るかも

2873 里人も語り継ぐがねよしゑやし恋ひても死なむ誰が名ならめや

2874 確かなる使を無みと心をそ使に遣りし夢に見えきや

2875 天地に少し至らぬ大夫ますらをと思ひしあれ雄心をごころも無き

2876 里近く家や居るべきこのが目の人目をしつつ恋の繁けく

2877 何時はしも恋ひずありとはあらねどもうたてこの頃恋の繁きも

2878 ぬば玉のい寝てし宵の物ひに割れにし胸はやむ時もなし

2879 み空行く名の惜しけくもあれはなし逢はぬ日まねく年の経ぬれば

2880 うつつにも今も見てしか夢のみに手本たもとまきと見れば苦しも

2881 立ちて居てすべのたどきも今は無し妹に逢はずて月の経ぬれば

2882 逢はずして恋ひ渡るとも忘れめやいや日にには思ひ増すとも

2883 よそ目にも君が姿を見てばこそ命に向ふが恋やまめ

2884 恋ひつつも今日はあらめど玉くしげ明けむ明日の日いかで暮らさむ

2885 さ夜更けて妹を思ひ出敷妙の枕もそよに嘆きつるかも

2886 人言はまこと言痛こちたくなりぬともそこにさはらむあれならなくに

2887 立ちて居てたどきも知らずが心天つ空なり地は踏めども

2888 世の中の人の言葉と思ほすなまことそ恋ひし逢はぬ日を多み

2889 いで如何にがここだ恋ふる我妹子わぎもこが逢はじと言へることもあらなくに

2890 ぬば玉の夜を長みかも我が背子が夢に夢にし見えかへるらむ

2891 あら玉の年の緒長くかく恋ひばまこと我が命またからめやも

2892 思ひ遣るすべのたどきもあれはなし逢はぬ日まねく月の経ぬれば

2893 あしたゆきて夕へは来ます君ゆゑに忌々ゆゆしくもは嘆きつるかも

2894 聞きしより物を思へばが胸はれて砕けて利心とこころもなし

2895 人言を繁み言痛み我妹子ににし月よりいまだ逢はぬかも

2896 うたがたも言ひつつもあるかあれしあれば土には落ちじ空にぬとも

2897 いかにあらむ日の時にかも我妹子が裳引もびきの姿朝にに見む

2898 独り居て恋ふれば苦し玉たすき懸けず忘れむ事はかりもが

2899 なかなかにもだもあらましをあぢきなく相見そめてもあれは恋ふるか

2900 我妹子が笑まひ眉引まよびき面影にかかりてもとな思ほゆるかも

2901 あかねさす日の暮れぬればすべを無み千たび嘆きて恋ひつつそ居る

2902 我が恋は夜昼わかず百重なす心しへばいたもすべ無し

2903 いとのきて薄き眉根をいたづらに掻かしめにつつ逢はぬ人かも

2904 恋ひ恋ひて後も逢はむと慰むる心し無くば生きてあらめやも

2905 いくばくも生けらじ命を恋ひつつそあれは息づく人に知らえず

2906 他国ひとくによばひに行きて大刀たちが緒もいまだ解かねばさ夜そ明けにける

2907 大夫ますらをの聡き心も今は無し恋のやつこあれは死ぬべし

2908 常かくし恋ふれば苦ししましくも心休めむ事計りせよ

2909 おほろかにあれし思はば人妻にありちふ妹に恋ひつつあらめや

2910 心には千重に百重に思へれど人目を多み妹に逢はぬかも

2911 人目多み目こそしぬふれ少なくも心のうちにはなくに

2912 人の見て言とがめせぬ夢にあれ今宵至らむ屋戸やとすなゆめ

2913 いつまでに生かむ命そ大方は恋ひつつあらずは死なむまされり

2914 うつくしとふ妹を夢に見て起きて探るに無きがさぶしさ

2915 妹と言ふは無礼なめし畏ししかすがに懸けまく欲しき言にあるかも

2916 玉かつま逢はむと言ふはたれなるか逢へる時さへ面隠しする

2917 うつつにか妹が来ませる夢にかもあれか惑へる恋の繁きに

2918 おほかたは何かも恋ひむ言挙げせず妹に寄り寝む年は近きを

2919 二人して結びし紐を一人してあれは解きみじ直に逢ふまでは

2920 死なむ命ここは思はず唯にしも妹に逢はなくことをしそ

2921 紐の緒のおやじ心にしましくも止む時もなく見なむとそ

2922 夕さらば君に逢はむと思へこそ日の暮るらくも嬉しかりけれ

2923 ただ今日も君には逢はめど人言を繁み逢はずて恋ひ渡るかも

2924 世の中に恋繁けむと思はねば君が手本をまかぬ夜もありき

2925 緑児みどりこのためこそ乳母おもは求むと言へ飲めや君が乳母求むらむ

2926 悔しくも老いにけるかも我が背子が求むる乳母に行かましものを

2927 うらぶれてれにし袖をまた巻かば過ぎにし恋や乱れ来むかも

2928 おのがじし人死なすらし妹に恋ひ日にに痩せぬ人に知らえず

2929 宵々にが立ち待つにけだしくも君来まさずば苦しかるべし

2930 生ける世に恋ちふものを相見ねば恋ふるうちにもあれそ苦しき

2931 思ひつつをれば苦しもぬば玉の夜になりなばあれこそ行かめ

2932 心には燃えて思へどうつせみの人目を繁み妹に逢はぬかも

2933 相思はず君はまさめど片恋にあれはそ恋ふる君が姿を

2934 うまさはふ目には飽けどもたづさはり言問はなくも苦しかりけり

2935 あら玉の年の緒長くいつまでかが恋ひ居らむ命知らずて

2936 今はは死なむよ我が背恋すれば一夜一日も安けくもなし

2937 白妙のそて折り返し恋ふればか妹が姿の夢にし見ゆる

2938 人言を繁み言痛こちたみ我が背子を目には見れども逢ふよしもなし

2939 恋と言へば薄きことなり然れどもあれは忘れじ恋ひは死ぬとも

2940 なかなかに死なば安けむ出づる日の入るわき知らぬあれし苦しも

2941 思ひ遣るたどきもあれは今はなし妹に逢はずて年の経ぬれば

2942 我が背子に恋ふとにしあらしわかき子の夜泣きをしつつい寝かてなくは

2943 我が命を長く欲しけく偽りをよくする人を捕ふばかりを

2945 玉づさの君が使を待ちし夜のなごりそ今もい寝ぬ夜の多き

2946 玉ほこの道に行き逢ひて外目よそめにも見れば良き子をいつとか待たむ

2947 思ふにし余りにしかばすべを無みあれは言ひてき忌むべきものを

   思ふにし余りにしかば門に出でてい伏すを人見けむかも

2948 明日の日はその門行かむ出でて見よ恋ひたる姿あまたしるけむ

2949 うたてに心いふせし事計りよくせ我が背子逢へる時だに

2950 我妹子が夜戸出よとでの姿見てしより心空なり土は踏めども

2951 海石榴市つばいち八十やそちまたに立ちならし結びし紐を解かまく惜しも

2952 我がよはひの衰へぬれば白妙の袖の狎れにし君をしそ

2953 君に恋ひが泣く涙白妙の袖さへ濡れぬせむすべもなし

2954 今よりは逢はじとすれや白妙のが衣手のる時もなき

2955 夢かと心惑ひぬ月まねくれにし君が言の通ふは

2956 あら玉の年月かねてぬば玉の夢にそ見ゆる君が姿は

2957 今よりは恋ふとも妹に逢はめやも床の去らず夢に見えこそ

2958 人の見て言咎めせぬ夢にだに止まず見えこそが恋やまむ

2959 うつつには言絶えにけり夢にだに継ぎて見えこそ直に逢ふまでに

2960 うつせみの現心うつしこころあれはなし妹を相見ずて年の経ぬれば

2961 うつせみの常の言葉と思へども継ぎてし聞けば心惑ひぬ

2962 白妙の袖れてるぬば玉の今宵は早も明けば明けなむ

2963 白妙の手本ゆたけく人の味寐うまいは寝ずや恋ひ渡りなむ


物に寄せて思ひをぶ〔百五十首。十三首、人麿集。百三十七首、人麿集外。〕


2851 人見れば表衣うへを結びて人見ねば下紐開けて恋ふる日ぞ多き

2852 人言の繁けき時に我妹子し衣にありせば下に着ましを

2853 真玉つく遠近をちこち兼ねて思へれば一重の衣一人着て寝ぬ

2854 白妙の我が紐の緒の絶えぬ間に恋結びせむ逢はむ日までに

2855 新墾にひばりの今作る道さやかにも聞きにけるかも妹が上のことを

2856 山背やましろ石田いはたの杜に心おそ手向たむけしたれや妹に逢ひがたき

2857 菅の根のねもころごろに照る日にもめやが袖妹に逢はずして

2858 妹に恋ひい寝ぬ朝明あさけに吹く風し妹にしらばむたに触れ

2859 飛鳥川高川かし越ゑ来しをまこと今宵を明けずやらめや

2860 八釣川やつりがは水底みなそこ絶えず行く水の継ぎてそ恋ふるこの年ごろを

2861 磯のに生ふる小松の名を惜しみ人に知らえず恋ひ渡るかも

     或ル本ノ歌ニ曰ク、

    岩のに立てる小松の名を惜しみ人には言はず恋ひ渡るかも

2862 山川やまがは水隠みこもりに生ふる山菅の止まずも妹が思ほゆるかも

2863 浅葉野あさはぬに立ち神さぶる菅の根のねもころ誰ゆゑが恋ひなくに

     右ノ十三首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。


2964 かくのみにありける君を衣ならば下にも着むとへりける

2965 つるはみあはせの衣の裏しあらばあれ強ひめやも君が来まさぬ

2966 紅の薄染衣あらそめころも浅らかに相見し人に恋ふる頃かも

2967 年の経ば見つつしぬへと妹が言ひし衣の縫目見れば悲しも

2968 橡の一重衣の裏もなくあるらむ子ゆゑ恋ひ渡るかも

2969 解き衣の思ひ乱れて恋ふれども何のゆゑそと問ふ人もなし

2970 桃染めの浅らの衣浅らかに思ひて妹に逢はむものかも

2971 大王おほきみの塩焼く海人の藤衣馴るとはすれどいやめづらしも

2972 赤絹の純裏ひつらの衣長く欲りふ君が見えぬ頃かも

2973 真玉つく彼方此方をちこち兼ねて結びつるが下紐の解くる日あらめや

2974 紫の帯の結びも解きもみずもとなや妹に恋ひ渡りなむ

2975 高麗錦こまにしき紐の結びも解きけずいはひて待てど験なきかも

2976 紫のが下紐の色に出でず恋ひかも痩せむ逢ふよしを無み

2977 何ゆゑか思はずあらむ紐の緒の心に入りて恋しきものを

2978 真澄鏡まそかがみ見ませ我が背子が形見持たらむ君に逢はざらめやも

2979 真澄鏡直目ただめに君を見てばこそ命に向ふが恋やまめ

2980 真澄鏡見飽かぬ妹に逢はずして月の経ぬれば生けるともなし

2981 祝部はふりらが斎ふ三諸みもろの真澄鏡懸けて偲ひつ逢ふ人ごとに

2982 針はあれど妹がなければ付けめやとあれを悩まし絶ゆる紐が緒

2983 高麗剣我が心ゆゑよそのみに見つつや君を恋ひ渡りなむ

2984 剣大刀名の惜しけくもあれはなしこの頃の間の恋の繁きに

2985 梓弓末はし知らず然れどもまさかは君に寄りにしものを

     一本ノ歌ニ曰ク、

    梓弓末のたづきは知らねども心は君に寄りにしものを

2986 梓弓引きみゆるべみ思ひみてすでに心は寄りにしものを

2987 梓弓引きて緩さぬ大夫ますらをや恋ちふものをしぬひかねてむ

2988 梓弓末の中ごろ淀めりし君には逢ひぬ嘆きはやまむ

2989 今更に何しかはむ梓弓引きみ緩べみ寄りにしものを

2990 娘子をとめらが績麻うみをのたたり打麻うちそ懸け倦む時なしに恋ひ渡るかも

2991 たらちねの母が飼ふ繭隠まよごもりいふせくもあるか妹に逢はずて

2992 玉たすき懸けねば苦し懸けたれば継ぎて見まくの欲しき君かも

2993 紫のまだらのかづら花やかに今日見る人に後恋ひむかも

2994 玉かづら懸けぬ時なく恋ふれども如何でか妹に逢ふ時もなき

2995 逢ふよしの出で来むまでは畳薦たたみこも重ね編む数夢にし見てむ

2996 白香しらかつく木綿ゆふは花もの言こそは何時のまさかも常忘らえね

2997 石上いそのかみ布留ふるの高橋高々に妹が待つらむ夜そ更けにける

2998 湊入りの葦別小舟あしわけをぶね障り多み今来むあれを淀むとふな

     或ル本ノ歌ニ曰ク、

    湊入りに葦別小舟障り多み君に逢はずて年そ経にける

2999 水を多み高田あげに種蒔きひえを多み選らえしわざが独り

3000 たまし合へば相寝しものを小山田の鹿猪田ししだるごと母し守らすも

3001 春日野に照れる夕日の外のみに君を相見て今そ悔しき

3002 あしひきの山より出づる月待つと人には言ひて妹待つあれ

3003 夕月夜ゆふづくよあかとき闇のおほほしく見し人ゆゑに恋ひ渡るかも

3004 久かたの天つみ空に照れる日の失せなむ日こそが恋止まめ

3005 十五日もちの夜に出でにし月の高々に君をいませて何をか思はむ

3006 月夜よみ門に出で立ち足占あうらして行く時さへや妹に逢はざらむ

3007 ぬば玉の夜渡る月のさやけくはよく見てましを君が姿を

3008 あしひきの山を木高こたかみ夕月をいつかと君を待つが苦しさ

3009 橡の衣解き洗ひ真土山本つ人には猶しかずけり

3010 佐保川の川波立たず静けくも君にたぐひて明日さへもがも

3011 我妹子に衣春日の宜寸川よしきがはよしもあらぬか妹が目を見む

3012 との曇り雨布留ふる川のさざれ波間なくも君は思ほゆるかも

3013 我妹子やを忘らすな石上袖布留川の絶えむとへや

3014 神山かみやまの山下とよみ行く水の水脈みをの絶えずは後もが妻

3015 神のごと聞こゆるたぎの白波の面知る君が見えぬこの頃

3016 山川の滝にまされる恋すとそ人知りにける間なくし思へば

3017 あしひきの山川水の音に出でず人の子ゆゑに恋ひ渡るかも

3018 巨勢こせなる能登瀬の川の後に逢はむ妹にはあれは今ならずとも

3019 洗ひ衣取替川とりかひがはの川淀の淀まむ心思ひかねつも

3020 斑鳩いかるが因可よるかの池のよろしくも君が言はねば思ひそがする

3021 隠沼こもりぬの下よは恋ひむいちしろく人の知るべく嘆きせめやも

3022 行方なみこもれる小沼をぬの下ひにあれそ物ふこの頃のあひだ

3023 隠沼の下よ恋ひ余り白波のいちしろく出でぬ人の知るべく

3024 妹が目を見まく堀江のさざれ波しきて恋ひつつありと告げこそ

3025 いは走る垂水の水のはしきやし君に恋ふらくが心から

3026 君は来ずあれは故なみ立つ波のしばしば侘びしかくて来じとや

3027 淡海あふみへたは人知る沖つ波君をおきては知る人もなし

3028 大海の底を深めて結びてし妹が心は疑ひもなし

3029 佐太さだの浦に寄する白波間なく思ふを如何で妹に逢ひがたき

3030 思ひ出でてすべなき時は天雲の奥処おくかも知らに恋ひつつそ居る

3031 天雲のたゆたひやすき心あらばあれをな頼め待てば苦しも

3032 君があたり見つつも居らむ生駒山雲なたなびき雨は降るとも

3033 なかなかに如何で知りけむ春山に燃ゆるけぶりのよそに見ましを

3034 我妹子に恋ひすべなかり胸を熱み朝戸開くれば見ゆる霧かも

3035 暁の朝霧ごもり帰りしに如何でか恋の色に出でにける

3036 思ひ出づる時はすべなみ佐保山に立つ雨霧のぬべく思ほゆ

3037 殺目山きりめやま行き交ふ道の朝霞ほのかにだにや妹に逢はざらむ

3038 かく恋ひむものと知りせば夕へ置きてあしたは消ぬる露ならましを

3039 夕へ置きてあしたは消ぬる白露の消ぬべき恋もあれはするかも

3040 後つひに妹に逢はむと朝露の命は生けり恋は繁けど

3041 朝なな草の上白く置く露の消なば共にと言ひし君はも

3042 朝日さす春日の小野に置く露の消ぬべきが身惜しけくもなし

3043 露霜の消やすき我が身老いぬともまた変若をちかへり君をし待たむ

3044 君待つと庭にし居れば打ち靡く我が黒髪に霜そ置きにける

3045 朝霜の消ぬべくのみや時なしに思ひ渡らむ息の緒にして

3046 ささ波の波越すあぜに降る小雨間も置きてはなくに

3047 神さびていはほに生ふる松が根の君が心は忘れかねつも

3048 み狩りする猟路かりぢの小野の櫟柴ならしばの馴れはまさらず恋こそまされ

3049 桜麻さくらあさ麻生をふの下草早生ひば妹が下紐解けざらましを

3050 春日野に浅茅あさち標結しめゆひ絶えめやとふ人はいや遠長に

3051 あしひきの山菅の根のねもころにあれはそ恋ふる君が姿を

     或ル本ノ歌ニ曰ク、ふ人を見むよしもがも。

3052 かきつはた佐紀沢さきさはに生ふる菅の根の絶ゆとや君が見えぬこの頃

3053 あしひきの山菅の根のねもころに止まずしはば妹に逢はむかも

3054 相思はずあるものをかも菅の根のねもころころにへるらむ

3055 山菅のやまずて君を思へかも我が心神こころとのこの頃は無き

3056 妹が門行き過ぎかねて草結ぶ風吹き解くなまた還り見む

     一ニ云ク、直に逢ふまでに。

3057 浅茅原茅生ちふに足踏み心ぐみふ子らが家のあたり見つ

     一ニ云ク、妹が家のあたり見つ。

3058 うち日さす宮にはあれど月草の現心うつしこころはなくに

3059 ももに人は言へども月草のうつろふ心あれ持ためやも

3060 忘れ草我が紐に付く時となく思ひ渡れば生けるともなし

3061 あかときの目覚まし草とこれをだに見つついましてあれと偲はせ

3062 忘れ草垣もしみみに植ゑたれどしこの醜草なほ恋ひにけり

3063 浅茅原小野に標結ひ空言むなことも逢はむと聞こせ恋のなぐさに

     或ル本ノ歌ニ曰ク、来むと知志君をし待たむ。

     又見柿本朝臣人麿歌集、然落句小異耳。

3064 人皆の笠に縫ふちふ有間菅ありて後にも逢はむとそ

3065 み吉野の秋津の小野に刈るかやの思ひ乱れてる夜しそ多き

3066 妹がる三笠の山の山菅の止まずや恋ひむ命死なずば

3067 谷せば峯辺みねへへる玉かづら延へてしあらば年に来ずとも

     一ニ云ク、石蔦いはつなの延へてしあらば。

3068 水茎の岡の葛葉くずばを吹き返し面知る子らが見えぬ頃かも

3069 赤駒のい行きはばかる真葛原何の伝言つてごと直にしけむ

3070 木綿畳ゆふたたみ田上山たなかみやまのさな葛ありさりてしも今ならずとも

3071 丹波道たにはぢの大江の山の真玉葛またまづら絶えむの心はなくに

3072 大崎の荒磯のわたり延ふくずの行方もなくや恋ひ渡りなむ

3073 木綿畳田上山のさな葛後も必ず逢はむとそ

     或ル本ノ歌ニ曰ク、絶エムト妹ヲガ思ハナクニ。

3074 はねず色のうつろひやすき心あれば年をそ来る言は絶えずて

3075 かくしてそ人の死ぬちふ藤波のただ一目のみ見し人ゆゑに

3076 住吉すみのえ敷津しきつの浦の名告藻なのりその名は告りてしを逢はなくも怪し

3077 みさご居る荒磯ありそに生ふる名告藻なのりそのよし名は告らせ親は知るとも

3078 波のむた靡く玉藻の片ひにふ人の言の繁けく

3079 わたつみの沖つ玉藻の靡き寝む早来ませ君待てば苦しも

3080 わたつみの沖に生ひたる縄海苔の名はかつて告らじ恋ひは死ぬとも

3081 玉の緒を片緒にりて緒を弱み乱るる時に恋ひざらめやも

3082 君に逢はず久しくなりぬ玉の緒の長き命の惜しけくもなし

3083 恋ふることまされる今は玉の緒の絶えて乱れて死ぬべく思ほゆ

3084 海人娘子かづき採るちふ忘れ貝世にも忘れじ妹が姿は

3085 朝影に我が身はなりぬ玉かぎるほのかに見えて去にし子ゆゑに

3086 なかなかに人とあらずは桑子くわこにも成らましものを玉の緒ばかり

3087 真菅ますがよし宗我そがの川原に鳴く千鳥間なし我が背子が恋ふらくは

3088 韓衣からころも着奈良の山に鳴く鳥の間なく時なしが恋ふらくは

3089 遠つ人猟道かりぢの池に住む鳥の立ちても居ても君をしそ

3090 葦辺ゆく鴨の羽音の音のみを聞きつつもとな恋ひ渡るかも

3091 鴨すらもおのが妻どちあさりして後るるほとに恋ふちふものを

3092 白真弓斐太ひだの細江の菅鳥すがとりの妹に恋ふれやを寝かねつる

3093 小竹しぬに来居て鳴く鳥目を安み人妻ゆゑにあれ恋ひにけり

3094 物ふとい寝ず起きたる朝明あさけには侘びて鳴くなりにはつとりさへ

3095 朝烏早くな鳴きそ我が背子が朝明の姿見れば悲しも

3096 馬柵うませ越しに麦食む駒のらゆれど猶し恋ふらくしぬひかねつも

3097 さ桧隈ひのくま桧隈川に馬とどめ馬に水飼へあれよそに見む

3098 おのれゆゑ罵らえて居れば葦毛馬の面高おもたかぶたに乗りて来べしや

     右ノ一首ハ、平群文屋朝臣益人伝ヘテ云ク、昔聞ク

     紀皇女竊カニ高安王ニヒテ責メラレシ時、此ノ歌

     ヲ御作レリト。但高安王ハ左降シテ、伊与ノ国守ニ

     ケラル。

3099 紫草むらさきを草とく伏す鹿の野は異にして心はおや

3100 思はぬを思ふと言はば真鳥住む雲梯うなての杜の神し知らさむ


問答とひこたへの歌〔二十六首。人麿集外。〕


3101 紫は灰さすものそ海石榴市つばいちの八十の衢に逢ひし子やたれ

3102 たらちねの母が呼ぶ名を申さめど道行く人を誰と知りてか

     右二首ふたうた

3103 逢はなくはしかもありなむ玉づさの使をだにも待ちやかねてむ

3104 逢はむとは千たび思へどあり通ふ人目を多み恋つつそ居る

     右二首。

3105 人目多みただに逢はずてけだしくもが恋ひ死なば誰が名ならむも

3106 相見まく欲しけくあれば君よりもあれそまさりていふかしみする

     右二首。

3107 うつせみの人目を繁み逢はずして年の経ぬれば生けるともなし

3108 うつせみの人目繁くはぬば玉の夜の夢にを継ぎて見えこそ

     右二首。

3109 ねもころにふ妹を人言の繁きによりて淀む頃かも

3110 人言の繁くしあらば君もあれも絶えむと言ひて逢ひしものかも

     右二首。

3111 すべもなき片恋をすとこの頃にが死ぬべきは夢に見えきや

3112 夢に見て衣を取り着よそふ間に妹が使そ先立ちにける

     右二首。

3113 ありありて後も逢はむと言のみを堅く言ひつつ逢ふとはなしに

3114 極めてあれも逢はむと思へども人の言こそ繁き君なれ

     右二首。

3115 息の緒にが息づきし妹すらを人妻なりと聞けば悲しも

3116 我がゆゑにいたくな侘びそ後つひに逢はじと言ひしこともあらなくに

     右二首。

3117 門立てて戸もしたるをいづくよか妹が入り来て夢に見えつる

3118 門立てて戸は閉したれど盗人ぬすひと穿れる穴より入りて見えしを

     右二首。

3119 明日よりは恋ひつつあらむ今宵だに早く初よひより紐解け我妹

3120 今更に寝めや我が背子新夜あらたよの一夜もおちず夢に見えこそ

     右二首。

3121 我が背子が使を待つと笠も着ず出でつつそ見し雨の降らくに

3122 心なき雨にもあるか人目ともしき妹に今日だに逢はむを

     右二首。

3123 ただ独りれどかねて白妙の袖を笠に着濡れつつそ来し

3124 雨も降り夜も更けにけり今更に君なめやも紐解きけな

     右二首。

3125 久かたの雨の降る日を我が門に蓑笠にのかさ着ずてる人や誰

3126 纏向まきむく痛足あなしの山に雲居つつ雨は降れども濡れつつそ

     右二首。


羇旅たびに思ひをぶ〔九十首。四首、人麻呂集。三十四首、悲別歌、人麻呂集外。四十九首、人麻呂集外。十首、問答歌、人麻呂集外。〕


3127 度会わたらひの大川のの若久木我が久ならば妹恋ひむかも

3128 我妹子を夢に見えと大和道の渡り瀬ごとに手向そがする

3129 桜花咲きかも散ると見るまでに誰かもここに見えて散りゆく

3130 豊国の企玖きくの浜松心いたく何しか妹に相言ひそめけむ

     右ノ四首ハ、柿本朝臣人麿集ニ出ヅ。

3131 月変へて君をば見むと思へかも日も変へずして恋の繁けむ

3132 な行きそと帰りもやと顧みに行けどゆかれず道の長手を

3133 旅にして妹を思ひ出いちしろく人の知るべく嘆きせむかも

3134 里ざかり遠からなくに草枕旅としへばなほ恋ひにけり

3135 近くあれば名のみも聞きて慰めつ今宵よ恋のいやまさりなむ

3136 旅にありて恋ふれば苦しいつしかも都に行きて君が目を見む

3137 遠くあれば姿は見えず常のごと妹が笑まひは面影にして

3138 年も経ず帰りなめど朝影に待つらむ妹が面影に見ゆ

3139 玉ほこの道に出で立ち別れ来し日より思ふに忘る時なし

3140 はしきやし然る恋にもありしかも君に後れて恋しく思へば

3141 草枕旅の悲しくあるなべに妹を相見て後恋ひむかも

3142 国遠み直には逢はず夢にだにあれに見えこそ逢はむ日までに

3143 かく恋ひむものと知りせば我妹子わぎもこに言問はましを今し悔しも

3144 旅の夜の久しくなればさ丹頬にづらふ紐開けけず恋ふるこの頃

3145 我妹子ししぬふらし草枕旅の丸寝まろねに下紐解けつ

3146 草枕旅の衣の紐解けつ思ほせるかもこの年頃は

3147 草枕旅の紐解く家のを待ちかねて嘆かすらしも

3148 玉くしろき寝し妹を月も経ず置きてや越えむこの山の崎

3149 梓弓末は知らねどうつくしみ君にたぐひて山道やまち越え来ぬ

3150 霞立つ長き春日を奥処おくかなく知らぬ山道を恋ひつつか来む

3151 よそのみに君を相見て木綿畳手向の山を明日か越え去なむ

3152 玉かつま安倍島山の夕露に旅寝得せめや長きこの夜を

3153 み雪降る越の大山行き過ぎていづれの日にか我が里を見む

3154 いでが駒早く行きこそ真土山待つらむ妹を行きて早見む

3155 悪木山あしきやま木末こぬれことごと明日よりは靡きたりこそ妹があたり見む

3156 鈴鹿川八十瀬やそせ渡りて誰がゆゑか夜越えに越えむ妻もあらなくに

3157 我妹子にまたも近江あふみの安の川安寝やすいも寝ずに恋ひ渡るかも

3158 旅にありてものをそ思ふ白波の辺にも沖にも寄るとはなしに

3159 湖廻みなとみに満ち来る潮のいや益しに恋はまされど忘らえぬかも

3160 沖つ波辺波へなみの来寄る佐太さだの浦のこのさだ過ぎて後恋ひむかも

3161 在千潟ありちがたあり慰めて行かめども家なる妹いいふかしみせむ

3162 みをつくし心尽して思へかも此処にももとな夢にし見ゆる

3163 我妹子にるとはなしに荒磯廻ありそみに我が衣手は濡れにけるかも

3164 室の浦の瀬戸の崎なる鳴島なるしまの磯越す波に濡れにけるかも

3165 霍公鳥ほととぎす飛幡とばたの浦にしく波のしばしば君を見むよしもがも

3166 我妹子をよそのみや見む越の海の子難こかたの海の島ならなくに

3167 波の間よ雲居に見ゆる粟島の逢はぬものゆゑに寄する子ら

3168 衣手の真若の浦の真砂地まなごつち間なく時なしが恋ふらくは

3169 能登の海に釣する海人の漁火いざりひの光りにいませ月待ちがてり

3170 志賀しかの海人の釣に燭せる漁火のほのかに妹を見むよしもがも

3171 難波潟榜ぎ出し船のはろばろに別れ来ぬれど忘れかねつも

3172 浦廻榜ぐ熊野舟てめづらしく懸けて思はぬ月も日もなし

3173 松浦舟まつらぶねみだる堀江の水脈みを早み楫取る間なく思ほゆるかも

3174 いざりする海人の楫のゆくらかに妹が心に乗りにけるかも

3175 和歌の浦に袖さへ濡れて忘れ貝ひりへど妹は忘らえなくに

     或ル本ノ末ノ句云ク、忘れかねつも。

3176 草枕旅にし居れば刈薦かりこもの乱れて妹に恋ひぬ日はなし

3177 志賀の海人の磯に刈り干す名告藻なのりその名は告りてしを如何で逢ひがたき

3178 国遠み思ひな侘びそ風のむた雲の行くなす言は通はむ

3179 留まりにし人を思ふに秋津野に居る白雲の止む時もなし


別れの悲しみの歌


3180 裏もなくにし君ゆゑ朝ななもとなそ恋ふる逢ふとは無しに

3181 白妙の君が下紐あれさへに今日結びてな逢はむ日のため

3182 白妙の袖の別れは惜しけども思ひ乱れてゆるしつるかも

3183 京辺みやこへに君は去にしを誰解けか我が紐の緒の結ふ手たゆきも

3184 草枕旅ゆく君を人目多み袖振らずしてあまた悔しも

3185 真澄鏡手に取り持ちて見れど飽かぬ君に後れて生けるともなし

3186 曇り夜のたどきも知らず山越えています君をばいつとか待たむ

3187 たたなづく青垣山のへなりなばしばしば君を言問はじかも

3188 朝霞たなびく山を越えてゆかばあれは恋ひむな逢はむ日までに

3189 あしひきの山は百重に隠すとも妹は忘らじ直に逢ふまでに

     一ニ云ク、隠せども君をしぬはく止む時もなし。

3190 雲居なる海山越えていましなばあれは恋ひむな後は逢ひぬとも

3191 よしゑやし恋ひじとすれど木綿間山ゆふまやま越えにし君が思ほゆらくに

3192 草蔭の荒藺あらゐの崎の笠島を見つつか君が山道やまぢ越ゆらむ

     一ニ云ク、み坂越ゆらむ。

3193 玉かつま島熊山の夕暮に独りか君が山道越ゆらむ

     一ニ云ク、夕霧に長恋しつつい寝かてぬかも。

3194 息の緒にふ君はとりが鳴くあづまの坂を今日か越ゆらむ

3195 磐城山いはきやまただ越え来ませ磯崎のこぬみの浜にあれ立ち待たむ

3196 春日野の浅茅が原に後れ居て時そともなしが恋ふらくは

3197 住吉すみのえの岸に向かへる淡路島あはれと君を言はぬ日はなし

3198 明日よりは印南いなみの川の出でて去なば留まれるあれは恋ひつつやあらむ

3199 わたの底沖はかしこ磯廻いそみより榜ぎみいませ月は経ぬとも

3200 飼飯けひの浦に寄する白波しくしくに妹が姿は思ほゆるかも

3201 時つ風吹飯ふけひの浜に出で居つつあがふ命は妹が為こそ

3202 熟田津にきたづ舟乗ふなのりせむと聞きしなべ何そも君が見え来ざるらむ

3203 みさご居る洲に居る舟の榜ぎ出なばうら恋ほしけむ後は逢ひぬとも

3204 玉かづら絶えずいまさね山菅の思ひ乱れて恋ひつつ待たむ

3205 後れ居て恋ひつつあらずば田子たこの浦の海人ならましを玉藻刈る刈る

3206 筑紫道つくしぢの荒磯の玉藻刈ればかも君は久しく待つに来まさず

3207 あら玉の年の緒長く照る月の飽かぬ君にや明日別れなむ

3208 久にあらむ君を思ふに久かたの清き月夜も闇夜やみのみに見ゆ

3209 春日なる三笠の山に居る雲を出で見るごとに君をしそ

3210 あしひきの片山きぎし立ち行かむ君に後れてうつしけめやも


問答とひこたへの歌


3211 玉の緒の現心うつしこころ八十楫やそか懸け榜ぎ出む船に後れて居らむ

3212 八十楫懸け島隠りなば我妹子がとどむと振らむ袖見えじかも

     右二首。

3213 十月かみなつきしぐれの雨に濡れつつや君が行くらむ宿か借るらむ

3214 十月雨間あままも置かず降りにせば誰が里の間に宿か借らまし

     右二首。

3215 白妙の袖の別れをかたみして荒津の浜に宿りするかも

3216 草枕旅ゆく君を荒津まで送り来ぬれど飽き足らずこそ

     右二首。

3217 荒津の海ぬさまつりいはひてむ早帰りませ面変りせず

3218 朝な朝な筑紫の方を出で見つつのみそが泣くいたもすべなみ

     右二首。

3219 豊国の企玖きくの長浜行き暮らし日の暮れぬれば妹をしそ

3220 豊国の企玖の高浜高々に君待つ夜らはさ夜更けにけり

     右二首。