マタイ福音書に関する説教/説教16

説教16

編集

マタイ5章17節


「わたしが律法や預言者を廃止するために来たと思ってはならない。」


なぜ、誰がこのことを疑ったのだろうか。あるいは、誰がイエスを非難し、イエスがこの非難に対して弁明するようにさせたのだろうか。これまでの出来事から、確かにそのような疑惑は生じなかった。というのは、人々に柔和で、優しく、慈悲深く、心が清く、正義に努めるように命じることは、そのような〈律法や預言者を廃止するような〉意図を示すものではなく、むしろ全く逆のことであったからです。


ではなぜイエスはこのようなことを言うことができたのでしょうか。それは意味もなく、またむなしく言ったのではなくイエスは昔の戒めよりも偉大な戒めを定めようとしていたので、「昔の人々には、『殺すなかれ』と言われていたが、わたしはあなたがたに言う。怒りを発してもいけない。」と言った。それは、ある種の神聖で天的な会話への道を示し、その奇妙さが聞き手の魂を動揺させたり、イエスが言ったことに反抗するような気持ちにさせたりしないようにイエスは前もって彼らを正すためにこの手段を使われたのです。


というのは、彼らは律法を守らなかったにもかかわらず、律法に対して非常に良心的な配慮を持っていたからです。そして彼らは日々、律法を行為によって無効にしながらも律法の文言についてはそれを動かすこともなく、誰もそれ以上付け加えないようにしていました。むしろ彼らは支配者たちが律法に付け加えることを我慢していたが、それは良いことではなく、むしろ悪いことでした。彼らは自分たちの付け加えによって私たちの両親にふさわしい名誉を無視し、また他の多くの人々も自分たちに課せられた事柄から、こうした不当な付け加えによって自分たちを解放しようとしていたのです。


したがってキリストはまず第一に聖職者ではなかったし、次に彼が導入しようとしていたものは、徳を減らすのではなく徳を高める一種の付加物であったこともあり、彼はこれらの両方の状況が彼らを悩ませることを事前に知っていたので、彼らの心に新たな素晴らしい法則を書き込む前に、そこに潜んでいるはずのものを追い払ったのです。では、そこに潜んでいて障害となっていたものは何だったのでしょうか。


彼らは、イエスがこのように語ったのは古い制度を廃止するためだと考えました。したがってイエスはこの疑いを解消させようとします。そして、ここでだけでなく他のところでもそうします。彼らがイエスを神の敵とみなしたのは彼が安息日を守らないからです。そこでイエスは彼らの疑いを静めるために再び弁明を述べます。その弁明の中には、確かにイエスにふさわしいものもありました。例えば、「父は働いておられる。だからわたしも働くのだ」[1] と言われた時である。しかし安息日に穴に落ち込んだ羊を助け出す話のように[2]、その中には卑近で身近な話による説明もありました。そして律法が守られるために乱されていることを指摘し、同じ効果を持つ割礼についても再度言及しました[3]

したがって、イエスが神の敵対者という印象を消すために、しばしばへりくだって、より身近な言葉で話すことも理解できます。


このためラザロを呼ぶとき、一言だけで何千もの死人を起き上がらせたイエスは祈りも加えました。そして、それがイエスを生んだ方よりも劣っていると思われないように、この疑いを正すためにこう付け加えられた、「わたしは、そばに立っている民衆のために、これらのことを言いました。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」[4] また、イエスは自分の力で行動する者のようにすべてのことを行うのではなく、彼らの弱さを徹底的に正そうともせず、また後から来る者たちに、自分には力も権威もないかのように悪い疑いを抱かせないように、すべてのことを祈りによって行うのでもなく後者を前者と混ぜ、さらに後者をこれらと混ぜ合わせます。またイエスはこれを無差別に行うのではなく、ご自身の正しい知恵によって行うのです。というのはイエスは大きなわざを権威をもって行う一方で、小さなわざにおいては天を仰いでおられるからです。このように罪を赦し、秘密を明らかにし、楽園を開き、悪魔を追い払い、らい病人を清め、死をおさえ、何千人もの死者を蘇らせたとき、イエスはすべて命令として行われた。しかし、これらよりもはるかに小さなこと、つまり、少数のパンから多くのパンを生じさせていたとき天を仰ぎ見て、弱さからこれをなさるのではないことを示しておられる。権威をもって大きなことをなさるお方が、小さなことをなさるのにどうして祈りが必要でしょうか。しかし私が言っていたように、イエスは彼らの恥知らずさを黙らせるためにこのようにされるのです。それゆえ、あなたがたがへりくだったことを語るイエスの言葉を聞くときも、同じように考えなさいと私はあなたがたに命じます。実際、その言葉と行動の両方に原因があるのは、イエスが神から離れた存在と思われないようにするため、すべての人を教え、仕えるため、謙遜を教えるため、肉に包まれていること、ユダヤ人が一度にすべてを聞くことができないこと、自分自身について高言を発しないようにと教えるためです。このためにイエスはご自身についてへりくだったことを何度も語り、大きなことは他の人に語らせているのです。実際、イエスはユダヤ人たちと論じながら、「アブラハムの生まれる前から、わたしはいる」[5] と言われました。しかし弟子たちはそうは言わなかった。「初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。」[6]


またイエス自身が天と地と海、そして見えるもの見えないものすべてを造ったことは、イエス自身の言葉で、明確にはどこにも述べられていません。しかし彼の弟子ははっきりとそれを語り、何も隠さず、このことを一度、二度、いや何度も断言しています。「すべてのものは彼によって造られた」また「彼によらずに造られたものは一つもなかった」と書いている。そして「彼は世界におり、世界は彼によって造られた」のです。[7]


他の人々がイエスについて、イエスがご自身について語ったことよりも大きなことを語ったとしても、なぜ驚くのでしょうか。というのは多くの場合、イエスは行為によって示したことを言葉によって公に語らなかったからです。このようにイエスはご自身が人類を創造されたことを、あの盲人によってさえ明らかにされました。しかしイエスが初めに私たちの創造について語っていたとき、イエスは「私が創造した」とは言わず、「創造者は、彼らを男と女に創造した」[8]と言われました。またイエスは世界とその中にあるすべてのものを創造されたことを、魚、ワイン、パン、海のなぎ、十字架上で避けた太陽の光、その他多くのものによって示されました。しかし言葉では、イエスはどこにもこれをはっきりとは語らなかった。弟子たちは、ヨハネ、パウロ、ペテロが絶えずそれを宣言しているにもかかわらずです。


そして、夜も昼もイエスの話を聞き、イエスが奇跡を行うのを見ていた人たち、ひそかに多くのことを説明して死者をよみがえらせるほどの力を与えた人たち、イエスのためにすべてを捨てるほどに完全な者とした人たち、彼らでさえ、聖霊の助けがなければ理解力がなく、そのような卓越性からは程遠く、イエスが最初から最後までこれほど大きなへりくだりを実践していなかったならば、イエスが何かをしたり言ったりするときに偶然そこにいるだけだったユダヤ人たちが、イエスがすべての神からかけ離れた存在であると確信しないでいられただろうか。


この理由から、イエスが安息日を廃止しようとしていたときでさえ、そのような法律を制定したのは、明確な目的があったからではなく多くの様々な弁明をまとめたからであることがわかります。さてイエスが一つの戒めを廃止しようとしていたとき、聞く者を驚かせないように言葉をあれほど控えめにしたのなら、ましてや、すでに完全な律法であった律法に別の律法の完全な法典を加えるときには、聞いている人々を驚かせないように多くの慎重さと注意を要したのです。


同じ理由でイエスがご自身の神性について、あちこちではっきりと教えているのも見当たりません。律法に付け加えたことが彼らを大いに困惑させたのであれば、イエスがご自身を神であると宣言したことは、なおさら困惑させるでしょう。


そのため主は、本来の威厳をはるかに下回る多くのことを語り、ここで主が律法に付け加えようとするときには、その前に訂正のために多くの言葉を用いました。主は、「私は律法を廃止しない」と一度だけ言ったのではなく、それをもう一度繰り返し、さらにもう一つの、さらに大きなことを付け加えられた。「私が廃止するために来たと思ってはならない」という言葉に、「私は廃止するために来たのではなく、成就するために来たのだ」と付け加えられたのです。


このことはユダヤ人の頑固さをはばむだけでなく、古い契約は悪魔からのものだと言う異端者たち[9]の口も封じます。なぜなら、もしキリストが悪魔の暴政を滅ぼすために来られたのなら、どうしてこの契約は彼によって廃止されないばかりか、成就されるのであろうか。というのは、キリストは「私はそれを廃止しない」と言われただけでなく、それだけで十分であったにもかかわらず、「私はそれを成就する」と言われたからです。これは自分自身に反対するどころか、それを確立する者の言葉です。


では、どうしてイエスはそれを廃止しなかったのかと問う人もいるかもしれない。むしろ、律法や預言者をどのように成就したのか。預言者については、イエスは、ご自身について語られたすべてのことを行動で実証することによって成就した。それゆえ、福音書記者も、それぞれの場合に「預言者によって語られたことが成就するため」と言っている。イエスが生まれたとき[10]、子供たちがイエスにあのすばらしい賛美歌を歌ったとき、イエスがロバに乗ったとき[11]、そしてその他多くの場合にイエスは同じように成就しました。もしイエスが来られなかったなら、これらすべてのことは成就しなかったに違いありません。


しかしイエスは律法を一つの方法だけではなく、第二、第三の方法でもまっとうされました。一つの方法とは律法のいかなる戒めにも違反しないことである。イエスが律法をすべて全うされたことは、ヨハネに言われた言葉を聞いてください、「このようにして、わたしたちはすべての正しいことをまっとうするべきである」。またユダヤ人たちにも言われた、「あなたがたのうち、だれがわたしに罪があると認めるのか」[12]。また、弟子たちにも言われた、「この世の支配者が来て、わたしに何も見つけない」[13]。預言者も初めから「彼は罪を犯さなかった。」[14]と言っています。


これが、イエスが律法を成就した一つの意味である。もう一つの意味は、私たちを通しても同じようにしてくれたということです。なぜならイエスが律法を成就してくれたばかりでなく、私たちにもそれを与えてくれたことが不思議です。パウロもこのことを宣言して、「キリストは信じるすべての人にとって、律法の目的であり義となられたのである」と言いました[15]。また、「キリストは肉において罪を裁かれた。それは、肉に従って歩まない私たちのうちに律法の義が全うされるためである」とも言いました[16]。また、「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にしてしまうのであろうか。決してそうではない。むしろ私たちは律法を確立するのである。」[17]とも言っている。というのは、律法は人を義とするために働いてはいたが、力がなかったため、キリストが来て信仰によっての義の道をもたらし、律法が望んでいたことを確立し、律法が文字によってできなかったことをキリストは信仰によって成し遂げたからです。このゆえに、キリストは「わたしは律法を廃止するために来たのではない」と言っているのです。


しかしもし誰かが正確に調べるなら、その人はこれが行われた別の、第三の意味も見つけるでしょう。ではそれはどのような意味であろうか。それは、彼、キリストが彼らに伝えようとしていた将来の法典の意味です。


というのは彼の言葉は、以前の言葉を取り消すものではなく、それを引き出し満たすものだったからです。したがって「殺してはならない」という言葉は、「いかってはならない」という言葉によって無効にされるのではなく、むしろそれを満たして、より安全に保たれます。他のすべての言葉についても同様です。


したがって、あなたがたはイエスが以前にも疑われることなくこの教えの種をまかれたのと同じように、古い戒めと新しい戒めを比較してイエスがそれらを対立させていると、よりはっきりと疑われたときに、イエスは前もって訂正を行なったのだとわかる。というのはイエスは、その言葉によって、ひそかにすでにそれらの種をまかれていたからである。したがって「貧しい人々は幸いである」は、いかってはならないということと同じである。また「心の清い人々は幸いである」は、「情欲のために女を見ない」ということと同じである。また「地上に宝を積まない」は、「あわれみ深い人々は幸いである」と調和している。また「嘆く」こと、「迫害される」こと、「ののしられる」ことは、「狭い門から入る」ことと一致する。そして「義に飢え渇く」ことは、イエスが後に「あなたがたにしてほしいと思うことは何でも、あなたがたも人々にそのようにしなさい」と言われたことにほかなりません。そして、「平和を実現する者は幸いである」と宣言した後、イエスは「贈り物を残しておきなさい」と命じ、悲しんでいる人との和解を急ぎ、「敵対者と合意しなさい」と命じたときも、ほぼ同じことを言ったのです。


しかし、そこでは正しいことをする者への報いを、ここではむしろ実践を怠る者への罰を定めておられる。だから、あそこでは「柔和な者は地を受け継ぐ」と言われ、ここでも「兄弟を愚か者と呼ぶ者は地獄の火に投げ込まれる」と言われ、また「心の清い者は神を見る」と言われているのに対し、ここでは、不品行な見方をする完全な姦淫者です。そして、そこでは「平和を実現する者たち、神の子ら」と呼ばれているのに対し、ここでは別の方面から「敵対者があなたを裁判官に引き渡すことのないように」と警告しておられるのです。このように、前半では悲しむ者や迫害される者を祝福しておられるのに、次の部分では、まさに同じ点をはっきりさせて、その道を行かない者には滅びを警告しておられるのです。なぜなら、「広い道を歩む者は、そこで終わりを迎える」と主は言われるからです。そして、「あなた方は神と富とに仕えることはできない」は、「慈悲深い人々は幸いである」や「正義に飢えている人々は幸いである」と同じであるように私には思われます。


しかし私が述べたように、イエスはこれらのことをより明確に述べようとしており、より明確にするだけでなく、すでに述べた以上のことを付け加えようとしているので(イエスはもはや単に慈悲深い人を求めるのではなく、私たちに上着さえも手放すように命じ、単に柔和な人を求めるのではなく、私たちを打つ者にはもう一方の頬をも向けるように命じている)、したがって、イエスはまず表面的な矛盾を取り除いてくれるのです。


また私がすでに述べたように、イエスはこのことを一度だけではなく何度も言いました。「わたしが滅ぼすために来たと思ってはならない」という言葉にイエスはこう付け加えました、「わたしは滅ぼすために来たのではなく、成就するために来たのだ」と。


「まことに、わたしはあなた方に言う。天にまで、そして地が過ぎても律法の一点一画も過ぎ去ることはなく、すべてが成就するまで続く。」[18]


さて、彼が言っていることは次のようなものです。「それが未完成のままでいることはあり得ず、その中の最も小さなことでさえも必ず成就されなければならない」。彼自身がそれを成し遂げ、それを完全に正確に完成させました。


そしてここでイエスは、全世界の流行も変化しつつあることを私たちに暗に示唆しています。また、イエスがそれを無目的に定めたわけではなく、聞く者の注意を喚起し、少なくとも、創造の営みそのものがすべて変化し、人類が別の国、より高次の生き方を実践するよう招かれるのであれば、正当な理由をもって別の規律を導入していることを示すために定められたのです。


「だから、これらの最も小さな戒めの一つでも破り、また人々にそうするように教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれるであろう。」[19]


こうして、イエスは邪悪な疑いを払いのけ、反論しようとする者たちの口を封じ、そしてついには警告を与え、自分が始めようとしていた制定を支持する厳しい通告を下した。


イエスがこれを古代の法律についてではなく、これから制定しようとしていた法律について語ったことについては、次の言葉に耳を傾けてください。「わたしはあなたがたに言う。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさらないなら、あなたがたは決して天の国に入れないであろう。」[20]


というのは、もしイエスが古代の律法に関して責めていたのなら、どうして「彼らの義を超えることがあるだろう」と言われたのでしょうか。古代の人たちと全く同じことをした人たちは、正義の点ではそれを超えることはできなかったからです。


しかし、必要となる超えることとはどのようなものだったのでしょうか。いからないこと、女性を不道徳に見ないことさえも必要とされるものとは。


さて、イエスはこれらの戒めをなぜ「最も小さい」と呼んだのでしょうか。というのは、これらの戒めはそれほど偉大で崇高なものであったにもかかわらず、イエスはそれを制定しようとしていたからです。イエスは自ら謙虚になり、ご自身について度々控えめに語られたように、ご自身の制定についても同様に語られ、これによって再び私たちにすべてにおいて慎み深くあるよう教えられました。また目新しいことの疑いがあったように思われたので、イエスはしばらくの間、控えめに講話をされました。


しかし「天国で最も小さい者」と聞いても、地獄と苦痛以外の何ものでもないと想像しなさい。なぜなら、イエスは「天国」という言葉で、単にその享受だけでなく、復活の時とあの恐ろしい来臨も意味していたからです。兄弟を愚か者と呼び、ただ一つの戒めを破った者が地獄に落ちるのに、すべての戒めを破り、他の人にもそうするようにそそのかした者が天国にいるというのは、どうして理にかなっているでしょうか。ですから、イエスが意味しているのは、そのような者はその時最も小さい者、つまり最後に追い出される者になるということです。そして最後に残った者は必ずその時地獄に落ちるでしょう。なぜなら、神であるイエスは、多くの人々の怠慢を予知していたからです。ある人々がこれらの言葉は単なる誇張だと考え、律法について議論し、「だれかが他人を愚か者と呼んだら、罰せられるのか。女を見るだけで姦淫者になるのか」と言うであろうことを予知していたからです。まさにこの理由から、神はそのような傲慢さをあらかじめ滅ぼし、違反する者とそうするように他人を誘導する者の両方に対して、最も厳しい非難を下したのです。


ですから私たちも神の脅威を知っているので、私たち自身は違反せず、またこれらのことを守ろうとする人たちを落胆させないようにしていきましょう。


「しかし、これを行い、またそう教える者は、おおいなる者と呼ばれるであろう」とイエスは言われました。


私たちは自分自身だけでなく他の人々にも有益であるべきだからです。自分自身を正しく導く者よりも、自分自身に加えて他の人も導く者のほうが報いは大きいからです。行いを伴わない教えはその教師を非難するからです(「他人を教えるあなたは、自分自身を教えていない」と言われている)。同様に、行いを伴わずに他の人を導かないなら、報いは少なくなるのです。したがって、どちらの仕事でも主導的であり、まず自分自身を正してから残りのことにも注意を払うべきです。そのために、神ご自身が行いを教えの前に置かれたのです。それは、何よりもまず、教えることができるようにするためであり、他の方法では教えられないようにするためです。「医者よ、自分自身を治せ」と言われるでしょう。自分自身を教えることができないのに、他の人を正そうとする人は多くの人から嘲笑されるでしょう。むしろ、そのような人は教える力がまったくなく、その行いが彼に反対の声を発しているのです。しかし、両方の点で完全であれば、「彼は天の国で偉大な者と呼ばれるであろう。」


「わたしはあなたがたに言う。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入れない。」[21]


ここで義とは、徳のすべてを意味します。ヨブについて語ったときも、彼は「罪のない、正しい人であった」と言いました[22]。同じ言葉の意味に従って、パウロも律法さえも定められていない人を「義人」と呼びました。「なぜなら」と彼は言います、「義人のために律法は定められていないからである。」[23]。そして他の多くの箇所でも、この名前が一般的に徳を表していることに気づくでしょう。


しかし、どうか恵みの増大に気づいてください。主は、新しく来た弟子たちを旧約時代の教師たちよりも優れた者とされるのです。ここで「律法学者やパリサイ人」と言っているのは、単に不法な者ではなく善行をする者たちのことです。彼らが善行をしていなければ、主は彼らに義があるとは言わなかったでしょうし、非現実の者と現実の者とを比較することもなかったでしょう。


また、ここでも古い律法と他の律法とを比較して、神が古い律法を賞賛していることに注目してください。古い律法は、同じ種族、同じ親族であることを意味します。多かれ少なかれ同じ種類だからです。神は古い律法を非難せず、より厳しくしようとします。しかし、もしそれが悪であったなら、神はそれをさらに要求することはなかったでしょう。神はそれをより完全にすることはなかったでしょう。むしろ、それを捨て去ったでしょう。


そして、もしそうであるなら、それは私たちを天の国に導くのではないとどうして言えるだろうか。それは、キリストの来臨後に生きる、より力に恵まれ、より大きなことを目指すよう義務づけられている人々を、今は導くのではない。なぜならそれは、その養子たちを一人残らず導くからである。そうだ、なぜなら、「東からも西からも多くの者が来て、アブラハム、イサク、ヤコブの懐に横たわる」[24]と主は言われるからである。そしてラザロもまた、大きな賞を受け、アブラハムの懐に住んでいることが示される。そして古い制度において卓越性をもって輝いていたすべての人々は、その一人残らず、それによって輝いた。そしてもしそれが何か邪悪なもの、あるいは彼から離れたものであったなら、キリスト自身が来たとき、それをすべて成就することはなかったであろう。なぜなら彼がこれを行っていたとすれば、ユダヤ人を引き付けるためだけであって、それが新しい律法に類似し、それと並行していることを証明するためではなかったからである。では、なぜイエスは異邦人をも惹きつけるために、異邦人の律法と慣習をも成就されなかったのでしょうか。


つまり、あらゆる考慮から、それが私たちを招き入れないのは、それ自体の悪さによるのではなく、今はより高い戒律の季節だからであることは明らかです。


そして、もしそれが新しいものより不完全であったとしても、それは悪いことを意味するのではありません。なぜなら、この原則に基づけば新しい律法自体もまったく同じことになるからです。実際、このことに関する私たちの知識は来たるべきものと比較すると、一種の部分的で不完全なものであり、他の律法の到来とともに廃止されるからです。「完全なものが来たら、その部分的なものは廃止される」[25]と主は言われる。新しい律法によって古い律法が起こったのとまったく同じです。しかし私たちはこのことについて新しい律法を責めるべきではありません。新しい律法は私たちが神の国に到達することにもつながるが、それは「その部分的なものは廃止される」と主は言われます。そして、これらすべてのために私たちは新しい律法を偉大なものと呼んでいます。


それ以来、その報いはより大きくなり聖霊によって与えられる力はより豊かになったので、当然、私たちの恵みもより大きくならなければなりません。それはもはや「乳と蜜の流れる地」でも、安楽な老後でも、多くの子供でも、穀物とワインでも、羊の群れや牛の群れでもありません。天国と、天国にある良いもの、独り子との養子縁組と兄弟関係、相続財産にあずかること、栄光を受け、彼と共に統治すること、そして数え切れないほどの報いなのです。そして私たちがより豊かに助けを受けたことに関して、パウロが言うことをよく聞きなさい。「ですから、キリスト・イエスにあって、肉に従わずに御霊に従って歩んでいる人たちには、今は罪に定められることはありません。なぜなら、命の御霊の法則が、罪と死の法則から私を解放したからです。」[26]


そして今、違反者を脅かし、正しいことをする者には大きな報奨を設け、以前の措置を超えるものを正当に要求していることを示した後、神はこの点から、単純にではなく、古代の法令と比較することによって、次の二つのことを暗示することを望みながら法律を制定し始めます。第一に、以前の法令と対立するのではなく、むしろそれらと非常に調和して神はこれらの法令を制定しているということ。次に、神がこれらの第二の戒律をそれに加えることは適切であり、非常に時宜にかなっているということです。


これをさらに明確にするために、立法者の言葉に耳を傾けてみよう。それでは彼自身は何と言っているでしょうか。


「昔から『殺すなかれ』と言われていたことは、あなたがたも聞いているところである。」[27]


それらの律法を与えたのもイエス自身であったが、これまでのところ、イエスはそれを非人格的に述べています。というのは、一方でイエスが「わたしが昔から彼らに言ったことを、あなたがたは聞いている」と言われたなら、その言葉は受け入れにくくなり、聞く人すべてにとって妨げになったでしょう。また他方で、「わたしの父によって昔から彼らに言われたことを、あなたがたは聞いている」と言われた後に、「しかし、わたしは言う」と付け加えられたなら、イエスはさらに多くのことを自ら引き受けているように思われたでしょう。


それゆえイエスは単にそれを述べ、それによってただ一つの点を明らかにされた。すなわち、イエスがこれらのことを語るために適切な時期に来たという証拠である。なぜなら「昔の人々に告げられた」という言葉によって、イエスは彼らがこの戒めを受けてから長い時間が経っていることを指摘したからである。そして、イエスがこうしたのは、聞き手が彼の戒めのより高次の段階に進むことを躊躇しているのを恥じ入らせるためであった。あたかも教師が怠惰な子供に「音節を学ぶのにどれほどの時間を費やしたか知らないのか」と言うようなものである。そしてイエスはまた、「昔の人々」という表現によってこれをひそかにほのめかし、こうして将来に向けて彼らを彼の教えのより高次の段階へと招集するのである。あたかも、「あなたたちはこれらの教訓を十分に学んできた。これからは、これらよりも高次のものへと進み続けなければならない」と言われたかのようである。


そして、神が戒めの順序を乱さず、律法も始まった、先に来たものから始めるのは良いことである。そう、これもまた戒めと律法の調和を示すのにふさわしいのです。


「しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して理由もなく怒る者は裁きを受けるであろう。」[28]


完全な権威が見えるだろうか。立法者にふさわしい態度が見えるだろうか。いったい預言者の中でこのようなことを語った者がいるだろうか。義人の中で語った者がいるだろうか。族長の中で語った者がいるだろうか。誰もいない。ただ、「主はこう言われる」だけである。しかし、子はそうではない。なぜなら、彼ら〈預言者、義人ら〉は主人の命令を公布していたからである。彼は父の命令を公布したのである。私が「父の」と言うのは、それは彼自身の命令を意味して言うのである。「わたしのものはあなたのものであり、あなたのものはわたしのものである」と彼は言う[29]。そして彼らには立法を行う仲間の僕がいたが、彼は自分自身の僕であった。


では律法をこばむ人々に尋ねてみましょう。「『いかってはならない』は『殺人をしてはならない』と矛盾しているのでしょうか。それとも、一方の戒めは他方の戒めの完成であり発展ではないのでしょうか。」明らかに、一方は他方の成就であり、まさにこの理由から、その方がより偉大である。怒りに駆られない人は、なおさら殺人を控え、いきどおりを抑える人は、なおさら自分の手を抑えるでしょう。憤りは殺人の根です。そして、根を切る者は、なおさら枝も取り除くでしょう。むしろ、枝がまったく伸びるのを許さないでしょう。したがって、神は律法を廃止するためではなく、律法をより完全に遵守するためにこれらの法令を制定されたのです。律法はどのような意図でこれらのことを命じたのでしょうか。それは、だれも隣人を殺してはならないからではありませんか。したがって、律法に反対する者は殺人を命じなければならないでしょう。殺人をすることは、殺人をしないことと矛盾するからです。しかし、もし神がいかることさえ許さないなら、律法の精神は神によってさらに完全に確立される。殺人を避けようと努める者は、怒りさえも捨てた者と同じように殺人を控えることはないだろう。怒りさえも捨てた者は、犯罪からさらに遠ざかるからである。


説教16-2に続く】

トップに戻る↑

脚注

編集
  1. ヨハネ 5:17
  2. マタイ 12:11
  3. ヨハネ 7:23
  4. ヨハネ 11:42
  5. ヨハネ 8:58
  6. ヨハネ 1:1
  7. ヨハネ 1:3, 10
  8. マタイ 19:4
  9. グノーシス主義者とマニ教徒
  10. マタイ 1:22, 23
  11. マタイ 21:5-16
  12. ヨハネ 8:46
  13. ヨハネ 14:30
  14. イザヤ 53:9
  15. ローマ 10:4
  16. ローマ 8:3,4
  17. ローマ 3:31
  18. マタイ 5:18
  19. マタイ 5:19
  20. マタイ 5:20
  21. マタイ 5:20
  22. ヨブ記 1:1
  23. 第一テモテ 1:9
  24. マタイ 8:11
  25. 第一コリント 13:10
  26. ローマ 8:1,2
  27. マタイ 5:21
  28. マタイ 5:22
  29. ヨハネ 17:10

出典

編集


この文書は翻訳文であり、原文から独立した著作物としての地位を有します。翻訳文のためのライセンスは、この版のみに適用されます。
原文:
 

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。

 
翻訳文:
 

原文の著作権・ライセンスは別添タグの通りですが、訳文はクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。