<< 真実なる知識の事、試惑の事、及び陋劣薄弱にして学ばざる人のみならず、一時無慾を賜はり、思想の有様に於ては完全に達して、死者の如くなれると共に、一分は浄潔に近づきし者らも〔慾の上に高く立ちし者等も此世にある間はその生命を慾なる肉体と結合するにより、神意により、格闘の中に居りて肉体の故に慾より擾乱を受く、故に〕驕傲に陥りて滅ぶるが為憐みによりて彼らに試惑を遣はさるるを確知するの緊要なる事。 >>
或者らは日々法を犯し悔改を以てその霊魂を醫さんに、恩寵は彼らを受くることただ一再のみならず、何となれば凡て聡明なる性には限りなく変化の起るありて、各人の為に変化は時々生ずればなり。思慮ある者は此を曉るの機会を多く発見するのみならず、彼が日々自から試みる実験も特に此事に於て彼の智を増さん、もし彼は粛醒し、その智を以て自己に注意するならば、意思はその温柔とその謙遜とに日々如何なる変化を受くると、或る原因の避けられざるあるや、俄に平安なる状態より擾乱に至ること、人は大なる言ふべからざる危険に居る所以とを確知するを得ん。
聖なるマカリイが大なる先見と注意とにより、此事を明白にあらはして、兄弟に記憶せしめ、教訓を為したるは、反対なるものに変じたる時失望に陥らざらんが為なり、何となれば浄潔の階段に立つ者にも自己に怠慢或は弛緩のあらざると同時に、堕落は常に不意に起るあること、猶空気に寒冷の起る如くなるべく、返つて彼らが己の秩序を守る時にさへも彼ら自己の意思に反対なる堕落の彼らに生ずるあるによる。而して確実なる実験を以て之を試みたる福なるマルクも此事を証明し、絶妙なる順序を以て、之をその書に著したるは、人をして聖なるマカリイが此をその書に述べたるは、偶然にして、真実の経験によりしには非ざる如く思はしめざらんが為にして、かくの如き二の証明者により、智は自から必要の時に慰藉を全く確実に受けん為なり。此により彼は如何に言ふか『各人に変化あるは空気に変化あるが如し』といふ。此の各人にといへる言を理会せよ、何となれば性は一なるによる、而して彼が之を言ひしは劣弱者と悪者との為にて、完全なる者に至りては変化を免るべく、「エウヒト」らが証する如く、慾念なくして一の階段に変らず立つを得んと、汝の思ふなからんが為なり、ゆえに彼は各人にと言ひき。
福なる者よ、是れ何ぞや、汝は言ふ、寒冷ありてその後幾ばくもなくして暑熱あり、同じく亦急霰ありて少しく過ぎて晴天あり。我らが練習に於ても此の如く或は戦あり或は恩寵に依るの助あり、或時には霊魂は動揺の中にありて、激浪の之に向つて起るあれども再び変化は生ぜん、何となれば恩寵降りて、神に依る喜びと、平安と、貞潔にして安和なる思念とを人の心に満たしむるによる。けだし彼が此處に是の貞潔の思念を指示すは是より先に禽獣の如く不潔なる思念のありしを了知せしむるものにして、彼は訓諭を與へて言へり、もし此の貞潔にして謙遜なる思念の後に劇変の生ずるあるも、失望悲嘆するなかれ、又恩寵の慰藉の時にも同じく誇るなかれ、返つて喜びの時には憂を待つべしと。然して病の発作するある時は我らに悲まざらんことを勧諭するは是れ我らは之を引誘せざるを要するのみならず、我らに天然固有なるものの如く、喜んで之を受くべきを示すなり。我らは左の人の如く失望に陥らざらん、即苦行の為に何か期する所ある如く、完全にして変らざる慰藉をさへ期すると共に苦労をも、悲哀をも或る反対者の行動の生ずることをも許さずして、我らの主神も此世に於て此性に之を與ふるを適当のこととは思はざるべしと言ふ人の如くならざらん。
マカリイが此教訓を我らに與ふるは或者らが行為を廃して、全く閑散なる者となるを免れん為なり、又此事を思ふと共に失望により衰弱して、その進行に不活動なる者となり了らざらん為なり。彼れ言へらく聖者はすべて此行為を固く守りしを知るべし。我ら此世に居る間に、此らの労苦の後、餘有る慰藉の我らに窃に生ずるあるは、けだし試惑に対する戦と苦行とを以て我らが神に対する愛の実験を毎日毎時我らより要求せらるるものにして、是れ即我らが苦行に於て哀まざるべく憂へざるべきを示すなり。かくの如くなれば我らの行路は幸に進歩せん之に反して此事を逃れ、或は之に遠ざからんと欲する者は、狼の獲物となるべしと。此の如き簡短の言を以て此意見を固め、此意見の極めて合理なるを証して、読者の心中に疑団を全く消滅したる此聖者に驚嘆するは実に当然なり。彼又言へらく、此より遠ざかりて狼の獲物となる者は、路に由らずして行かんと欲する者にして、彼はその心に之を強ひて求めんと欲するも、父らが布設せしに非ざる己の小径に由り行かんと欲するなりと。彼は又喜びの時に哀みを待つべきことをも教ふ、恩寵の働により、俄に我らに大なる思想起りて、聖なるマルクの言ひし如く最高上なる性の心中の直覚に愕然として驚き、諸天使も我らに近づきて直覚を我らに満たしむる時は、すべて反対なる者は遠ざかるべくして、すべて人が此の如き状態にある時に於ては、平和と言ふべからざる安静とは永く続きて絶えざらん。さりながら恩寵は汝を庇ひ、汝を保護する聖なる天使らは汝に近接し、且此の近接によりすべての誘惑者が退去する時も汝は自負するなかれ、動揺せざる港に達し、変はらざる空気を得て、此の逆風の中より全く出でたれば、最早復た敵あるなく、悪なる遇会もあるなしと心中に思ふ勿れ、何となれば多くの者は此れを妄想して危うきに陥りしこと、福なるニルの言ひし如くなればなり。或は又汝は衆人より高ければかくの如き状態にあるは適当なれども、他の人々にはその品行の欠乏の故に毫も適当にあらずと思ふなかれ或は彼らは充分知識を有せざるにより、かくの如き賜を奪はるれど、汝は成聖と、霊的階段と、変らざる喜びの完全に達したるにより、此事に権利を有すと思ふなかれ。之に反して不潔なる思念と不適当なる状態とを更に善く自から省察せよ、即是より少しく以前、汝の昏蒙に対して起る所の思の錯雑と無秩序の為に動揺する時、汝の心中に固められたるものを省察すべし、又汝は如何なる速力を以て慾に傾き、心の昏迷により之と談話して、汝が受けたる神聖なる知識と、才能と、その賜とに耻じず驚かざりしことを思ふべし。而して知るべし、此のすべては我ら各人を慮りて、その有益なるものを建設し給ふ神の照管が我らの謙遜の為に之を我らに遣はしたるものなるを。之に反してもしその才能に自負するならば、汝を棄てん、されば汝は独り思念の為に誘はれて全く堕落せん。
終りに知るべし、汝の堅く立つは汝に属するに非ず、又汝の道徳の行によるにも非ずして、汝をその掌上に持する恩寵が之を成し、汝をして恐れざらしむるを。汝は喜歓の時に此事を己の意中に収納れよ、聖神父の言ひし如く、思念の高ぶらざらん為なり、而して放任の時には、自己の罪に陥りしことを想起して泣くべく、涙を流して俯伏すべし、汝は此を以て救を得、之によりて謙遜を求めんが為なり。然れども失望するなかれ。思を遜りて、己の罪を垂恩により赦さるるべきものと為すべし。
謙遜は行為なくしても多くの罪を赦さるべきものと為す。之に反して謙遜なくんば、行為も無益となるのみならず、我らが為に多くの悪事を備ふるに至らん。予が已に述べし如く、謙遜を以て汝の無法を赦さるべきものとならしめよ。塩は凡の食物の為なる如く、謙遜は凡ての道徳の為なり、彼は多くの罪の勢力を挫くを得べし。もし彼を求め得るならば、我らを神の子と為し善行なくして神の前に顕はさん、けだし謙遜なくんば、我らが悉くの行為と凡の道徳と凡の練修は徒然なるなり。
終に神は意思の変化を望み給ふ。意思は我らを極て善き者とも為し、又放蕩なる者とも為す。我らを神の前に無能力なるものとして立たしめんには、意思一つにて充分なるべく、意思は我らに代りて言はん。汝は箇程薄弱にして傾き易き性を受けたれど、恩寵の助けにより、時として幾ばく高められ、如何なる才能を受けて、天性より一層上に居るを感謝すべく、又放任せらるる時は何れ迄下りて、禽獣の如き心を得るを黙然として神に告白すべし。己の性の不幸なると、如何なる速力を以て変化が汝に生するとを記憶せよ。或る聖なる長老の言ひし如し、曰く『汝に驕傲の念の生じ、汝に告げて、「自己の徳行を想起せよ」といふ時は答ていふべし「老人よ自己の迷を一見せよ」と』。知るべし迷とは放任の時に当り、思念に如何なる試みを受けて恩寵が我らを或は戦に引入れ或は我らの為に有益なれば我らに助を現はしつつ、各人の為に建設する所のものを言ふなり。
視よ、此の奇異なる長老は此義を如何に軽快に言顕はしたるか。言へらく『汝の生涯の高きを思ふ驕傲の念の汝に生ずるときは言ふべし、老人よ、自己の迷を一見せよ』と。長老が此を言ひしは高き生命の人に言ひしものなること此によりて明白なり。けだし賞賛せらるべき生涯を以て高き階段に立つ者の外常人はかくの如き思念の為に擾さるることある能はざるなり。此慾は既に徳行を成就したる後、その練修を霊魂より奪はんが為、霊底に起るものなること明なり。もし欲するならば、彼の聖なるマカリイの一文書により諸聖人が如何なる階段に立つと、諸聖人を試みんが為に何を放任せらるるとを学び知るべし。此書は大要下の如し。
父マカリイはその最愛の諸子に書して、戦と恩寵の助の時彼らに如何なる神の摂理のあるを明に教ふ、何となれば諸聖者が此世に居る間徳行の為に罪と奮戦することを彼らに教ふるは、神の睿智に適するものにして、何れの時もその目を神に挙げ不断神に注目するによりて、神の聖なる愛の彼らに増加せんが為なり、彼ら擾乱と傾離の恐れを免れて、不断神に向ふときは信と望と神の愛とに確立せん。
今予が実に此事を述ぶるは、人々と共に居り、何の処にも出入往来して、常に耻づべき不潔の行為と思念とに従ふ者らに告ぐるに非ず、又黙想の外に在て、行に義を守るも感覚の為に時々虜にせられ、何の時にも堕落の危うきに臨みて、〈何となれば全く彼らの望に依るに非ずして、彼らと偶会する緊要事は彼らを心ならざる位置に立つるによる〉ただその思念のみならず、その感覚をも全く保護する能はざる者らに告ぐるにも非ずして、その身体と思念とに注意するを能くし、擾乱と人々に交際するとよりすべて遠ざかり、一切を捨て且その生命をさへ捨てて、祈祷によりその智を保護するの便宜を発見し、黙想的生涯を棄てずして、恩寵の照管の変化を受け主の管轄の臂下に居り、黙想に向ふ精神を以て、世の事物に遠ざかり、恩寵の助けによりて窃に聡明に進む所の者らに告ぐるなり。願くは此恩寵は我らをも此境に於て守らん。「アミン」。