<< 是れイサアクが愛する所の一人に與ふる書にして、彼は此中に(ア)黙想の奥義に関する教訓を著し、多くの者が此奥義を知らざるに依り、此の神妙なる練修を等閑にし、往々修道士の間に行はるる傳説により庵中に留まることを述ぶ(カ)黙想のことに関する訓話の摘要。 >>
兄弟よ、余は書すべきものに就ては、之を書さざるべからざる義務を余儀なくせられしにより汝に與へし約の如く、此書を以て汝の愛を試みん、けだし予は汝が身を持するの厳を以て自から準備し、行て黙想を務めんとするを見たればなり。故にすべて此の練修のことにつき思慮深き人々より聴きし所のものと、その後予が近く実地に得たる経験を以て彼らの諭言を予の智に如何に適用したるとを簡短にあらはして汝に記憶に印せんとす。ただ願ふ、汝は自らも此書を注意細読したる後、汝に常なる勉励を以て自己の助となさんことを、けだし汝は予が此書中に収めたる言を通常読む所のものと同視せず、聡明なる通暁力を以て読むに着手し、此中に隠れたる大なる力によりて、他の書を読む際にも之を受ること或る光の如くせんことを要す、その時は汝の黙想を守るは何の謂なるか、その練習は如何なるか、如何なる奥義は此練習に隠るるかを審知し、或者らが公生涯に於る公道の価値を殺ぎて黙想を守り、修道士の生涯の患難と苦行とを選取するの何の故なるかを審知せん。兄弟よ、短日月の間に不朽なる生命を得んを願はば、深く慮りて黙想に就くべし。その為す所を深く研究すべく、ただ名のみによりて此途に就くなかれ、乃ち之を推究すべく、深思すべく奮闘すべし、此生涯の如何に深くして且高きに達せんことを諸聖者と共に勉励すべしけだしすべて人間の業事は、此を為す始にその終を考へ、之を成就すべき或る方法と、その希望とを預め科るべし、これ心意を勵まして事業に基を置くなり。而して此の預め科りたる目的は心意を事業の難きを任ずるに堅むべくして、此目的を翹望するにより心はその業事に於て或る慰藉を自から借り来らん。それ或者はその事業の終に至る迄弱らず智力を緊張する如く、黙想の尊敬すべき行為も、熟慮を経たる目的により、奥義の港となるべし、之によりて智は長くして且重き労苦を悉く注意監察するなり。たとへば船長の目は星に向ふが如く、遁世に生活する者も、その進行のすべての継続の間に於て、内心の看望は、その目的に向ふ、即真珠を発見せざる間は、黙想の海の恐るべき旅行をなさんと最初に決心したるその日より、最早その行かんことを心に決したる目的に向ふべくして、此目的の為に触るる能はざる黙想の海の深きに入るべし。されば希望に満たされたる注意は、その為す所の業の難きと、その進行中に遇会する危きとを軽減するなり。之に反しその黙想の始に於て前途為す所の業の為に此目的を自から預め科らざる者は、空気と戦ふ者と同じく無分別に挙動するなり。かくの如き者は生涯決して精神の煩悶を免れずして、彼の為に左の二者の一は必ず生ぜん、或は彼は堪へ難き困難を持続する能はず、之が為に勝たれて黙想を全く棄つるに至るべく、或は忍耐して黙想に止まるも、彼の為に庵は獄舎となりて、彼はその中に焼かれん、何となれば黙想の練修によりて生ずる慰安に依頼するを知らざればなり。故に此慰安を願ふも、中心より哀しんで之を求めず、祈祷の時に泣く能はざるなり。憐憫に充ち満ててその子を愛する我らが神父らは、その書を以て我らが生命の要求に対する此のすべての為に訓示を我らに遺しぬ。
神父らの一人は言へり、曰く『居る所の家より遠ざかるときは、我が智は戦闘準備より休するを得て、極めて善なる練修に向ふ、是れ我が為に黙想より生ずる利益なり』。之と同く他の神父も言へり、曰く『我が黙想に於て奮闘するは、読経と祈祷の時に句々予が為に楽しからん為なり。而して之に通暁して悦懌するにより、予が舌の黙する時は、恰も夢中にあるものの如く、予の感覚と思想を圧縮する性状を得来らん、而して之と同く此黙想を続くるにより、予が心を記憶の動乱より鎮むる時は、予の心を楽ましむる為に忽然として俄に生ずる内部の思念により、欣喜の波を断えず我に遣はさるるなり而して此波が予の霊魂の船に近づく時は霊魂を世の説話と肉身的生活とより脱して、神に存する所の真実なる奇蹟と黙想とに埋没せしめん』。
されど他の神父は此に対して次の如くいへり、曰く『黙想は新なる思念に於る口実とその源因とを截断して、我に預占したるものの記憶をその壁内に灰滅衰萎せしむるなり而して意中に旧見が衰ふる時は、智は此らを矯正してその秩序に復せしめん』。
又他の神父は言へり、『爾の思念の差別によりて、汝の中に隠れたるものの尺度を悟るべし、我が之を言ふは易らざる思念のことにして、偶然に起り一時に過去るものを言ふにあらず。身体を有する者にして善なる或は悪なる二の変化と別を告げずして、自家に帰り来らん者は決してあらず、もし彼は勉励者ならば、些細なるものの変化より別れて、本性の助の下にあるべし父は生るる者の父なればなり、されどもし彼は怠慢者ならば大なるものの変化より別れて、彼の我が性中に隠れたる恩寵の酵の助けの下にあらん』。
或る神父は言へり、『楽しき練修と夜間の断えざる儆醒とを自から選ぶべし、是時すべての神父は旧人を脱して、心意の更新を賜はりぬ、此の時霊魂は彼の不死なる生命を感じて、その感応により、暗黒の衣を脱ぎて聖神を己れに受けん』。
又他の神父も言へり、曰く『誰か種々なる人物を見て、霊的練修と相和せざる種々様々なる声を聴き、かくの如き者らと共に会談し、共に相交る時は、彼は智の為に閑暇の時を得ずして、窃に己を省察することも、自から己の罪を記憶することも、己の思を潔むることも、その目前に顕はるるものに注意することも、祈祷に於て奥密に談話することも、能はざるべし』。
又言へり、『此らの感覚を霊魂の権下に属せしむることは、黙想と人々に遠ざかることなくんば能はざるべし、何となれば聡明なる霊魂は、此らの感覚と実に連接結合するによる、ゆえにもし人は神秘なる祈祷に於て儆醒するあらずんば、その意思を圖らず誘ひ去られん』。
又言へり曰く『儆醒は幾ばく楽みを與へ如何に愉快欣喜ならしめて、その覚醒と共にする祈祷と読経とを以て霊魂を如何に潔むるか、その生命が何の時にも此事の為に占有せられて最厳重なる苦行的生活に居る者は、殊に之を知らん。故に人よ、黙想を愛する者よ、汝も此らの神父の言の命令的指示を己の前に置て、或る目標の如くし、その為す所の進行を之と接近するに向はしむべし。しかれども汝の為す所を目標と調和せしむるを殊に要するは何故なるか、之を確知せんことを思ふべし。けだし此なくんば、真理の知識を得る能はざればなり、ゆえに此事に於てその忍耐をあらはさんことを大に勉励すべし』。
沈黙は来世の奥義にして、言論は此世の器械なり。禁食者たる人は沈黙と不断の禁食を以て、その霊魂を神的本性に擬せんを試みるなり、人はその神聖なる練修により、神秘なるものを守るが為に、己を分離する時は、此奥義に献げらるべくして、その勤めは神聖なる機密に満たさるべく、之に由りて見えざる力と万物に主たる権の聖なるとに満たされん、而してもし或者は神聖なる奥義に入るが為に、一時己を分離するならば此印を以て己を表せん。而してその中の或者には中間の階級に在る者を新にするが為に知るべからざる主の沈黙に隠るる奥義を顕はすことを委任せらるべし、何となればかくの如きの奥義に勤むることは、腹を満たして、不節制の為に心を乱されたる人には不適当なるによる。
さりながら諸聖人も飢餓を愛すると沈黙なる心意とにより、肢体は無力になり、顔色は蒼白になりて、地上のあらゆる念慮を絶し時の外は神と談話するを敢てせずして、奥義の秘密迄は昇せられざりき。けだし汝は長き時日の間その庵に於て労苦と神秘なるものを守る行為の中に居り、感覚を制して、何らの会見をも避くるにより、黙想の力が汝を庇ふ時は、先づ汝は故なくして汝の霊魂を時々占領するの喜を迎ふべくして、その後汝の清潔の度に随ひ神の造物の堅きと、造成の美とを観るが為に汝の目は開かれん。而して智が此の現象の奇跡を以て導かるる時は、昼も夜も神の造成の光栄なる奇跡と一になるべし。然らば是時より慾の感覚は、その霊底に於て此現象の愉快の為に奪ひ去らるべくして、之に従ふ順序に於ては、清潔より始まりて愈々高まり智は更に心中の黙示の二の級に登らん。
願くは神は我らにも之を惠み給はん。「アミン」。