<< 高老なる老人の事。 >>
他日予は又一の老人を訪へり、高老にして且美なる有徳の人なりき。彼は甚だ予を愛しけるが、言語は野なれども、知識は光明に心は深遠にして、恩寵の暗示する所のものを言へり、彼は聖なる勤行の外は庵より出づることを屡々せず己を省み、静黙して居れり。時に予は彼に告げて言へり、曰く『父よ、予は主日に聖堂の玄関に至り、彼処に座して朝早く食し、出入する人々に我を見て卑んぜしめんを欲す』と。老人は此に答へて予に告ぐること左の如し、『録して言へり、凡て世人の惑を為す者は光を見ざらんと、汝は此地方に於て誰にも知られず、汝の生涯を人々は知らず、ゆえに言はん。修道士は朝より食事すと、殊に此処の兄弟は新進者にしてその意思薄弱なり、彼らは多く汝を信じ汝によりて自から益しつつあるに、もし汝が此事を為すを認むるならば、害を受けん。古の神父らはその行ひし多くの奇跡の故に、人々が彼らに尊敬を表はしたると、その名を讃揚したるとに因り、かくは行為したれど、此を為せしは己を汚辱に陥れ、その行為の栄を隠して、驕傲の因を己より遠ざけん為なり。之に反して汝を之と同様の挙に出でしむるは何物なるか。すべての行為に秩序とその時とあるを知らざるか。汝は如此の行為と如此の名とを有せずして、他の兄弟と同様生活す。汝は己れに益を産せずして、他を害せん。且かくの如きの動作は悉くの人に益あるに非ずして、ただ完全なる者と大徳なる者に益あり、何となれば此は常識を離れたる行なればなり。然れども僅に中間に達したる者と新進者の為には此は害あり、何となれば大に戒心して常識に従うべき必要あればなり。老人は警戒の時を既に過ぎたれば、ただその欲する所に従て益を引出さん。けだし未熟な商賈は大なる運転の為に自から大なる損失を速かん、然れども些少なる運転には速に前進して成効せん。已に言ひし如く凡ての行為にその秩序あり、生活の凡ての種類に時の有るあり。その度に超えたることを時に先だちて始むる者は何も獲る所あらずして、ただ己の為に害を倍さん。もし此事は汝の為に願はしくば神の照管に依り、汝の望に依るに非ずして、汝に及ぶ所の汚辱を喜んで忍耐せよ、心を擾すなかれ、汝を凌辱する者に対して怨を懐くなかれ。』
予は猶一回此感謝すべき人と談話せり、少壮より晩年に至るまで自から己れに任じたる労の為に生命樹の果を味ひし彼は道徳の教訓を多く予に授けて更に左の如く言ひき、曰く『凡て体を苦めず、心を憂へしめざる祈祷は流産したる胎実と一般なり、何となればかくの如き祈祷は自から精神を有せざればなり』と。彼は又余に告げて曰く『自説を立てんと欲し智は偽りて心に耻を感ぜざる議論好の人には何物をも與ふるなかれ、又何物をも全く彼より取るなかれ、恐らくは汝が大なる辛労を以て得たる浄潔を自から遠ざけてその心に暗黒と擾乱を満たしめん』