<< 謙遜にして聴く者に愛を以て告る有益なる教訓。 >>
神の恩寵によらずんば善意は心中に降り来らざるべし。誘惑と実験との為にあらずんば悪念は霊魂に近づかざらん。自己の劣弱の程度を識るに達したる人は謙遜の完全に達せん。不断の感謝の為に惹起さるゝ心は人に神の賜を誘引せん。常に心中に惹起さるゝ不平なる思は霊魂に誘惑を被らしめん。主は人間のすべての劣弱を忍耐すれども、常に不平を懐く人をば寛容せず、教訓なくして置かざるなり。如何なる知識の照明にも遠ざかる霊魂はかくの如き不平なる思に沈まん。常に感謝する口は神より祝福を受くべくして、心が感謝に止まるならば、恩寵は之に降らん。謙遜は恩寵に先だてども、自負は罰に先だつ。驕傲なる者には冒涜に陥るを許され、勤勉なる徳行を以て自から高ぶる者には迷謬に陥るを許さる、然して自己の賢明に誇る者には暗黒なる無智の網に陥るを許さるゝなり。
神を忘れざる記憶に全く遠ざかる人は、近者に対する悪しき記憶の為に擾さるゝ思を心中に懐かん。神を記憶する時にすべての人を尊敬する者は、奥密に神の指麾に依りすべての人の助を己に得ん。侮辱せられし者を保護する者は、神を己の保護者と為さん、手を近者を助くるに伸ばす者は、自己を助くるに神の臂を受けん。兄弟の瑕瑾を訴ふる者は、神を己の原告者と為す、兄弟を密室に匡正する者は自己の瑕瑾を癒さん。之に反して人を集会の前に訴ふる者は、己の疵の痛苦を大にす。兄弟を窃に療する者は、自己の愛の力を顕然なるものと為す。之に反して彼をその友の目前に辱しむる者は、自からの猜忌の力をあらはす。窃に証責する友は賢明なる医なり。之に反して衆の目前に療する者は実に罵詈者なり。同情の徴候はすべての負を赦すにあり、之に反して思の悪しき状態の徴候は陥りし者と抗論する是なり。康健者たらしめんとの目的を以て教誨を為す者は愛を以て教誨す、之に反して報復せんと欲する者には愛あらず。神は愛を以て教誨すれども、報復せず、〈然り、之あらざるなり〉返つて其像を癒すが為に監守し、怒を蔵して時を待たざるべし。愛の此方法は公正の結果にして、報復の情に傾かざるなり。義なる賢哲は神に匹似す。けだし人を罰するは全く罪の為に報復するには非ずして、或は其人の改悛せんが為、或は他の人々の恐れんが為なり、此の如くならざる罰は教誨にあらざるなり。報酬の為に善を為す者は速に変す。自己の認識の力に依り、神の如何なるを暁識洞察して驚く者は、肉体を殺さるゝとも、其思は高ぶらずして、徳行より離れざらん。神に応分の報を為すが為に己の智を磨く者は、霊を以ても体を以ても謙遜の深きに降らん、けだし人は認識に近づく以前には其行状は或は上り或は下る、しかれども認識に近づくならば、全く高処に挙げられん、されども高めらるゝに至る迄は、その認識の上昇は完全に達せずして、彼の光栄の世の来らざる間は、人はその充分の富をうけざるなり。けだし人は神の前に成全なるほどは、神の跡に追随すべくして、真実の世に於て神は其顔を彼にあらはさん、されどもその如何なるを示すには非ず。けだし義人は神を見るに入る迄は鏡を以て像を見る如し、されど彼処に於ては現実の顕はるゝを見ん。
枯れたる薪に燃着たる火は辛うじて消し得ん。もし世を棄てたる者の心に神の温煖の顕はれ降るあらば、其燃着は消えずして、温熱は火より烈しからん。酒の力の肢体に入るあらば、心はすべてに厳粛を忘れん。神を忘れざる記憶も霊中に牧地を占むるときは、すべて有形なるものに於る記憶を滅す。霊的聡慧を獲たる智は艤装せし船に海中に値う人と同じ、之に乗るときは、此世の海を出帆して、来世の島に到らん。此世に於て来世を感ずるは海中に小島を見付ると同じ、彼に近づく者は最早此世の現象の波間に労苦を為さざるなり。
商賈は支払を終るときは、急ぎて己の家に帰らん。修道士もその勤勉の時の猶残る間は、此身と別るゝを哀めども、時を購ひ得て、聘質を受けたるを心に感ずる時は来世を慕ふ、商賈は海中にある間は、その肢体戦慄す、恐らくは波浪起りて其営業の望みを水底に沈めんと。修道士も世に居る間は、生涯恐れを抱く、恐くは暴風起りて少より老に至る迄辛苦したる己の事業を亡さん。商賈は堅き陸地に注目し、修道士は死期に注目す。
航海者は海中を駛行するときは星を望み、湊に達するに至る迄は星に依りて船の方向を定む。修道士も祈祷に注目す、何となれば祈祷は彼自己を矯正して、其進行を彼の湊に向はしめ、其生涯は毎時の祈祷に左右せらるればなり。航海者は船を繋ぐべき島嶼を発見し、彼処に路用を弁じて、其後他の島嶼に向ふ。修道士の進行も此生命に居る間は此の如し。修道士は島嶼より島嶼〈即認識より認識〉に移り、此の島嶼〈即認識〉の転換によりて大に進歩し、海より出でて其進行を彼の真の都に達せしめん。けだし彼の都の住者は復た貿易を営まずして、各々己の富に安んずるなり。此の空しき世に居り、此の大海の中にありて、其貿易を乱調に至らしめざる者は福なり。其船の破壊せず、喜んで湊に達する者は福なり。
泅ぐ者は真珠を発見するに至るまでは、衣を脱して、海底に沈む。賢なる修道士も真珠なるイイスス ハリストスを自己だに発見するに至る迄は、すべてを脱して、生命を送る、而して彼を発見するときは、最早彼と共に世に存する何物をも求めざるなり。真珠は庫中に貯へらる、修道士の楽も黙想に於て守らるゝなり。童貞に有害なるものは民の集会に於て種々の人々と共にするにあり、修道士の心に有害なるものは衆人と談話するにあり。鳥は何処にありても己の巣に向ひ、彼処に於て雛を孵化す。思慮ある修道士も己の居所に急ぎ、自から生命の果を造らん。蛇は全身を撃摧かるゝも其頭を守る、賢なる修道士も生命の原始なる己の信仰を何れの時にも保護す。雲は太陽を蔽ひ、言の多きは祈祷的直覚を以て輝き始めたる霊魂を暗ます。
博学者の言に依るに「エロデイ」と名づくる鳥あり居る所の地より遠ざかり曠野に達して、彼処に住むときは、欣々として喜ぶといふ。かくの如く修道士の霊魂も、人々より遠ざかり幽静の地に来り居る時は、天の歓喜を己に感じ、彼処にありて己が出発の時を待たん。傳に言ふ「シレーナ」と名づくる鳥あり、凡そ其好音を聞く者は心を奪はれざるなく、彼を追ふて野に循ひ徘徊しつゝ、その鳴く声の愉快なるが為に己の生命をも忘れ、倒れて死せんとするに至ると。是れ霊魂に起る所のものを形容するを得べし。霊魂が天上の愉快を感ずるときは、感覚を以て心に傳へらるゝ神の言の好音により、霊魂は全く此愉快を追ひ、突進して身体の生命を忘るゝに至る。ゆゑに身体は其欲望を奪はれ、霊魂は此生命より挙げられて、神に到らん。
樹は先づ旧葉を脱せずんば、新葉を生ぜざらん。修道士も従前の行の記憶を其心中より投出さずんば、ハリストス イイススに於る新しき果と葉とを産せざらん。
風は樹上又は田中の果実を肥やさん、神の為の配慮は心中の果実を肥やす。真珠の生ずる貝中には、人々言ふ如く、電気を以て火花の如きもの生出し、空気によりて貝は此物質を己に受く、然れどもその時に至る迄は尋常の肉にて存すと。修道士の心も、通曉力を以て天の物質を己に受るに至る迄は、其の行は尋常にして、其貝中に慰藉の果を結ばざるなり。
鼻孔を舐る犬は、己の血を飲めども、其血の甘きにより、其害を感ぜず。虚誇を爛飲するを好む修道士も、自己の生命を飲みて、時々感ずる甘味に因り其害を自覚せず。世の名誉は水に覆はれたる海中の暗礁なり、船底を之に触れて水を満さるゝに至る迄は、航海者の為に知られず。虚誇も人を溺らし亡すに至る迄は亦之に同じ。神父等は此事を言へり、霊魂の曾て避け且脱したる慾念は虚誇を好む霊魂に復帰すと。小なる雲は太陽の周囲を蔽へども雲の過ぎし後太陽は特に煌々と輝かん。小なる憂愁も霊魂を暗ませども、其後大なる喜は成らん。
神聖なる書中にある所の奥妙なる言には、祈祷と神の助を願ふことなくして就くなかれ、乃ち言ふべし『主よ、彼に含有する力を受るを我に得しめ給へ』と。祈祷は神聖なる書中に述べられし真正なる旨趣に於る関鍵と思ふべし。心を以て神に近づかんと欲する時は、先づ身体の労苦を以て彼に愛をあらはすべし。生涯の始は此労苦に托せらるゝなり。けだし需要の欠乏と、食の或る種類に己を慣らすとを以て心は神に多く接近せん、かくの如く此接近は身体の行為の後に生ずるなり。ゆゑに主も之を以て完全の基礎となし給へり。閑散は心の昏迷の始めと思ふべし。談話の為に会合するは、昏迷に昏迷を重ぬるなり。前者は後者の為に縁由たり。有益なる談話も度なきときは昏迷を生ずるならば、況して無益の談話に於てをや。霊魂は神を畏るゝ心を以て保護せらるゝに拘はらず、続く談話の多きにより卑うせらるゝなり。終に心の昏迷は行為に順序なきより生ず。
行為に於るの節度と或る規則は智を照して擾乱に入らしめざるべし。されど順序なきより生ずる智の擾乱は心中に昏迷を生じて、昏迷により擾乱は再び生出せられん。平和は善き順序の結果なり、平和により心中に光は生じて、光と平和により清き空気は智に照り始めん。心が世に遠ざかりて霊智に近づく程は、神より喜を受けて、霊智と俗智との差異を其霊中に感ぜん、何となれば霊智により霊魂を占領するものは沈黙にして、俗智により占領するものは思の高超の泉なればなり。されば第一の智慧を得たるにより、汝は其すべての思想を主宰する大なる謙遜と温良と平和とに満たさるゝなり。此時より汝の肢体にも擾乱と騒暴は熄みて、沈黙の至るあらん、然れども第二の智慧を得ると共にその念慮に驕傲を受け、得もいはれざる奇怪なる思想と、智の擾乱と、感情の無恥と、高慢とを受けん。肉体上の事に束縛せらるゝ人は祈祷に於て神の前に勇気を有せんと思ふなかれ。貪吝なる霊魂は睿智を奪はるれども、憐憫なる霊魂は精神を以て智慧附けらるゝなり。
油は燈の光る為に必要なる如く、矜恤も心中に知識を養ふ。心に神聖なる賜を受くる為の関鍵は、近者を愛するを以て與へらるゝべくして、之と同く心を身体の連鎖より脱する程は其前に知識の門は開かるゝなり。霊魂の世より世に移るは通曉力を受けしなり。近者を愛するは、もし其慮を以て我等を神を愛するより引離さずんば、如何に美にして且賞賛すべきや、我等が霊的兄弟と談話するは、もし其時に神と会話するを守らるゝならば、如何に愉快なるや。終に之が平称を保たるゝ間は、此事を慮るも可なり、即神秘なる練習と行為と神と不断会話するとを此行為により失はざるを得る間は、之を慮る可なり。前者を確守するは後者の妨とならん、智は二の談話を為す為には不充分なり。世の人々と面会するは神に属する事の為に之を避けたる者の心に乱れを生ぜん。霊的兄弟と不断談話するさへ害あるならば、況して世の人々をばただ遠くより観望するのみなるも害あらん。五感が或物と接するは身体の働の為には妨とならず。しかれども神秘なる練習に於て喜びを穫ること、思の鎮静により果実を穫る如くせんと欲する者には、現象なくして一の音響のみなるも心の平安を擾さん。内部に於て死者の如くならんことは、五感を不動作ならしめずんば能はざるべし、身体の生活は五感の覚醒を要すれども、霊魂の生活は心の覚醒を要す。
霊魂は天然に身体より愈さる如く、霊魂の働も身体の働に愈れり。元始身体の造成は之に生命を吹入るゝに先だちし如く、身体の働も心霊の働に先だつ。易はらずして続く高尚ならざる生涯は大なる力なり。易はらずして常に落ちる弱き点滴は頑石を穿つ。
霊的なる人の汝に復活する時の近づく時は、一切の為に死者の如くなることは汝に起るべくして、受造物とは比す可らざる汝の霊魂に喜は燃え、汝の思念は汝の心中の愉快を以て汝の内部に閉ざされん。之に反して世が汝に復活するときは、思の高超と陋劣不定なる念慮は汝に加はらん。世とは心の高超を生ずる慾を謂ふ。慾が生じて成熟に達する時は、罪となりて人を殺さん。母なくして子の生れざる如く、思の高超なくして慾は生ぜず、慾と対話するなくんば罪の成るあらざるなり。
我等が心に忍耐の成長するあらば、是れ我等は慰藉の恩寵を密にうけたる徴候なり。忍耐の力は心を管領する喜ばしき意思より強し。神に於る生活は五感の衰なり。心が活くる時は五感は衰ふ。五感の復興は心の死滅なり。ゆゑに五感の復興するあらば、是れ心が神の為に死したる徴候なり。良心は人々の間に行はるゝ徳行よりは正しきを受けず。
誰か他の人々の為に行ふ所の徳行は霊魂を浄むる能はざるべし、何となれば事は神の前に報酬視せらるればなり。然れども人が自己に行ふ徳行は完全なる徳行に算へらるべくして、彼をも此をも達せん、即報酬視せらるべく、又浄潔をも生ぜん。故に前者に遠ざかりて後者に従ふべし。後者を慮らずして前者を存するは、神より明に離るゝなり。しかれども後者はたとひ前者あらざるも自から前者を補はん。
安息と閑散とは霊魂の為に滅亡にして、之を害すること魔鬼より大なり。身体の薄弱なるを強ひて其力に超ゆる事を為さしめんとする時は、汝の霊魂は昏迷に昏迷を加へて、之に大なる乱れを入れん。之と相反して身体の強壮なるを安息と閑散とに委するならば、此の身体の中に居る霊魂に凡その弊病は成らん、さればもし誰か善を強く願望するも善に対して有する意思を速に奪はれん。霊魂が希望の喜びと神に関する楽みに酔はしめらるゝ時は、身体はたとひ薄弱なりとも、哀みを感ぜざるべし。けだし二倍の重きを負ふて力に乏しからざるのみならず、併せて自から楽むべくして、たとひ薄弱なりとも、心霊の楽みに助けん。霊魂が彼の精神の喜びに入るときはかくの如し。
もし己の舌を守らば、兄弟よ、汝に心の感動の恩寵を神より與へらるべく、之により汝は己の霊魂を悟りて精神上の喜びに入らん。されど汝の舌が汝に克つならば、汝に言ふ所のものと対照せよ、汝は如何しても昏迷より救はるゝ能はざるなり。心が汝に浄からずば、口なりとも浄からしめよと福なるイオアンは言へり。
人を善に向かはしめんと欲する時は、先づ肉身上彼を安んぜしめ、愛の言を以て彼を尊敬すべし。けだし汝によりて見んとする肉身上の幸福と尊敬との如く人を耻に傾かしめ其弊病を棄てゝ善良に向はしむるものはあらざるなり。誰か神の為に苦行に入る程は其心は祈祷に於て勇気を得ん。されど人が多くの事に引かるゝ程は、神の助を失はん。肉身上の欠乏を憂ふるなかれ、何となれば死は之を汝より全く除き去ればなり。死を恐るゝなかれ、何となれば神は汝を死より上にあらしめんが為にすべて備へたればなり。
彼に光栄と権柄は世々に帰す。「アミン」。