<<心中に続生し、祈祷を以て試みらるゝ多くの変化の事。>>
善なる願望を選取するは願ふ者の事なり、然れども善なる願望の選択を全うせしむるは神の事なり。之が為に人は必ず神の助けに必要あり。ゆゑに我等に現はれし善なる願は、之に屡々祈祷を伴はしめて、我等に助をあらはさんことを願ふのみならず此願が神の旨に適ふや否を我等に識別せしむることをも願はん。けだし神によりて心に入るものはすべての善願に非ずして、たゞ有益なるものなり。時として人は善なるものを願へども、神の之に助けざることあり、何となれば之に類する或る願が魔鬼よりも入りて、助となるものゝ如く思はるれど、人に相応せざること屡々之あればなり。魔鬼は自から人に害をなさんを謀り、人をして其願ふ所のものに適當する生涯に未だ達せざるときに強て之を尋ねしむるなり。或は其願は人の自から担任したる方法と遠ざかることあり、或は之を実行し、又は其実行を始むるを能くすべき時の未だ来らざることあり。或は人は其行為の為に充分なる知識も力も有せざることあり。或は時の事情が我等に其事に助けざることあり。然るに魔鬼は種々なる手段を以て此の善なる行為の仮面を被りて、或は人を乱し、或は人体に害を被らしめ、或は其心中に網を伏せんとす。さりながら予の既に言ひし如く、我等に善なる願のあらはるゝ時は、勉励して屡々祈祷を行ふべく、我等おの〳〵自己に告げて言ふべし、『此の我が遂げんと欲する善なる行為は汝の意に適するならば、之を成就するに至る迄汝の旨は行はれん。けだし此の行為は我が為に好都合なり、然れども汝より遣はさるゝ賜なくんば、之を遂ぐる能はざるべし、彼も此も、「望む事も為す事も」〔フィリッピ二の十三〕汝よりするに拘はらず之を遂ぐる能はざるべし、何となれば汝の恩寵なくんば我に起る此願を採用することをさへ予は決せざりしなるべく、或は之を恐れしならん』と、けだし善なるものを願望する者の為に慣例は左の如し即ち行為の為にも、聡慧を獲て眞なるものを偽なるものより分つが為にも智慮により祈祷を用ひて助となすこと是なり。それ善なるものは、多くの祈祷と行為と保護と不断の服従とにより、又漣々たる涕泣と、謙遜と、天の助とにより選択するを得べし、矧や之と反対なる驕傲の念慮の人に存する時に於てをや。けだし此念慮は神の助の吾人に至るをゆるさず、即此の念慮を祈祷により不活動ならしむるを許さゞるなり。