<< 死より復活の事。 >>
復活の望みはもろもろの善行の根本なり、何となれば報いを受けんとの望みは善なる行為に対する心を固むればなり。すべての行為者は労の為に賞あるを預め知るときは、労を忍耐せん、然れども報酬なくして労する者は、体と共に霊も力を落とさん。恩賞を期する所の兵士は出でて戦はん、然れども労の為に賞を報いざる無思慮なる王の為に戦ふ者には王の為に死せんとの決心起こらざるべし。かくの如く諸の霊魂も復活を信じて当然に己を守らん、然れども復活を信ぜざる霊魂は己を淪亡に付せん。身体の復活を待つの信者は此の像飾を守りて、放蕩の為にこれをけがすことあらざらん、されども復活を信ぜざる者は放蕩に身を委ねて、その体を悪く用ふること他人の物の如くせんとす。故に死者の復活に於るの信仰は聖公教会の大なる示訓なり、教導なり、大にして且甚だ緊要なり、これ多くの人の争うところなりといへども、真理はこれを保証するなり。
エルリニ人[1]も又サマリヤ人も共に我等に左の如くいはんとす、曰く『死せし人はゆがみ且腐敗し、まったく化して蛆となりて、蛆も亦死す。かくの如き臭壊と滅亡とは人の体に及べり、さらばいかんしてその体は復興せんや。海中破船にあひし者を魚は呑みて、魚も亦自ら食はるるなり。猛獣と戦ひし者を、熊と獅子とはその骨を砕き且これを尽せり。地上に投棄てられたる死者の体は、鴉と鳶とこれを食ふて、全世界に飛散す。さらば何処より体を拾ひ集めんや。体を食ひし鳥は或はインデヤに、或はペルシヤに、或はゴトフィヤに死せん。その他は火に焚かれて、その灰は雨又は風の為に吹散らさるるあらん、さらばいかんして体を拾ひ集めんや』といへり。
実に最小にして且無力の人たる汝の為にインデヤはゴトフィヤより遠かるべく、イスパニヤはペルシヤより遠からん、然れども『掌心をもて全地を保つ』〔イサイヤ四十の十二〕神の為にはすべて近し。故に己の弱きにより、神を誣ひて無力とするなかれ、更にその全能に注意すべし。且や太陽は神の小事たるも、光線の一射にて、全世界を暖め、又神に造られたる空気は世界にあるものを悉く自ら包擁するなり、さらば太陽と空気との造成者たる神は豈世界より遠く隔たるべけんや。果実の色々の種子を混淆して〔弱信なる汝の為に余は弱き例をあらはす〕此の色々の種子が汝の掌中にありと仮定せよ、汝の掌中にあるものを見分けて、果実の種子を各その性質に循ひ区別して各その類に従はしめんことは、人よ、汝に難きか、将易きか、さらば汝は汝の掌中にある所のものを見分くることを能くせんに。神はその手中に握る所のものを区別して、これを復興せしむること豈あたはざらんや。我が言ふ所のものを明にせよ、此を拒むは無法にあらずや。
転じて義の法に注目して自ら己を省みるべし。汝は種々の従者を有せんに、一は善く、一は悪しからば、汝はその善き者を重んじて、悪しき者を撻たん。又汝は裁判者たらば正しき者を賞して、無法なる者を罰せん。さらば汝死すべきの人にさへ正義の守らるるあらば、况や連綿として絶えざる、あらゆる者の王たる神に於て義なる報酬なかるべけんや。此を拒むは無法なり。けだし我が汝に告ぐる所のものを査視せよ、殺人者にして罰を免れ、床上に死する者多し、さらば神の義は何処にありや。たとへば五十回人を殺したる兇犯あらんに、之が為に断頭せらるるは常にただ一回のみならん、さらば四十九回の殺人罪の為めに彼は何処に罰せられしや。それ審判と報酬とは此の世にあるなくんば汝は神を誣ひて不公平となさん。さりながら審判の遷延するを怪しむなかれ。すべて苦行する者は、苦行を終へし後に、或は褒められ、或は辱めらるるなり、苦行の立定者は猶苦行しつつある者を決して褒章せず、凡ての苦行者の業を終はるを待つは、後に此を議して、恩賞と栄冠とを定めんが為なり。神も此の如し、此の世に於ての苦行は猶続けらるるにより、その間は義人らに一分の助を與ふ、然れども彼等に全く賞を與ふるは後来にあり云々。
伐られたる樹は再び花咲く、然るに伐られたる人は花咲かざらんや。蒔きて刈られたるものは物置に収めらる、然るに此世の田に於て刈られたる人は物置に収められざらんや。全く伐り離して移植られたる葡萄樹又はその他の樹の枝は、甦りて実を結ぶ、人の為に造られたる万物にして既に然らば、况や人は地に倒れて復興たざらんや。未だ嘗て有らざりし像を新に作ると、打毀したるものを従前の模型に依りて再び鋳造すると、労を比較して、いづれか重きや。されど我等を有らざるより造りし神は、既に有る者の打毀されたる時再び建立する能はざるか。汝は復活につきて書されしものを信ぜざること異邦人の如くなるか。されど天然物の性につきて此事を撿し、今日まのあたり見る所の物に依りて判定せよ。麦或は他の種子は蒔かるる時、その粒は地に落ちて死し、腐敗して最早食用に堪へざるものとならん。然れども腐敗したる者は青々として復興き、小にして落ちたる者は美なる者となりて復興きん。されども麦は我等の為に造られたり、けだし麦も他の種子も我等の使用の為に生じて自己の為にはあらざればなり。
汝等の見る如く、今は冬季なり、樹々立ちて枯死せるものの如し。けだし無花果樹の葉はいづくにありや。葡萄樹の房はいづくにありや。然れども冬に枯れたる此の物は春に至りて緑色をあらはし、死物と同様なりしものは時来れば生を挽回せらるるなり。神は汝の不信を知り、此の見ゆるものに於て年々復活をとげしむるは、汝無情なる者を見て有情霊智なる者の実体を確信するを得んが為なり。且や蠅と蜜蜂とは水中に窒息し、時を過ぎて蘇生することしばしばこれあり。又鼠の一種あり、冬は動かずしてあるも、夏に至りて新に復興く。けだし汝の見解の卑きにより、余は汝の為にかくの如き引例をも為す。そも無智にして賎んぜらるる動物にさへ超自然的に生命を與ふる者は豈之を我等に與へざらんや、けだし彼の動物も我等の為に造られたるなり。
然れども特に注目すべきはパウェルが指示すところの言なり、曰く『この壊つるものは必ず壊ちざるものを衣、死ぬる者は必ず死なざるものを衣るべし』と〔コリンフ前十五の五十三〕。けだし此の体は甦る。さりながらかくの如く弱くして存するに非ず、彼はそのままに復活し、壊ちざるものを衣て変化すること鉄の久しく火中にありて自ら火となるが如くなるべし、或は精しくこれをいはば復活せしむる主の此をしろしめす如くなるべし。故に此の体は甦る、然れどもかくの如きものにて存するにはあらずして、永遠なるものとなるなり。彼は生を保たんが為にかくの如き食物にも、又上昇せんが為に梯子にも必要あらざるべし、何となれば彼は霊に属するものとなるべく、我等が当然に言ひ顕すこともあたはざらん程のものとなればなり。言ふあり『その時義人らは日の如く輝かん』〔マトフェイ十三の四十三〕、『空の光輝の如くにかがやかん』〔ダニイル十二の三〕。そも神は人間の不信を預見て、最小さき蟲にさへ、夏に至りて、その体のひかり輝くを得しむるは、見ゆるものによりて待つところのものを信ぜしめんが為めなり。けだし一部を與ふるものは全部をも與ふべければなり。蟲に光り輝くを得しむる者は况や義なる人を光る者となさざらんや。
故に我等は復活すべく、我等の体は皆永遠のものとならん、然れどもみなみな一様にはあらざるべし。返りてもし誰か義人ならば、天に属する体をうけん、当然に神使と近接するを得んが為なり。然れどももし誰か罪人ならば罪の為に永遠の罰をうくるに定められたる永遠の体をうくるにより、永遠に火に焼かるるなりされども彼は決して滅尽せざらん。そも神は彼此の体をこれに與ふること当然なり。何となれば我等は体なくして一事も為すあたはざればなり。我等は口にて讃美し、口にて祈祷す、手にて掠め、同じく又手にて施を為すべくして、その他もすべて同様なるべし。故に体はすべてに於て我等につとむるにより、未来に於ても彼は我等と関係を共にせん。
故に身体を守らん、此を悪用すること、我等の為に関係なき他人の物の如くせざらん。返つて身体を守ること自己の所有物の如くせん、何となればすべて『身に居て為す所の事に循ひ』〔コリンフ後五の十〕主に計算をなさんを要すればなり。『誰も我を見ざらん』といふなかれ、為す所の事に證者あらじと思ふなかれ。此の時に人の居らざることもしばしばこれあらん、然りといへども誤りなき證者、即主は『天に在して正しく』〔聖詠八十八の三十八〕為す所のものを見ん。然れども罪なる汚穢は体に残らん。体に深き傷を負ひし後は、たとへ治したりとも、猶痕を残すが如く、罪も霊と体とを傷つけて、その傷痕は彼此に残らん、ただ水の浴盤をうくる者に於ては消失せん。かくの如く先にうけたる霊と体との傷を、神は洗礼により療して、将来をすべて悉く預防せん、是れ我等此の体なる長下衣を潔く守て、小なるもの、淫蕩なるもの、情慾なるもの、或は他のいかなる罪の行を以ても天上の救を亡さず、神の永遠の国を継がんが為なり、此国を神は恩寵によりて我等衆人に惠み賜はん。