うたかたの記
上編集
幾頭の
の ける車の上に、 よく突立ちたる、 バワリアの像は、先王ルウドヰヒ第一世がこの に ゑさせしなりといふ。その よりルウドヰヒ町を左に折れたる処に、トリエント産の大理石にて きおこしたるおほいへあり。これバワリアの首府に名高き見ものなる美術学校なり。校長ピロッチイが名は、をちこちに鳴りひびきて、 の国々はいふもさらなり、新 、 、 などよりも、ここに りつどへる 、画工数を知らず。日課を へて は、学校の向ひなる、「カッフェエ・ミネルワ」といふ店に入りて、 のみ、酒くみかはしなどして、おもひおもひの す。こよひも の光、半ば開きたる窓に映じて、内には笑ひさざめく声聞ゆるをり、かどにきかかりたる二人あり。先に立ちたるは、かち色の
のそそけたるを はず、幅広き に結びたるさま、 が目にも、ところの美術 と見ゆるなるべし。 ち りて、 なる色黒き小男に向ひ、「ここなり」といひて、戸口をあけつ。先づ二人が
を つはたばこの にて、 に入りたる目には、 なる人をも見わきがたし。日は暮れたれど暑き頃なるに、窓 くあけ ちはせで、かかる烟の中に居るも、 となりたるなるべし。「エキステルならずや、いつの間にか帰りし。」「なほ死なでありつるよ。」など口々に呼ぶを聞けば、 諸生はこの にて、 あるものならむ。その間、あたりなる客は珍らしげに、後につきて れる男を見つめたり。見つめらるる人は、 のなめなるを厭ひてか、 し に 寄せたりしが、とばかり思ひかへししにや、 に を帯びて、一座を しぬ。この人は今着きし汽車にて、ドレスデンより来にければ、
のさまの、かしことここと なるに目を注ぎぬ。大理石の 幾つかあるに、 掛けたるは、 畢りし をまだ片附けざるならむ。裸なる卓に れる客の前に据ゑたる土やきの あり。盃は にて、 四つ五つも併せたる さなるに、弓なりのとり手つけて、 を に作りて ひたり。客なき卓に珈琲 置いたるを見れば、みな に伏せて、 の上に砂糖、 か盛れる小皿載せたるもをかし。客はみなりも言葉もさまざまなれど、髪もけづらず、服も
へぬは一様なり。されどあながち卑しくも見えぬは、さすが芸術世界に遊べるからにやあるらむ。中にも ちて しきは中央なる を占めたる なり。よそには男客のみなるに、 ここには あり。今エキステルに伴はれて し人と目を合はせて、互に驚きたる し。来し人はこの群に珍らしき客なればにや。また少女の姿は、初めて
ひし人を動かすに あらむ。 広く飾なき を ぶりて、年は十七、八ばかりと見ゆる ばせ、ヱヌスの古彫像を けり。そのふるまひには ら き処ありて、かいなでの人と覚えず。エキステルが隣の卓なる一人の肩を ちて、何事をか ゐたるを呼びて、「こなたには面白き話一つする人なし。この様子にては に れ に走るなど、 はしき事を見むも知られず。おん連れの方と共に、こなたへ来たまはずや。」と笑みつつ むる、その声の清きに、いま来し客は耳 けつ。「マリイの君のゐ玉ふ処へ、
か行かざらむ。人々も聞け、けふこの『ミネルワ』の仲間に入れむとて ひたるは、 君とて、遠きやまとの画工なり。」とエキステルに紹介せられて、 ぬる男の近寄りて するに、 ちて りなどするは、 のみ。さらぬは坐したるままにて答ふれど、 りたるにもあらず、この仲間の なるべし。エキステル、「わがドレスデンなる
ねにゆきしは人々も知りたり。巨勢君にはかしこなる画堂にて逢ひ、それより を結びて、こたび巨勢君、ここなる美術学校に、しばし足を めむとて、旅立ち玉ふをり、われも にかへり に上りぬ。」人々は巨勢に向ひて、はるばる ぬる人と れるよろこびを べ、さて、「大学にはおん も、をりをり見ゆれど、美術学校に来たまふは、君がはじめなり。けふ着きたまひしことなれば、『ピナコテエク』、また美術会の画堂なども、まだ見玉はじ。されどよそにて見たまひし処にて、南 の を何とか見たまふ。こたび来たまひし君が目的は 。」など口々に問ふ。マリイはおしとどめて、「しばししばし、かく口を へて問はるる、巨勢君とやらむの迷惑、人々おもはずや。聞かむとならば、静まりてこそ。」といふを、「さても の厳しさよ、」と人々笑ふ。巨勢は調子こそ なれ、 からぬ独逸語にて語りいでぬ。「わがミュンヘンに
しは、このたびを とせず。 前にここを過ぎて、 にゆきぬ。そのをりは『ピナコテエク』に懸けたる画を見しのみにて、学校の人々などに、交を結ぶことを得ざりき。そは故郷を出でし時よりの目あてなるドレスデンの画堂へ かむと、心のみ急がれしゆゑなり。されど再びここに来て、君らがまとゐに入ることとなりし、その をば、早く当時に結びぬ。」「〈[#「謝肉」の左に「カルネワル」のルビ]〉の祭、はつる日の事なりき。『ピナコテエク』の 出でし時は、雪いま晴れて、 の なる並木の枝は、 つ つ薄き氷にてつつまれたるが、今点ぜし街燈に映じたり。いろいろの異様なる を着て、白くまた黒き 掛けたる人、群をなして し、ここかしこなる窓には 垂れて、物見としたり。カルルの なる『カッフェエ・ロリアン』に入りて見れば、おもひおもひの仮装色を争ひ、中に りし常の衣もはえある す。みなこれ『コロッセウム』、『ヰクトリア』などいふ舞踏場のあくを待てるなるべし。」
なしといひけたで聞き玉へ。かく語る処へ、
につづけたる白 掛けたる 、 の泡だてるを、ゆり越すばかり盛りたる例の を、四つ五つづつ、とり手を寄せてもろ手に握りもち、「新しき よりとおもひて、 うなりぬ。許したまへ」とことわりて、前なる杯飲みほしたりし人々にわたすを、少女、「ここへ、ここへ」と呼びちかづけて、まだ杯持たぬ巨勢が前にも置かす。巨勢は一口飲みて語りつづけぬ。「われも片隅なる〈[#「鷹匠頭巾」の左に「カプウチェ」のルビ]〉、ふかぶかと り、 えて赤うなりし両手さしのべて、浅き の を持ちたり。目籠には、 の葉、敷き重ねて、その上に時ならぬ の束を、愛らしく結びたるを載せたり。『ファイルヘン、ゲフェルリヒ』(すみれめせ)と、うなだれたる を げもあへでいひし声の清さ、今に忘れず。この と女の子と、道連れとは見えねば、童の入るを待ちて、これをしほに、女の子は来しならむとおもはれぬ。」
に腰掛けて、賑はしきさま打見るほどに、 の戸あけて りしは、きたなげなる十五ばかりの うりにて、焼栗盛りたる を、 く積みし箱かいこみ、『マロオニイ、セニョレ。』(栗めせ、君)と呼ぶ声も勇ましき、後につきて入りしは、十二、三と見ゆる の なりき。 びたる「この二人のさまの〈[#「暖簾師」の左に「ハウジイレル」のルビ]〉めいたるあきなひ、せさせぬが なり。 くゆきね。』とわめきぬ。女の子は 言葉なく出でゆくを、満堂の 、 の涙なく見送りぬ。」
なるは、早くわが目を き。人を人ともおもはぬ、 憎げなる栗うり、やさしくいとほしげなるすみれうり、いづれも ゐる人の間を分けて、座敷の 、 の前あたりまで来し頃、そこに休みゐたる大学々生らしき男の連れたる、 の 、いままで ひてゐたりしが、身を起して、背をくぼめ、 を伸ばし、栗箱に鼻さし入れつ。それと見て、童の払ひのけむとするに、驚きたる狗、あとに附きて来し女の子に突当れば、『あなや、』とおびえて、手に持ちし目籠とり落したり。 に 巻きたる、美しきすみれの花束、きらきらと光りて、よもに散りぼふを、 き物得つと 狗、踏みにじりては、 へて引きちぎりなどす。ゆかは の まりにて解けたる、靴の雪にぬれたれば、あたりの人々、かれ笑ひ、これ るひまに、 、なごりなく泥土に ねたり。栗うりの童は、 して逃去り、学生らしき男は、 びしつつ狗を し、女の子は れて りたり。この菫花うりの忍びて泣かぬは、うきになれて涙の泉 れたりしか、さらずは驚き ひて、一日の 、これがために まむとまでは らざりしか。しばしありて、女の子は けのこりたる花束二つ三つ、力なげに拾はむとするとき、帳場にゐる女の知らせに、ここの 出でぬ。赤がほにて、腹突きいだしたる男の、白き前垂したるなり。太き を腰にあてて、花売りの子を暫し み、『わが店にては、「われは珈琲代の白銅貨を、帳場の石板の上に
げ、 取りて出でて見しに、花売の子は、ひとりさめさめと泣きてゆくを、呼べども みず。追付きて、『いかに、 き子、菫花のしろ取らせむ、』といふを聞きて、始めて つ。そのおもての美しさ、濃き いろの目には、そこひ知らぬ ありて、一たび顧みるときは人の を断たむとす。 の『マルク』七つ八つありしを、から の の の上に置きて与へ、驚きて何ともいはぬひまに、立去りしが、その 、その目、いつまでも目に付きて消えず。ドレスデンにゆきて、画堂の うつすべき を得て、ヱヌス、レダ、マドンナ、ヘレナ、いづれの図に向ひても、不思議や、すみれ売のかほばせ霧の く、われと画額との間に立ちて をなしつ。かくては 、我 の進まむこと なしと、旅店の二階に もりて、 の に穴あけむとせし頃もありしが、 大勇猛心を ひおこして、わがあらむ の力をこめて、この花売の娘の姿を に伝へむと思ひたちぬ。さはあれどわが見し花うりの目、春潮を むる の色あるにあらず、暮雲を送る夢見心あるにあらず、 古跡の間に立たせて、あたりに の 飛ばせむこと、ふさはしからず。我空想はかの をラインの岸の にをらせて、手に の琴を らせ、 の声を させむとおもひ定めにき。 なる流にはわれ の舟を べて、かなたへむきてもろ手高く挙げ、 にかぎりなき愛を見せたり。舟のめぐりには数知られぬ、『ニックセン』、『ニュムフェン』などの形 より出でて す。けふこのミュンヘンの に来て、しばし美術学校の『アトリエ』借らむとするも、 の中、唯この 、これをおん身ら師友の間に りて、成しはてむと願ふのみ。」巨勢はわれ知らず話しいりて、かくいひ
りし時は、モンゴリア の狭き目も光るばかりなりき。「いしくも語りけるかな、」と呼ぶもの 。エキステルは冷淡に笑ひて ゐたりしが、「汝たちもその図見にゆけ、一週がほどには巨勢君の『アトリエ』ととのふべきに」といひき。マリイは物語の より色をたがへて、目は巨勢が唇にのみ注ぎたりしが、手に持ちし さへ一たびは震ひたるやうなりき。巨勢は このまとゐに入りし時、 に少女の我すみれうりに似たるに驚きしが、話に聞きほれて、こなたを見つめたるまなざし、あやまたずこれなりと思はれぬ。こも例の空想のしわざなりや や。物語畢りしとき、少女は暫し巨勢を見やりて、「君はその 、再び花うりを見たまはざりしか、」と問ひぬ。巨勢は ちに答ふべき言葉を得ざるやうなりしが。「否。花売を見しその の汽車にてドレスデンを立ちぬ。されどなめなる言葉を め玉はずばきこえ らむ。我すみれうりの子にもわが『ロオレライ』の にも、をりをりたがはず見えたまふはおん身なり。」この群は声高く笑ひぬ。少女、「さては画額ならぬ我姿と、君との間にも、その花うりの子立てりと覚えたり。我を誰とかおもひ玉ふ。」起ちあがりて、
なりとも なりとも、知られぬやうなる声にて。「われはその うりなり。君が の はかくこそ。」少女は しに伸びあがりて、 きゐたる巨勢が を、ひら手にて抑へ、その に しつ。この騒ぎに少女が前なりし酒は
へりて、 を し、卓の上にこぼれたるは、蛇の如く ひて、人々の前へ流れよらむとす。巨勢は熱き を、両耳の上におぼえ、驚く間もなく、またこれより熱き唇、額に触れたり。「我友に目を廻させたまふな。」とエキステル呼びぬ。人々は半ば椅子より立ちて「いみじき かな、」と一人がいへば、「われらは なるぞくやしき、」と の一人いひて笑ふを、よそなる卓よりも、皆興ありげにうち りぬ。少女が
に坐したりし一人は、「われをもすさめ玉はむや、」といひて、 さしのべて少女が腰をかき抱きつ。少女は「さても礼儀知らずの継子どもかな、汝らにふさはしき接吻のしかたこそあれ。」と叫び、ふりほどきて突立ち、美しき目よりは 出づと思ふばかり、しばし一座を みつ。巨勢は唯 れに呆れて見ゐたりしが、この時の少女が姿は、菫花うりにも似ず、「ロオレライ」にも似ず、さながら凱旋門上のバワリアなりと思はれぬ。少女は
が飲みほしけむ珈琲碗に添へたりし「コップ」を取りて、中なる水を口に むと見えしが、唯 。「継子よ、継子よ、汝ら か美術の継子ならざる。フィレンチェ派学ぶはミケランジェロ、ヰンチイが幽霊、 派学ぶはルウベンス、ファン・ヂイクが幽霊、我国のアルブレヒト・ドュウレル学びたりとも、アルブレヒト・ドュウレルが幽霊ならぬは ならむ。会堂に掛けたる『スツヂイ』二つ三つ、 好く売れたる には、われらは七星われらは十傑、われらは十二使徒と に見たてしてのわれぼめ。かかるえり にミネルワの唇いかで触れむや。わが冷たき接吻にて、満足せよ。」とぞ叫びける。けし霧の下なるこの演説、巨勢は何事とも へねど、時の絵画をいやしめたる、 ならむとのみは りて、その を打仰ぐに、女神バワリアに似たりとおもひし威厳少しもくづれず、 りて卓の上におきたりし手袋の酒に濡れたるを取りて、 にあゆみて出でゆかむとす。
皆すさまじげなる
して、「狂人」と一人いへば、「近きに せでは まじ」と外の一人いふを、戸口にて振りかへりて。「遺恨に思ふべき事かは、月影にすかして見よ、額に血の はとどめじ。吹きかけしは水なれば。」中編集
あやしき
の去りてより、ほどなく人々あらけぬ。 り にエキステルに問へば、「美術学校にて となる少女の一人にて、『フロイライン』ハンスルといふものなり。見たまひし如く奇怪なる するゆゑ、狂女なりともいひ、また外の雛形娘と違ひて、人に肌見せねば、かたはにやといふもあり。その履歴知るものなけれど、 ありて気象よの常ならず、 れたる なければ、美術諸生の仲間には、喜びて友とするもの多し。 き なることは見たまふ如し。」と答へぬ。 、「我画かくにもようあるべきものなり。『アトリエ』ととのはむ日には、 よと伝へたまへ。」エキステル、「心得たり。されど十三の花売娘にはあらず、裸体の研究、 しとはおもはずや。」巨勢、「裸体の雛形せぬ人と君もいひしが。」エキステル、「 にいはれたり。されど男と接吻したるも、けふ始めて見き。」エキステルがこの言葉に、巨勢は赤うなりしが、街燈暗き「シルレル・モヌメント」のあたりなりしかば、友は見ざりけり。巨勢が「ホテル」の前にて、二人は を分ちぬ。一週ほど〈[#「架」の左に「スタッファージュ」のルビ]〉の前に立ちて、今入りし少女に「ロオレライ」の画を指さし示して、「君に聞かれしはこれなり。面白げに笑ひたはぶれ玉ふときは、さしもおもはれねど、をりをり君がおも影の、ここなる未成の人物にいとふさはしきときあり。」
の事なりき。エキステルが周旋にて、美術学校の「アトリエ」 を巨勢に借されぬ。南に廊下ありて、北面の壁は の に を占められ、隣の間とのへだてには唯 の あるのみ。頃はみな月半ばなれど、旅立ちし諸生多く、隣に人もあらず、 妨ぐべき なきを喜びぬ。巨勢は画額の少女は高く笑ひて。「
したまふな。おん身が『ロオレライ』の の雛形、すみれ売の子は我なりとは、先の夜も告げしものを。」かくいひしが に色を正して。「おん身は我を信じたまはず、げにそれも無理ならず。世の人は皆我を狂女なりといへば、さおもひたまふならむ。」この声 とは聞えず。巨勢は半信半疑したりしが、忍びかねて少女にいふ、「余りに久しくさいなみ玉ふな。今も我が
に燃ゆるは君が唇なり。はかなき戯とおもへば、しひて忘れむとせしこと、 か知らねど、 は遂に晴れず。あはれ君がまことの身の上、苦しからずは聞かせ玉へ。」の なる小机に、いま より出したる き絵入新聞、 ひさしたる ゑの の 、粗末なる にまだ の の残れるなど載せたるその片端に、巨勢はつら つきたり。少女は前なる の に腰かけて、語りいでぬ。
「まづ何事よりか申さむ。この学校にて雛形の鑑札受くるときも、ハンスルといふ名にて通したれど、そは我〈[#「冬園」の左に「ヴィンテルガルテン」のルビ]〉に夜会ありて、二親みな招かれぬ。 なる頃、国王見えざりければ、人々驚きて、 ゑし熱帯 いやが上に茂れる、 屋根の下、そこかここかと捜しもとめつ。 の片隅にはタンダルヂニスが める、ファウストと少女との名高き石像あり。わが父のそのあたりに来たりし時、胸 くるやうなる声して、『助けて、助けて』と叫ぶものあり。声をしるべに、 の おほひたる、『キオスク』( )の戸口に立寄れば、周囲に茂れる の葉に、 の光支へられたるが、濃き五色にて画きし、窓硝子を りてさしこみ、薄暗くあやしげなる影をなしたる に、一人の女の逃げむとすまふを、ひかへたるは王なり。その女のおもて見し時の、父が心はいかなりけむ。かれは我母なりき。父はあまりの事に、しばしたゆたひしが、『許したまへ、 』と叫びて、王を しつ。そのひまに母は走りのきしが、不意を打たれて倒れし王は、起き上りて父に組付きぬ。 えふとりて多力なる国王に、父はいかでか敵し得べき、組敷かれて、 なりし にてしたたか打たれぬ。この事知りて めし、内閣の秘書官チイグレルは、ノイシュワンスタインなる塔に めらるるはずなりしが、救ふ人ありて助けられき。われはその夜家にありて、二親の帰るを待ちしに、 来て父母帰り玉ひぬといふ。喜びて出迎ふれば、父 かれて帰り、母は我を抱きて泣きぬ。」
の名にあらず。父はスタインバハとて、今の国王に でられて、ひと時 えし画工なりき。わが十二の時、王宮の少女は
らく黙しつ。けさより曇りたる空は、雨になりて、をりをり窓を打つ 、はらはらと音す。巨勢いふ。「王の狂人となりて、スタルンベルヒの湖に近き、ベルヒといふ城に され玉ひしことは、きのふ新聞にて読みしが、さてはその頃よりかかる事ありしか。」少女は語を
ぎて。「王の繁華の地を嫌ひて、 に住まひ、昼寝ねて夜起きたまふは、久しきほどの事なり。 、 の ありし時、 派の国会に打勝ちて、 方につきし、王が中年のいさをは、次第に暴政の に はれて、公けにこそ言ふものなけれ、陸軍大臣メルリンゲル、大蔵大臣リイデルなど、故なくして死刑に行はれむとしたるを、その筋にて秘めたるは、誰知らぬものなし。王の昼寝し玉ふときは、 みな けられしが、 にマリイといふこと、あまたたびいひたまふを聞きしもありといふ。我母の名もマリイといひき。望なき恋は、王の病を長ぜしにあらずや。母はかほばせ我に似たる処ありて、その美しさは宮の内にて なかりきと聞きつ。」「父は間もなく病みて死にき。
広く、もの みせず、世事には極めて かりければ、家に遺財つゆばかりもなし。それよりダハハウエル街の北のはてに、裏屋の二階明きたりしを借りて住みしが、そこに遷りてより、母も病みぬ。かかる時にうつろふものは、人の心の花なり。数知らぬ苦しき事は、わが き心に、早く世の人を憎ましめき。 る年の一月、謝肉祭の頃なりき、家財衣類なども売尽して、日々の も立てかぬるやうになりしかば、貧しき子供の群に入りてわれも 売ることを覚えつ。母のみまかる前、三日四日のほどを安く送りしは、おん身の なりき。」「母のなきがら片付けなどするとき、世話せしは、一階高くすまひたる裁縫師なり。あはれなる
ひとり置くべきにあらずとて、迎取られしを喜びしこと、今おもひ出しても しきほどなり。裁縫師には、娘二人ありて、いたく物ごのみして、みづから ふさまなるを見しが、迎取られてより へば、夜に入りてしばしば客あり。酒など飲みて、はては笑ひ り、また歌ひなどす。客は の人多く、おん国の学生なども見えしやうなりき。或る日 われにも新しき 着よといひしが、そのをりその男の我を見て笑ひし顔、何となく ろしく、子供心にもうれしとはおもはざりき。 すぎし頃、四十ばかりなる知らぬ人来て、スタルンベルヒの湖水へ かむといふを、主人も に めき。父の世にありしきとき、伴はれてゆきし嬉しさ、なほ忘れざりしかば、しぶしぶ ひつるを、「かくてこそ き子なれ」とみな めつ。連れなる男は、 にてやさしくのみ扱ひて、かしこにては『バワリア』といふ に乗り、食堂にゆきて物食はせつ。酒もすすめぬれど、そは慣れぬものなれば、 みて飲まざりき。ゼエスハウプトに船はてしとき、その人はまた小舟を借り、これに乗りて遊ばむといふ。暮れゆくそらに心細くなりしわれは、はやかへらむといへど、聴かずして で、岸辺に添ひてゆくほどに、人げ遠き に りしが、男は舟をそこに めつ。わが年はまだ十三にて、 は何事ともわきまへざりしが、 には男の顔色もかはりておそろしく、われにでもあらで、水に りぬ。暫しありて我にかへりしときは、湖水の なる の家にて、貧しげなる夫婦のものに、介抱せられてゐたりき。帰るべき家なしと言張りて、 と す に、漁師夫婦の質朴なるに みて、不幸なる我身の上を打明けしに、あはれがりて娘として養ひぬ。ハンスルといふは、この漁師の名なり。」「かくて漁師の娘とはなりぬれど、弱き身には舟の〈[#「雇女教師」の左に「グェルナント」のルビ]〉の なり。女教師は四十余の なりしが、家の娘のたかぶりたるよりは、我を愛すること深く、 がほどに多くもあらぬ教師の蔵書、 く読みき。ひがよみはさこそ多かりけめ。またふみの種類もまちまちなりき。クニッゲが交際法あれば、フムボルトが長生術あり。ギョオテ、シルレルの詩抄半ばじゆしてキョオニヒが通俗の文学史を き、あるはルウヴル、ドレスデンの画堂の写真絵、繰りひろげて、テエヌが美術論の訳書をあさりぬ。」
取ることもかなはず、レオニのあたりに、富める の住めるに はれて、 になりぬ。 信ずる養父母は、英吉利人に使はるるを嫌ひぬれど、わが物読むことなど覚えしは、 家なりし「
英吉利人一族を率ゐて国に帰りし後は、 るべき家に奉公せばやとおもひしが、身元 からねば、ところの貴族などには使はれず。この学校の或る教師に、 なくも見出されて、 勤めしが になりて、遂に鑑札受くることとなりしが、われを名高きスタインバハが娘なりとは知る人なし。今は美術家の間に立ちまじりて、 面白くのみ日を暮せり。されどグスタアフ・フライタハはさすがそら いひしにあらず。美術家ほど世に行儀 しきものなければ、 ちて るには、しばしも油断すべからず。寄らず、 らぬやうにせばやとおもひて、 らず ふ如き不思議の になりぬ。をりをりは我身、みづからも狂人にはあらずやと疑ふばかりなり。これにはレオニにて読みしふみも、 し をなすかとおもへど、もし らば世に博士と呼ばるる人は、そもそもいかなる狂人ならむ。われを狂人と罵る美術家ら、おのれらが狂人ならぬを憂へこそすべきなれ。英雄豪傑、名匠大家となるには、多少の狂気なくて はぬことは、ゼネカが論をも、シエエクスピアが をも たず。見玉へ、我学問の きを。狂人にして見まほしき人の、狂人ならぬを見る、その悲しさ。狂人にならでもよき国王は、狂人になりぬと聞く、それも悲し。悲しきことのみ多ければ、昼は と共に泣き、夜は と共に泣けど、あはれといふ人もなし。おん身のみは なくあざみ笑ひ玉はじとおもへば、心のゆくままに語るを め玉ふな。ああ、かういふも狂気か。」下編集
なき空に雨 みて、学校の庭の のゆるげるのみ曇りし窓の をとほして見ゆ。 が話聞く間、 が胸には、さまざまの感情戦ひたり。或ときはむかし別れし妹に ひたる兄の心となり、或ときは廃園に れ したるヱヌスの像に、 悩める彫工の心となり、或るときはまた に心動され、われは ちじと戒むる の心ともなりしが、聞きをはりし時は、胸騒ぎ肉 ひて、われにもあらで、少女が前に かむとしつ。少女はつと立ちて「この部屋の暑さよ。はや学校の門もささるる頃なるべきに、雨も晴れたり。おん身とならば、おそろしきこともなし。共にスタルンベルヒへ き玉はずや。」と なる 取りて きつ。そのさま巨勢が共に行くべきを、つゆ疑はずと し。巨勢は 母に引かるる の如く従ひゆきぬ。
門前にて馬車
ひて走らするに、ほどなく停車場に来ぬ。けふは日曜なれど、天気 しければにや、 よりかへる人も多からで、ここはいと なり。新聞の号外売る婦人あり。買ひて見れば、国王ベルヒの城に りて、 穏なれば、侍医グッデンも護衛を めさせきとなり。 中には湖水の にあつさ避くる人の、物買ひに府に出でし帰るさなるが多し。王の いと し。「まだホオヘンシュワンガウの城にゐたまひし時には似ず、心 まりたるやうなり。ベルヒに遷さるる途中、ゼエスハウプトにて水求めて飲みたまひしが、近きわたりなりし らを見て、やさしく きなどしたまひぬ。」と みたることばにて語るは、かひもの 手にさげたる なりき。車走ること一時間、スタルンベルヒに着きしは
の五時なり。かちより きてやうやう一日ほどの処なれど、はやアルペン山の近さを、唯何となく覚えて、このくもらはしき空の にも、胸開きて息せらる。車のあちこちと し、丘陵の 開けたる処に、ひろびろと見ゆるは湖水なり。停車場は西南の隅にありて、東岸なる林木、漁村はゆふ霧に包まれてほのかに認めらるれど、山に近き南の方は一望きはみなし。知りたる少女に引かれて、巨勢は なる石段をのぼりて見るに、ここは「バワリア」の といふ「ホテル」の前にて、屋根なき所に 、 など並べたるが、けふは雨後なればしめじめと人げ少し。給仕する の黒き に、白の前掛したるが、何事をかつぶやきつつも、卓に倒しかけたる椅子を、引起して ひゐたり。ふと見れば片側の にそひて、つた からませたる ありて、その なる を囲みたるひと の客あり。こはこの「ホテル」に宿りたる人々なるべし。男女打ちまじりたる中に、先の夜「ミネルワ」にて見し人ありしかば、巨勢は往きてものいはむとせしに、少女おしとどめて。「かしこなるは、君の近づきたまふべき群にあらず。われは年若き人と二人にて来たれど、 づべきはかなたにありて、こなたにあらず。彼はわれを知りたれば、見玉へ、久しく座にえ忍びあへで隠るべし。」とばかりありて、 美術諸生は果して ちて「ホテル」に入りぬ。少女は僕を呼びちかづけて、座敷船はまだ出づべしやと問ふに、僕は飛行く雲を指さして、この なきそらあひなれば、 でざるべしといふ。さらば車にてレオニに行かばやとて言付けぬ。
馬車来ぬれば、二人は乗りぬ。停車場の
より、東の岸辺を らす。この時アルペンおろしさと吹来て、湖水のかたに霧立ちこめ、今出でし をふりかへり見るに、次第々々に になりて、家の 、木のいただきのみ一きは黒く見えたり。御者ふりかへりて、「雨なり。 ふべきか。」と問ふ。「 」と へし少女は巨勢に向ひて。「ここちよのこの や。むかし我命 はむとせしもこの湖の中なり。我命拾ひしもまたこの湖の中なり。さればいかでとおもふおん身に、 打明けてきこえむもここにてこそと思へば、かくは ひまつりぬ。『カッフェエ・ロリアン』にて恥かしき目にあひけるとき、救ひ玉はりし君をまた見むとおもふ心を命にて、 をか経にけむ。先の夜『ミネルワ』にておん身が物語聞きしときのうれしさ、日頃木のはしなどのやうにおもひし美術諸生の仲間なりければ、人あなづりして不敵の せしを、はしたなしとや見玉ひけむ。されど人生いくばくもあらず。うれしとおもふ の間に、口張りあけて笑はずば、後にくやしくおもふ日あらむ。」かくいひつつ りし帽を てて、こなたへふり向きたる顔は、 に熱血 る如くにて、風に吹かるる金髪は、 打振りて長く ゆる の に似たりけり。「けふなり。けふなり。きのふありて何かせむ。あすも、あさても しき名のみ、あだなる声のみ。」この時、二点三点、
き雨は車上の二人が を打ちしが、 くひまに繁くなりて、湖上よりの横しぶき、あららかにおとづれ来て、 を したる少女が に打ちつくるを、さし く巨勢が心は、唯そらにのみやなりゆくらむ。少女は伸びあがりて、「御者、 は取らすべし。 く れ。 加へよ、今一策。」と叫びて、 に巨勢が を き、 れは をそらせて たり。巨勢は の如き少女が肩に、我 を持たせ、ただ夢のここちしてその姿を見たりしが、 上の女神バワリアまた胸に浮びぬ。国王の
めりといふベルヒ城の に し頃は、雨いよいよ しくなりて、湖水のかたを見わたせば、吹寄する風一陣々、濃淡の おり出して、 き処には雨白く、 き処には風黒し。御者は車を停めて、「しばしがほどなり。余りに れて も風や引き玉はむ。また びたれどもこの車、いたく濡らさば、 の に はむ。」といひて、手早く母衣 ひ、また あてて急ぎぬ。雨なほをやみなくふりて、神おどろおどろしく鳴りはじめぬ。
は林の間に入りて、この国の夏の日はまだ高かるべき頃なるに、 ほの暗うなりぬ。夏の日に されたりし草木の、雨に ひたるかをり車の中に吹入るを、 したる人の水飲むやうに、二人は吸ひたり。 のおとの には、おそろしき天気に れたりとも見えぬ「ナハチガル」鳥の、 たる声振りたててしばなけるは、淋しき路を ゆく人の、ことさらに歌うたふ にや。この時マリイは を巨勢が項に組合せて、身のおもりを持たせかけたりしが、木蔭を る稲妻に照らされたる顔、見合せて を含みつ。あはれ二人は我を忘れ、わが乗れる車を忘れ、車の外なる世界をも忘れたりけむ。林を出でて、
を下るほどに、風 を払ひさりて、雨もまた みぬ。湖の上なる霧は、重ねたる布を 、二重と ぐ如く、 の に晴れて、西岸なる人家も、また手にとるやうに見ゆ。唯ここかしこなる木下蔭を ぐるごとに、 に残る露の風に払はれて落つるを見るのみ。レオニにて車を下りぬ。左に高く
ちたるは、いはゆるロットマンが岡にて、「湖上第一勝」と題したる の建てる処なり。右に レオニが開きぬといふ、水に める あり。巨勢が にもろ手からみて、 るやうにして歩みし少女は、この店の前に来て岡の方をふりかへりて、「わが雇はれし の住みしは、この の家なりき。老いたるハンスル夫婦が漁師小屋も、最早百歩がほどなり。われはおん身をかしこへ、伴はむとおもひて しが、胸騒ぎて へがたければ、この店にて はばや。」巨勢は にもとて、店に入りて ふるに、「七時ならでは整はず、まだ三十分待ち給はではかなはじ、」といふ。ここは夏の間のみ客ある処にて、給仕する人もその年々に雇ふなれば、マリイを れるもなかりき。少女はつと立ちて、
に ぎし舟を指さし、「舟 ぐことを知り玉ふか。」巨勢、「ドレスデンにありし時、公園のカロラ池にて舟漕ぎしことあり、善くすといふにあらねど、君 りわたさむほどの事、いかで ざらむ。」少女、「庭なる は れたり。さればとて屋根の下は、あまりに暑し。しばし我を載せて漕ぎ玉へ。」巨勢はぬぎたる
を少女に せて に乗らせ、われは 取りて でぬ。雨は歇みたれど、天なほ曇りたるに、暮色は早く岸のあなたに来ぬ。さきの風に揺られたるなごりにや、 くほどの波はなほありけり。岸に沿ひてベルヒの へ漕ぎ戻すほどに、レオニの村落果つるあたりに来ぬ。岸辺の 絶えたる処に、 の次第に低くなりて、 に長椅子 ゑたる見ゆ。 の 舟に触れて、さわさわと声するをりから、岸辺に人の足音して、木の間を出づる姿あり。身の 六尺に近く、黒き外套を着て、手にしぼめたる を持ちたり。 に少し引きさがりて ひたるは、 も髪も皆雪の如くなる なりき。前なる人は きて歩み ぬれば、 広き帽に顔隠れて見えざりしが、今 の を出でて湖水の方に向ひ、しばし立ちとどまりて、片手に帽をぬぎ持ちて、打ち仰ぎたるを見れば、長き黒髪を、 ざまにかきて広き を はし、 の色灰のごとく きに、 みたる目の光は人を射たり。舟にては巨勢が外套を背に着て、 まりゐたるマリイ、これも岸なる人を見ゐたりしが、この時 に驚きたる如く、「彼は王なり」と叫びて立ちあがりぬ。背なりし外套は落ちたり。帽はさきに脱ぎたるまま、酒店に置きて出でぬれば、乱れたるこがね色の髪は、白き の肩にたをたをとかかりたり。岸に立ちたるは、実に侍医グッデンを引つれて、散歩に出でたる国王なりき。あやしき幻の形を見る如く、王は として少女の姿を見てありしが、 一声「マリイ」と叫び、持ちたる傘投棄てて、岸の浅瀬をわたり来ぬ。少女は「あ」と叫びつつ、そのまま気を ひて、巨勢が くる手のまだ及ばぬ に れしが、傾く舟の一揺りゆらるると共に、うつ になりて水に ちぬ。湖水はこの処にて、次第々々に深くなりて、 ゆるやかなりければ、舟の まりしあたりも、水は五尺に足らざるべし。されど岸辺の砂は、やうやう粘土まじりの泥となりたるに、王の足は深く いりて、あがき自由ならず。その に ひたりし翁は、これも傘投捨てて追ひすがり、老いても力や衰へざりけむ、水を て 、王の むづと握りて引戻さむとす。こなたは引かれじとするほどに、外套は上衣と共に翁が手に残りぬ。翁はこれをかいやり棄てて、なほも王を引寄せむとするに、王はふりかへりて組付き、かれこれたがひに声だに立てず、暫し ひたり。これ
一瞬間の事なりき。巨勢は少女が つる時、 に を握みしが、少女が蘆間隠れの に強く胸を打たれて、沈まむとするを、やうやうに げ、 の二人が争ふを跡に見て、もと し へ漕ぎ返しつ。巨勢は唯 にもして少女が命助けむと思ふのみにて、 に及ぶに あらざりしなり。レオニの酒店の前に来しが、ここへは寄らず、これより百歩がほどなりと聞きし、漁師夫婦が をさして漕ぎゆくに、日もはや暮れて、岸には「アイヘン」、「エルレン」などの枝繁りあひ広ごりて、水は入江の形をなし、蘆にまじりたる水草に、白き花の咲きたるが、ゆふ にほの見えたり。舟には解けたる髪の泥水にまみれしに、 かかりて れふしたる少女の姿、たれかあはれと見ざらむ。をりしも漕来る舟に驚きてか、蘆間を離れて、岸のかたへ高く飛びゆく あり。あはれ、こは少女が のぬけ出でたるにはあらずや。しばしありて、今まで
に隠れたる苫屋の 見えたり。近寄りて、「ハンスルが家はここなりや、」とおとなへば、傾きし の小窓 きて、白髪の 、舟をさしのぞきつ。「ことしも水の神の 求めつるよ。 はベルヒの城へきのふより りとられて、まだ帰らず。 して見むとおもひ玉はば、こなたへ。」と落付きたる声にていひて、窓の戸ささむとしたりしに、巨勢は声ふりたてて、「水に墜ちたるはマリイなり、そなたのマリイなり、」といふ。老女は聞きも らず、窓の戸を開け放ちたるままにて、 の に で、泣く泣く巨勢を けて、少女を抱きいれぬ。入りて見れば、半ば板敷にしたるひと間のみ。今火を
したりと見ゆる小「ランプ」 の上に なり。 の壁にゑがきたる粗末なる 一代記の彩色画は、 に包まれておぼろげなり。 きなどして介抱しぬれど、少女は らず。巨勢は老女と の に夜をとほして、消えて なきうたかたのうたてき世を ちあかしつ。時は耶蘇暦千八百八十六年六月十三日の
の七時、バワリア王ルウドヰヒ第二世は、湖水に れて せられしに、年老いたる侍医グッデンこれを救はむとて、共に命を し、顔に王の を めて死したりといふ、おそろしき知らせに、 十四日ミュンヘン府の騒動はおほかたならず。街の角々には 取りたる に、この を書きたるありて、その下には人の山をなしたり。新聞号外には、王の屍見出だしつるをりの模様に、さまざまの 附けて売るを、人々争ひて買ふ。点呼に応ずる兵卒の正服つけて、黒き毛植ゑたるバワリア ける、警察吏の馬に り、または にて せちがひたるなど、 いはんかたなし。久しく民に を見せたまはざりし国王なれど、さすがにいたましがりて、 を含みたる顔も街に見ゆ。美術学校にもこの騒ぎにまぎれて、 に し巨勢がゆくへ知れぬを、心に掛くるものなかりしが、エキステル一人は友の上を気づかひゐたり。六月十五日の
、王の のベルヒ城より、真夜中に府に されしを迎へて帰りし、美術学校の生徒が「カッフェエ・ミネルワ」に引上げし時、エキステルはもしやと思ひて、巨勢が「アトリエ」に入りて見しに、彼はこの三日がほどに 変りて、 るく せたる如く、「ロオレライ」の図の下に きてぞゐたりける。国王の
の に はれて、レオニに近き漁師ハンスルが娘一人、おなじ時に溺れぬといふこと、問ふ人もなくて みぬ。この著作物は、1922年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
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