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だい四十四くわ キリスト教的徳けうてきとく

254●つみをかさぬばかりでるか

つみをかさぬばか

[下段]

りではらず、尚徳なほとくみ、天主てんしゅ御意みこゝろかなやうはげまねばなりませぬ。

つみをかさぬばかりでは、

たゞ天主てんしゅさからはず、てんちゝ抵抗ぶむかひせぬとだけとゞまり、こゝろつくちからつくして天主てんしゅあいすることらぬからつみをかさぬばかりではらぬ。

尚徳なほとく

とはかさねゞゝゝ善業ぜんげふおこなひ、つひ善徳ぜんとくり、いよい善人ぜんにんためつとめることである。

天主てんしゅ御心みこゝろかなやうはげ

とは、心掛こゝろがけててんちゝ御心みこゝろよろこばせたいはげまことである。

ちゅうおやかなしませぬばかりで孝行かうゝゝひとはれやうか。法律ほうりつやぶらぬだけ良民れうみんはれやうか。それおなじくつみをかさぬばかりでは、当然あたりまへことぎぬから、キリスト信者しんじゃすなはイエズスをしへまもったものとははれぬ。「汝等なんじら天父てんぷ完全くわんぜんましまごと汝等なんじら完全くわんぜんなれ」と(マ テ オ五。四八)、イエズス御言みことばにあれば、ますま天主てんしゅ御心みこゝろかなことのぞみ、ちからつくしてこそ本当ほんたう信者しんじゃる。それ今思いまおもことことことは、天主てんしゅ御意みこゝろかなふやいなやを度々たびゝゝかへりみ、叉何またどうすれば、御喜およろこび

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るかとかんがへて其爲そのため精出せいだすのは信者しんじゃ本分ほんぶんである。

255◯とくとはなにであるか

とくこゝろぜんかたむける慣習ならはしであります。

慣習ならはし

とは、なにかを度々たびゝゝして、仕馴しなれてことである。わること度々たびゝゝすればつひくせり、こゝろこれ凝固こりかたまってめられぬやうにるが、これをば「悪徳あくとく」とふ、酒飮さけのみ道楽だうらくなどそれである。其如そのごとこと度々たびゝゞすれば必竟つまり慣習ならわしり、こゝろこれかたむき、はりずにはられぬやうにる、これをば「善徳ぜんとく」、または「とく」となづく。たとへばはじめて敬神けいしんかみうやまふ」おこないがあったばかりでは敬神けいしんおこないではあるけれども「敬神けいしんとく」ではない。敬神けいしんとくとは平生へいぜいかみうやまこゝろがあって、つねこれあらはすやうに心掛こゝろがけ、これはんすることきらねんのあることしめすのである。とくあつむのは「高徳かうとく」といひそんひとを「高徳かうとくしゃ」とふ。

ちゅう)一ぺん堪忍かんにんしたからとて堪忍かんにんしゃとははれぬ、またぺん慈善じぜんしただけ慈善じぜんとははれぬ、度々たびゝゞするところでなく、平生へいぜい堪忍かんにんしてこそ堪忍かんにんしゃ堪忍かんにんぶくろり、平生へいぜい慈善じぜんしてこそ慈善じぜん

[下段]

るではないか。信者しんじゃ善業ぜんげふおこなふことが常態ぜうたいとなってはじめて高徳かうとくしゃはれるのである。何人なんびとこの状態ぜうたいたっするやう善業ぜんげふまねばならぬ。

256◯とく幾種いくとほりあるか

とく二種ふたとほりあって、性徳せいとくてう性徳せいとくとであります。

性徳せいとく

また自然しぜんとくふのは、世間せけん的徳てきとくであるが、

てう性徳せいとく

てう自然徳しぜんとくふのは、宗教しうけうもとづ天主てんしゅたいしてまもとくである。

257◯性徳せいとくとはなにであるか

性徳せいとく人性じんせいあるひ人情にんぜうとくであります。

性徳せいとく

人性じんせい

とは、面々めんゝゝ生来うまれつきとくで、たとへば不精ぶせう性質せいしつひと堪忍かんにん柔和にうわまもる、活発くわっぱつたちひと勇気ゆうきあり、下戸げこ摂生せっせいまもるやうなことである。

性徳せいとくまた

人情にんぜう

とは、(一)当然あたりまへ道理だうり、(二)あるひ世間せけんなみわけ、(三)あるひ目的もくてきもっおこなはれるとくである。たとへば人間にんげん多少たしょう道徳だうとくしんがあるから、ひと憫然かあいさうおもって人情にんぜう

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より慈善じぜんおこなものもあり、また孔子こうし釈迦しゃかごと道理だうりもとづいて道徳だうとくまもひともあり、あるひは「武士ぶし二言にごんなし」とかふやうな主義しゅぎぜんおこなひともあり、あるひ名誉めいよため邪欲じゃよくおさへ、善業ぜんげふはげひともあるが、是皆これみな自然しぜんとくである。

自然しぜんとくけっしてかろんずべきものではない。かへっ余程よほど価値かちのあるものである。唯惜たゞおしいことには世間せけんなみ主義しゅぎとゞまるので、世間せけんなみ報酬ほうしうけるよりほかはない。られるためめられるためぜんれば、其目的そのもくてきだけたっせられても、天国てんごくをはりなき報酬ほうしゅうけるにらぬと、イエズス、キリスト屡仰しばゝゞおっしゃった。これ無論むろん天主てんしゅためおこなはぬからであります。

258◯てう性徳せいとくとはなにであるか

てう性徳せいとくとは聖寵せいてう助力じょりきとくであります、気質きしつによらず、人情にんぜうによらず、ひとちからにもよらず、むし

聖寵せいてう助力じょりき

により、天主てんしゅためまもるのは所謂いはゆるてう性徳せいとく超自てうし然徳ぜんとくである。てう性徳せいとく聖寵せいてうによっておこり、かさねゞゝゝの徳行とくかうもっ増加ぞうかし、また忽諸ゆるがせにすることによって、おとろへ、これ反対はんたいするつみをかせずるものである。

[下段]

ちゅう性徳せいとくてう性徳せいとくとのちがところおもみつ

だい一、其本そのもと性徳せいとくたゞ道理だうりもとづくのに、てう性徳せいとく聖寵せいてうたすけによっておこる。

だい二、其訳そのわけ性徳せいとく人情にんぜうためまもられるのに、てう性徳せいとく信仰しんかうわけによっておこなはれる。

だい三、その目的もくてき性徳せいとく自然しぜんぜう自然しぜん要求えうきうみたためであるから世間せけんむくいられるが、てう性徳せいとく天主てんしゅほまれため救霊たすかりためまもられるによって天主てんしゅより救霊たすかりもっむくいられる。