西洋紀聞上卷


寶永五年戌子十二月六日、西邸にて承りしは、去八月、大隅國の海島に、番夷ありて一人來り止まる、日本江戶長崎などいふ事の外は、其言語きゝわきまふべからず、みづから紙上に數圏をしるして、ロウマ、ナンバン、ロクソン、カステイラ、キリシタンなどさしいひ、ロウマといひし時には其身をゆびざせり、此事長崎に注進す、阿蘭陀人にたづねとふに、ロウマといふは、西洋イタリヤの地名にて、天主敎化の主ある所也、ロクソン、カステイラ等のごときは、いかにも心得がたしといふ、又南京、寧波、厦門、臺灣、廣東、東京、暹羅等の人にとふにも、キリシタンといふは、邪敎の名目とは聞及びぬ、其餘の事は心得られずと申すといふ也、と仰下さる、承りて、其人、西洋の國より來れるは、一定に侍るならむ、されど、其ことばの聞得べからずと申すは、心得られずと申す、かさねて其故を尋下さる、ふるく候ひし人の申せし事を承り覺候し事も侍り、彼地方の人は、きはめてよく萬國のことばに通じ侍りければ、むかし、ナンバンの人、我國に來りし初、數日がほどに、我國のことばに通じ得て、つゐに其敎をも傳へしと申し候ひき、其法の此國に行はれし事も年久しく、其國の人常にゆきかよひ、又此法禁ぜられし時、我國の人其敎に隨ひしものども、彼國に渡しつかはされしも數多く候ひき、されば、彼國の人、此土の言葉はよく通じ候ひなむ歟、我國にもとむる事ありて來らむものゝ、其ことばに通ぜざらむには、なにゝよりてか、其志をもとげ候べき、但し五方の語言同じからずして、其中また古言今言ある事に候へば、其傳習ひし所、我國の中、いづこの人の言葉をか習ひ候ひぬらむ、ましてや、彼國の人、こゝに通ぜざる事、既に百年に近く候へば、今のこと葉に同じからぬ事も候べき歟、これらの心得したらむものして、聞かせ候はむには、いかむぞ其ことばをきゝわきまへぬ事の候べき、阿蘭陀人の申す所は、猶心得られず、ロクソンと申すは、宋元の代より此かた呂宋などしるせし國にて、其國より出し壺をば、我國の人葉茶を貯ふるに宜しとて、呂宋眞壺など申す事は、誰々もしり候ひぬ、またカステイラと申すは、イタリヤなど聞えし地に近き國にて、むかし、其國にて作り出せし菓子の、此土に傳へし物は、今も候なる、これらの事は、なども其名を聞覺候ものを、其地方の人の心得がたきと申す事、尤心得がたく候歟と申す、申す所其謂ありと仰下されたりき、かくて、彼人は、法にまかせて刑せらるべしなど聞えし程に、其年も暮て、明れば六年己丑の正月十日に、國喪の御事ありて、それらの事も聞えず、此年もまた暮むとするに、十一月の初に至て、去年の冬、大隅國に來りとゞまれる外國の人、近き程にこゝに來るべし、其事の由を尋問ふべきもの也と、仰下さる、また去年長崎の奉行所注進の狀をも、うつし出されたり、これは、彼來りし由いまだ詳ならず、某が申せし事ありしによりて、某して尋問しめられんために、めされしとぞ聞えし、我國のことばのみならましかは、いかにも聞得べし、思ふに、地方人名、または其敎法等の事に至ては、其方言ぞ多かるべき、此法禁の巖なるによりて、阿蘭陀等の國の通事などいふものも、猶さとし得ぬ所ありと聞えたれは、此事に至ては、きはめて難事也、此事、奉行の許には其こと葉など飜譯のものありぬとおもひしかば、しかる物のあらむには、借し賜るべき由を申す、其事執政の人々に仰下されしかば、奉行の許より書三册を進らす、借し下されて、これを見るに、其敎法の大要など見えて、其こと葉を譯せし事はあらず、されど、其中一二の用にあたれる所なきにしもあらず、かくて、彼人こゝに至れりと聞えて、同月の廿二日に奉行所にして召對すべきに及びて、前の日奉行の人々にあひて、其事を約す、〈橫田備中守柳澤八郞衞門〉其日巳の時過るほどに、かしこにゆきむかふ、〈きりしたむ屋敷といふ城北小石川にあり〉奉行の人々出合ひて、かれが携來りし物どもを見る、我國にて新たに製られし金錢等の物見えて、また法衣也といふものゝ、白布にて作れるを、よく見るに、そのうらの方に、我國の南都にて織出す布の朱印ある也、奉行の人々にも見せ、其餘のものにも見せしに、うたがふべくもあらずといふ、心得ぬ事に思ひしほどに物ども皆見はてゝ、長崎より差副てつかはせし通事のものどもを召す、〈大通事今村源右衞門英成、稽古通事は品川兵次郞、嘉福喜藏といふ、此二人の名は聞かず〉某、彼輩にむかひて、むかしナンバンの人、長崎にありし時は、其國の通事等あり、其法禁ぜられし初には、その人猶ありしかど、それら死うせし後は、其學を傳ふるものあるべきにもあらず、いはんや、法禁の初は、あやまりても、彼地方のこと葉をいひしものは、嚴刑をまぬかれず、たとひ其言葉を聞傳しものも、敢て口より出すべき事にもあらず、かくて、七八十年をすぎぬれば、今はそのことばに通ぜむものあるべきにあらず、凡そ五方の語言同じからねば、たとへば、今長崎の人をして、陸奧の方言聞しめむには、心得ぬ事多かるべけれど、さすがに、我國の內のことばなれば、かくいふ事は、此ことにやと、をしはからむには、あたらずといふとも遠からじ、我萬國の圖を見るに、イタリヤ、阿蘭陀、同じく歐羅巴の地にありて、相さる事の近きは長崎陸奧相さるの遠きがごとくにはあらず、さらば、阿蘭陀の言葉によりて、彼地方のことばををしはからむに、其七八には通じぬべき事にこそ、されど、おほやけに申さむ事には、正しく其語を學得ざらむ事、をしはかりて申さむは、しかるべからず、今日の事、前日の事に同じからず、これおほやけに申す事にはあらず、某がために、そのこと葉を通ずべきためなれば、たとひ彼申さむ事、心得ぬ折ありとも、かたが心にをしはかりおもふ所を以て、某に申せ、某も又かたが申す所、正しく彼申す折の義に合へりと、信じ用ひんともおもはず、さらば、かたがをしはかる所の僻事ありとも、其罪にもあらじ、奉行の人々も聞しめされよ、彼等もとより學び得ぬ所なれば、たとひ解し申す所の訛り多しとも、咎給ふべき事にあらずと申す、人々も承りぬと答らる、かくて、午の時すぐる程に、かのものを召出せり、二人して、左右をさしはさみたすけて、庭上に至り、人々にむかひて拜す、坐を命じてのち、庭上に設置し榻につく、〈其廳事は、南面にて板緣あり、緣をさる事三尺ばかりにして、榻をまうく奉行の人々、緣に近く坐し、某は座の上の少しく奧に坐したり、大通事は板緣の上、西に跪き、稽古通事二人は、板緣の上、東に跪く、かのもの、長途を輿中にのみありて、步に堪ず、獄中よりこゝに至るをも、輿してめし致せり、これによりて、人をしてさしはさみたすけし也、榻につきし後は、寄騎の侍一人、步卒二人、そのかたはらとうしろとにありて、筵の上に跪き居れり、此のちの儀、みなこれに同じ〉其たけ高き事、六尺にははるかに過ぬべし、普通の一は、其肩にも及ばず、頭かぶろにして、髮黑く眼ふかく、鼻高し、身には茶褐色なる袖細の綿入れし、我國の紬の服せり、これは、薩州の國守のあたへし所也といふ、肌には白き木綿のひとへなるをきたりき、〈坐につきし時、右手にて、額に符字かきし儀あり、此のちも常にかくのごとし、其說は末に見ゆ、〉かくて、奉行の人々、通事していはせし事ありしに、拜して後にこれに答ふ、これは、天すでに寒くして、其衣薄ければ、衣あたへしに、うけず、その故は、其敎戒に、その法を受ざる人の物、うくる事なきによれり、されど、飮食の物のごときは、其國命を達せむほどの性命のためなれば、日々に稟粟を費す事、國恩を荷ふ事すでに重し、いかで衣服の物まで給りて、我禁戒にそむくべき、はじめ、薩州の國守の給りし物、身にまとゐぬれば、寒をふせぐにたれり、心をわづらはし給ふ事あるべからずと、申切りたりし由也、此問對事終りて後、人々某を揖して坐をすゝめしめらる、此日は某、他事に及ばず、たゞ彼國地方の事など、通事に命じて問はしめて、其いふ所を聞く、〈萬國の圖を携ゆきて、其圖をしめしてたづねとふに、此圖は、此土にしてしるされし所なれば、精しからずといふ、奉行所に、ふるき圖ありと聞えしかば、かさねては、其圖を出さるべしと相約したりき、〉其問ふ所に答ふる所をきくに、かねておもひはかりしごとくに、事わづらはしからず、但しそのいふ所は、我國幾內山陰西南海道の方言うちまじりて、彼地方の聲音にて、操り出しぬれば、正しく其事とおもふも、疑ぬべき事あり、かれまた、そのいふところを、こなたの人の聞得がたき事もやあるとおもひしにや、必ずそのことばを反覆していふ、又あやまり傳へし事も、すくなからず、まして、彼地名人名に限りては、其土に稱ずるままにいひしかば、それらの事は、よくたづねきはめて、地名人名等をわかつ、又通事等は、阿蘭陀の語に學び熟しぬれば、舊習にひかれて、彼いふ所のごとくにいひ得がたき事どもあるを、をしへいふ事などもありし、かくして打聞く事、一時ばかりの後には、某も、みづから問ひもし、答へもする事共ありて、日すでに西に傾きしかば、奉行の人々に、又こそ參るべけれと、いとま乞ひす、こゝに至て、彼人、通事にむかひて、某こゝに來りし事は、我敎を傳へまいらせて、いかにも此土の人をも利し、世をも濟はむといふにあり、それに、某が來りしより、人々をはじめて、多くの人をわづらはし候事、誠に本意にあらず、こゝに來りしのち、年すでに暮むとし、天また寒く、雪もほどなく來らむとす、これにありあふ御侍を初て、人々日夜のさかひもなく、某を守り居給ふを、見るに忍びず、かく守り居給ふは、某もしもにげさる事もありなむがためにぞ候らむ、萬里の風波を凌ぎ來りしも、いかにもして、此土に參りて、國命を達せむがために候に、ねがひのまゝに、此折には來りぬ、此所をさりて、又いづれのかたにかのがれ侯べき、たとひ又其こゝをにげさるとも、此國の人にも似ざらむものゝ、いづれのかたに、身を一日もよせ候事のかなひ候べき、されど、仰によりて守らせ給はむ上は、其守怠り給ふべき事然るべからず、晝はいかにも侯へかし夜るは、手かし足かしをも入られて、獄中につなぎ置れ、人々をば、夜を心やすくゐねられ候やうに、よきに申して給るべしといふ、奉行の人々も、其由を聞て、あはれとおもひし氣色ありしを、某、此ものは、おもふにも似ぬいつはりあるものかな、といひしを、大きに恨みおもひし氣色にて、すべて、人のまことなきほどの恥辱は候はず、まして、妄語の事に至りては、我法の大戒に候ものを、某、事の情をわきまへしより此かた、つゐに一言のいつはり申したる事は侯はず、殿には、いかにかゝる事をば仰候ぞや、と申す、今、汝のいひし所は、年くれ、天も寒きに、こゝに候ものゝ、よるひるとなく、汝を守り居るが、見るに堪がたさに、かくは申す歟と問ふ、其事に候と答ふ、さればこそ、其申す所は、いつはりにてあるなれ、彼等が汝を守るも、奉行の人々の命を重んじぬるが故也、又、奉行の人々も、おほやけの仰をうけて、汝を守らせ給ひねれば、汝がいかにも事故なからむ事をおもひ給ふが故に、衣うすく、肌寒からむ事をうれへて、衣給らむとのたまふ事、度々におよびぬ、もし今汝が申す所のまことならむには、などか、此人々のうれへおもひ給ふ所をやすむじまいらせざらむ、もし此人々のうれへ給ふ所をも、汝が法のためにかへり見ざる所あらば、何條、こゝに候ものどもの法のために汝を守る事、かへり見おもふにはおよぶべき、されば、汝のさまに申せし所の誠ならむには、今申す所はいつはれる也、今申す所のまことならむには、前に申せし所はいつはれる也、此事はいかにも申し披くべしといひしかば、大きに耻おもひし氣色にて、今の仰を承り候へば、さきに申せし事は、誠にあやまり候ひき、さらば、いかにも衣給りて、御奉行の心をやすむじまいらすべきに候と申す、奉行の人々も、よくこそのたまひ給つれといひて、悅びあへり、かさねて、又通事にむかひて、同じき御恩に候へども、ねがはくは、給らむもの、絹紬の類は、某が心なをやすかるべからず、たゞ木綿の類を以て、製し給り候やうに、たのみまいらする候といふ、すでに日くれぬべければ、かれをも獄中に還し、某も歸りぬ、明れば廿三日の夜、通事等、某が家にめして、きのふかのものゝ申せし事の、心得ぬ事ども、尋ねとふ事あり、廿五日に、またかしこにゆく、奉行の人々も出あひて、彼人召出したり、けふは、かの奉行所にある所の萬國の圖を、出されしをもて、彼地方の事をとふに、事明らかにして、異聞ども多かりき、此圖は、七十餘年前に作りし所にて、今は彼國にも得やすからぬ物也、こゝかしこ、やぶれし事、惜しむべき事也、修補して、後に傳へらるべしなど申しき、けふも、巳の時過る頃より、未の初まで問對して、かれをば還しつ、けふは、奉行所より給はりし木綿衣をかさねて、其事を謝す、獄中のやうをも見給へとて、奉行の人々案內してゆく、獄屋の北の方に家あり、そこに、むかし、彼敎の師、正に歸したるを、置れし所也といふ、年すでに老たる夫婦二人のものありて、奉行の人々を迎拜したり、これは、罪あるものゝ子どもの孥となりしを、かのこゝに按置せられしものゝ奴牌に給りしが、夫婦となされし也、これらは、其敎をうけなどいふものにはあらねど、いとけなきより、さるものゝめしつかひし所なれば、獄門を出る事をもゆるされず、奉行所より衣食して、老を送らしむる也けり、さて、彼獄舍を見るに、大きなる獄を、厚板にて隔てゝ三ツとなし、その西の一間に置く也、赤き紙を剪て、十字を作りて、西の壁にをして、その下にて、法師の誦經するやうに、その敎の經文を、暗誦して居けり、それが居る所の南に舍ありて、守れるものども守り居たり、こゝらの事ども見はてゝ後に還れり、晦日に、またゆきむかふ、けふは、奉行の人々、出合給ふにはおよぶまじと申しければ、出合ふにも及ばれず、けふは、過し頃たづねし事共の、なをとふべき事あるを尋問ひて、日を暮しつ、すべて、此ほど尋問ふ事共、彼地方の事のみにして、かれがこゝに來れる由をも、又其敎の旨をも、問ふに及ばず、かれは、事にふれて、その事どもいひ出しぬれど、そのいらへをもせで、うちすぎたりき、その明の日に、申上しは、きのふ迄に、彼人を見候事凡三日、今は、彼が申すほどの事、聞まがふべくもあらず、かれも又某申すほどの事共、よく聞わかち候ひなむ、此上は、かれが來りし由をもたづねきはめばやと存ず、さらむにおゐては、かれが申す所、必ず其敎の旨にわたり候べければ、奉行の人々も出あひて、事の次第をよく承れと、仰下さるべくや候はんと申す、聞召されし由仰下されたり、奉行の人々にも、出合ひ給ふべしといひやりて、十二月の四日にゆきむかふ、奉行の人々も出合たり、彼人を召出して、こゝに來れる事の由をも問ひ、又いかなる法を、我國にはひろめむとはおもひて來れるにや、とたづねとふに、かれ悅びに堪ずして、某、六年がさきに、こゝに使たるべき事を承りて、萬里の風浪をしのぎ來りて、つゐに國都に至れり、しかるに、けふしも、本國にありては、新年の初の日として、人皆相賀する事に候に、初て我法の事をも聞召れん事を承り侯は、其幸これに過ず候とて、〈彼方にしては、十二月四日をもって、歲首とする歟、但し曆法のたがひあるによれる歟、〉その敎の事ども、說き盡しぬ、其說、はじめ奉行所より出せし三册の書に見えし所に、たがふ所もあらず、たゞ其方言の同じからずして、地名人名、すこしく同じからぬあれども、皆々その音の轉じたるのみなりき、凡そ其人博聞强記にして、彼方多學の人と聞えて、天文地理の事に至ては、企及ぶべしとも覺へず、〈彼地方の事共を問ひしに答へし所は、下にしるしぬ、彼方の學、其科多し、それが中、十六科には通じたりと申しき、たとへば、其天文の事のごときは、初見の日に、坐久しくして、日すでに傾きたれば、某、奉行の人にむかひて、時は、何時にか候はんずらむと問ひしに、此ほとりには、時うつ鐘もなくて、と申されしに、彼人、頭をめぐらして、日のある所を見て、地上にありしおのが影を見て、其指を屈してかぞふる事ありて、我國の法にしては、某年某月某日の某時の某刻にて候といひき、これらは其勾股の法にして、たやすき事と見えしかど、かくたやすくいひ出しぬべしともおもはれず、又ヲヽランド鏤板の萬國の圖をひらきて、エウロパ地方にとりても、ローマはいづこにや、とたづねしかど、番字の極めて小しきなるものなれば、通事等もとめ得るあたはず、彼人、チルチヌスや候といふ、通事等なしと答へたり、何事にやといへば、ヲヽランドの語にパツスルと申すものゝ、イタリヤの語にては、コンパスと申すものゝ事に候と申す、某、その物はこゝにありといひて、ふところにせしものを取出してあたふるに、此物は、その合ふところのゆるびて、用にあたりがたく候へどもなからむにはまさりぬといひて、其圖のうちに、はかるべき所を、小しく圖したる所のあるを見て、筆をもとめて、其字をうつしとりて、かのコンパスをもちて、その分數をはかりとりて、彼圖は坐上にあるを其身は庭上の榻にありながら、手をさしのばして其小しく圖したる所よりして蜘蛛の網のごとくに繪がきし線路をたづねて、かなたこなたへ、かぞへもてゆくほどに、其手のおよびがたきほどの所に至りて、こゝにや候、見給うべし、といひて、コンパスをさしたつ、よりて見るに、小しきなる國の、針の孔のごとくなる中に、コンパスのさきはとまりぬ、その國のかたはらにローマンといふ番字あり、と通事餘等申す、此餘、ヲヽランドを始て、其地方の國々のある所を問ふに、前の法のごとくにして、一所もさし損ぜし所あらず、又、我國にして、此所はいづこぞと、とふに、又前の法のごとくにして、此所にやといふに、これも番字にてエドとしるせし所也、これら、定まれる法ありと見えしかど、其事に精しからずしては、かくたやすかるべき事にもあらず、すべて、これらの事、學び得べしやととひしに、いとたやすかるべき事也といふ、我もとより數に拙し、かなふまじき事也といへば、これらの事のごとき、あながちに、數の精しさを待つまでも候はず、いかにもたやすく學得給ふべき事也といひき、〉また、謹愨にして、よく小善にも服する所ありき、〈其人、庭上の榻につくに、まづ手を供して、一拜して、榻につき、右の大指を以て、額にあたりて、畫する事ありてのちに、目を瞑して坐す、坐する事久しけれども、たゞ泥塑の像のごとくにして、動く事なく、奉行の人々、また某の、坐をたつ事あれば、必ず起ちて拜して坐す、還り來りて、坐につくを見ても、必ず起ちて拜して坐す、此儀日々にかはらず、ある時、奉行の人のくさめせしを見て、其人にむかひて、呪誦して、通事にむかひ、天寒し、衣をかさねらるべき歟、我方の人は、くさめする事をばつゝしむ事也、むかし、通國此病せし事ありしが故也、といひき、又通事等ラテン語を通じて訛れるをば、打返しをしへいひて、習得れば、大きに賛美す、某がいひしをきゝて、通事の人々は、なまじゐにヲヽランドの語に學び熟したれば、舊習の除きがたき所ありて、今仰候ごとくにはあらず、これもとより我方の語に習ひ給はぬが故によりぬ、などいひてわらひたりき、又ヲヽランドの戰船には、其傍に多くの窓をまうけし事、上中下の三層あり、每窓に大砲を出せしといふ事を、いひ得ずして、かたどりいはむとする事もたやすからず、某、左手を側てゝ、その四指の間より、右手の指頭、三つを出して見せぬれば、さこそ候ひしといひて、通事等にむかひて、敏捷におはし候などといふ事共ありき、ノーワヲヽランデヤの地、こゝをさる事、いかほどにや、とたづねしに、答へず、また問ひしに、通事にむかひて、我法の大戒、人を殺すに過る事あらず、我いかでか、人ををしへて、人の國をうかゞはせ候べきといふ、某そのいふ所をきゝて、心得られず、いかにかくいふにや、と通詞等に問はせしに、存ずる所の候へば、これら地方の事は、答申すべからずといふ、猶又その所存を問しむるに、此ほど、此人を見まいらするに、此國におゐての事は存ぜず、我方におはしまさむには、大きにする事なくしておはすべき人にあらず、ヲヽランデヤノーワ、こゝをさる事遠からず、此人、その地とり得給はむと思ひ給はゞ、いとたやすかるべし、さらば、其路のよる所を詳に申さむには、人の國うつ事ををしへみちびくにこそあれといふ、某、これをきゝて、奉行の人々、聞給はむもかたはらいたければ、今きくがごときは、たとひ某そのこゝろざしありとも、我國に嚴法ありて、私に一兵を動かすことはかなひがたしと、いひてわらひたりき、すべて其過慮かくのごとくなるに至れる事どもありき、〉其敎法を說くに至ては、一言の道にちかき所もあらず、智愚たちまちに地を易へて、二人の言を聞くに似たり、こゝに知りぬ、彼方の學のごときは、たゞ其形と器とに精しき事を、所謂形而下なるものゝみを知りて、形而上なるものは、いまだあづかり聞かず、さらば、天地のごときも、これを造れるものありといふ事、怪しむにはたらず、かくて、問對の事共其大略をしるす所二册、進呈す、すでにして、明斷ありて、我國耶蘇の法を禁ずること年あり、今彼徒のこゝに來れる、行人の其寃を吿訴ふるもの也と稱す、もし行人ならむには、いかむぞ、其國信とすべきものをば帶來らずして、詭りて我國の人となり來れる、たとひ言ふところ實ならむにも、跡のごときは疑ふべし、しかりといへども、稱する所は、彼國の行人也、例によりて誅すべからず、後來其言の徵あらむを待ちて、宜く處決すべきもの也、と仰下さる、某その事情をはかるに、此後に至ても、彼國人のこゝに來らむ事は、絕ゆべからず、されば後按のために、此たびの事ども錄して、進呈すべき由を言上し訖ぬ、いくほどなくして、上にもかくれさせ給ひしほどに、正德四年甲午の冬に至て、かのむかし其敎の師の正に歸せしものの奴婢たりしといふ夫婦のもの、〈この敎師は、黑川壽庵といひしなり、番名はフランシスコ、チウアンといひし歟、奴婢の名は、男は長助、女ははるといふ、〉自首して、むかし、二人が主にて候もの、世にありし時に、ひそかに其法をさづけしかども、國の大禁にそむくべしとも存ぜず、年を經しに、此ほど、彼國人の、我法のために身にかへり見ず、萬里にして、ここに來り、とらはれ居候を見て、我等、いくほどなき身を惜しみて、長く地獄に墮し候はん事のあさましさに、彼人に受戒して、其徒と罷成り候ひぬ、これらの事、申さざらむは、國恩にそむくに似て候へば、あらはし申す所也、いかにも、法にまかせて、其罪には行はるべしと申す、まづ二人をば、其所をかへて、わかち置かる、明年三月、ヲヽランド人の朝貢せし時、其通事して、ローマ人の、初申せし所にたがひて、ひそかに、かの夫婦のものに、戒さづけし罪を糾されて、獄中に繫がる、こゝに至て、其眞情敗露はれて、大音をあげて、のゝしりよばゝり、彼夫婦のものゝ名をよぴて、其信を固くして、死に至て志を變ずまじき由をすゝむる事、日夜に絕へず、此年來れるヲヽランド人申せしは、はじめ、北京におもむきしといふ、トーマス、テトルノンも、ほどなく其國に歸れりと聞ゆ、これは、初よりかしこにありし其國人に妬忌せられて、とゞまり居る事かなひがたくて、など承りぬ、と申しき、また、此人のこゝに來れる事、いかにやおもふと問ふに、されば、此事、我方の人も、心得ぬ事に申す也、或は、もし其罪を犯す事ありて、すでに死に當り候ひしを、いかにも其罪贖うべき事をおもひはかりて、此國に來らむ事を望みしかば、彼國の人も、もしかれが申すごとくに、申ひらく事もありなむには、何の幸かこれにすぐべき、又國法のごとくに殺されんには、もとよりの事也とおもひて、望請う所に任せてもや候らむと申しき、〈ヲヽランド人の說のごときも、さもあるべしや、某が思ふ所は、しかはあらず、彼國の議に、其法行はるべき時至りぬとおもふ所ありて、まず試にこの人をつかわせしにや、と思ふ所ある也、某かく思ひ合せし事は、此人のたづさへ來りし我國新製の金と錢との二ツにあり、某初に、彼もち來りし黃金三品の事を問ひし時に、本國の事のごときは、エウロパ諸國の布施によりて、金銀等の財貨もとむる事を待たずして、猶あまりありといひ、またロソンの地に、白銀多く出ぬる事、また我國東南の海島より金銀多く出ぬるを、イスパニヤ人の、とり得ることなどいひて、これらの物共の事本國にいひ送るまでもなく、我が文一ツかきてロソンに送りつかわすとも、いかほども來るべき事なり、と申せしに、某が耳にはとまりて、此人の今なにの故に來れるにや、と心得ぬ事におもひしが、思ひ合はせぬ、其國にて、我國黃金の製と銅錢の製との改まりしを傳へみて、國財以の外に窮したり、國民さだめてくるしみなむ、民くるしむ時は、命の行はれざる所あり、たとひ其禁なを行わるとも、金銀をもてみちびきなば、其禁開く事ありぬと、おもひ謀りしにや、と思ひしかば、此のちは、金銀等の事は、いひも出す事はせざりき、〉かくて、此年の冬十月七日に、彼奴なるものは病し死す、五十五歲と聞えき、其月の半より、ローマン人も、身病ひする事ありて、同じき廿一日の夜半に死しぬ、其年は、四十七歲にやなりぬべき、

前代の御時に、申せし事もあれば、今此事をしるす事凡三卷、初には此事の始末をしるして、長崎奉行所より注進せし大略をうつして附す、中には、其人のいひし海外諸國の事共をしるす、終には、某問ひしに答へし事共の大要をしるす、此事、すでに年月を隔てぬれは、今はわすれし事共多くして、そのこと葉のごとき、その事のごときは、なをしるすところの誤りのみぞ多かるべき、それが中に、海外諸國の事に係れる所は、異聞博からむために、もとむる人もありなむには、祕すべき事にもあらず、卷の終の事に至りては、外人のために傳へむ事、しかるべからず、もし、おほやけよりめしたづねらるゝ事もあらむには、此限りにあらざる事は、いふに及ばず、


附錄〈大西人、始來りし時の事、こゝに見えたり〉

大隅國馭謨郡の海上、屋久ヤク島の地栗生クリフ村といふところに、阿波國久保クボ浦といふ所の漁人等、來り止りて、魚捕る事を業とするあり、寶永五年戌子、八月廿八日、これら七人、舟をうかべて、同き島の湯泊ユドマリといふ村の沖に出づ、陸よりは三里許へだてたらむ海の上に、目なれぬ船の大きなるが、一隻うかびゐしを見つけて、栗生村をさして歸るに、彼大きなる船より、小きなる舟おろして、其舟に帆かけて、こなたの舟を追來る、こなたの舟にも帆かけてはしり歸るを、彼小舟にもうちがひといふ者を添て、追來るに、わづかに十間ばかりをへだてゝ見るに、其舟には、目なれねものども十人ばかり乘たるが其中一人、水をこふさましたり、こなたにもかなふまじき由のさまして、乘りゆくほどに、彼小舟も、大きなる船のかたにむかひて歸りぬ、此日の夕、同き島の南にあたる尾野間オノマといふ村の沖に、帆の數多き船の、小舟を引たるが一隻、東をさしてゆくあるを村のものども、あやしみ見て、打出て守り居るに、夜に入り空くもりぬれは、その行方をしらず、明れば廿九日の朝、尾野間より二里許の西にある湯泊といふ村の沖のかたに、きのふ見えしごとくの船見えしかど、北風つよくして、南をさしてゆきしほどに、午の時に至ては、帆影も見えずなりき、此日彼島の戀泊コヒドマリといふ村の人、〈藤兵衞といふ百姓也〉炭燒む料に、松下といふ所にゆきて木を伐るに、うしろのかたにして、人の聲したりけるをかへり見るに、刀帶たるものゝ手して招く一人あり、其いふ所のことばも聞わかつべからず、水をこふさまをしければ、器に水汲てさしをく、ちかづき吞て、又まねきしかど、その人、刀を帶たれば、おそれて近づかず、かれも其心をさとりぬと見えて、やがて、刀を鞘ながらぬきてさし出しければ、近づくに、黃金のカタなる、一つ取出してあたふ、此ものきのふ見えし船なる人の、陸に上りしにや、とおもひしかば、其刀をも金をもとらずして、磯の方に打出て見るに、其船も見えず、また外に人ありとも見えず、我すむ方にたち歸りて、近きほとりの村々に、人はしらかして、かくとつぐ、平田といふ村のもの二人、出來しをともなひて、〈字は五次右衞門、喜兵衞といふ者ども、〉松下にゆきて見るに、彼人戀泊のかたをユビさして、かしこにゆかむといふさましたり、足つかれぬとみしかば、一人それをたすけ、一人は其刀をもち、一人はそれが携へし袋やうの物をもちて、戀泊の者の家にゐて行て、物したゝめてくはす、かの人、また黃金のまろき二つと、方なる一つと、を取出て、あるじにあたふ、〈藤兵衞なり〉辭してとらず、その物いひ、きゝわきまふべからざれども、其形は我國の人也、〈さかやき、こゝの人のごとくにして、身には、木綿の淺黃色なるを、碁盤のすじのごとくに染なしたるに、四目結の紋あるに、茶色のうらつけたるを着て、刀の長さ二尺四寸餘なるを、我國の飾のごとくにしたる一腰をさしたるなり、〉此事、島を守れるものゝ許に聞えしかば、宮之浦ミヤノウラといふ所に、かのもの置くべき所作り出して、うつし置て、薩摩守の許につぐ、薩州の家人等、連署して、其事を長崎の奉行所に吿ぐ、〈其書に、九月十三日としるす、彼家人等、島津大藏、同將監、新納市正、種子島藏人、連署す、長崎の奉行は、永井讃岐守別所播磨守也〉彼人、長崎に送り致すべき由をいひ送れり、其後、又薩州より彼ものゝマル作りていひしことばなどの事を、長崎にいひ送れり、〈前に見えしローマン、ロクソンなどの事也〉阿蘭陀の人を始て、長崎にありあふ外國の人共、奉行所に召集て、かれがいひし事ども尋問ふに、各、其事サトすべからずとこたふ、かくて、冬も末に至りぬれば、北風吹つゞき、海の上波あらければ、彼ものを送致する船、二たびまで風に吹もどされぬ、これをむかふる薩州のもの、つとめて風波ををし凌ぎ、からうじて大隅の國に至り、それより又長崎に送り致す、かのもの、ひたすら江戶におもむかん事をこふて、長崎にゆかむ事をねがはざりし氣色しけれど、其望に任すべきにあらず、多くの挽船共して、長崎の地方網場アミバといふ所に至りぬ、こゝより船をとゞめ、陸よりして、長崎にむかへ入れて、獄舍に置く、阿蘭陀の通事共して、彼來れる由をとふに、地名などは、聞も及びしあれど、其餘の事ども、きゝわくべからずといふ、阿蘭陀人をばことににくみおもふ由なれば、其人して問はむ事もしかるべからず、障子を隔てゝ阿蘭陀人して、そのいふ事を聞しむるに、これも聞しらぬ多く、ましてそのいふ所、半ば我國のことばもまじはりぬと聞えて、猶々聞わかつ事かなはず、彼人も、いかにもして、思ふ事共いひあらはしてむ、とおもふ氣色なりしかば、たづぬべき事共、こゝにありあふ阿蘭陀人してとふべしといひしに、さも侍らむと答へしによりて、阿蘭陀人のうちにて、むかし彼地方のことば學習ひしものゝアヽテレヤンドウといひしを、その甲必丹カピタンヤスフルハンマンステアルといふもの、召ぐして出合たり、〈彼地方のことばといふはラテンのことばといふ事也詳に下に見えたり〉これによりて、彼人こゝに來れる事の由は聞えて、其由をもて、奉行所の注進あり、〈後にきくに、彼人、阿蘭陀人に對せし禮、ことに驕れるありさまにて、阿蘭陀の人、いかにおもふ所ありしにや、ことにおそれし色あらはれき、彼國のこと葉學得しといふも、六年にして、其業を廢しければ、ことごとくには通じがたくて、その通じ得ぬ所々は、かの人いひをしへてのちに、其事を解したりといふ也〉そのゝち長崎よりして、又こゝに送り致せし事は、其明年の夏の末に至て、參らせよと仰下されしによりして、去年より彼ものゝいふ事共聞なれし通事に三人つけて、九月廿五日に、長崎を出したてしに、十一月の半に來り着ぬれば、天主の法を禁ずる事つかさどれる奉行の人々に仰せて、その廳事の獄舍に按置せられし也、これより後の事共は、前にしるせし所にみえたり、奉行の人々のいひしは、彼人日々に食ふ所の物、定れる限等あり、初め長崎に至りし日より、こゝに來るに及びて、すこしも相變ぜず、〈よのつねの日には、午時と日沒の後と、二度食う、その食は、飯、汁は、小麥の團子を、うすき醬油にあぶらさしたるに、魚と蘿蔔とひともじとをゐれて、煮たるなり、酢と燒鹽とを少しく副ふ、菓子には、燒栗四ツ、蜜柑二ツ、干柿五ツ、丸柿二ツ、パン一ツ、その齋戒の日には、午時にたゞ一度食ふ、但し、菓子はその日も兩度食ひて、其數をくはふ、燒栗八ツ、蜜柑四ツ、干柿十、丸柿四ツ、パン二ツを二度食ふ、その菜の皮實等はいかにやするらむ、すてしあとも見えず、齋戒の日とても、魚をも食ふ、またこゝに來りしより、つゐに浴せし事もあらず、されと垢づきけがれし事もあらず、これらの食事の外に、湯をも水をも飮みし事もなしといふ〉その携持し袋にゐれし所は、銅像、畫像、これに供養すべき器具、法衣、念珠、此餘は、書凡十六册、また錠のごとき黃金百八十一、彈のごとくなる黃金百六十、我國元祿年製の金錠十八、我國の錢七十六文、康煕錢三十一文等あり、その中、書六册は、つねに身に隨へて、手を停めずしてこれを誦ずといふ、〈これらの物の形製等、つまびらかにしるさむ事無用也、故にここに略す〉

正德五年乙未二月中澣筑後守從五位下源君美

白石

君美原印


西洋紀聞中卷


大地、海水と相合て、其形圓なる事、キウのごとくにして、天‐圓の中にる、たとへば鷄子テマリの黃なる、靑き內にあるがごとし、其地球の周國九萬里にして、上下四旁、皆人ありてれり凡、其地をわかちて、五大州となす、一つにエウロパ、〈漢に歐邏巴ヱウローパと譯す、其はじめ、漢音のごとくによびしを、西人聞て、これ支那チイナの音、非也といふ、後にまた阿蘭陀人に問ふに、そのいふところも亦然也、むかし、我俗、ヨウロウハといひしは、漢音の轉じ訛れるものなり、俗に奧南蠻オクナンバンといふ地方、卽也、〉二つにアフリカ、〈漢に利未亞リウイヤアと譯せるは、卽此〉三つにアジア、〈漢に亞細亞ヤアスイヤアと譯するは、卽ち此○阿蘭陀鏤板の圖に據るに、以上三大州、共に一圈の內にありて地上界とす、〉四つにはノヲルト、アメリカ、〈番語ノヲルトといふは、此には南といふミナミ本ノマヽ、漢には南亞墨利加ナアンヤアメツリキアと譯する、卽此〉五つにはソイデ、アメリカ、〈ソイデといふは、此に北といふキタ本ノマヽ、漢に北亞墨利加ボツヤアメツリキヤといふ、○阿蘭陀鏤板の圖によるに、以上二大州、共に一圈の內にありて、地下界とす〉其ヱウロパの地方南はマーレ、カヌピヨム、〈漢に譯して地中海チチウカイといふ、〉北は、グルウンランデヤ、〈漢譯は、臥蘭的亞ヲヽランデヤア、また臥兒浪德ヲヽルーランデツともいふなり、〉、ヲセヤーヌス、ツフナンテリヨナーリス、〈漢に伯爾作客海ベツルソケツハアイと譯せし地方也〉東は、タナイス、〈漢に大乃河ダナイホヲと譯せり、〉ホントスエキシーノス、〈漢に黑河的湖ホヱツホヲテンと譯す〉西は、マーレ、アツトランテイフム、〈漢に翻して大西洋タイセイヨウ(ダアシイヤン)といふ、〉に至る、○アフリカ地方、南はカアボテボネイスフランサ、〈漢に大浪山ダイランシヤンといふ地方、猶詳に下に見えたり〉北は、マーレ、ニゲーテラーニウム、〈すなはち地中海、〉東は、マーレ、ルーブロム〈漢に翻して西紅海セーコウカイ(シイホンハアイ)といふ〉、マタカスカ、〈アフリカ東南海中の島也、漢譯は麻打曷失曷マタカスカ詳なる事は下に見ゆ、〉西は、ヲセヤーヌス、エテウビークス〈漢に河摺亞諾滄ホヲヂツヤアノクアンと譯す、利未亞西方の海也〉に至る、たゞ其東北の地、僅に一路ありて、アジアの地と相聯れり○アジア地方は東は、ヲセヤーヌス、ネンシス〈漢に譯して小東洋セウトウヨウ(スヤウトンヤン)といふ〉の諸島に至り、〈ヤアパン、リウキウ、ヱソなどの國をさす也、ヤアパンは、日本也、リウキウは、琉球也、ヱソは、野作ヱソ也、〉、西は、タナイス、〈すなはち大乃河〉、ホントスエキシーノス、〈すなはち黑河的湖〉、マーレ、ニゲーテラーニウム、〈すなはち地中海〉マーレ、ルーブロム、〈すなはち西紅海〉マーレ、ランチードル、〈漢に翻して南海ナンカイ(チアンハイ)といふ〉の諸島〈スマアタラ、ロソン等の國をさす、スマアタラは沙馬大蠟サマアダイラ、ロソンは呂宋ロクソン、猶下に詳に見ゆ〉に至り、北は、タルターリヤ、マーリヤ〈タルターリヤは韃靼ダツタン國、マーリヤは、北にウミといふ、すなはちこれ韃靼ダツタンの北海の事をいふ也〉に至る、○ノヲルト本ノマヽ、アメリカの地、四海のためにかこまれて其西北僅に一路ありて、ソイデ、アメリカの地に相聯れり、〈其東北、海を隔て、すなはちアフリカ西南の地方に相當れり、其東北海をマーレ、テルノルといひ、西海をヲセヤーヌス、ペルヒヤーヌスといふ〉ソイデ本ノマヽ、アメリカの地、東南の方、一路僅にノヲルト、アメリカに通じ、其西南は、マーレ、テルヌルに至り、〈これその南海の名也〉北は、グルウンランデヤに相聯りて、其西北の地、いづれの所に至る事を詳にせず、〈其西北の方は、すなはち日本野作等に當れり、〉其東はすなはち、マーレ、アツトランテイフムにのぞめり〈すなはち大西洋〉

按ずるに、大西洋地球地平等の圖、其由來る所、いまだ詳ならず、大明吳中明、萬國坤輿圖に題して、歐邏巴國中、鏤有舊本、蓋其國人、及拂郞機フランキイ人、皆好遠游、時經絕域、則相傳而誌之、積漸年久、稍得其形之大全といふ、我今大西人に遇ひて、歐邏巴鏤板の輿地圖を出して、其說を問ふに、彼其圖を見てこれ七十年前、ヲヽランデヤ人のチリバメし所なり、其精妙いふべからず、今は西洋地方にも、得易からざる所也といふ、そのヲヽランデヤといふは、卽今我國に歲々朝貢する阿蘭陀國の事にて、萬國坤輿圖に、喎蘭地ヲヽランデヤ則蘭地セヱツランヂとしるして、西洋布地、二島最妙と注せしもの、卽此也、〈喎蘭地は、すなはちヲヽランド、則蘭地はヲヽランドの屬州、セーランド卽此なり〉かくて、此事を以て、阿蘭陀人に問ひしに、昔、本國の人マゴラアンス、もつとも天文地理の學に精しく、また舟を操る事を、兼善くす、六大舶に、衣食器械等の物、ことく載せて、大洋にうかび、萬國を周流す、其舶の風濤のために敗れしあれば、其人物を、各舶にわかちのせて、敗れしものをば、焚棄つ、かゝりしほどに、六年を經し後に、餘す所の舶、たゞ三隻、本國に歸りぬ、此時に至て、萬國山海輿地の說、最詳なる事を得たり、たゞ南方一帶の地と、ソイデ、アメリカの西北の地方は、猶いまだ詳ならずといふ、今其ヲヽランド鏤板の圖に據りて、萬國坤輿圖、幷に三才圖繪、月令廣義、天經或問、圖書編等に見えし所の圖を見るに、此等は、皆其大略をしるせしのみ也、亦按ずるに、萬國坤輿圖に歐邏巴、利未亞、亞細亞、南北亞墨利加の外に、墨瓦剌泥加メツワアラツ二イキヤの一州を加へて、六大州とす、其說に、墨瓦蠟泥メツワアラニイ、係拂郞機國人姓名、前六十年、始過此峽、幷至此地、故歐邏巴士、以其姓名、名峽、名海、名地といふ、其墨瓦蠟といふは、卽是マゴラの番音バンヰン轉じ訛れるにて、亦謬りてヲヽランド人を、以て、拂郞機國人となせし也、されど、阿蘭陀鏤板圖には、南方一帶の地は、いまだ詳ならずして、其地名をたてしにもあらず、また萬國坤輿圖說に、南北亞墨利加、全爲四海圍、南北以微地相聯といふ、今阿蘭陀鏤板圖に據るに、北亞墨利加、其西北の地方、いまだ詳ならずとす、强て其說を作るべからず

ヱウロパ諸國、〈諸國、ことごとくしるすに堪ず、たゞ西人の說にあづかれる事を略記す、餘これに倣ふ、〉

イタアリヤ〈漢譯は意大里亞イタリヤア、また意多禮亞イタレヤアといふ〉ヱウロパの南地、地中海上にあり、其國都をローマンといふ、〈ヲヽランドの語に、ローマといふ也、漢に譯して羅馬國ローマアコといふ、〉此方敎化之主、都する所にして、周圍僅に十八里、居るもの七十萬人に及ぶ、其俗機巧にして、器を制する事、極めて工緻也、其敎化之主は專らデウスの敎を掌る、軍國の事に至ては、各地ドウクスありて、これを掌る、〈ドウクスは、酋長也、詳なることは、下に見ゆ、〉其地中海に、コラアリウム、ルウブリイを生ずといふ、〈赤珊瑚樹也、其樹もつとも長しといふ、〉

シシーリア〈漢譯西齊利亞スイツイリヤアといふ、我俗にシシリヤといひし卽此、〉ヱウロパ極南、地中海の一島也、此島二山あり、一山は、常に火を出し、一山は、常に烟を出して、晝夜絕ずといふ、

按ずるに、本朝寬永年間、こゝに來る耶蘇の徒に、コンパニヤ、ジヨセフといひしは、此國の人なりといふ、〈ジヨセフ、後は正に歸して、字を岡本三右衞門といひし也、〉

ポルトガル、〈〔國都名リサボン又リスボン〕漢に譯して波爾杜尾爾ホウルトワアルといひ、また波羅多伽兒ホウロトヲキヤルといひ、また蒲麗都家ブリトキヤアといふ、むかし我俗ホルトギスとも、ブルトガルともいひ、また南蠻といひしは卽此、〉ヱウロパ西南海上の地にあり、此國、番貨を海外諸國に通じて、つゐにアジア地方、ゴア、マカーヲ、マロカ等の地に、其人をわかち置て、互市の事を掌らしむといふ、〈ゴアは、我俗にゴワといひ、マカーヲは、我俗にアマカワといふ、マロカ、またマテヤといふ、詳なる事は、下に見ゆ、〉西洋の番舶、我國に通ぜし事、此國をもて始とす、又天主之法東漸せし事も、此國の通ぜしによれる也、

按ずるに、ポルトガル人、初に豐後國に來れる事は、天文十年七月也、其後、薩摩國に來れるは、天文十二年八月也、慶長元和之間、歲々に來聘せし五和ゴワ天川アマカワ等の人といふは、〈五和は、ゴア也、天川は、アマカワをいふ也、〉、皆是此國の人、それらの所にありて、海舶の事を掌れるものゝ使也、慶長十八年の冬、番舶の耶蘇之徒を帶來る事を禁ぜられ〈これよりさき、慶長十四年、我國の人、アマカワにゆきて、貿易するもの三百人、此國人のために、ことく殺さる、明年其人こゝに來れるを、其舶と共に焚殺されし事ありき、〉寬永十六年に及びて、番舶の來る事を止めらる、同十七年五月、此國の賈舶來る其人を倂せて焚かる、正保四年六月、此國進貢の舶來れり、八月これを押還されき、〈ジヨセフが說によるに、はじめポルトガルの王妃は、イスパニヤの王の女也、ポルトガルの王、嗣なくして死して、其妃父母の國に歸る其妃はらめる事ありと聞えて、ポルトガルの臣民、追とゞめて國に還し納る、かくて、男子生れて、世をつぎ、廿一歲にして死す、また嗣なし、先王の弟の、ヱイズスの徒となりて、ローマにありしをむかへて、嗣とす、此人もとより娶らざれば、嗣子もなし、臣民相謀りて、先王の姪女を嗣とし、イスパニヤの王に請ふて、其國事を治めしむ、そのゝち、彼姪女、男子をうむ、其子成人の後、ヱイズスの法に歸して、國に當らむ事をねがはず、其子も、また父とひとしく、世をのがる、臣民皆勸め進むれどもきかず、つゐにローマの師徒、共にすゝむるに、デウス、汝の國を以て、汝の先王にあたへ給へり、しかるを、すてゝ治めざらむは、しかるべからずといふ、こゝにおゐて、やむ事を得ずして、國にアタれり、初イスパニアの王、此國を治めしより、こゝに至て六十年、ポルトガルの王の後、位にフクしぬ、これによりて、我國へも、先王の好を繼て、再び禮聘を修められし、今をさる事七十八九年前の事也、其王の名、ドンジユアン、クワルといふ也といふ、其事、卽正保四年六月、此國人のこゝに來れるをさしいふ也、〉貞享二年三月、此國の賈舶來れり、またこれを押還さる、此後は來る事絕たり、

亦按ずるに、彼方、天主之敎、我國に入りし事は、此國のはじめて通ぜし時に、フランシスクス、ザベイリウス〈漢に譯して佛來釋古者フツライスツクチエといひし卽此也〉といふ師の、其舶に駕して、豐後國に來れるに始るといふ、卽是天文年間の事也、また彼敎、漢に入りし事も、大明神宗萬曆二十九年の春、大西洋利瑪寶が來りしに始れりと見えたり、其萬曆二十九年は、本朝慶長六年に當れり、さらば、彼敎の漢に入りし事は、我國に入りしよりは、相オクれたる事、六十年におよべり、

イスパニヤ〈ヲヽランドの語には、イスパンヤとも、スパンヤともいふ、俗に譯して、伊斯把你亞イスパニヤアとも、伊西把你亞イスイパニヤアともいふ、卽此也、〉ポルトガル、フランスヤ等と、地を接て、其屬國十八あり、またソイデ、アメリカの地を倂せて、新たに國を開き、ノーワ、イスパニヤと號す、〈ノーワとは、此にいふアラタ也、餘皆これに倣ふ、我俗に、ノヲバイスパンヤといひしこれ也〉其後、また、アジア地方、ロクソンをも、倂せ得たりといふ、〈ノーワイスパニヤ、ロクソンの事等、下に詳なり、〉

按ずるに、慶長年間、此國始て來聘す、そのゝち、呂宋ロソン新伊斯把你亞スインイスパニヤア等の商舶、來る事絕ず、これら皆、此國人の來れる也、番舶來る事を止められしに及びて、來らず、寬永元年の春、再び聘を修す、これをシリゾけらる、

カステイリヤ〈カステイラともいふ、漢に譯して、加西郞キヤスイランといふ、むかし、我國に聞えしカステアンといふこれ也、〉イスパニヤの東南にありて、共にこれ與國也といふ、

按ずるに、此國むかしより、我に通ぜし事聞えず、但し、我國に始て天主敎を弘めし、フランシスクス、サベイリウスといひしは、此國の人也といふ、

ガアリヤ〈またラテンの語に、フランガレキスとも、フランガレンギヨムともいふ、そのレキス、レンギヨムといふは、國といふがごとしといふ也、また、イタリヤの語には、フランスヤとも、フランガレイキともいひ、ヲヽランドの語には、フランスといふ、漢に譯して佛郞察フツランチヤツといふ、むかし我俗ガリヤンといひしは、ガアリヤの轉訛せし歟、〉ヱウロパ西海の上にありて、イターリヤ、イスパニヤ、ヲヽランデヤ等の地に相接す、またソイデ、アメリカの地を倂せ、新たに國を開きて、ノーワ、フランスヤと號すといふ、

按ずるに、此國の商舶、むかしはこゝに來れりといふ、其事いまだ詳ならず、或人の說に、大明の書に、佛郞機國フランキイコと見えしは、佛狼機フランキイとも、發郞機ハツランキイとも、〉ポルトガル也といふ、心得られず、漢に譯して、波爾杜瓦爾ホウルオワアル〈萬國坤輿圖に〉波羅多伽兒ホウロトヲキヤル〈武備志に〉蒲麗都家ブリトキヤ〈世法錄に、〉といふがごときは、すなはちポルトガル也、佛郞機は、フランガレイキ、フランガレキス等、を訛譯アヤマリヤクせしに似たり、〈フランガレイキ等を、佛郞機と譯せしは、ポルトガルを譯して蒲麗都家といひ、カステイリヤを譯して加西郞キヤスイランといふがごとし、〉亦按ずるに、西洋人、大明に通ぜし事は、武宗正德十二年佛郞機國の入貢を始とすと見えたり、其正德十二年は、本朝永正十四年に當りぬれば、番舶始て我國に來りし天文十年よりは前なる事、廿四年におよべり、

ゼルマア二ヤ、〈ヲヽランドの語には、ホーゴドイチとも、ドイチともいふ、漢に入爾馬泥亞ジユルマアニイヤアとも入耳馬泥亞ジユルマアニイヤアとも譯す、〉ヱウロパ地方の大國にて、國都をば、ビエンナ〈或ウエエンチナ〉といふ、此方諸國相推して、其君をインペラドールと稱す、これに屬せしホルトス七人あり、〈インペラドール、ホルトス、等の事、下に見ゆ、七人のホルトスといふは、たとへば、七諸侯などいふがごとしといふ、ヲヽランド人の說には、其君をばケイヅルと稱して、ホルトス九人ありといふ、孰是なる事を知らず、〉民物富庶にして、兵馬最强し、しかれども、兵を動かすに、たやすからず、ホルトス一人も議アワざれば、事決せざるが故也、また國北に近く、地寒くして、鹽硝を產ぜず、常に給る事をヲヽランド人に取るといふ、

ブランデブルコ〈フランデボルコともいふ、漢譯、いまだ詳ならず、〉ゼルマアニヤの東北、ホタラーニヤの西北にありホタラーニヤ、(〈和蘭呼爲ボウル。〉〈漢に波多里亞ホウトヲリヤア、また波多禮亞と譯す、〉ゼルマアニヤの東ポローニヤの北にあり、

ポローニヤ、〈漢に譯して、波羅泥亞ポウロニイヤアといふ、〉ゼルマアニヤの東にあり、

サクソーニヤ、沙瑣泥亞サアソニイヤア、また沙所サアソ泥亞と譯す、〉ゼルマ二ヤに相近しといふ、其ある所をいまだ詳にせず、

モスコービヤ、〈ムスコービヤともいふ、漢に沒厠箇未突モツツコウイヤウと譯す、〉ヱウロパ東北の地にあり、其地極めて寒し、冬時氷厚きこと丈におよぶ、人馬共に其上を往來すといふ、

スウエイチヤ、〈スエシアとも、スウエツヤともいふ、ヲヽランドの語には、スウエイデともスペイデともいふ、漢に蘇亦齋スウエツイと譯す、〉ヱウロパ北地にありて、ノールエウエギヤの地に相聯る、〈ノールウエギヤは、エウロパの極北、氷海にのぞめる地也、ノールイギとも、ノーレイギともいふ、漢に譯して、諾爾祁亞ノルキイヤアといふ、卽此也○西人の說に、スウエイチヤの王妃、ローマンに來て、天主を拜せしを見たりき、その輿從最盛なりしといふ、さらば、此國も彼敎を尊信する所と見ゆ、〉

ヲヽランデヤ、〈ヲヽランドともいふ、漢に喎蘭地ヲヽランデと譯す、大明の書に、和蘭ヲヽラン、また紅夷ホンイとも、紅毛鬼ホンマウクイともいふ、と見えしものあれども、紅夷國は、安南西北にあり、其人、衣を制らずして、綿布を身に纏い、紅絹を頭に纏う、其形、回回ウイウイに似たり、國に鹽なければ、安南多く鹽をもて、其珍寶に貿うと、三才圖繪にはしるせり、紅夷、此國の人をいふべしとも見ゑず、〉ゼルマニヤの西北にあり、初ゼルマアニヤ人、海上の小島に至て漁獵し、つゐに土地を開きて、國を建る事七州、イスパニヤに屬す、其後、イスパニヤの徭役、苛酷なるに堪ずして、其國と絕つ、其國つゐに兵を擧てうつ、隣國をの相援けて、戰う事八十餘年、ヲヽランド、つゐにイスパニヤの十州を侵し奪ふ、諸國もまた兵に疲れて、兩國を和す、ヲヽランド、其侵せし地を還して平ぐ、其人、水戰を善して、これに敵するものなし、其陸戰のごときは、水戰に及ばず、しかれども、アフリカ、アジヤ數州の地を侵し取りて、國すでに富み、兵亦强く、今に至ては、エウロパ一方の强國也、其七州といふは、ヲヽブルイツスル、フリイスランド、ヲルランド、セーランド、グルーニンゲ、ゲルトルランド、ウイトラキト、其侵取りし海外の地は、カアプトボネスベイ、ゴドロール、マロカ、バタアビヤ、ノーワヲヽランデヤ、ゼイラン等、これなりといふ、〈西人の此國の事を說きし所、猶下に見ゆ、但しヲヽランド人の說とは、異同あり、此國の事は、別にしるせしものあれば、ここには略しぬ、〉

按ずるに、此國始て此に通ぜしは、慶長五年の事也、エウロパ地方の國、むかしより、其貢聘の絕ざるものは、ひとり此國のみ也、

アンゲルア、〈アンゲリヤともいふ、イタリヤの語には、エンゲルタイラといひ、ヲヽランド人は、インゲラントといふ、漢には、漢又剌亞ハアスチヤハラツヤアとも、または、諳尼利亞アヌニイリヤアとも譯す、むかし我國にてインガラテイラとも、またゲレホロタンともいひ、俗にはイギリスといひしは、すなはちこれなり、〉ヱウロパ西北の海中に二大島あり、此國、幷にスコツテヤ、一島の地にわかれたつ、〈アンゲルアは、其南にあり〉其一島は、イベリニヤの國也、此國海中にあるによりて、其俗舟を操る事を善くして、また善く水戰に習へり、ヲヽランド人、海外に通ずる事を得しも、初、此國人、をしへみちびきしによりて、つゐに海路に熟せし也、此方諸國の賈舶、其水戰を善する事を、あひ畏れて、此國人を、號して、海賊とす、其君大に辱惡みて、國人みだりに外洋に出る事をゆるさず、また此國、もとより天主を尊信して、其敎を奉ず、近世に至て、其君、正妃を廢して、寵妾をたつ、天主の敎、もと他犯を以て大戒とす、此方敎化の主、其破戒の故によりて、此國と絕つ、其敎を奉ずる諸國も、またこれとたつ、ヲヽランド人を絕しも、また此時の事也といふ、

按ずるに、本朝慶長の五年、此國始てヲヽランド人と共に、我國に通ず、十八年の秋、はじめて貢聘す、明年にまた來れり、其後來る事未詳、延寶元年五月、我國漂流の人を送り來る、七月に至て、其國に歸れり、

慶長十八年癸丑八月四日、インカラテイラ國使來る其書蕃字、通事譯し云、おふぶりたんや國、ふらんす國、ゑらんだ國、三國の帝王に十一年以來なり候云々、其名の所に、大ぶりたんや國の王、居城はおしめしきせめし帝王れいきく、又譯云、いがらたいら、又は、げれぶろたんとも申候、いづれも國は一つ名は二つ有之、卽いぎりすへの返書つかはさると云々、九月一日の事也、〈校者云此の文は原書中卷の首に付紙となりてありしを今書込みてこゝに入れたり〉

スコツチヤ、〈ヲヽランドの語に、スコツトランドといひ、またシコツテアともいふ、漢に譯して、思可齋亞スーコツイヤアといふ、〉エウロパ西北海中にあり、アンゲルアと共に一島の地にわかれたつ、其國アンゲルアの北にあり、

イべリニヤ、〈ヲヽランドの語に、イヽルランドといふ、〉エウロパ西北海中にありて、アンゲルア、スコツテヤ等の國に相逼近し、

グルウンランデヤ、〈漢譯前に見えたり〉、此國の極南は、ヱウロパの北海に至り、其北地は、ソイデアメリカにつらなれり、此方、寒凍極めて甚しく、人物を生せず、ヲヽランド人、海鯨を逐ふて、此地に就て捕るといふ、〈ヲヽランド人の說に、むかし本國の人相議して衣食器械、寒をふせぐべき物どもを備へて、此地に就てとどまる、かくて明年に至て、本國の人、また至て見るに、其人、坐するものはながら死し、つものは、タチながら死て、一人も生活するものなく、其肌肉乾脯のごとくにして、腐爛せず、其地寒凍の甚しき、かくのごとくなるに至るといふ、〉

大凡、エウロパ地方の諸國、其君を立るに、其嗣たるべきもの、すでに定まれるは、論ずるに及ばず、もし嗣いまだ定まらざるは、臣民各共嗣とすべきものゝ名をしるして出す、其しるせし所の數、多きものを以て、其君とす、君其臣に官を命ずるも、亦これに同じ、臣民薦むるもの多き人を擧用ふ、君アヘてみづから一官を命ずる事もあたはず、〈ヲヽランド人の說に、本國には、君をたてずといふ、たとへば、周の六卿のごとくに、をの其事を掌れるの官長をたてゝ、治めしむ、國人その官長を撰ぶ事は、此方諸國、君をたつる法のごとし、又ジヨセフが說によるに、エウロパ地方、レネサ、ゼヌワのごときは、國こぞりて、一人を撰びて、國事を治めしむる事一年、每年に其人を代ふるといふ也、レネサ、ゼヌワ等の國、いづれの所にありといふ事は、不詳、〉此方諸國、君長の位號、數等あり、其上等を、ホンテヘキス、マキスイムスといふ、これ最第一無上等の義也、ひとりローマン敎化之主一人のみ、此號ありといふ、此方の諸國、天主之敎を尊信するが故に、此號を以て、其人を推稱するとみえたり、其次はインペラドール、〈これ、漢に帝といふがごとし、ゼルマアニヤの君のごとき、これ也といふ、〉其次は、レキス、〈これ漢に王といふがごとし、フランスヤ、アンゲレア等の國君のごときこれ也といふ、〉其次は、フレンス、〈レキスに次ぎし所の號也といふ、其說をきくに、たとへば漢の大將軍のごときをいふ歟、ヲヽランド、イスパニヤ、相戰ふ時に、アンゲレアのレキス、其國の兵をひきゐ來りて、ヲヽランドのフレンスとなりて戰いしなど、いふ事あり、〉其次は、ホルスト、〈これ、フレンスに次ぎし所の號也、ゼルマアニヤに屬せし、七國の主に、此號ありといふ、これ又漢の將軍の號あるがごとくなる歟、〉其次は、ドウクス、〈これ、ホルストに次ぎし所の號也、イタリヤのごとき、所在をの其兵をつかさどるものありて、これをドウクスと稱すといふ、部落の酋長を稱する所なるべし、〉これらに屬する所、またをの其位號あり、ことくにかぞふべからず、〈萬國坤輿圖を按ずるに、歐邏巴州の諸國、凡官有三品、其上は、敎化を興す事を主るといふは、ローマの主をいひ、其次は、俗事を判理すといふは、インペラドール、レキス等のごとく、其次は、專ら兵戒を治むといふは、フレンス、ホルスト等のごときを、其方によりて、稱する所同じからぬ歟、〉此方諸國の俗、大に同じけれども、亦少しく異ならざる事あたはず、たゞ其ゼルマアニヤ、スウエイチヤ、ヲヽランド等地方の人は、髮黃に縮りて、瞳子白し、ムスコービヤ地方の人は、モゴル人に似たり、此方相尙ぶ所の敎は、皆これヱイズスの法也、たゞヲヽランド人のみ、ルテイルスの徒也といふ、〈ヱイズスは漢に耶蘇セースと譯す、むかし、我俗に、ゼスといひしこれ也、ルテイルスは、其法の異端也といふ、ヲヽランド人の說に、此方各國、冠制異同あり、皆玉を以て飾れり、たゞこれ、國君卽位の時に、用ふるのみ、よのつねは、皆々被髮を以て禮とす、被服のごときは、皆本國に相同じ、モゴル人といへども、本國の制に、大に異なるにもあらず、地方、北に近くして、氣候寒多し、されど土壤肥衍にして、庶物豐饒也、たゞイタリヤ、イスパニヤ等の地方、稻に宜し、其他は、稻なくして、大小麥に宜しといふ、〉此方諸國の方言、同じからず、しかれども、其大約、三つに出ず、一つにへイベレイウス、二つに、ラテン、三つに、キリイキス、またへレツキスともいふ、凡そ大事を記すには、必ず此等の語を用ふ、そのへイベレイウスといふは、ユデヨラの語なり、〈ユデヨラとは、ラテンの語にして、イタリヤの語には、ジユデアといふ、漢に如德亞ニユイデヤアと譯す、これ也、これ古の國名、其國、今は滅びたり、其國人の子孫諸國に散在してあるものを、ヨード人と稱すといふなり、〉ラテンといふは、古の國名、今はその地詳ならず、キリイキス、またこれに同じ、その中、ラテンに至ては、此方諸音に相通ぜずといふ所なし、されば、諸國の人、これを學びずといふものあらず、又諸國用ゆる所の字體、二ツあり、一つに、ラテンの字、二つに、イタリヤの字、其ラテンは、漢に楷書の體あるがごとく、イタリヤの字は、漢に草書の體あるに似たり、其字母、僅に二十餘字、一切の音を貫けり、文省き、義廣くして、其妙天下に遺音なし、〈其說に、漢の文字萬有餘、强識の人にあらずしては、暗記すべからず、しかれども、猶聲ありて、字なきあり、さらばまた多しといへども、盡さゞる所あり、徒に其心力を費すのみといふ、〉其これを習ぶの學、ガラアマテイカといふは、梵に悉曇あるがごどく、〈其聲音を習ぶ學なり、〉レトーリカといふは、漢に文章あるがごとし、〈其語をつらねて、言を記するの學なりといふ也、〉此餘、天文、地理、方術、技藝の小しきに至る迄、悉皆學あらずといふ事なしといふ、

アフリカ諸國、

トルカ、(〈萬國全圖都兒瓦或北イタリヤの語に、トルコといひ、他邦には、ツルコといふ、漢に譯せし所いまだ詳ならず、〉)此國、其地甚廣くして、アフリカ、エウロパ、アジアの地方につらなり、國都は、古のコウスタンチイの地、〈古の時、ローマの君、地を避けし所也といふ、コウスタンチイ、またコンスタンチヤともいふ、漢譯未詳、アフリカの地、バルバアリヤの北、マーレニゲーテラーニウムに近き所にあり、バルバアリヤは、漢に巴耳巴里亞、また馬爾馬利加マアルマアリキヤと譯す、マーレニゲーテヲーニウムは卽地中海也、〉其俗、タルターリヤに、〈すなはち韃靼國〉ひとしく、勇悼敵すべからず、兵馬の多き事、一日にして、二百千を出す、〈二十萬をいふ〉日を歷るにおよびては、其衆はかるべからず、エウロパの地方、その侵凌に堪ずして、各國相援てこれに備ふといふ、

按ずるに、其說に、アフリカの地方、ことくトルカに屬し、また東北は、ゼルマアニヤに至り、東南は、スマアタラに至るといふ、またジヨセフが說によるに、此國ポルトガルに相隣れりといふ、またヲヽランド人に、此國の事を問ふに、其地、東北タルターリヤに相聯る、これ其種類也といふ、さらば、トルカの地、西北はポルトガルの地に相接し、東北は、ムスコービヤの東に至れり、〈ムスコービヤは、ゼルマアニヤの東北にありて、最遠く、タルターリヤに相近し、〉たゞ其東南海を越て、スマータラに至るまで、此國に屬すといふ事、心得られず、又其大國たる事かくのごとし、萬國坤輿圖等の諸說、此國の事に及ばず、漢譯また詳ならぬ事も、心得られず、〈按ずるに、萬國坤輿圖に、利未亞州大耳瓦タイルワ國ありて、馬爾馬利加マアルマアリキヤの地に近し、其大耳瓦、或はこれトルカの音轉じ訛れる歟、また都爾トルの字を注して、其下の字漫滅せし所あり、善本を得て、考ふべき事なる歟、〉

カアブトボネスベイ〈イタリヤの語にカアボテボネイス、フランサといひ、ヲヽランドの語に、カアポテホース、フランスとも、カアプともいふ、漢譯未詳、其地は、すなはち漢に大浪山角タランシヤンコとしるせし所也、按ずるに、萬國坤輿圖の仙勞冷祖島スエンラウレスツウタウの地に、曷叭布剌カパブラといふあり、カアプの音轉じ訛りて、仙勞冷祖島の地名とするに似たり〉アフリカ極南の地にあり、虎豹獅子禽獸之類最多し、近世ヲヽランド人、其地を倂得しといふ、〈ヲヽランド人の說をきくに、此地を倂せ得しにはあらず、此方海舶、東南洋におもむく時、必ず經過の地也、これによりて、其海口に、舶をとゞむる常所あるなりといふ、〉

マタカスカ〈漢に、麻打曷失曷マアタカスカと譯し、また仙勞冷祖島といふと見えしは、番語サンロレンソ、すなはち此也、〉アフリカ東南海中の大島也、

按ずるに、萬國坤輿圖、利未亞の地、七百州ありと注して、此方の名山大川、其大略をしるす、ローマ人、ヲヽランド人等の說く所も、此方の土俗人物等、皆詳ならず、おもふに、此方トルカの地に係りぬれば、ヱウロパ人至るものすくなくして、其事いまだ詳ならぬ歟、たゞそのカアプ、マタカスカの地、ヲヽランド人說くところは、其人禽獸にひとしといふ、〈ヲヽランド人、マタカスカに至て、其地產をとる、土人畏れ避けて相近かず、飮食の餘をすつるを見るにおよびては、またひそかに來りて竊食ふ、その癡呆なる事、かくのごとしといふ、〉

アジア諸國、

ハルシヤ〈漢に、巴爾齊亞パルツイヤア、また巴兒西パルシイと譯す、我俗にハル(シヤ)といふ、此也、〉インデヤの西、アフリカ地方の東につらなれり、モゴルの屬國也といふ、

按ずるに、此國出す所名產多し、ヲヽランド人の說に天下良馬を產ずる地、たゞ日本とハルシヤとのみ、萬國の地、およぶ所にあらずといふ、本朝慶長年間、暹羅、柬埔寨等の國、聘を通じて、しきりに馬を賜らむ事を望請ひし事あり、さらば、ヲヽランド人のいふ所、誣ずといふべし、

モゴル、〈漢に莫臥爾モヲルまたは、莫臥兒モヲルと譯す、我俗にモウルといふもの、すなはちこれ也、〉古の印度の地、地廣人稠財物豐衍の大國也、されど殊隣相接して、兵革の事もまた絕ず、ベンガラ、サラアタ、インドスタント等、其屬國也、コストゴルモンテールといふは、其海港の名、番舶輻湊の地也といふ、〈ベンガラ、下に見えたり、サラアタ、漢譯いまだ詳ならず、或人錫蘭山卽此也といふ、心得られず、インドスタント、漢には應土私當イヌドスウタアン、また印度斯當インドスウタアンと譯す、コストゴルモンテールは、コストとは、こゝに海邊といふがごとし、以下は地名也といふ、漢譯未詳、〉

按ずるに、其說に、天下の宗とする所の敎法三つ、キリステヤン〈ヱイズスが法、我俗キリシタンといふ、此也、〉ヘイデン、〈またこれをゼンテイラとも稱すといふ也、〉マアゴメタン、これ也、そのマアゴメタンは、モゴルの敎にして、アフリカ地方、トルカもまた其敎を尊信すといふ、おもふに、これ漢に回回の敎といふもの、或は是也、〈或人說に、回回すなはちモウルといふ、心得られず、萬國坤輿圖を按ずるに、莫臥兒モヲル回回ウイ、其地相去る事遠くして、阿蘭陀鏤板の圖には、回回といふもの、つまびらかならず、〉

ベンガラ、〈ヲヽランドの語は、ベンカーラといふ、漢に榜曷剌バヌカラとも、旁曷臘バンカラとも、榜曷剌バヌカランとも、譯せり、〉古の東印度の地也、其地、各色布帛藥物等を出すといふ、〈卽今ヲヽランド人齊來りて賣る所の布帛に、此國の名に係れる物あり、これ其產する所、〉

インデヤ、〈漢に譯して、應帝亞イヌテイヤアといふ、〉西印度の地也、〈按ずるに、古の印度といふものは、五天竺の總名なり、今いふ所のインデヤは、古にありて、西天竺の地方なり、〉ゴアは其西海の地に在て、番舶輻湊の所也、ポルトガル人、其地に據りて、互市の事を管す、〈ゴア、漢に臥亞ヲヤアと譯す、我俗にゴワといふもの、卽此〉マルバル、チヤウル、サントメイ、皆是こゝに屬する折の地名にて、其俗モゴルに似たりといふ、〈マルバル、またはマラバアルともいふ、ゴアの南にあり、チヤウル、サントメイ等の地、各色布帛を出す、卽今、布帛の類、その地名に係れるものあり、はじめ、これらの所より來れるによれる也、チヤウル、サントメイ、漢譯いまだ詳ならず、〉

按ずるに、はじめ、ポルトガル人、ゴアの地に據りて、つゐに廣東海港の地を借りて、其人をわかち置て、海舶の事を管せしむ、本朝慶長元和の間、或は西域國總兵巡海務事と稱し、或は西域國奉行天川港知府事と稱じて、歲々に朝貢せし五和ゴワ天川アマカワの人といひしは、卽是ポルトガル人のこれらの地にありしものども也、〈五和は、卽ゴア也、天川は、卽阿媽港アマアカウ、番語マカヲといふもの、廣東の海口にある地名なり、〉

セイラン〈またセイロンとも、サイロンともいふ、漢に譯して錫狼島スイツランタウとも、錫蘭國とも、翠藍嶼ツイランヨとも、齊狼ツイランともいふもの、卽此也、〉インデヤ南海の中にあり、海に近き山麓に、佛足の跡猶存す、或は佛涅槃の地これ也といふ、其俗モゴルに同じくして、其地、眞珠、寶石、肉桂、檳榔、椰子等を產すといふ、

按ずるに、此國の南地に、コルンボと稱ずる所あり、其人色黑し、漢にいふ所の崑崙奴、或は是也、ヲヽランド人の說に、凡そ赤道に近き地の人、ことごとく皆クロンボにして、其性慧ならずといふ、其クロンボといふは、コルンボの音の轉ぜしにて、その人色黑きをいふ也、〈此に、黑色をクロシといふ、されど、近俗、人の色黑きを、クロンボといふは、もとこれ番語に出づ、〉

スイヤム、〈シヤム、またはシヤムローともいふ、漢に暹羅スエンロと譯す、これ也、〉古の時、暹と、羅斛と、二國あり、大元至正の比、羅斛人、暹を合せて、一國となれり、スイヤム、またはシヤムともいふは、すなはち暹の番音也、其地、南方にありて、氣候熱甚しく、たゞ其冬月に至る時、夜ヤヽ涼し、其人螺髷裸體、絲帨を用て腰を束ね、其產する所の物は、藥物皮角の類也といふ、

按ずるに、本朝慶長年間、其國始て通ず、元和寬永の間、其王しきりに金葉の書を〈我俗に、金札といふもの、これ也、〉奉て、聘問す、今におゐては、たゞ其商舶の來るのみありて、歲々に絕ず、〈慶長之初、我國の人、かしこにゆきて、つゐに其王臣とれるものどもあり、其人、また我國の執政に書聘を通じたりき、それらが子孫、猶今も其國にありといふ、〉

占城〈チヤンパといふ、番名いまだ詳ならず、〉柬埔寨カンポサイ甘孛智カアンベツチ澉浦只カンホツー漢甫寨ハヌポサイ、皆同じ、我俗カボチヤといふ、番名は未詳、〉二國、共に暹羅の東にあり、大泥タニイ〈我俗タニといふ、番名不詳、〉暹羅の南にあり、本朝慶長の初、ともに我國に通ず、たゞ占城は、其王の聘せし事聞へず、柬埔寨の歲聘は、寬永の初におよべり、今はたゞ其商舶の來れるのみなり、〈此等の國は、西人いまだ經ざるの地なる故に、其說を聞かず、されど昔我國に通ぜし所なれば、こゝに附す、〉

マロカ、〈マラカ、またはマテヤといふ、漢に滿剌加マヌラキヤとも、麻剌加マアラキアとも譯して、暹羅に隸して、いまだ國と稱せずといふ、〉スイヤム西南の方、海にのぞめる地にあり、此地もとポルトガル人據る所、今はヲヽランド人に屬すといふ、

按ずるに、本朝慶長十七年二月、ヲヽランド人奉れる書に、當時カステリア人と、マロカに戰ふ事を載たり、さらば、此地もとカステイリア人の據りし所を、ヲヽランド人戰逐ふて、つゐにみづからこゝに據りしとみえたり、カステイリアは、すなはちカステイラ、ポルトガルの與國也、

スマアタラ〈ソモンタラともいふ、漢に、須門那シユイモンナ須文達那シユイモンタナ蘇木都剌スモトラ蘇門塔剌スモンタラ蘇門荅剌スモンタラ沙馬大剌シアマアタラ等と譯したり、〉アジア地方、南海の中にあり、わづかにその東北海を隔て、すなはちマロカの地也、此國、直に赤道の下にあたれり、春秋の二分には、日影を見ず、春分より、秋分に至て、日影南にあり、秋分より春分に至て、日影北にあり、氣候極めて熱く、たゞ夏冬には、其熱甚しからず、人皆裸體にして、色黑く、俗また暹羅に似たり、其地黃金を產す、ヲヽランド人、これをとるといふ、

ジヤガタラ、〈漢に咬喇巴キヤウラパ、また交留吧キヤウリウパ咬𠺕吧キヤウリウパ等いふ、卽此なり、〉スマアタラ東南海中にあり、此國すべてジヤワといふ、〈漢に譯して、古は闇婆チエボヲといひ、今は、瓜哇チヤウワアといふ、〉ジヤガタラは、ヲヽランド人據る所の地名にて、其治城は、バタアビヤにあり、〈漢譯未詳、圖書編、闇婆の下に、婆達ボヲタあり、或は此歟、〉こゝより、南にさる事十四五日程、ジヤワに至る、卽是本國の主、都する所也、其主をば、ススーナムと稱す、其俗、髮をかうふり、薄き布に糊强くして、頂に纏ひ、袖窄き衣に、短き袴を着く、地方暖にして、殼一歲に再熟し、庶物また豐衍なり、これによりて、其人飢寒をしらず、性また懶なる事甚しジヤガタラ、もとポルトガル人のために據らる、前九十餘年、ヲヽランド人、これと戰ひて、つゐに其地をとる、〈本朝元和九年癸亥の事也、〉今ヲヽランドの治る所に、漢人の來り寓するもの、三四萬人に至るといふ、

按ずるに、慶長の比、ヲヽランド人、バンタンに往來の事聞ゆ、バンタンは、すなはちジヤワの地名、漢に板淡バンタヌと譯する所也、亦今每歲こゝに來れるジヤガタラの人といふものは、其國人にはあらず、漢人のかしこに寓するものども也、

ボルネヲ〈ボルネヨ、またはボルーネル、漢に渤泥ホエツニイまた、波耳匿何ボウルエツホヲと譯す、〉スマアタラの東、ジヤワの東北にある海島也、土俗スマアタラに同じ、其地水精、龍腦等を產すといふ、

マカサアル、〈漢譯未詳、これセレベスの南地の名也、セレベスは、漢に譯して、食力百私シツリツベスウといふ、〉ボルネヲ東南海中にあり、土俗スマアタラに同じ、黃金、檀木、等を產すといふ、

マカサアルの東北海中に、メンダナヲといふあり、〈メンダナヲ、漢に茗荅閙メヌタナウまたは明大ミンタ〇と譯す、〉此餘、海島猶多し、皆これ西人の說きし所にあらずして、其事詳ならざれは、こゝにしるさず、

ロクソン〈ロソンともいふ、漢に呂宋リユイソムと譯す、我俗には、ルスンといふ、ヲヽランド人、またルコーニヤともいふ、〉チイナのカンタンの南海にあり、〈チイナは、支那也、カンタンは、廣東也、〉其國の南土をば、マテヤといひ、またマネラともいふ、〈マネラ、我俗マンエイラといふ、漢に瑪泥兒訝マアニイルヤと譯す、〉古の時、其主あり、近世以來、イスパニヤ人倂せ得て、其人をして、國事を治めしむ、其西南の地に、銀を產する山あり、イスパニヤ人、これを採らしむ、チイナ人來り採るもの拾貳萬許、またヤアパンニヤ東南海中に、金銀を產する島あり、〈ヤアパンニヤは日本なり、東南海中の島名、いまだ詳ならず、〉、またヤアパンジス〈すなはち日本人也〉の子孫、此國にあるもの、すでに三千餘人、集り居て、聚落をなす、其人、本國の俗を變ぜず、士人は、双刀を腰にし、出る時は、槍を執らしむ、其餘も皆一刀を帶ざるはなし、イスパニヤ人これを御するに法ありて、妄に國中に出行く事を聽さず、前四年、ヤアバンジス、風に放されてこゝに至れるもの十二人、イスパニヤ人彼聚落に就て、居らしむ、此國の北は、すなはちフルモーザなり〈タカサゴの事也、卽今の臺灣、〉もとヲヽランド人に據りし所、今はチイナに屬すといふ、

按、慶長年間しきりに我國に聘せし呂宋ルスン國といふは、みなこれイスパニヤ人のかしこにありしものの使也、

ノーワヲヽランデヤ、海南にあり、其地極めて濶し、今はヲヽランド人倂せ得たり、これによりて、ノーワヲヽランデヤと名づくといふ、

此地の事ヲヽランド人にとひしに、此地ジヤガタラより南にさる事四百里許、〈これ我國の里數によりていふ所也、〉本國の人、はじめてこゝに至る事を得たり、其土極めて濶し、其人禽獸のごとくにして、言語通ぜず、地氣甚熱くして、こゝに至れるものども、病ひし死して、生殘るものわづかになりて、歸る事を得たりノーワヲヽランデヤと名付し事は、其地を倂せ得たるの義にはあらず、本國の人、新たにもとめ得し所なるが故也といふ、〈此事詳なる事は、阿蘭陀の事しるせしものに見ゆれば略す、〉

按ずるに、其人の言に、チイナといふは、卽支那也、タルターリヤといふは、卽韃靼也、ヤアバンニヤといふは、卽日本也、此等地方の事、其經歷せし所に係らざれは、其說のしるすべき事もなし、萬國坤輿圖に據るに、韃靼の東方、海に至るまでの地を圖して、狗國、室韋、野作等の國、其地にありと見えたり、阿蘭陀鏤板の圖に據りて、阿蘭陀人の說をきくに、ヱソ〈ヱソ、漢に譯して野作エソといふ、我國にて、蝦夷といふもの卽此、〉の此地、タルターリヤに相聯れるや、否、いまだ詳ならず、本國鏤板の國には、エソ東南海口の地のみを圖して、此海口に至て、こゝにいふ所のマスに似たる魚、多く食ひし事を、注したりといふ、〈こゝとは、卽我國をいふ、マスに似たる魚とは、こゝにいふ鮭魚の事をいふなるべし、〉またヲヽランド人に問ふに、ヲヽランド地方より此に來るには、其北海より去りて西し、アフリカの西を經て、カアプ地方に至て、東に折れ、アジア南海を過て、ジヤガタラに至り、こゝよりまた北して、スマアタラ、ボルネヲ等の諸島を過て、東北の方、我國に至る、其行程をはかるに、凡一萬二千九百里に及ぶといふ、〈これまた我國の里數による也、〉もしヲヽランド地方より、北に去りて、東に轉じ、北海を經過て東し、〈北海は、すなはちタルターリヤ、マーリヤといふもの、韃靼海の事をさしいふ也、〉南に轉じて、此に來らば、行程わづかに三四千里に過べからず、なにを苦しみてか、此路にはよらざるやといひしに、其人のいはく、誠に然也、今より三年の前に、アンゲルア人、ウエールムダンベイルといふものありて、身みづから北海を越て、東洋に到りしといふ、我方の人、其事を難じて、天地の北日光到らず、海常に暗く、潮甚急也、そのいふ所信ずべからずといふ、彼人これを憤て、書作りて世に行わんとす、もし其書成りて、其言信ずべくは、本國の幸、これに過べからずといひき、〈これ正德二年壬辰の事也、〉其後また此事を問ひしに、去年、彼人死して、書もまたいまだ成らぎりきといふ、〈これ正德四年甲午の事也〉これらの說に據るに、萬國坤興國に見えし所、盡くに信ずべからず、

ノヲルト、アメリカ諸國、

ノーワ、イスパニヤ、〈漢に、新伊西把爾亞と翻譯す、我國の俗にノヲバイスパニヤ、またはノビスパンヤといひし此也〉ノヲルトアメリカの南地にあり、こゝを過て南する時は、すなはちソイデアメリカの地也、イスパニヤ人倂せ得て、新たに國を開きし所也、其海口アカプールコといふ地、番舶輻湊、人民富饒之地也といふ、

按ずるに、本朝慶長十五年、此國の舶、逆風に放されて、我國に漂來る、其舶を修め整へしめて、還さる、同十七年の夏、其國入聘して、恩を謝す、此年、我國の商舶も、かしこにゆく、今はすなはち絕たり、

ノーワ、フランスヤ、〈漢に譯して、新拂郞察といふ、〉ノヲルトアメリカ東北の地にあり、其地甚濶し、これまたフランスヤ人倂せ得て、新たに國を開きし所也といふ、

按ずるに、此方の地、極めて濶く、其俗、木石と共に居り、鳥獸と共に羣す、エウロパ地方の國々、その地を倂せて、新たに國を開きし多し、ノーワイスパニヤ、ノーワフランサ等の外に、ノーワ、カラナヽタ〈カラナヽタ、漢譯いまだ詳ならず、其本國は、エウロパ地方、イスパニヤの南、地中海の上にあるなり、〉、ノーワ、アンタルシア、〈アンタルシア、漢に俺大魯西亞アヌタルシイヤアといふ也、本國は、エウロパ地方、カラナヽタの西(イスパニヤ、ポルトガルの西南なり)にあるなり、〉のごとき、皆これ也、ヲヽランド人の說に、アメリカの地、六七月の比、麥を收むといふ、しかれども、各國の風土物產等、いまだことく詳ならず、

ソイデ、アメリカ諸國、

バラシリヤ、〈パラシリヤともいふ、漢に伯西兒ベツシイルと譯す、卽此、〉ソイデアメリカ東方の地なり、其地極めて荒濶にして、東南北の方、ことく皆海に至る、其俗、木に棲み、穴に居て、好みて人を食へり、其北海の中、セントヘンセントといふ小島は、タンバコを出す所也といふ、〈セントヘンセント、漢譯未詳、タンバコは、漢に淡把姑ダヌパクー淡婆姑ダヌボヲクー淡芭菰ダヌバクー等の譯あり、すなはち、これ烟草也、〉

按ずるに、祕府にエウロパのクラントあり、ヲヽランド人、此國人と戰ひ、勝ちし事を、しるせし見ゆ、其注する所に、據るに、ヱイズスの敎、此地方にも行はれし也、〈クラントは、ヱウロパの俗に、凡そ事ある時は、其事を圖注して、鏤板して、世に行うもの也、〉

萬國坤興國に據るに、南亞墨利加、巴大溫パタウンの地は、長人國也と注せり、ヲヽランド人に此事を問ふに、むかし、本國の人、此方の南海を過ぎしに、そのパタゴーラスの地に至て、人をして小舟に駕し、水口より泝りて、其地を見せしむ、久しくして歸らず、海岸にのぼりて、はるかに望むに、荒濶にして、見る所なく、たゞ沙頭に、大きなる屋の內に、火を燒きし跡ありて、其邊に人の足跡あるが、よのつねの人の足、二つを合せしほどにて、兩足相去れる間も、これにかなへり、此故に、此地の人、長大なる事をば推し知れり、始つかはせし人も、つゐに歸る事を得ず、又此地の人を見しにもあらずといふ、其パタゴーラス、すなはち漢に巴大溫パタウンと譯せし所也、また萬國坤興圖に、此方孛露ベツルウ國、產香、名巴爾娑摩パルサモ、樹上生ずる初、刀を以て劃之油出、塗尸不敗といふ、すなはちこれ西洋地方より出る所パルサモといふもの、此樹油也、ヲヽランド人に此物を產する地を問ふに、ベールイヒヤノムといふ、漢に孛露ベツルウと譯せし所にして、巴爾娑摩パルサモ、すなはちパルサモ也、

當時エウロパ地方、ことく戰國となりし事は、初イスパニヤの君、名はイノセンチウストーデーシムス、嗣とすべき子なし國人は、ゼルマアニヤの君の第二の子、名はカアロルス、テルチウス、かならず其嗣となるべしとおもひたり、これは、ゼルマアニヤは、此方の大國にして、しかも其君の子はイスパニヤの君の外姪なるが故也、〈イノセンチウスは、イスパニヤの君の名也、トーデーシムスは、こゝに十二世といふがごとく、其國の大祖より、十二代にあたれる君なるを、かく稱するは、此方の俗也、カアロルスは、ゼルマアニヤの君の子の名也、テルチウスは、こゝに第二子といふがごとし、〉十年前におよびて、〈本朝元祿十三年庚辰なり、〉イスパニヤの君、死する時に至て、其嗣いまだ定まらず、其親戚群臣に遺令して、一封の書をとゞめ、我死せば此書を捧げて、天主像前に至て、披らき見よ、我嗣の事は、これにしるせりといふ、國人基書を捧げて、ローマンに至て、天主の像前にして披き見るに、フランスヤの君の孫、名は、ピリイフス、クイントスを以て、嗣とすべしとしるしぬ、〈クイントスは、こゝに第五子といふがごとし、フランスヤの君の嗣子の第五の子也、〉人皆驚きて、敢て言を發せず、されど、其君の命ぜし所なれば、敢てたがふべからず、フランスヤの君の孫をむかへて、君として、其冠をわたす、〈世を繼て、位につく時に、先世より相傳し所の冠をかうふる事、此方の禮也といふ、〉ゼルマアニヤの君悅びずして、其第二子を納むとす、ローマンのホンテヘキスマキスイムス、トーデーシムス、〈ホンテヘキスマキスイムス、こゝに最第一無上等といふがごとし、これ此方敎化之主の號也、トーデーシムス、これも其祖より第十二世なり、〉ゼルマアニヤ、フランスヤの君に說きて、相平がしむるに、ゼルマアニヤの君、其言を用ゐず、つゐにレヲポルースをして、水軍四萬の將として、〈レヲポルースは、其將軍の名、〉其子をイスパニヤに納る、其國のホルトス、ことく皆兵を發して、これにしたがふ、〈ホルトスは、その屬國の君號なり、〉イスパニヤ人、兵三萬を發し、フランスヤの君、援兵四萬を發し、すべて水軍七萬、これをふせぐ、ヲヽランド人、アンゲルア人、ゼルマアニヤをたすけて、兵を發す、イスパニヤ、フランスヤ等の與國も、またをの其兵を發し相たすけて、或は陸に戰ひ、或は水に戰ひて、其戰やまず、すでにして、六年の前、ゼルマアニヤの君死し、〈本朝寶永元年甲申〉五年の前、ポルトガルの君も死す、〈これイスパニヤの與國なり、〉兩軍水陸の兵、戰ひ死するもの、すでに十八萬人に餘れり、又ポローニヤの君死してブランデブルコ、リトアニヤ、ゼルマアニヤ(〈漢譯、肥良的亞、禮勿泥亞〉)の三國、其國をあらそひ、ポローニヤの兵、戰死するもの七千人、ゼルマアニヤの兵もまた戰死するもの二千人に及びき、〈此戰の事は、其說詳ならずリトアニヤもまたいまだつまびらかならず、〉またムスコービヤ、サクソーニヤ、相くみして、スウエイチヤと戰ひ、ムスコービヤ、またトルカと戰ふ、凡十年の間、諸國ことくみだれて、此方の人、其生をやすくせず、我こゝに來らむとする始、〈これ本朝寶永四年丁亥の事、〉、フランスヤより船にうかび、カナアリヤにゆかむとするにアンゲルア、ヲヽランデヤ等の兵馬廿萬、其戰艦百八十隻、チビリタイラにみちて、ゆく事を得ず、ゼルマアニヤ人に說きて、わづかにまぬかれて、こゝを過ぬといふ、〈カナアリアは、海島の名、エウロパの海西にありて、フランスヤに屬す、チビリタイラは、ポルトガル、トルカの海門にあり、〉

〈前說は、これ庚辰より丁亥に至る、凡十年の間の事也、それより後の事はヲヽランド人の說を、こゝにしるしぬ、〉

己丑年四月、〈本朝寶永六年なり〉ヲヽランド人、フランスヤ、イスパニヤ等人と戰ひ、一萬餘人を斬て、フランスヤの地、レイセル、バルゲ、タウルネキの三城を取る、ヲヽランド人戰死するものも一萬餘におよべり、庚寅年〈本朝寶永七年なり〉四月、ヲヽランド人、イスパニヤ人と戰ひ、五千人餘を斬て、三千人を虜にす、六月、ヲヽランド人、フランスヤに攻入りて、一萬三千人を斬り、四千餘人を虜掠す、ヲヽランド人も戰死するもの一萬千人餘、つゐにそのドーワイ、ベトーネ、センタマン、モンス、四城を降しつ、辛卯年〈本朝正德元年也、〉七月、ヲヽランド人フランスヤに攻入りて、其國都パレイスを去る事四十里、ブシヨムの地を取り、つゐにゼルマアニヤ人と共に、イスパニヤ人と戰ふ、此年八月、トルカ、タルターリヤの兵、ムスコービヤと戰ひて、さきにそのために侵し奪れしトルカの地を復す、又此年秋、スウエイデと、デイヌマルカとの戰起れり、これは、さきに、兩國地を爭ひて、デイヌマルカ(漢譯第那瑪爾加)の戰利なく、こゝかしこの地をうしなふ、ヲヽランド人、デイヌマルカを援來りて、つゐに兩國に說てたいらがしむ、此年、デイヌマルカそのうしなひし地を復すべきために兵を發す、壬辰年、〈本朝正德二年なり、〉此年の春、アンゲルア、ヲヽランド人、トルコ、ムスコービヤに說て、相たいらがしむ、四月、ヲヽランド人、ゼルマアニヤ人と共に、イスパニヤ、フランスヤ人と戰ふ、その軍、をの十萬人、敵を斬る事凡一萬餘、ヲヽランド、ゼルマアニヤ人の戰死するもの、九千五百七十人、をの軍を引て去る、七月、ヲヽランド人、フランスヤの地、クイノを攻取りつゐにマルセネの地に入りて戰ふ、敵よく拒戰ひ、勝ことを得ず、軍を引て還る、かくて、此年以來、ゼルマアニヤ、フランスヤのうらみによりて、輿國をの其兵につかれ、兩國に說きて、相たいらがしめむとす、兩國言ありて相したがはず、癸巳年〈本朝正德三年の事なり〉九月、兩國つゐに相平ぎ、をのの侵せし所の地、虜にせし所の人を還す、

按ずるに、ゼルマアニヤ、フランスヤの戰始りし事は、本朝元祿十三年庚辰に當れり、兵連なる事十四年にして、事たいらぐ、此年、本朝正德三年癸巳也

君美

一字在中


西洋紀聞下卷


大西人に問ふに、其姓名鄕國父母等の事を以てす、其人答て、我名はヨワン、バツテイスタシローテ、ローマンのパライルモ人也、〈すべて其語を聞くに、聲音うつし得べからず、其名を稱するごときも、ヨワンといひ、ヲアンといひギヨアンといふがごとし、其近く似たるをしるす也、餘皆これに倣ふ、そのヨワンといふは、ラテンの語也、ポルトガルの語は、ジヨアンといひ、ヲヽランドの語には、ヨヤンといふといふ、パライルモは、ローマンに隸する地名也といふ〉父はヨワンニ、シローテ、死して既に十一年、母は、エレヨノフラ、猶今ながらへて世にあらんには、是年六十五歲也、〈父の名と、其名と、相似て、たゞニといひ、バツテイスタといふのみ同じからず、此事を問ふに、昔エイズスの大弟子十二人の中に、ヨワンニスといふありき、凡そキリステヤンをの其法をうけつぎし祖師の名を、みずからの名に加稱す、ニといひ、バツテイスタといふ、皆名也、シローテといふは、姓也といふ〉兄弟四人、長は女也、幼にして死す次は兄也、ピリプスといふ、次は我、是年四十一歲、次に弟あり、十一歲にして死して、既に廿年、我幼よりして、天主の法をうけ、學に從ふこと廿二年、師とせしもの十六人、〈彼方の學、其科多し、師十六人といふ事は、其學科につきて、をの師ありしといふ、〉ローマンにありて、サチエルドスに至り、六年前に、一國の薦擧によりて、メツシヨナヽリウスになされたりき、〈サチエルドスは、彼方敎化の主よりして、第四等の號、メツシヨナヽリウスは彼方弘法グハフの事のために、使たるものを、稱する所なりといふ〉初本師の命をうけて、此土に來るべき事を、奉りしよりして、此土の風俗を訪ひ、言語を學ぶこと三年、またトーマステトルノンといひしもの、これも師命をうけて、ヘツケンにゆくべし、三年の前、二人、をのカレイ一隻づゝに乘りつれ、ヤネワを歷て、カナアリヤに至り、こゝにてまたフランスヤの海舶一隻づゝに乘りて、つゐにロクソンに至れり、これよりして、トーマステトルノンは、ペツケンにおもむき、我は此土におもむく、海上忽に風逆し、浪あらくして、船覆らむとせし事、三たびに及びしのち、はじめて此土に至る事を得しといふ、〈トーマステトルノンは、同門の人の名也、ペツケンは、すなはち大淸の北京也、ヲヽランド人は、ペツキンといふ也、カレイは小舟をいふ、ヤネワ、カナアリヤ、共に西洋海島の名也〉

男子其國命をうけて、萬里の行あり、身を顧ざらむ事はいふに及ばず、されど、汝の母すでに年老ひて、汝の兄も、また年すでに壯なるべからず、汝の心におゐて、いかにやおもふと問ふに、しばらく答ふる事もなくて、其色うれへて、身を撫していふ、初、一國の薦擧によりて、師命をうけしより、いかにもして、其命を此土に達せむ事をおもふの外、又他なく、老母老兄も、また我此行ある事は、道のため、國のため、其幸これに過ずと、悅びあへり、されど、此體擧りて、父母兄弟の身をわかたずといふ所あらず、いきて此身のあらむほど、いかでかこれをわするゝ事はあるべきといふ

我國の風俗語言は、いかなる人に就て、訪ひ學びしにやと問ふに、其懷にせし二小册子を取出て、これら此土の事を記せし所也、またロクソンに至りとゞまれる時に、此國の人にあひて、訪ひ學びし事どももありきといふ、其小册子の名、一つをば、ヒイタサントールムといふ、これ我國の事を記せし所也、一つをば、デキシヨナアリヨムといふ、これ我國のことばをしるして、彼方の語を以て翻譯せし所也、〈二册子共に、長さ五寸許、廣さ四寸許、こゝに、やまととぢといふものゝごとくにして、其厚さをの一寸には餘れり、我國の事を記せしといふ物には、繪かきしものを、さしはさみてありき〉ロソンにて、我國の人にあひしとは、もとよりかしこにありし我國人の子孫、すでに多く、また三年前に我國人の風に放されて、かしこに至りし十四人有しにあひて、此土の事ども、たづねとひしといふ、

其行囊の中に、ある所の黃金三品、彈のごとくなるあり錠のごとくなるあり、我國元祿年製の錠あり、〈こゝにいふ小粒判、〉また我國の新錢のあるあり、此等は、何れの方にて、もとめ得しところなるにやと問ふに、凡そ羈旅の人、行資なくしてかなふまじきは、いふに及ばず、初ローマンを去りし時、スクウタアルセンテヤといふ銀をもち出しを、カアデイキスといひし所にて、イスパニヤの銀に換得て、又それを、マルバルに至りし時に、ホンテチリといひし所にて、其國の銀に換得たりき、これは其地方によりて、各其國の寶貨の形製同じからず、其地方に行はるゝ物にあらざれば、用ふべからざるが故也、〈スクウタは、其銀の形の名也、アルセンテヤとは、銀といふ事の番語也、カアデイキスは、イスパニヤの地名也、マルバルは、インデヤの地名、ゴアの南にあり、ホンテチリは、マルバルの街坊の名、人物繁盛の地なりといふ、〉ロクソンに至りて、また黃金に換たり、これ此土には、黃金を重貨とするが故也、彈のごとく錠のごとくなるもの、すなはち此也、此土の金錢は、三年の前に、ロクソンに到りし人のもちし所に、換來れる所也といふ、

其法衣の名を問ふに、ルリヂヨと答ふ、これを製れる所の布は、我國の產也、いづれの方にて、求得しにやと問ふに、これもマルバルのホンテチリにて買得て、ロクソンに至て、法衣とはなしぬといふ、〈其法衣、ポルトガルの語には、カツパといふ、昔我俗其製に倣ひ、雨衣を作れり、今其製を見るに、今俗にマルガツパといふ物のごとくにして、くびかみの所、少しく異也、これを身に被きて、前襟にて、ボタンといふ物をもて、左右を鎖す、其たけ長くして地を曳くこと三四尺に至れり、本師より以下、其等位の高下によりて、其たけの長短あり、本師の着る所は、特に長くして地を曳く事數尺、侍者して、これをとらしめてゆく也といふ、〉

其同門の人、北京ペツキンにおもむきしは、其國の人、かしこにゆく事の始にやと問ふに、しかるにはあらず、チイナにも〈チイナとは卽支那也〉初は我法を禁ず、前八十年、其禁すでに除きて、我法ふたゝびかしこに行はる、それのみならず、今の天子、我本國に使して、物を施し入られし、すくなからず、それが中、マルカリイタ七つ迄あり、其大さ、我方にもいまだ見し事を得ざる所也、其報禮には、一度に鐵彈三十を發するトルメンツトムをまいらせたりき、〈マルカリイタは、貝の珠也、その大さ拳のことくなる物ども也、トルメンツトムは、大砲なりといふ、〉されば、當時も、本國の人サンヂヨルヂヨは、ナンケンに居る事、すでに十年、アバツトコルテルは、カンタンにある事、また十年、又スイヤムにても、十八年の前に、我法を禁ぜし事ありき、今は、其禁除きしかば、二年の前に、フランシスクスかしこにゆく、この餘、トンキンにあるもの三人、クチンチイナにあるもの二人、これらは其名を忘れたりといふ、〈サンジヨルジヨ、アバツトコルテル、フランシスクス、皆これ其徒の名、ナンケンは、南京也、カンタンは、廣東也、トンキンは、安南の地也、クチンチイナは、柬埔寨の東にあり、漢譯未詳、〉

むかし、我國に來りて、始て其法を說しものゝ事を問ふ、今を去る事、百二三十年前、彼方の化人に、フランシスクス、サベイリウスといひし、此土に至りて、我法を說く、豐後の屋形、はじめに其敎を信受して、つゐに管下の大名して、はるかに我本國に使せしめ、多くの物を施入せらる、其使、いとけなき子を携來て、我徒となし、歸らむとするに及びて、身死したり、其使葬りしところは、猶今にローマンにあり、其フランシスクス、サベイリウスは、カステーリヤの人にして、ポルトガルの君の師たりしかど、我法の弘通のために東し、此土に來れる事も、再びに至りて、其西に歸れる時、サンチヤンにして終りき、サンチヤンは、チイナ、カンタンの南にある海島也といふ、〈カンタンは、廣東也、サンチヤンは、卽香山縣ヒヤンシヤンケン也、番語、香山の音、轉じ訛れる也、〉

按ずるに、フランシスクスは、漢に波羅ホヲロ多伽兒トヲキヤル人、佛釆釋古者フライシイツクチエといふもの、卽此也、豐後の屋形は、大友左衞門督入道宗麟也、其使せしものは、植田入道玄佐(玄佐、もと淸和源氏にて、渡邊の家をつぎ、又齋藤の家をつぐ、家紋巴なり、其子名虎松、時に三歲也といふ)もとは、美濃國齋藤の族也、天正十二年に、宗麟がために使して、ローマに死す、西人懷にせし册子に、一道人の甁を持て、童子の頂に灌ぐ所を、繪かきし圖を指示て、これ豐後の大名の子の、法を受くる圖也といふ、但し豐後の屋形、其使等の姓名を問ふに、其姓名は、つたはらずといふ、〈コンパニヤジヨセフが說に、むかし、豐後國に、鬼怪ある家あり、ポルトガル人の來れるを、かしこに按置す、ポルトガル人、其壁上にクルスをかきしに、そのゝちは彼怪やみぬ、國司此事をきゝて、不思議の事に思へり、一年を經し後に、フランシスコシヤヒヱル來りしかば、國司やがて、其法をうけしといふ、そのフランシスコシヤヒヱルといふは、ポルトガルの語なり、ラテンの語にフランシスクスサベイリウスといふ、これ也、クルスは、十字也、又ジヨセフが說に、此師の、神に通ぜし事共を、しるせし所多し、西人の說も、またそれに似たる事共あり、其說皆これ古の神僧の事など、いひ傳へし所のごとくにして、ことく信ずべからず、されば、こゝにしるさず、その中、ゴアに此師の尸を、葬斂めし棺あり、水晶をもて作りしかば、この形あらはれ見ゆるに、なをいける人のごとしといふ、此事をもて、ヲヽランド人に問ふに、人すでに死しぬ、其形やぶれざる事を得ず、もし其說のごとくならむには、必是藥物のしからしむる也といふ、この言、誠に然也、萬國坤興圖を按ずるに、曷剌比亞カラヒヤアの地に、一藥、名巴爾剌パルラを產す、塗尸不敗、また孛露ペルウの地、巴爾娑摩パルサモ樹を產す、其油塗尸不敗といふ、さらば、彼方、古より尸に塗りて敗れざらしむるの物あり、また大西人に、ヱウロパ地方、幻術ありて、種々其神怪を示す事ありといふ、其事ありやととふに、其術ある事を聞かず、デウス時々人間に降る事あり、また古の化人、種々神通を現せし事も、すくなからず、また符咒等の法ありて、其效驗ある事よのつね也、我こゝに來たらむとして、カナアリアに至りし時、其所鬼怪の事ありて、我に請ふ、我すなはち符をあたへて、たち所にこれをとゞめぬ、卽今もこれらの事あらむには、其事を試られば、我言の誣ざる事はしり給ふべしといふ、また此事をも、ヲヽランド人に問ひしに、エウロパ地方彼敎ヲ尊信する所には、かならず、木を以てクルス作りて、閭門にたつ、またクルスを小しく作りて、各家の上にたつ、またアンニエスといひて、白蠟にて、羊子の類のものゝ、右の手に、クルスかきし旌もちしを造りて、常に身にしたがへ、また凡そ人に遇ふに、右手の大指を以て、クルスを、己が額と唇と胸とにしるす、これ天雷、鬼神、諸〻の災難をまぬかるべきの法也といふ、其說のごとくに、デウスよく萬物をつくりて、人を利生せんには、これら攘災の法を、人にをしへんよりは、其天雷鬼神等を、造り出さゞらむには、しくべからず、またそのカナアリアの事は、島中の人、ことく鬼物也、これはフランスヤにして、兇惡のもの〻、死刑に至らぬを、流し竄くる所なるが故也、ヨヤンもし鬼をエキするの術あらむには、みづから獄中に苦しむ事を、まぬかる〻にはしくべからずやといひて、わらひたりき、いにしへより、キリステヤンの徒、其法を說くもの、鬼物の事をば、天狗といふ、西人の語もまたしかり、これ我俗のことばによりて其說をなす事と聞えたり、〉

大明の萬曆年聞、始に天主の敎を倡ひし大西洋の人、利瑪竇が事を問ひしに、答ふる所なし、ふたゝびとふに我いまだ其事を詳にせずといふ、

按ずるに、フランシスクスサベイリウスがごときは、いにしへより此かた、こゝに至れる大西の人、其事を說ざるものはあらず、彼利子がごときも、明季諸儒の言に據るに、凡大西の人にありて、其人を知らずといふ者なかるべし、しかるにいまだ其事におよびしものはあらず、心得られず、後に新刻大藏の闢邪集を見るに、利子は香山嶴ヒアンシヤンアウに近き小國に生れしと見えて、其事跡もまた詳也、またヲヽランド人の說を聞くに、ヱイズスの徒、諸國にゆきて共幼敏のものを見ては、多方にして其國にひきゐ來りて、これを敎育し、學既に通じぬれば、をのその本國に散じ還して、其法を說かしむ、これ其說の俚耳に入やすからむ事をはかるが故也といふ、我國のむかし、其敎の師たるものも、半は彼國の學に就きし輩なりき、さらば利子がごときも、香山に近き國に生れて、其人頴悟、西に去りて、彼學に就き、つゐに中土に入て、始に其敎を倡ふ、縉紳諸生、そのために惑されて、大西の人、此方の聲音に通じ、よく三敎の書を讀み、其說吾儒と合ふ所ありとす、かれもと東土の人に係りぬれば、大西の人、みな其人をしらざりしも、また怪しむにたらず、

彼方戰國の事を聞て、其兵いづれか最强きと問ふに、陸戰はトルカに敵するものあらず、水戰は古にはフランスヤの兵を稱す、其後は、アンゲルアに敵するものあらず、今に至ては、ヲヽランデヤを其最とす、アンゲルアもまたこれに次ぐ、其戰船、高く大きなる事山嶽のごとくにして、其船旁に、窓を設くる事三層にして、每層に八九あり、各窓大砲を架して、敵船の大小高下遠近に隨ひ、其砲を發す、其遠きに及び、堅きを破る事、ヲヽランデヤの制にしくものあらず、我むかしフランスヤにゆきて、近海の所、民物豐富の地を見たりき、こゝに來らむとして、其所をすぎしに、ことく皆赤地となりて、生草をだにも見ず、其事を問ふに、ヲヽランド人の大砲のために陷りて、方數里の地、忽にかくなりしといひしといふ、

ヲヽランド人に、其大砲の制を問ふに、スランガといふは、鐵彈の重さ八斤、カノンといふは、鐵彈重さ四十斤、半里の外に至る、〈我國の里數をもてはかる也〉其たけ短かければ、遠きに及ばず、ボンといふは、鐵彈の圍み、合抱、其中を虛にして、火藥を實て、空にむかひて發つ、地に墜る時に、彈、碎けて火發し、土に入る事五六尺許、方里許は、ことくに灰塵となる、此器最遠きにおよぶといふ

彼方、火器の始をとふに、ジユデヨラのトウツパルカインの人、始め作れり、其地ダマスクスといふ所に相近しスコルペイトウムの始は、今をさる事すでに二千餘年也といふ、〈ジユデヨラ、またユデヨラといふが如し、漢に如德亞と譯せしこと卽此也トウツパルカイン、ダマスクス、皆地名、漢譯不詳、スコルペイトウムは、こゝにいふ銃なり、〉

ヲヽランド人に、銃砲等の始をとふに、其始をばしらずといふ、

イスパニヤ、フランスヤのごとき、海外の國を倂せ得て、國を開きし事を問ふに、たとへば、ノーワイスパニヤのごときは、初其國を治むるものもなく、其人こゝかしこむらがり聚りて相爭ひ、弱きは、强きが肉となりて、人の屍を相食ふに至れり、イスパニヤ人、風のために放されて、こゝに至りて、其衣食の業ををしへ、資財の用を通じて、みちびくにデウスの敎を以てす、此方の人、始て其生養の道を得て、相悅び服し、つゐに其地を納れて、本國の君の治めむ事を望請ひぬ、ロクソンのごときも、俗皆裸體にして、わづかに樹皮を以て、前後を遮る、其人また禽獸に相遠からず、イスパニヤ人、こゝに至るに及びて、其生養の道を得るのみにあらず、我敎ある事をもしりぬ、國人擧りて、本國に內屬せむ事を望請ふ、或人諫て、相去る事萬里にして、彼國を治めむ事、我財用もまた給ぐべからず、棄てむにはしかじといふ、本國の君、海外の人をして、いきてその生を安くし、死してこの苦をまぬかれしめんには、我デウスの恩に報ふる所、すくなからじといひて、つゐに其請ふ所をゆるされき、此餘、ゴア、アマカワのごときは、其地を借て、海舶互市の事に便する所也、すべて其國を侵し奪ひしなどいふ事にはあらずといふ、〈ノーワイスパニヤ、ロクソン、皆國名、ゴアは、インデヤの地名、アマカワは、阿瑪港、廣東にあり、皆前に詳也〉

我國、東にサカりて最小しき也、また我に大禁ある事をば、凡そヱウロパ地方の人にありて、ことくしれる所也、今はた何のもとめありて、此所には來りぬらむ、心得られずととふに、まづ此國の東に僻りて、かつ小しき也と、のたまふ事しかるべからず、凡其國を論ぜむに、其地の小大、其方の近遠を以てする事、あるべからず、萬國の中、其土壤廣く大きなるは、タルターリヤ、トルカにしくものなし、されど其人のごとき、禽獸にだにもしかざるべし、ヱウロバ諸國の人のごときも、もし我敎化によるにあらざらむには、またタルターリヤ、トルカに異なるべからず、我ローマンのごときは、方僅に十八里にはすぎず、されど、我道のある所なれば、西南諸國尊び敬はずといふ所なし、これを頭の小しきなるが、四體の上にあるにたとふべし、また試に物を觀るに、其始皆善ならずといふ事なし、天地の氣、歲日の運、萬物の生、ことく皆東方より始らずといふ事なく、萬國の中、東方に國せしもの、此土の外には、黑子ばかりの地もあらず、さらば、此土の萬國にこえすぐれしは、我また多言を費やすにおよぶべからず、次に、我法今は此土に行はれざりし事、遠く前代の事を諭ずるにもおよぶべからず、〈その懷にせし小册子に、豐臣太閤の事をしるして、テイランにして、我法を禁ぜられし由、みえしといふ、テイランは、番語に、多く人を殺せる暴惡の人を稱するといふ、〉今代に至て、我法を禁ぜられしは、初ヲヽランド人、我敎を以て、世を亂り國を奪ふの事也と、吿申せしによれる也、此事深く瓣ずるにもおよぶべからず、我ローマンの國ひらけしより凡千三百八十餘年、寸土尺地といふとも、人の國侵し奪ひし事あるや否は、ヲヽランド人に尋問れんには、其事必らず明らかに侯はん歟、彼ヲヽランドのルテイルスのごときは、〈ルテイルスとは、ヲヽランド人尊信する所の祖の名也、すなはちこれ其法の異端也といふ、猶下に詳なり〉地を侵し國を奪ひし事、世々に絕ずして、今その倂せ得る所は、前に申せし事のごとし、さらば人の國を誤るもの、其敎にはよるべからず、たゞその人によれる也、またイスパニヤ、フランスヤのごとき、海外の地を倂せしも前に申せし事のごとく、それらの國は、其君といふものもなく、其民歸する所なかりしによれる所也、もし此國のごとくならむには、其民なにを苦しみてか、其君を萬里の外にはもとむべき、我今こゝに來れるは、此冤を雪られて、國禁を開かれん事、チイナ、スイヤムのごとくならん事を、望請ひ申さむがため也といふ、

按ずるに、凡國を論ずるに、其土の小大、其方の近遠によらずといふは、達論に似たり、又國を誤るもの、其敎によらず、其人によるといふも、其言また理あるに似たり、されどまた、其敎とする所は、天主を以て、天を生じ、地を生じ、萬物を生ずる所の大君大父とす、我に父ありて愛せず、我に君ありて敬せず、猶これを不孝不忠とす、いはんやその大君大父につかふる事、其愛敬を盡さずといふ事なかるべしといふ、禮に、天子は、上帝に事ふるの禮ありて、諸侯より以下、敢て天を祀る事あらず、これ尊卑の分位、みだるべからざる所あるが故也、しかれども、臣は君を以て天とし、子は父を以て天とし、妻は夫を以て天とす、されば、君につかへて忠なる、もて天につかふる所也、父につかへて孝なる、もて天につかふる所也、夫につかへて義なる、もて天につかふる所也、三綱の常を除くの外、また天につかふるの道はあらず、もし我君の外につかふべき所の大君あり、我父の外につかふべきの大父ありて、其尊きこと、我君父のおよぶところにあらずとせば、家におゐての二尊、國におゐての二君ありといふのみにはあらず、君をなみし、父をなみす、これより大きなるものなかるべし、たとひ其敎とする所、父をなみし君をなみするの事に至らずとも、其流弊の甚しき、必らず其君を弑し、其父を弑するに至るとも、相かへり見る所あるべからず、

我國、ひとり東にあるのみならず、チイナもまた東にありて、其文物聲敎、古より稱して中土とす、其國またいかにと問ふ、されば此土の人のごときは、たとへば圓なる物を見るがごとく、チイナの人は、方なる物を見るに似たり、また此土の人溫にして和なる事、かくのごとしといひて、みづから手をもて其衣を把り、又手を似て其榻を撫て、チイナ人の固くして澁れる、これに似たり、近きを賤しみて、遠きをたつとぶべからずといふ、

按ずるに、方圓の說、其試る所あるに似たり、漢人のごときは、其所謂堯舜以來聖々相傳ふる道ありて、異端の言に至ては、老佛の微言も、なを行はれ難き所あり、我國のごときは、古より此かた佛氏の學盛にして、宗をたて、派をわかち、其徒をの我敎を倡ひ、天下の人、彼に歸せざれば、これに入り、みづから異敎を見て、怪しむ事をしらず、かれを轉じてこれに移すに、其說行はれやすき事、漢人の正を守て、動かしがたきがごとくにあらざれば也、

其こゝに來らむ始、本師命ぜし所、また彼吿訴ふる事ども、其大要いかにと問ふ、昔フランシスクス、サベイリウス、始て此土に來りて、我法こゝに行はれし事七十餘年、タイカフサメの時に至て、始て我徒を退け逐はる、〈タイカフサメは、こゝにいふ所の太閤樣也、其事は、秀吉九州を征されし時に、長崎に住せしパアテレを逐出されし事をいふなり、〉これよりして、我法の師徒、因誅をまぬかるゝものなく、つゐにエウロバ諸國の人、此に通ずる事を得ざるに至れり、先師ホンテへキス、マキスイムス、イノセンチウス、ウンデイシムス、〈ホンテへキスマキスイムスは、こゝに最第一無上等といふがごとし、ローマン敎化之主の號なり、イノセンチウスは名也、ウンデイシムスは、こゝに十一世といふがごとし、其第一祖より十一世にあたれば也、ウンは一つ也、デイシは、十也、ムスは、世といふがごとしといふ、〉此事を深く歎きしかど、其志むなしくして、十年前に終れり、今のホンテへキスマキスイムス、キレイメンス、トツヲデイシムス、〈キレイメンスは、名也、トツヲデイシムスとは、十二世といふがごとし、トツヲは、二つ也、デイシは、十也、ムスは、世といふがごとしといふ、〉前志を繼ぎて、此事を議せしむるに、衆議決せずして、年を經しほどに、カルデナアル相議して〈カルデナアルは、本師に次ぎしもの、七十二人ありといふ、〉昔チイナにおゐても、我法を禁じしかども、今は其禁開けしのみにあらず、其天子の使、こゝに來る、またスイヤムのごときも、我法を禁ずといヘども、これまた其禁を除けり、今に至ては、チイナ、スイヤム、すでにかくのごとし、〈此事前に見ゆ、〉ヤアパンニヤにも、まづメツシヨナヽリウスを奉りて、吿訴ふる所ありて、次ぐにカルデナアルをヌンシウスとして其好を修めて、我法を、再び東土に行はるべきもの歟と申す、〈ヤアパンニヤは、日本也、メツシヨナヽリウスは、前に注せり、カルデナアル、上に見えたり、ヌンシウスは、こゝに信使といふがごとしといふ、〉衆議つゐに一決して、メツシヨナヽリウスたるべきものを撰ぶに、衆また同じく某を薦擧しかば、其命をうけてこゝに來れる事は、前に申すがごとし、老大の母と兄とを棄て、萬里に來る事、法のため、師のため、其他あるにあらず、初、此命をうけし日より、我志を決せし所三つ、其一つは、本國望請ふ所を聽されて、我法ふたゝび此土に行はれんには、何の幸かこれにすぐべき、其二つには、此土の法例によられて、いかなる極刑に處せられんにも、もとより法のため、師のため、身をかへり見る所なし、さりながら、人の國をうかゞふ間諜のごとく、御沙汰あらむには、遺恨なきにあらず、それも本師の命ぜしに、國に入ては、國にしたがふべし、いかにも其法に違ふ所あるべからずと候ひしかば、骨肉形骸のごときはとにもかくにも國法にまかせむ事、いふにおよはず、其三つには、すみやかに本國に押還されん事、師命をも達し得ず、我志をもなし得ず、萬里の行をむなしくして、一世の讒を貽さむ事、何の恥辱かこれにすぐべき、されど我法いまだ東漸すべからざる時の不幸にあひし事、これ又誰をか咎むべき、これらの外、申すべき事もあらずといふ、

初、我國に至りし時、長崎にゆかむ事をねがはず、直にこゝに來らむと望む、其故をとふ、我萬里にして、此行ある事は、我國命を上達すべきため也、此故に直にこゝに來らむ事を望請ふ、いはんや長崎のごときは、ヲヽランド人のある所、我またかしこにゆかむ事をねがはずといふ、聞くがごときは、其國の使命をうけて來れる也、凡は隣國の使人といヘども、必ず其信を伸る所あり、我國もとより汝の國と、舊好あるにあらず、もし其信とすべき物なからむには、何を以てか其使たる事を信ずべき、いはんや、汝のこゝに來る、我國の服を服し、我國の言を誦ず、これ我西鄙の人をまどはすに、我國の人となり、ひそかに其法を說むとするにあり、其計窮しぬれば、初て其國の使と稱す、其跡につきて見る時は、そのいふ所信ずべからずと問ふ、此國にして我法を禁ぜられしより、凡そ我方の人、長崎に來れる、或は殺され、或は押還され、いまだ一人の國命を達せしものあらず、これ我孤身にして、西鄙の地に至りとゞまれる所也、此國之服を服せし等の事に至ては、長崎におゐて申す所、すでに訖りぬ、又本國の議は、前に申せし所のごとく、吿訴ふる所、もし恩裁の御事あらんには、かさねて信使を奉て、其恩を謝し申して、我法を此土に行はんといふにあり、國に入ては、まづ其禁をとふの禮、いづれの國にかなからざらむ、いはむや、國禁を除かるべき事を望請ふ使として、いかむぞ其國に入りし初に、禁を犯し、罪をかさね、みづから國命を辱しむる等の事をなすべきや、其義自ら明らかにこそ候べけれといふ、

天主の敎、我いまだ聞所あらず、其大略を聞かむと問ふ、大凡、物自ら成る事あたはず、必これを造るものを待得て成る、今試に一堂の制を見るに、其制自ら成る事あらず、必工匠を待へて成る、一家の政を見るに、其政自ら治るにあらず、必君長を待へて治る、天地萬物、これに主宰たるものあらずして、成る事あらず、其主宰名づけて、デウスといふ、〈デウス、漢に天主と譯す、〉デウス初に天地萬物を造らむとするに當りて、まづ善人を住しめむために、諸天の上にハライソを作り、〈ハライソとは、漢に譯して、天堂といふ、佛氏いはゆる極樂世界のごとし、〉無量無數のアンゼルスを作る、〈アンゼルスは佛氏いはゆる光音天人の類、ポルトガルの語に、アンジヨといふなり、〉其後に、大地世界を作りて、タマセイナを取て、〈タマセイナ、此に淸淨土といふが如し、〉男を作りて、アダンといひ、其右脇の一骨を取て、女を作りて、ヱワといふ、すなはちこれ人の始也、彼男女をして夫婦となし、テリアリの地に居らしめ、〈テリアリ、こゝに安樂國土といふがごとし、〉其餘の地をば、鳥獸のある所とす、凡人物のアニマに、三の品あり、〈アニマは、魂なり、〉草木のごときはセイのみ、〈榮枯のみあるをいふ、〉禽獸のごときはドウのみ、〈飛走のみあるをいふ、〉此二つの物は、形すでに滅びぬれば、アニマもまた滅びぬ、これを、始あり、終ありとす、人のごときは、最靈にして其アニマ天地と共に滅びず、〈人は靈魂ありて草木鳥獸に異也といふ、〉これを、始あり、終りなしとす、これによりて、デウス、アダンヱワに戒むるに、つゝしみてマサンを食ふことなからしむ、もしそのこれを食はむには、禽獸の中に墮して、長くその苦をまぬかるるゝ事なからむがため也き、〈マサンは果の名也といふ、佛氏いはゆる地餠の類歟、其苦とは、生老病死等の苦也といふ、〉こゝに、ルウチヘルといひしアンゼルス、自ら其智なるにほこりて、稱じて、デウスといひ、またこれを信ぜしアンゼルスすくなからず、デウスこれをにくみて、インペルノを作りて、それにくみせし輩と共に、ことく皆下界に追下して、インペルノに居らしむ、〈ルウチヘルは、アンゼルスの名也、インペルノは、こゝに火坑地獄とすといふ、〉ルウチヘルその輩とのみインペルノに苦しまむ事を恨て、テリアリに飛行き、まづヱワをすゝめて、マサンを食はしむ、アダンまたエワがすゝめによりてこれをくらふ、かくてアダンとヱワと、共に天戒を破りて、テリアリを逐れてければ、其子孫人間に降りて、其苦をまぬかれず、こゝにおゐてアダン、ヱワ、コンチリサンの心を發して、〈コンチリサンとは、此に懺悔といふ、〉、ふかく其罪を謝す、デウス其罪の大きにして、自ら贖ふ事のあたふまじきをあはれみて、自ら人の身と生れて、二人に代りて、其罪を贖はむ事を誓約す、二人は、つゐに九百三十歲の壽をたもちて、終りてハライソに至りたり、アダンをさる事二千餘年にして、〈今をさる事四千年の前なりといふ、〉ノヱといふもの、其男子三人あり、父母子婦すべて八人のみ、デウスの敎をうけしたがふ、世の人これを信ぜず、デウス降りて、ノヱに敎て、船作らしむ、百廿年にして船成れり、デウスまた降りて、彼等を敎て、穀蔬鷄豚の類迄、ことく共に船に載しむ、すでに大雨降る事四十日、大水、山をかねて、大地の人物、ことく溺れ沒す、ノヱが父子夫婦のみ死をまぬかる、其船、猶今アルメニヤの山の巓に現存し、また其水に漂來る螺殼の類、エウロパ地方、所在の山岳の上にあるもの猶あり、ノヱを去る事、一千餘年にして、〈今をさる事、三千餘年前なりといふ也、〉デウス、ジユデヨラのスイナイに降て、モイセスといふものに、マンダメンドを授て世の人にをしへしむ、〈ジユデヨラは國の名、前に注す、スイナイは山の名、モイセスは人の名、マンダメンドは佛氏いはゆる戒也、十條ありといふ、〉エヂツプトの君、其敎を信ぜず、つゐにモイセスを殺さむとす、〈エヂツプトは國の名、ヲヽランドの語には、エギツプトといふ、漢に譯せし所、詳からず、〉これに隨ひて、國を避しもの數萬人、其君自ら兵をひきゐて、マーレプロムに逐至る、海中忽に潮わかれ、路ありてのがれさる、潮また忽に湧きて、逐ふもの皆溺れ死す、〈マーレプロムは、マーレは海也、プロムは、またプルウトといふ、此にいふ血也、人死して、この海ことく血となれると也、漢に西紅海と翻するもの、卽此也、〉モイセスをさる事、凡一千八百年、〈今をさる事一千七百餘年也といふ、〉ジユデヨラの國、ナザレツに、サントス、マリヤといふ聖女あり、ベーテレアムの君、ダアヒツトの後也、〈ナザレツ、地名也、漢譯未詳、サントスとは、尊稱也といふ、餘皆これに倣ふべし、マリヤは、漢に瑪利亞と譯すといふ、ベーテレアムは、地名也、ダアヒツトは、其君の名、漢譯ともに未詳、〉十六歲の時、夢にアンゼルス降りて、デウスの命を吿て、デウス其子となりて、名をヱイズス、キリストスといふべし、またサントスジヨセフして、これが父とし、ベイテレウエンに產しめて、エヂツプトより、むかへかへすべし、といふ事を見る、〈アンゼルス、前に見えたり、ヱイズスキリストス、漢に耶蘇セースと譯す、我俗にゼスといひしは、漢譯の音轉じ訛れるなり、サントスジヨセフ、人の名也、ベイテレウエンは、地の名なり、漢譯未詳、エヂツプト、前に見ゆ、〉こゝに於てジヨセフをともなひ、ナザレツを去り、ベイテレウエンの驛に至りて、つゐに男女の道にあづからずして、男子を其厩中に產む、夢見し所によりて、ヱイズスキリストスと名づく、〈ヱイズス生れしは、此歲乙丑の年を去る事、千七百九年前の十二月廿五日の夜半也といふ、さらば本朝人皇第十代、崇神天皇三十年辛酉の歲にて、漢平帝元始元年にあたれり、〉アラビア、タルソ、サバ、三國の君、ヱイズスが生れし夜に當て、客星現れしを觀て、聖人ありて生れし事をしりてをの國を出て、其所をもとむ、〈アラビアは、今アジアの地方にあり、タルソ、サバ、共にある所をしらず、漢譯共に未詳、〉三國の君、同じき所にゆき逢て、共にジユデヨラの君エローデスに見えて、此事を問ふ、エローデス其事をしらず、其人をもとめ得ば、必我がために吿知らすべしと約す、こゝをさりて、行程十三日、ベイテレウエンに至るに、彼星かしこの上にあたれり、つゐに其驛にして、エイズスを拜する事を得ぬ、アンゼルスありて降りて、三國の君を戒むるに、ヱイズスの事をもて、ジユデヨラの君に吿る事あるべからすといふ、これ彼こゝろにいむ事あるによれる也、マリヤつゐにこゝをさりて、エヂツプトにゆく、ジユデヨラの君、三國の君の其事を報ぜざるをあやしみ、明年、國中の幼兒、生れて二歲なるもの、數萬を索て、ベイテレウエンに殺す、七年にして後、其君死す、アンゼルスまた降りて、マリヤに吿て、ナザレツに歸らしむ、エイズス生れて、瑞應多く、幼にして、みづから天主の子と稱じ、十二歲にして、始てヱルーザレムに說法する事三年、其敎をうけしもの五千人、〈ヱルーザレムは、ジユデヨラの地名也といふ、漢譯未詳、〉ジユデヨラの君セイザル、これをにくみて、其罪を斷りて、カルワーリエにおゐて、磔し殺す、〈カルワーリエは、山の名、イタリヤの語には、カルワリコといふといふ、共に、漢譯未詳、番語、磔をクルスにかけしといふ、クルスは、漢に翻して十字架といふもの也、また黃金を以て、其像を造りしを、イマゼンといふあり、これヱイズスとらわれゆく時に、まろびしを、女人の帨巾にて、この面を拭ひしに、其面の形、帨巾にうつりしに始れりといふ、又エイズスが像を見しに、銅像の十字架上に磔殺せられし所也、〉死して後、三日にして蘇生し、其母マリヤにみえて、弟子のために法を說く事、また四十日、終に上天しつ、これデウス、初の誓約のごとく、人と生れて、アダン、ヱワ、がために、其罪を贖ふ所也、いく程なくして、ジユデヨラの君、其敵アルテウスの爲に滅び、國中の人民城郭、ことく火のためにやかれて、すなはち今トルカの地に、其荒墟のみ遺れるあり、〈カルテウスは、或は地名、或は人名、詳ならず、漢譯も亦未詳〉ヱイズス上天の時、其年三十三、其母マリヤは、六十三歲にして上天せり、〈此徒の念珠、コンダツといふ、珠の數三十三なるは、ヱイズスが年の數に取り、六十三なるは、マリアが年の數に取る所といふ、〉ヱイズスが弟子七十二人、その中十二の上足あり、サントスペートルス、サントスパウルス二人〈十二人の中なりといふ、〉ヱルーザレンをさりて、イタリヤの地、ローマンに來れり、これらもまた其君セーザル、アウグストスがために殺さる、其後三百廿餘年にして、ローマンの君コースタンチイノス、癩疾を患ふ、衆醫みな多くの小兒を殺して、其血に浴せむ事を請ふ、其君、身の疾のために、人を殺すに忍びずといひて、其言を用給ず、此夜二神人を夢見しに、シルウエステルといふ師、ツラツテにあり、かれに就てまみえは、汝の疾癒べしと吿ぐ、其君みづから其人を求るに、夢に見し所の二神人の像、彼師の所にあり、これすなはちペートロス、パウルス也、初ペートロス、ローマンのためにころされしより此かた、其法をうけつぎしもの三十二世、ことく皆國誅をまぬかれず、三十四世にして、シルウエステルに至る、其君の請ふによりて、聖水をもて其頂に灌ぐに其疾たち所に癒ぬ、〈其徒受戒の時、必らず授水の儀軌あり、これヱイズス殺されし時の血をもて、一切の罪惡を秡除するの義也といふ、たゞし、其事佛氏灌頂の法に相同じき歟、ツラツテといふは、シルウエステル隱れ居し山の名といふ、〉其君大きに悅びて、やがて其居を避けて、みづから鍬とりて、十二フンダメントをすべて、サントス、ペートルス、エツケレイジヤを建つ、〈フンダメントは、こゝにいふ礎也、サントスペートルスエツケレイジヤといふは、こゝに精舍の名あるが如し、番語、テンプルスといふは、こゝに寺といふが如し、イタリヤの語には、カイルキケと云也といふ、〉またローマン、シスチイリヤ、ネアポリス、ノウルピイナ、ボノーニヤ、ペラアラ、スタアトスホンテヒイチウス等の地を施入し、〈七つの地名、漢譯未詳〉、國を去る事數百里にして、コースタンチイの地に移り居れり、〈今トルカの國都、すなはち其地なり、〉これより此かた、ヱウロバ地方の國君宰臣を始て、人非人等に至るまで、悉く皆此法を尊信せずといふものなく、凡ローマンの地、四面皆石を疊みて基となし、其圍十八里、そのエツキレイジヤ始て建しより、此地いまだ火災ある事なく、世々に金銀珠玉をもて莊嚴せし事、天下の寺觀比すべき所にあらずして、こゝに聚り居るもの凡七十餘萬人、〈其地、八つの山ありといふ、ヲヽランド人の說には、ローマの周圍二十四里許、その地勢險にして、七山秀起り、樓閣殿堂、金碧相映じ、いふばかりなき壯觀也、其徒を除く他は、多くは工匠其巧妙天下双なし、諸國の工、また來り學ぶもの多しといふ、〉初め、シルウエステル此地を開きしより、今のキレイメンスに至るまで、二百四十餘世、凡一千三百八十餘年、其敎化之主、相繼でこれを稱して、パアパといひ、またこれをホンテへキスマキスイムスといふ、〈ヲヽランド人は、その本主をパウスといふ、パアパの轉語なる歟、按ずるに、今の本主はシルウエステルより二百四十餘世といひ、又十二世ともいふ、これホンテへキスマキスイムスの號ありてよりは、十二世なるの義歟、〉其徒をの位號あり、其上等は、スムテホンテへキス、すなはちこれ敎化之主也、其次はカルデナアリス、此位にあるもの七十二人、〈これヱイズス七十二弟子に準ず、そのパアパの席をつぐものには、七十二人の中を撰びて、をの其名を紙にしるし、これを封じ、ヱイズスの像前にてひらき見て、其名しるせし數、多きをもて、其人とすといふ、〉其次は、エピイスコプス、其次は、サチエルドス、其次は、リヤアコノス、其次は、スプテアヽコノス、其次は、エキソルチイスタ、其次は、アコーリトス、其次は、ヲステアーウス、其次は、レキトラトス、これより以下、其職掌の名號猶多し、そのエピイスコプスより以下、其數皆定まれる事はあらず、パアテレ、〈漢には巴禮パアレと譯す、我俗にパテレンとも、バテレンともいふは、これなり、〉イルマンなどいふは、其位號にはあらず、ヱウロパのことばに、父を、パアテレといひ、母を、マアテレといひ、兄弟を、イルマンといふ、されば我たつとぶものは、パアテレともいひ、我したしきものをば、イルマンともいふ也、此土のむかし、この敎の師友を稱して、パアテレ、イルマン等の稱ありしは此義也、凡そ一世界の內にして、をの其たつとぶ所の敎法あり、其宗をわかつに、三つに過ず、一つには、キリステヤン、〈これヱイズスの法也、我俗に、キリシタンといふは、ポルトガルの語、〉二つには、ヘイデン、またこれをゼンテイラといふ、〈この法を問ひしに、此宗には、佛を多く立てゝ、それにつかふる也といひて、其敎とするところは、つまびらかならず、〉三つに、マアゴメタン〈これ漢に囘囘敎といふものをいふ也、〉ヱウロパ地方にして奉ずるところは、皆是キリステヤンにして、またをの其宗派あり、我うけ傳へし所は、カトーリクスの派也、そのキリステヤンより出て、別に一法をたつるものを、すべてヱレゼスといふ、〈これその敎の異端なりといふ、〉ルテールス、アルリヨ、カルピノ、マニケヲ、の類、皆是ヱレゼスとす、ヲヽランデヤに奉ずる所は、ルテールスすなはちこれ也、〈ルテールスは、人の名也、ポルトガルの語には、ルテロといふ、もとこれキリステヤンにして、後におのれが宗をたつ、ヲヽランド人の說を聞くに、たとへば、祖師禪あるがごとく、其敎外の宗と見えたり、〉アジア地方に行はるゝ所、モゴルの敎といふものゝごとき、これを稱してマアゴメタンとす、〈アフリカ地方、トルカのたつとぶ所も、マアゴメタンなりといふ、按ずるに、ヱウロパ地方、ムスコービア、其俗モゴルのごとしといへば、これもマアゴメタンなるや否や、其說は聞かず、〉又此外、チイナにして尊信する所のごときは、其學稱してコンフウシヨスといひ、〈これ儒者自然之學也といふ、彼敎には、天地萬物、みづから成る事なし、皆これデウス造れる所也といふ、しかるに儒には、大極、兩儀を生ず、大極すなはち理也などいふを、しかはあらずといふなり、〉其徒を稱して、アデイエスといふ、〈これ儒者の事也、〉これ此土におゐて、周孔の道といふもの卽此也といふ、

按ずるに、西人其法を說く所、荒誕淺陋、辦ずるにもたらず、しかりといヘども、其甚しきものゝごときは、また辦ぜざる事を得べからず、まづ、其番語稱して、デウスといふもの、漢に翻して天主テンチウとす、これ彼此聲音相近きにとれる事、たとへば、ヱイズス譯して耶蘇セースとするがごとし、番字もと讀むべからず、漢字を假りて、其聲音をうつせるのみ、其義番語にありて、漢字にあるにはあらず、然るに明季の諸儒、利瑪竇初に天主の字を借り用ひて、其番語を譯し、つゐに其說を附會して、經にいはゆる上帝これ也とす、諸儒其說にまどひて、其非を覺らず、もしデウス譯して天主といふ、すなはちこれ天の主宰、經にいはゆる上帝なるべくば、ヱイズス譯して耶蘇といふ、耶蘇また何の義かあるべき、〈此事、我國にして、日神の御事を、漢字を得るに及び、大日靈貴ヲホヒルメノムチとしるされしによりて、大日如來これ也といふ說のごとし、〉經に所謂上帝の說のごときは善く書を讀むものゝ、自ら知れる所なれば、今此に論ずる事を待たず、もし天主敎法の字、梵典に出し所といはむには、我もとより知れる所にあらず、〈天主敎法の字は、最勝王經に出づ、〉今西人の說をきくに、番語デウスといふは、此に能造之主といふがごとく、たゞ其天地萬物を剏造れるものをさしいふ也、天地萬物自ら成る事なし、必ずこれを造れるものありといふ說のごとき、もし其說のごとくならむには、デウス、また何ものゝ造るによりて、天地いまだあらざる時には生れぬらむ、デウス、もしよく自ら生れたらむには、などか天地もまた自ら成らざらむ、又天地いまだ成らざる時、まづ善人のために天堂を造るの說、天地もいまだ生ぜずして、斯人すでに善惡の相わかれしも心得ず、凡其天地人物の始より、天堂地獄の說に至るまで、皆これ佛氏の說によりて、其說をつくれる所なれば、これ又ことく論辯するに及ぶべからず、〈まづハライソを作るといふは、劫初の天地、風吹水減じて、次第に沫を結び、化して天宮となるといふがごとく、アンゼルスの說は、光音天人の事にして、マサンを食ひしといふ事は、地味を食ひて、體重く、光滅び、また粳米を食ひて、男女の形分かれしといふに似たり、〉其天戒を破りしもの、罪大にして自贖ふべからずデウスこれをあはれむがために、自ら誓ひて、三千年の後に、ヱイズスと生れ、それに代りて、其罪を贖へりといふ說のごとき、いかむぞ、嬰兒の語に似たる、方今刑をつかさどれるもの、猶よく其情のあはれむべきものを議して、其罪を赦し宥む、其天戒といふものも、デウス自ら誡し所也、自ら其罪を赦し宥むに、なに事のあるべきにや、いはむや其誡しところのごときも、これをして果を食ことなからむのみ、あやまちてこれを食はむ罪、いかむぞ其食ひしものの自ら贖ふ事あたはずして、其獄決せざる事三千餘年を經て、デウスそれに代りて、其罪をうくるにはおよぶべき、たとひデウスは、アダンがために其罪をうくるとも、これを磔罪せし所のもの、これまた誰に代りてか、つゐに其國を滅すには至りぬらむ、又デウス盡世界の人を溺殺し、ひとり其敎にしたがふもの、海中に路開け、また其駕せし所の船、大水に漂ひ來りし所の螺殼の類、猶今にありといふ說のごとき、デウス稱してみづからよく天地人物を生じ養ひて、大公の父無上の君といふ、さらばなど其人をして、皆ことく善ならしめ、皆ことく其敎にしたがはしむる事あたはずして、盡世界の人をして、ことく皆絕滅せしむるには至れるにや、たとひまたデウスといへども、人をして皆ことく善ならしむる事あたはず、皆ことく敎ふる事あたはずば、いかむぞまた天地能造の主とは稱すべき、また至愚にして、其敎ある事をしらざるもの、何の罪かは深く咎むべき、しかるをつゐに盡世界の人をして、ことく皆絕滅に至らしむる事、いかむぞまた、これを生じこれを養ふ大父大君とは稱すべき、また怪石の船の形に似たる、斷崖に螺の殼ある、いづれの地にかなかるべき、我國のある所もまたしかり、いかむぞ又デウスの事 にあづかるべき、其十誡といふもの、また佛氏の說によりて、たゞその他犯の戒を、二條にわかち出す、今其說をとふに、我敎化之主より始て、凡其徒弟たるものゝごときは、ことく皆女子に近く事をもゆるさず、其他尊貴の人といへども、一妻の外に、他犯の事ある事なし、此故は、夫婦相和がざるは、必ず其邪淫による、世間父ありて、其生母の故に、其子をにくむあり、子ありて、其生母の故に、父を怨むるあり、其母を同じくするものは相愛し、其母を異にするものは相にくむ、父子兄弟相和らがざるも、もとゝして他犯による、これによりて、其禁特に重しといふ、又古より以來、彼方諸國戰亂の事をきくに、皆これ其嗣絕ふるが故によれりといふ、其流弊のこゝに至れるも、またあはれむべし、ヱイズス降生之初、種々瑞應あり、自らデウスと稱せしといふの類、釋迦文生れて種々瑞應を現じ、自ら稱して天中天といひし事のごとく、其磔殺されし後に蘇生して、其母にみえしといふの類、小瞿曇賊せられ、木その身を貫き、立てゝ以て標となす、大瞿曇その血をとりて、人となせしといひし事のごとく、シルウエステル聖水を以て、國君の頂に灌しは、大梵天王、四大海水を以て、其太子の頂上に灌ぎし事のごとく、其君ローマンを施入して、精舍を建てしといふ類は、缾沙王、迦蘭陀竹園を施して、僧伽藍摩となせし事のごとく、すべてこれらの說、番語ことくに通曉すべからずといへども、大約その敎の由來る所、西天浮圖の說に出づ、陰かに其粃糠を竊むの說、鐘子が言ひし所、また我を欺かず、卽今其說によりて、ヲヽランド鏤板の地圖に據るにそのデウス降生の地ジユデヨラのごときは、西印度の地方を相去る事遠からず、又其說に、ヱイズス未だ生れざる以前、ジユデヨラのみ、デウスの敎ある事をしる、其他はことく皆佛敎を尊信したりといふ、さらば、西天浮圖の說、其地方に行はれし事、ヱイズスが法のさきにあり、今ヱイズスが法をきくに、造像あり、受戒あり、灌頂あり、誦經あり、念珠あり、天堂地獄輪廻報應の說ある事、佛氏の言に相似ずといふ事なく、其淺陋の甚しきに至りては、同日の論とはなすべからず、明季の人、其國の滅びし故を論ぜしに、天主の敎法、其一つに居れり、我國巖に其敎を禁ぜられし事、過防にはあらず、幾を知るものにあらざらむには、誰かはこれをよくすべき、たゞその夷を以て夷を治む、時の權宜には出ぬれども、虎をすゝめて狼を驅る、またその畏なきにはあらず、

君美

一字在中


附錄


謹而言上

異人之儀萬里之外國之人にて殊に此者と同時に本唐へ參候ものも有之由に候得者本唐の裁斷も可有之候旁以此御裁斷は大切之御事と奉存候付愚意之旨不顧憚言上如左

異人裁斷之事に上中下の三策御座候歟第一にかれを本國へ返さるゝ事は上策也〈此事難きに似て易き歟〉

第二にかれを囚となしてたすけ置るゝ事は中策也〈此事易きに似て尤難し〉

第三にかれを誅せらるゝ事は下策也〈此事易くして易るべし〉

謹按

むかし 神祖の御時慶長十九年より彼宗門を制せらるゝといへども法禁なほゆるやか也その後彼國人來りて其法をひろむる事は我國を奪ふ謀也と聞えて〈其法もと正しからずといへども我國を謀るといふは實なるべからずしかれ共島原の變出來たれば申ひらく事難かるべし〉猷庿の御時其禁もつとも嚴になりて我國の人其法をコロぶものをばたすけおかれ轉ばざるものをば誅せらる彼國より來れる師といへども轉びしをばたすけおかれ轉ばざるものをば凡百餘人まで誅せられたり〈彼國の師たすけおかれしもの某が聞及しところわづかに五人歟〉しかれども彼國の人來る事猶やまず我國人彼法をうくるもの猶やまざれば

猷庿御末年に及びてかれらには杖をつかせよと仰られたり〈杖つかせよとはころぶに及ばず誅せよとの御事也〉其輩が轉ぶ事をゆるさず皆ことに誅せらる〈前後凡ニ三十萬人〉しかれば今猷庿の御末年の例によらば此度の異人をば其罪のありやなしやを問はずして誅すべしこれを御裁斷あらむ事易くして易しといへどもかれ番夷の俗に生れそだつ其習其性となり其法の邪なるをしらずして其國の主と其法の師との命をうけて身をすていのちをかへりみず六十餘歲の老母幷年老たる姉と兄とにいきながらわかれて萬里の外に使として六年がうち險阻艱難をへてこゝに來れる事其志のごときは尤あはれむべし〈君のため師のために一旦に六年の月日萬里の波濤をしのぎしは難きに似たり〉又 仰を蒙りかれと覿面する事已に二度其人番夷にして其〈本書むしばみ讀得ず〉番夷なれば道德のごときは論するに及ばずされど其志の堅きありさまをみるにかれがために心を動かさゞる事あたはずしかるを我國法を守りてこれを誅せられん事は其罪に非ざるに似て古先聖王の道に遠かるべし此故にひそかにおもふ所はこれを誅せん事易くして易けれども下策に出づ又かれをたすけてトラヘおかれん事

猷庿初の御法によるに其法は轉びし上にたすけおかるべしかれが志の堅きをみるにすみやかに首を刎らるゝとも其志の變ずべきものとも見えずなまじひにかれを轉ばせんとして轉ばざるをたすけおかれんは我國の祖法をみづから弄ばせ給ふに似たり又轉ぶと轉ばざるとを問ずしてたすけおかれむは我國の祖法をみづから守らせ給はざるに似たりたとひ當代仁厚の大德を以て一時の權宜をはかり給ひてかれをたすけてとらへおかせ給はむともかれが命のあらむかぎり獄舍の中に痛み苦まむ事もまたあはれむべし是一ツ

猷庿の御末年杖つかせよと仰ありしより此かた彼國の人の來れるもの命たすけられし事一人もなししかれ共今又かれを彼國モトノマヽにつかはしたりましてや此度の使命たすけられて世にあると聞えば我國の法すこしくゆるみぬとおもひて彼國より來らむ者必らず踵を繼べしこれ又その來路を開かせ給ふに似たり是二ツ

たとひかれが事彼國に聞ゆる事なからむにもかれ來りてのちその事のなるやならずやを聞く事なからむには一二年を出ずして必ず又使をつかはすべし〈今もある事也はじめ使の返事なければ心もとなくてかさねて又使をつかはす事これ又人情のつねなり〉もししからばこれも又その來路を開く也是三ツ

かれを獄中に囚んには與力同心を始てもしかれが迯うせん事あらば罪蒙らむ事をおそれて日夜にこれを守るに心をくるしむるものすくなからじこれ四ツ

此故にひそかにおもふ所かれをたすけて囚おかれん事易きに似て尤難しこゝを以て中策とすかれをして我

祖宗代々の法をきかしめ

我國初より此かた聖子神孫よく祖宗の位をつぎよく 祖宗の天下をたもち給ふ事これたゞよく祖宗の法を遒〈遒は遵の誤なるべし〉ひ守り給ふによれりたとひ汝が訴ふる所の事その謂あり汝が法とする所その理ありとも今はた我 祖宗の法をやぶりて汝番夷の法を行ふ事をゆるすべからず謹で 祖宗の法を按ずるに汝が如くの輩轉ぶ時はたすけ轉ばざる時は誅す當代仁恩廣大汝が其王の命をうけて身をかへり見ず萬里に使し來れる事をあはれみ給ふが故にその命をたすけて本國へ歸し給ふ所也すみやかに汝が國に歸り其王に申すべし此のち又汝がごとく我國に來らむものをば海邊の國守に仰せてまづ誅してのちに申さしむべしかならず汝の國人をして我誅を試みモトノマヽ陷らしむる事なかるべしと或は文にしるし或はことばにのべて長崎に來る廣東の船又は琉球より唐へゆく船にのせて呂宋へ歸さるべしもししからば彼國をして

我祖宗の法は天地と改るべからすして

當代仁恩の廣く聖度の大きなる事をしらしむべし〈長崎より來る時も乘物の外をばみる事かなはざるやうにせしと也かれ國に歸るとも我國の風俗をかたるべき樣もなし〉これ其事難きに似たりといへども易くして殊に古先聖王仁厚寬裕の事なればこゝを以てこれを上策とすこれらの中を以てよろしくゑらみ給ふ事あらむにはが愚忠むなしかるべからず


此上書すこしはや過たれどももしがいはゆる上策を取られてかれを歸されんにはすみやかなるにしくべからずしからば此たび付來れる與力同心幷通詞等に守らせ歸して來春夏の間長崎に來る廣東の船にものせ返さるべきかとまづ言上如右

此度渡り來候ロウマン人幷御役所書物等の說にて承知候大略條々

一彼法にてたつとみつかへ候天主デウスと申候は天地萬物を造り出し候神靈にて人間の善惡をかんがみ善なるものを天堂にのぼせ惡なるものを地獄に墮し候事をつかさどるの主と相聞え候其法を修し候ものは十戒を持ち諸惡を斷じ天堂に生をうけて地獄の苦しみをまぬかれ候事を求め候事と相聞え候其天主と申すものは道家に上帝と申すものに似候而其修行の法ことく佛家の法に同じく相見え候事

堯舜周孔の書に上帝と申す事有之候は天地造物の主宰の理をさし候へば彼法並道家の說のごとくその神人天上に有之候而時々人間に降り福を降し禍を降し種々の奇異有之事のごとくには無之候これにつき此等の法にては聖人の法をいみきらひ候事に御座候歟

一彼法を始て說き出し候人の名をヱイズスと申候漢土の字にて耶蘇としるし候はこれにて候彼徒にてこれを敎主とたつとみ候事たとへば佛家にて釋迦につかへ候事のごとく相聞え候事

彼法に天堂地獄の說をたて其敎主の像につかへ灌頂戒律符呪念珠等の事共有之候次第一々佛家と相同じく候又其像は磔の形にて候これは諸惡を斷絕仕らせ候ため第一入門の所と相見え候由其故は人の惡は皆々欲心より出候凡人の欲さまざまに候へども至りて切なるものは身命に過るもの無之候其身命をだにすて候上は其外の欲はかぞふるにたらず候歟こゝを以てまづ此所より始而道に入る事と相見え候是又佛家生死をかろんずるの說と相同じく候歟佛國と彼國とは地つゞき程遠からず候得者佛氏の說彼國に流れ入り一變仕りたる法と存ぜられ候

一ロウマンと申す所は彼敎主の本地にて候たとへば我國にて天台の比叡山眞言の高野山のごとくなる地に候而いにしへ其國王より其地をあたへられ其法の本地となり其法の師弟子皆々其所に而法を修行候故奧南蠻の國々其法をうけ候貴賤ともに寄進之地も多く布施の物も多く事の外に繁昌の道場と相聞え候事

一奧南蠻の國々大半は彼法をうけ候かと相見候得ども又其法をうけ申さぬ國々も有之候阿蘭陀等も中頃より彼法をば用ひ申さぬ由相聞え候事

阿蘭陀等信向の法は彼法より出候而別に法をたてたるものにて候佛家に禪宗の有之候ごとくなるゆきかたと相聞え候しかれば天主をばたつとみ候へども耶蘇をば用ひ申さず候我國の諸宗皆皆釋迦の說より出候へども祖といたし候所はおの同じからず其法もまたおのかはり候ごとくに相聞え候

一彼法の師諸國に渡り候而其法をひろめ候事これ耶蘇の敎と相聞え候其故は天主は天地萬物の父母にて一世界の人皆これ兄弟にて候父母の子を見候事は男女少長をゑらばず皆々同じ心にて父母の心を以て其子の心とする時は兄弟の間は相したしみ相愛すべき事に而候又子をやしなひ子ををしゆるは父母の心にて候其父母の心を其子の心とする時は兄弟の間は相やしなひ相をしゆべき事すなはち天主の心天主の法にて候との義と相聞え候これ又佛氏の摩騰迦竺法闌等をはじめて代々の三藏漢土に來り佛敎をひろめ達磨南海を渡りて梁魏の間に禪法をひろめ候心と同じく皆々番夷の風俗と相見え候事

彼國の人我國に來り法ひろめ候事は我國をうばひとり候謀の由相聞え候事は阿蘭陀人幷に彼國の人フランシスクスリアン幷に又我國より彼國へ渡り法を傳候コンパニヤドウウと申すもの申し出したる事に御座候歟其敎の本意幷其地勢等をかんがへ候に謀略の一事はゆめあるまじき事と存ぜられ候事

大猷院樣御代渡り候コンパニヤジヨセフと申すもの後には岡本三右衞門と申す名を被下御扶持方幷妻女從者等被下さしおかれ候もの三卷の書を作り置候事反逆の謀にて無之趣を一々に辨じおき候を此度を此度見候處にいかにも其道理分明に相見候歟

彼國の人其法を諸國にひろめ候事國をうばひ候謀略にては無之段々分明に候といへども其法盛になり候へばおのづから其國に反逆の臣子出來候事はまた必然之理勢にて候歟ちかくは大明三百餘年の天下ほろび候事の端は三ケ條有之候うち其一條は此法の行れ候故の由たしかに其時の書に相見え候大明ほろび候事は

大猷院樣御他界の比の事に候大明に而は此事の覺悟無之候と相見え候處に我國にてはさきだち候て彼法をきびしく御制禁被遊於今此害一かた斷絕仕候事

御名譽の御事と乍恐奉存候事

右白石先生の羅馬人處置獻議と天主敎大意との二篇は向山篤氏〈誠齋又偶堂と號す通稱を源太夫といふ今の黃村翁の父なり〉の輯錄せる偶堂雜記中に見えたるを取り出せるものなり向山氏は舊幕府の吏職にありて專ら經世實用の學を講じその藏する所往々希覯の書多くこの二篇のごときも先生の手書案本の幕府內史局に存在せしを見出して窃に謄寫しおきたりしものといふ今西洋紀聞を參考するにつきて最必用なるものなればこれを卷末に付す本書にかの羅馬人の裁斷を文昭公の親裁に出でし如くに記したれどもこの獻議によりて觀れば先生の竊に奉れる三策の中策を採られしこといちじるし壬午春日文彥記す

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