戊辰戦争実歴談
今般福良村ニ出張精々盡力ノ 段一統大儀 右ノ通り福良村ヘ出張ノ際ニ 大殿様ヨリ城中大書院ニ於テ 御言葉ヲ賜フ 茲ニ記憶ヲ録シテ此編ノ諸言トナス
戊辰戦戰争實歴談
慶應三年三月中白虎二番隊士中ニ列シ城中三ノ丸ニ於テ幕人畠山某外 幕府旗下ノ士藪名及會藩士柴五三郎氏外兩三名ニ就キ三月中旬ヨリ七月 七日迄佛式練兵ヲ講習ス同七月八日若君ニ扈シテ福良村ニ出張中毎日 練兵ス且山中ニ入リテ散兵ヲ以テ空砲ヲ放チテ若君ノ御覧ニ供ス當時用 ユル所ノ砲ハ「ヤーゲル」ナルヲ似テ火門塞リテ丸ヲ發スルニ苫ム村東ニハ一番隊西 ニハ二番隊ヲ出シテ番兵ス既ニシテ福良村ヨリ直チニ原村ヲ經テ若君ニ扈シ猪苗 代峰山土津公神社ニ御參拝セル后チ猪苗代ニ一宿シテ若松ニ歸レリ時ニ寄合 白虎若君御迎ヘトシテ長泥ニ出テ居ル者其勇壯喜躍ニ堪ヘズ而シ八月 二十二日ニ至リ敵軍戸ノ口原ニ来リシト報ズルニ依リ其ノ日十時頃ニ隊長日向内記宅ニ同隊 悉ク集リ居レリ皆云フ「ヤーゲル」砲ハ用ヲ爲サズ更ニ別銃ヲ受取リ戰ニ趣カザルベラズ ト城中ノ武具役人曰ク他ニハ唯ダ御備銃アルノミ之レヲ渡スハ不可ナリ隊中颺言スルモノアリ 無用ノ銃ヲ携ヘテ戰ニ赴ケト令スル者何人ゾ宜シク殺戮シテ余等モ自殺セント決ス遂ニ 馬上銃ヲ受取ル馬上銃ハ短ク且ツ輕クシテ白虎隊ニ頗ル適當セリ廿二日君公ニ扈シテ 蚕養口ニ出ツ時ニ塩見常四郎戸ノ口原ヨリ馳セ来リ出兵ヲ促スコト甚ダ急ナリ 乃チ半隊ヲ瀧澤東ニ進メリ又継テ其半ヲ進メテ前半隊ニ合セシム戰友皆喜 躍シテ瀧澤峠ヲ越ヘ舟石ニ達スレバ敵軍大砲ノ聲耳ニ入ル依テ舟石茶屋ニ於テ丸込ヲ 為シ携帯品ヲ舟石茶屋ニ預ケ特ニ身軽装トナリ舟石茶屋ヨリ駆ケ足ニテ強清水ヲ 過キテ約一丁半行キテ左方ノ小山ニ登リ茲ニ穴ヲ掘リ胸壁ト為ス時ニ官兵ハ四五丁ヲ距ツテ 数千人居ルヲ認ム是レヨリ戸ノ口原ニ達スルニ幕兵八十五六人喇叭ヲ吹テ敵軍ニ向フアリ 是レニ於テ其側ノ山ニ登リ身ヲ匿クシテ敵状ヲ窺フ既ニシテ胸壁ヲ築キ陣ヲナシ其上ニ 於テ一戰シ我ガ軍利アリ敵退キ更ニ大砲ヲ引キ来リ戰フ(進撃兵二三十名馳来リ繁敷戦闘 セリ乃チ午後四時頃ナリ亦此山続キニ於テ幕兵八十五六人喇叭ヲ吹テ敵軍ニ向テ闘ヒツツアリ) 時我敢死隊若干名和銃或ハ鎗等ヲ携ヘ進ミ来ル(敢死隊ハ 乃チ抜刀隊ト同シ)白虎隊ハ此處ヲ其敢死隊ニ讓リ赤井谷地ニ轉シ敵ヲ挟ミ撃タン トス敵ハ本道ノ兵ヲ尾シテ城下ニ達ス我隊側ヨリ敵ヲ砲撃スルモ利アラズ退軍ノ令ニ依リ 時ニ八月廿三日大暴風雨ヲ侵シテ新堀ノ處ニ至リ身ヲ潜ム而シテ土堤ノ高サ五六尺 其上ニ攀ヂ登リ敵ノ来ルヲ狙ヒ立打ヲ為セシハ獨リ石田和助ナリ時ニ伊藤俊彦ハ 見エズ戦友一同大ニ心痡シ居ル処ヘ俵ノ棧底ヲ冠リ来レリ其氣ノ勇壮ナルニ驚カザルハナシ廿 三日ノ朝赤井新田ヲ引キ揚ゲ江戸街道ヲ経テ穴切坂ヲ下ダリ若松ヲ指シテ西ニ向フ其左ニ山路 アリ時ニ山内小隊長跡ヨリ来リ山路ニ入リ隊士ニ謂テ曰ク子等何処ニ赴カントスルヤ石山 虎之助進ミ出テ大聲ヲ發シテ答テ曰沓掛ニ赴テ決戰セント欲スルノミト答フ小隊長 曰ク敵ハ衆ニシテ我寡ナレバ徒ニ犬死ヲ為サンヨリハ我ニ隋ヒ一敵ヲ避ケ後圖ヲ 為スベシト進メラル虎之助憤然トシテ曰ク小隊長ニシテ猶能ク腰ヲ抜カサルルカト 謂ヘリ小隊長モ亦憤然トシテ曰ク勝敗ノ機ヲ見ズシテ進死スル小児ノ了簡ニ過 キズ宜シク予ガ指揮ニ従ヒテ来ルベシト云ヘ棄テ山路ニ向ヒテ去ラル後全隊モ之レニ 隨ハントシテ除々歩ヲ進メシモ小隊長ト遂ニ相失シ路三所ニ岐ル酒井峰治ハ中心ノ 路ニ入リテ紙製草鞋ヲ履キ直シ(紙製ノ草鞋濡レ湿リタルミ困リ大ニ困却セリ) 戦友ノ来タルヲ待ツ居レリ然ルニ戦友ハ何レモ外ノ路ニ入リテ會見スル能ハズ 左ニ入ルモノアリ右ニ入ルモノアリ余ハ左セズ右セズシテ中ノ路ニ入リ隊の継ギ来ルヲ待チ 且ツ紙製草鞋ノ歩シ難キオ以テ除々澤ヲ下タル時ニ馬ノ嘶ク 聲ヲ聴ク若シ敵軍ニ逢ハバ擒トナルハ耻ナリ只自殺セントノミ決心シテ近ズキ見レバ豈ニ圖ラ ンヤ農馬ナリ傍ノ仮小屋ニ母子ト覺シキニ二人ノ農夫ナリ余之レヲ見テ憐恤ヲ乞フテ曰ク 余ハ戰利アラズ且ツ隊ト相失シ道ニ迷テ此處ニ至ル願クハ我ヲ案内シテ本道帰路ニ出シ呉レト 金壹両貮分ヲ與フモ肯カズ依テ更ニ壹両貮分ヲ出シ其母傍観ニ忍ビズ其子ニ 案内ヲ勧ムルニ仍テ其子余ヲ導キテ猫山ヲ經テ瀧澤ノ不動瀧ノ上方ニ至テ別レヲ 告ケ去ル余獨歩シテ瀧澤村ニ至ラントスレバ又次郎ノ父某ニ逢ヒ(又次郎ハ瀧澤村ノ 百姓ナリ)若松ニ帰テント欲スルノ意ヲ述ブ某答テ曰ク敵既ニ路ヲ遮ギリ厳重ニ塞ギ居 レリ到底通スベカラズト云ヘリ是ニ於テ大藪道ヲ潜リ夫レヨリ白禿山ニ至牛ケ墓村ノ百姓 庄三ヲ尋ヌルモ居ラズ(御城ノ落チタルヤ否ヤヲ問フ為メニ百姓庄三ヲ尋ネシモ居ラズ)更ニ 他人ニ問フモ何ズレモ答フル者ナシ蓋シ余ヲ見テ急ニ身ヲ隠クセルナリト認ム余依テ網張塲ノ 松蔭ニ至リ自殺セント決シ其処ニ至ルヤ先ツ小刀ヲ脱シ合財袋ヲ解茲ニ自殺セント決シタル 所ヘ庄三及齋藤佐一郎ノ妻ト両人馳セ来リ曰ク自刃ヲ急グ勿レト余乃大小刀ヲ隠シ之チ余 月代ヲ剃リ落シ髻ヲ藁ニテ結ヒ代ヘ余ヲ農人ニ扮装シ姑ク難ヲ遁レシム余農夫ノ群ニ 入リ火ニ就キ煖ヲ取リ居リシニ我ヲ呼ブ者アリ顧レバ同隊ノ伊藤又八ニシテ(伊藤又八ハ 白虎二番隊ノ同志甲賀町通リ二ノ丁角ニ住ス知行四百石ヲ領セリ) 農装シテアリ乃チ共ニ山上ニ登リ城ノ陷ルヤ否ヤヲ見ルコト久シ日暮 松茸山ニ入リテ相倶ニ其小屋ニ憩フ時余ノ傍ヲ過クルアリ能ク顧ミレバ豫而始終牽キ連レ行ク 愛犬「クマ」ナリ(前々ヨリ始終鳥殺生等ニ行ク毎トニ牽キ連レ居ル愛犬ニ逢ヘリ) 則チ聲ヲ挙ゲテ其名ヲ呼ベバ停テ余ノ面ヲ仰ギ視ル ヤ疾駆シ来リテ飛付キ歓喜ニ堪エザルノ状アリ余モ又悵然トシテ涙ナキ能ハズ其頭ヲ撫 シテ曰ク愛狗能ク何ヲ以テ是ニ至ルト(我家ニ飼ヒシ犬ノ余ヲ尋ネテ来リ喜躍ニ堪ヘ ザルガ如シ)乃チ余腰ニ帯ヒシ結飯ヲ與フ又八ト共ニ其小屋ニ臥セリ夢カ幻カノ中ニ犬ノ 呼ブ聲アリ余之レヲ呵スルモ止マズ(愛犬一吠直ニ盡ス更ニ結飯一個ヲ與フ暫ク口ニ啣テ噛 マズ(周囲ヲ徘徊シ楽ム者如シ蓋シ其此ニ来リシ所以ハ平時余暇アレバ彼レオ伴ヒ禽鳥ノ 捕獲ニ来リテ道ヲ暗シタレハ城下ノ人家兵燹ニ罹リ食ヲ求メテ来リシ者ナラン) 少焉ニシテ人アリ来リ呼ブ臥 シ居ルハ誰ゾト云フ余ハ行人町ノ酒井ナリト答ヒシニ鳴呼酒井様カ僕ハ庄三ノ兄弟 ナリ貴殿ハ何故ニカ此処ニ至ルト余答フルニ實ヲ以テス某曰ク白川口ヨリ退ク 所ノ人七百人彼ニ在リ貴殿モ宜シク彼レニ列シ共ニ城ニ入ルベシ依テ小屋ヲ出テ山ヲ 下ル時ニ(又八ト倶ニ山ヲ下ル)近ツキ見レバ籾山八郎ナリ(籾山ハ籾與力ニシテ敢死隊ノ人 年ノ頃三十ニ三ニ見エ)云フ余ハ大龍寺ノ 住職トナル共ニ寺ニ赴カバ馳走スベシト共ニ至ルモ何ノ品モ食フベキナシ寺ヲ出テ水尾 村ヲ経テ粟實ヲ喰ヒツツ野郎ガ前ニ至ル遂ニ東山ニ入リ人足ノ姿トナリテ労ヲ取ル時ニ 火災起リ東山全滅ニ期セリ(始終愛犬ヲ連レ居レリ)爰ニ於テ大ニ火災ヲ救フ 一、 狐湯ノ胡麻餅「おとめ」ニ出逢ヒ伊藤又八ト共ニ愛犬ヲ牽キ連レ青木山續キノ山ニ上リ城 ノ安否ヲ窺フニ甚深霧ニテ見エズ食物モナケレバ大ニ困却セリ而シテ復タ胡麻餅「おとめ」 出逢ヒ「おとめ」ノ曰ク日向様ガ此大藪ノ中ニ隠レテ居ラルル故逢フテ聞カルベシト云ウニ依 リ直ニ権六ノ母ニ逢ヒタル処(又日向の隠居ニモ會見セリ)而シテ権六ノ母氏余ニ権六ノ居所ヲ尋ネラレシガ 余ハ別隊ナレバ一番白虎隊ノ居ル所ハ一切分ラズト答フ母又云彼ノ大藪ノ中ニ私ノ隠居アリ赴カルベシト 依テ行テ飢ヲ吃フニ飯ナシ鮒ノ汁ヲススルニ其美味言フベカラズ 伊藤云フニハ吾ハ城ニ入ラズ内ノ家族ハ北方漆村ノ善内ノ家ニ皆集リ居ル約束トテ別レ去ル 既ニシテ大平口ヲ引揚ゲシ兵士東山ニ屯シアリ時ニ原田主馬隊ニ逢フ二十五日ノ暁ニ 院内橋ヲ経テ小田山下ヨリ天神橋ヲ渡リ道ヲ別ニシテ三ノ丸ノ赤津口ヨリ笹ヲ 振リ大聲ヲ發シテ城ニ入リ始メテ命ヲ拾ヒシ心地セリ然レトモ余ハ農夫ノ装姿 ニテ人足トナリテ入リシテ以テ銃ヲ持タズ庄田又助氏ニ謂請ヒ隊ニ列シ一発本込 メ銃ヲ渡タサル是レヨリ本丸ヘ彈薬ヲ受取ニ行ク然ルニ圖ラズ同隊ノ永峰勇之進 氏ニ面接農夫ノ姿ニテ居ルヲ改メ更ニ木綿ノヅボンヲ穿チ居ルニ逢フ依テ余モ又 農夫ノ姿ヲ改メ木綿ノヅボンヲ穿チテ永峰氏ニ同隊ハ如何ト問フニ永峰氏曰ク同隊 ハ西出丸ノ金吹座ニ居レリト答フ是ニ於テ永峰氏ト共ニ之レニ赴クニ隊長半隊長 小隊長其他四五人居ルヲ見ル時ニ廿五日ナリ本丸ニ兵粮受取ニ赴く途中余ノ 實兄ニ逢テ家内ノ状ヲ問ヒ且ツ長脇差一本貰ヒタリ夫レヨリ毎日西出丸ヲ 守リ居リ玄米ヲ食シ毎夜味噌湯ヲ呑ンデ煖ヲ取ル而シテ九月上旬ニ同隊ニ入隊 二番隊ト変更セラル時ニ水戸藩士並ニ小笠原藩士等ト共ニ南町御門ヲ守ル九月十四日 ノ未明敵ヨリ擊来タル大砲音響晝夜間断ナク四方八方十六方一圓ニシテ勦スコト 絶エズ志賀與三郎ハ小田山ニ陣取ル敵ノ大砲丸片ニテ屋根ヲ突キ抜キ来タリ 腿ヲ撃タレシヲ見ル南御門ヲ守ラントシテ西出丸讃岐門口ヲ出ズレバ長岡 清治ノ抜キ身ノ槍ヲ提ケ早ク詰メヨト馳セ来ル乃チ共ニ南町口御門ヲ守ル 小田山ノ敵ハ壇ヲ築キ大砲ヲ放ツコト己マズ我兵死傷甚ダ多シ人アリ 大砲丸ニ中タリ介錯ヲ乞フト叫ブニ會々一壮士馳セ来リ之ヲ見テ美事ニ其ノ 首ヲ斬リ城ニ入ル既ニシテ退却スベキノ命アリ而シテ大町通リヲ横ニ出テ 五軒町ヨリ讃岐御門ニ出テ五六百人入城セントセシニ海老名総督大刀ヲ揮ヒ 退ク者ハ斬ラント退ク者ヲ止ム時ニ大砲丸上濠ニ落チテ水泡ヲ生ズ怪ンデ 問ヘバ焼丸ナリト云フ一士柴某アリ五軒町ヲ西ニ向ツテ進ムニ鎧ヲ暑シ長刀 ヲ揮テ躍リ入ル柴某外二三ノ勇壮其勢ヒ實ニ云フベカラズ西出丸ニハ鎧櫃ヲ 累チ之レニ土ヲ盛リテ守リ居ル九月廿二日開城同二十三日猪苗代岡部新助 ノ家ニ謹慎ス母ハ雀林村ニ在リテ病死ス父モ同所ニ在リテ病ニ臥スルノ 報ニ接シテ之ヲ日向隊長ニ告ゲ其ノ許可ヲ得テ行キテ看護ス 其ノ後東京竹橋御門外御築屋ニ謹慎ス時ニ十六才ナリ
会津白虎士中二番隊隊士 酒井峰治 日記より
この著作物は、1932年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。