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督鎭たるの日淸兵來り攻め、得功は倉卒の間流矢に中り、事の爲すべからざるを知つてその箭を拔いて喉を刺して自殺した。得功は天資粗猛で文義を辨じない人であつたが、その行軍には軍規頗る嚴肅で秋毫の犯す所がなかつたので、その到る所民衆の爲めに感佩せられた。


揚州十日記