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ある。

〔註二〕高傑(興平伯) 高傑は米脂の人、初め李自成部下の流賊であつた。賊中彼を綽名あだなして翻山鷂といふてゐた。蓋しその鷙悍はやぶさの如であつたからである。終に自成の妻刑氏と通じ後ち刑氏を竊んで明に降り戰功を積みて官總兵に至つた。李自成京師を陷るるに及び傑南に走り福王に投じ興平伯に封ぜられた。福王淸兵の南下を防禦すべく鎭を淮上に設くるや、諸將皆揚州を得むと欲し傑先づ該地に嚮ふた。然るに揚州の民傑が淫毒を畏れてその城に入るを拒んだ。督鎭史可法議して瓜州を以て傑に與へて之に居らしめた。

已にして淸兵大擧して海に入り宿遷を破つた。督鎭可法諸鎭に檄して兵を出して之に備えしめた。高傑首として命を奉じて泗水を渡りその部將王之綱をして前驅せしめて睢陽城に薄つて、河南の總兵許定國と城を爭ふた。定國僞つて好みを高傑に納れ傑を城に誘ふて置酒し伏兵を置いて之を殺しその首を持つて淸に降つた。誥旦高傑の兵士城に入り之綱等大いに掠めて幾んど餘す所がなかつた。而も事倉卒に屬し睢陽の兵頗る歸趨に迷つたのであつたが、史可法は變を聞いて馳せて徐州に至つて綏撫に努めた。又高傑の參將李本身を用ひて都督と爲さむことを請ふて福王の允す所となつた。高傑は晚年史可法の爲めに大義名分を說かれて大いに感悟する所があつた。

〔註三〕黃得功(靖南侯) 號は虎山、合肥の人。本姓は王。崇禎中流賊を平ぐるの功を以て靖南伯に封ぜられ、福王の時更に侯に進む。淸兵の南下を拒ぐべく廬州を守り高傑劉良佐劉澤淸と共に江北を分鎭し、當時之を四鎭と稱した。會々高傑と𨻶があつて兵を構へたが史可法の調停に依つて事なきを得た。後ち移つて太平の