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らして之を分餽すべしと、軍吏命を領して已に往つた後で彼れは酒を命じて獨酌したのであつたが、庖人が黍肉は已に士を饗し盡して餘す所なき由を聽いて只だ少量の鹽豉しほまめを索めて酒を佐けた。可法は素と善く飲み斗酒尙辭せざるの慨があつたが、愈飮て愈恭しく所謂る酒に亂れざるの人であつた。然も軍に至るより飮を絕つてあつたが此の夜は滿酌數十杯にして先帝を思ふて淚泫然として下つた。彼はまた衣を解いて寢に就かないことが已に七箇月であつたが、事珍らしくも當夜は微醺の餘頗るくつろいでつくえに隱れて臥した。將にあしたならむとした時に將士並に有司等皆軍門の外に集まりたるに門未だ啓かずして之を怪むものの如きであつた。知府任民育曰く、相公此の夕また得易からず、之を驚かす勿れと、且つ皷人を戒めて更に四皷を擊たしめた。須臾にして可法は眠りから覺むれば天已に明けてゐた。大いに驚き且つ怒つて曰く、誰か敢て我が軍法を破る者ぞ、縛し來つて速かに之を斬るべしと。諸將士跪いて彼を拜して曰く、相公久しく軍中に勞苦し始めて一夕の暇を得たので相驚かすに忍びず、故に皷聲を亂して以て待つ、此れ知府任君の意なりと。可法意始めて解けて曰く、奈何ぞ私愛を以て公法を變ぜむやと、乃ち急に盥嗽して門を啓きて文武臣と偕に北向遙賀し、將士皆賀詞を陳じた、而して任知府は更に前んで罪を請ふた。そこで始めて皷人を赦したが爾來可法は復た几に隱れて臥すことが一回もなかつた。

可法の執へられ屈せずして死するや、揚州の士民文天祥の再來を以て彼を追慕崇拜し、その遺す所の袍笏を郡城の梅花嶺に瘞め廟を建てて之を奉祀し且つ忠靖と謚した。淸の乾隆帝更に忠正公と追謚した。

可法詩文に巧みに兼て草書を善くした。彼の眞筆は今尙一字優に千金に値してゐる。彼の著に史忠正公集が