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る。宜しく汝等が兵主に見えしむべしと、因て遂に豫王に見えた。豫王可法の爲に丁寧に瘡を裹ましめ之を勞ひて曰く、先生の忠義旣に成る、請ふ我が爲に江南を收拾せよと。可法曰く我れ此に來る、秖だ一死を索むる耳。王曰く君夫の洪承疇を見ず乎、降れば則ち富貴と。可法笑ふて曰く爾が國の承疇を待つ豈能く我が先帝に過んや、彼れ先帝の厚恩を受けて死せず、其の爾が國に不忠なるや明けし、我れ詎ぞ肯て其の爲す所に效はむやと。豫王その將宜爾頓なる者に命じて之をその營中に伴はしめて勸說すること三日、可法竟に從はないで豫王は淚を揮ふて之を斬らしめたのである。

可法は生れながらにして他の群童に異る所があつた。その母方さに娠み文天祥其の室に入ると夢みて生れたといふ傳說がある。幼時より親に事へて至孝、その門閭に旌表せられたことがあつた。可法が來つて揚州の督鎭たること幾んど一年、行くに蓋を張らず、食に味を重ねず、夏は箑(扇)せず、冬は裘せず、小冠窄衣にして部卒と雜處して平然としてゐた。年四十を過ぎて子が無かつた。その妻爲めに妾を置かむと欲した。可法曰く王事方さに殷んであるゆゑ敢て兒女の私に戀々たるべきの時でないと言つて之を劫けたので竟に一生子を有たなかつた。

軍中で或る時除夜にあたつたので當さに封印すべかりしに、南北の文檄交々至つたので手づから批答して辰より酉に至つた。その上に又將士に來月分の糧銀を分給し、夜三更に至つて事務尙畢らないで軍吏に謂つて曰く。今夕は除夜であるゆゑ少量の酒を索めて飮みたいものだと、酒未だ至らざるに復た軍吏を呼びて之に謂つて曰く。禮賢館の諸秀才と共飮すべき筈であるが、夜が更けて却て迷惑かも知れないので、宜しく酒資を齎