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だ天誅に伏せず、土を西秦陝西地方に捲き方さに報復を圖る。之れ獨り本朝の不俱戴天の仇のみならず、抑も貴國も亦惡を除いて未だ盡さざるの憂あり、願くは同仇の誼を固くし共に逆賊自成の頭を梟せむと。

乙酉(弘光元年)四月淸兵掩至して揚州城を圍み明の降將李遇春淸の宗室豫王の檄を持して城下に至て可法を招致せしめた。可法ひめがきに登て大いに之を罵つた。遇春曰く公の忠義は中華の齊しく識る所、而かも朝に信ぜられずば死するも益なからむ、宜しく節を淸朝に屈して名を成すに如かずと、可法怒て矢を發して之を射たが遇春走り免れた。

須臾にして豫王復た土民をして書を持し濠に入つて守者を呼んで入り見えむことを求めしめた。可法健卒を繩梯子で下ろしてその書を併せて使者を水に投ぜしめた。豫王愈々可法を生致せむと欲し諸軍を戒めて城に近づいて攻むる莫らしめ、復た人を遣はし書を持して至らしめたのであつたが、可法は之を啓かずして焚いた。是に於て乎豫王可法の終に屈す可からざるを知つて軍を麾いて急に攻めしめ、七日にして城遂に陷つた。是より先可法は預め死を期し書を作つて母と妻とに寄せて亡後のことを遺言し、また子が無いので當時の副將史德威(或は曰く莊子固)を彼れの後繼たらしめ、且曰く吾れ死せば高皇帝の陵側に葬れと。更に又威德に囑して曰く城陷れば吾が首を斬れと。威德纔かに之を諾した。已にして城の一隅火起り淸の士卒殺到したので可法頸を引いて威德に向ふたけれども、威德は介錯するに忍びなかつた。可法乃ち刀を拔いて自刎した。威德參將許謹と共に之を抱持し敵兵を避けた。流血淋漓として氣息未だ絕えなかつた。威德等之を擁して城を出でて小東門に及んで大兵に遇ふて威德及び許謹等は皆討死した。可法大兵に語つて曰く我は史閣部であ