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し、殆んどそれ淸兵なるか、鎭兵なるか、亂民なるかを知らないのであつた。是の日伯兄は傷重く刀瘡迸裂した爲めに遂に死した。傷ましい哉、痛み言ふ可からずである。憶ふに予や初め難を被むりし時は兄弟嫂姪姉子の親共に八人であつたが、今僅にその三人を存するのみであつた。而も內弟外姨は此の數にいらないのである。四月廿五日に起り五月五日に止まつたのであるが、其の間皆身自から歷たる所、目親しく睹たる所であつて、故に之を漫記すること此の如しである。而も亦遠處の風聞は毫も之に載せないのである。後の人幸に太平の世に生れ、無事の樂を享ける、自ら一味すこしの暴殄〈からきめに遇ふこと〉を修省經驗しないものにして之を閱せば當さに警め惕るべき耳。

〔註一〕史可法 揚州十日記を讀まむと欲する者は、豫め本篇の主人公とも謂つ可き揚州當時の守將史可法の人と爲りを知悉するの要がある。史可法字は憲之、大興藉祥府の人。崇禎元年の進士、推官(節度觀察兩使の僚屬)より身を起し、明の毅宗の朝累遷して兵部尙書大學士と爲つた。李自成京師を陷れ福王由崧位に卽くに及び、可法を召して高弘圖等と共に閣に入つて事を辨ぜしめた。已にして自から請ふて師を揚州に督し以て淸の師の南下を扼した。淸の攝政多爾袞書を可法に致して禍福を陳べた。可法之に答へて曰く逆賊李自成未