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は刀もて割くが如くであつた。〈悲痛の極をいふ〉而も是の日刀を封ずるの語を聞き衆心稍々定まつた。明日は五月朔日であつた。勢ひ甚だ烈しからずと雖、然れども、未だ甞て殺掠を行はざる莫かつた。同時に富豪大室は方さに且つ搜括して餘すなく、子女十餘歲より起つて搶掠殆んど遺類なかつた。是の日興平伯復た揚城に入り來つたのであつたが而かも寸絲粒米も虎口に入り盡して、蕭條たる殘破は伯を奉迎し難いのであつた。

 初二日傳ふらく、府、道、州、縣には已に官吏を置き安民牌を執つて遍く百姓を諭して驚懼する毋らしめ、又寺院の僧人を諭して積屍を焚化〈火葬に附すること〉せしめた。而かも寺院中に藏匿せる婦女も亦少からずであつた。焚屍を査して簿に載せし數は總て八十餘萬であつた。其の井に落ち川に投じ、門を閉ぢて焚け、及び縊れたる者は之に與らないのであつた。とらへられたものも亦同じく之れに與らないのである。

 初三日は示を出して放賑〈施米のこと〉を行つた。予は洪嫗と偕に缺口關に至つて米をもらつた、米は卽ち督鎭〈乃史可法〉儲ふる所の軍糧であつて、邱陵の如くに積み重ねた數千擔の米が