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者照陽の李の宅に居り、錢數萬を以て日に難民に給しつつあつて、其の黨の人を殺すを往々勸阻〈勸吿して阻止すること〉して全活する所多かりしと。是の夜悲咽の餘昏々として睡り去つた。次日は則ち二十九日である。

 廿五日から此日に至つて旣に五日である。私かに或は薄赦〈兵禍の薄らぐこと〉せらるべきをねがひしに、又た紛々として洗城〈洗ふが如く城中の住民を索めて餘蘖なからしむるの意〉の說を傳へたので、城中の殘喘〈生殘者〉死を冐し城にすがりて逃れ去る者大半であつた。舊と有し官溝は壅塞して流を通ずること能はざりしが、是に至つて坦途の如きであつた。〈逃竄者充滿せるの意〉然れども亦此を以て反つて其の鋒に罹るの慘を見た。城外に亡命せる者城中に在りしを利とし、伴を結びて夜る官溝に入つて盤詰かゞみかゞみてその金銀〈鋒鏑に罹りし者の衣帶につけたる金銀の謂ひ〉さぐれるを敢て誰何するの人も無かつた。予等念ふに險を踰えて逃るることも出來ず、伯兄も亦予の爲に獨り去るに忍びなかつたのであつたが、延いて平旦に至つてその念〈城外に逃避の念〉遂に止んだ。而も原との避難所は留まる可からざるを知り、予が婦も孕むの故を以て屢々全きを獲たるを以て、遂