Page:Yōsyūzyūzitsuki and Kateitozyōkiryaku.pdf/32

このページは検証済みです

は草畔溪間比々皆是れで慘として聞くに忍びなかつた。回て洪が宅に至れば予が婦は死を覓めむと欲したのであつたが、予が終夜與に語つてその間を得なかつたので、東方が白かつた。〈夜があけはなれた〉

 二十七日婦の避難所を問ふた。婦は予を引いて委曲まがりまがりて一柩の後に至つた。そこには古瓦や荒磚が狼藉してゐて久しく人跡を絕つの處であつた。予は亂草中に蹲まりて子を柩上に置き覆ふに蘆席を以てし、婦はかゞみてその前に居り、我は曲りて後に附してゐた。首を揚ぐれば頂露はれ、足を展ぶれば踵見はるるを以て、微かに氣息いきを出しつつ手足をかゞめて一裹ひとつゝみとなつてゐた。魂少しく定まると共に殺聲逼り至り、刀環響く處愴呼亂起し、聲を齊うして命を乞ふ者或は數十人或は百餘人。一卒の至るに遇へば南人其多寡を論ぜず皆首を垂れ匍伏し、頸を引いて刄を受け敢て一人の逃るる者とては無いのである。紛々たる子女に至つては百口交々啼いて哀鳴地を動かせることは言ふまでも無いことである。午後に至り積屍山の如く殺掠更に甚しいものがあつた。幸ひ