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先づ奔り衆人之に繼ぎて獨り我を遺した。我は彭兒を抱いて屋下に投じたるに死するを得なかつた。我が妹も跌づきて足を傷きて亦臥してゐた。卒我等二人を持して一室に至るに屋中には男婦幾十人のものが皆魚貫〈珠數繫ぎにせられたること〉して縛られてゐた。因て卒は我を諸婦に殘して曰く、之を看守してのがれしむる勿れといひて刀を持して出て行つた。又た一卒入り來つて、吾が妹をおびやかしつつ去つた。久うして卒の至るを見ざりしかば予は遂に諸婦を紿あざむいて出て往つた。出づれば卽ち洪嫗に遇ひ相携へてもとの處に至つた故に幸に免れ得たのである云々と。洪嫗は仲兄の內親みよりであつた。婦はまた予に免れし所以を問ひしを以て、予は吿ぐるに故を以てして相哭泣することが良々久しかつた。洪嫗は宿飯〈炊きおきの飯〉を携へて相勸めたるも哽咽かなしみむせびて下すことが出來なかつた。外は復た四面火起り勢ひ昨夕よりも猛烈であつた。潜かに戶外に出でしに田中は橫屍いしだゝみに交はり喘息あへぐいきの猶ほ微かに存するものがあつた。遙かに何家の墳中を見れば樹木陰森として哭聲籟を成しつつあつた。或は父の子を呼び或は夫の妻を覓むるのであつた。呱呱の聲