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も之を强ゐて後ちゆるし、而もその婦の曰く、此地市に近く身を居く可からずと。予幾んど免れざらむとした。頃くして卒は仍ほ婦人を挾んで去つた。そのへやには屛の仰げるがあつた。むしろもて之を爲せるに似て人にえないのであつたが、然も之によづれば以てうつはりに及ぶべきであつた。予兩手を以て梁をぢ、なはを行いて上り、足を駝梁けたに托すれば、下に席蔽があつて中の暗黑きこと漆の如くであつた。仍ほ兵の至るあつて矛を以て上りさぐつた、是れ空虛にして人其上に在るなきを料りしを知つたのである。予此に於て乎始めて日を竟ふるまで兵に遭はざることを得た。然れどもその下においてきりころされしもの又た幾何人なりしやを知らなかつた。街道に數騎の過ぐる每に必ず數十の男婦があつて、哀號してその後へに隨ふてゐた。此の日あめふらずと雖亦日色無く旦暮を知らなかつた。之を久うして軍騎稍やくまばらにして左右に惟だ人聲の悲泣するを聞いた。思ふに吾が兄弟は已にその半ばをいためた上に、伯兄も亦存亡を卜知することが可能なかつた。予が婦予が子何處に在ることを知らない、之を縱跡して或は一たび見る