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塵に繼いで至つた。試みに之を問へば心急ぎ口喘ぎて對ふる所を知らなかつた。忽ち數十騎があつて北よりして南し、奔騰狼狽して勢ひ波濤の湧くが如くなるが中に一人を擁しつつ去つた。之れ別人ならず督鎭史可法であつた。蓋し督鎭は東城に奔らむとせるも外兵逼り近づいて出づることができないで、更に南關に奔らむとして此道をよぎれるのであつた。是の時始めて敵兵の城に入つたことが疑の無いことを知つた。突如一騎の南より北に向てきづなを撤して緩步しつつ面を仰いで哀號し、馬前の二卒轡首〈馬の轡や首〉に依々として捨て去るに忍びざる如きものがあつた。今に至つて其の人猶然さながら目に在るも恨らくはその姓名が判然しなかつた。騎稍々遠く去りしとき、守城の兵丁紛々として下りのがれ、冑を棄て戈を抛ち幷に首を碎き脛を折る者が有つた、城櫓を廻視すれば已に一空であつた。是より先督鎭は城狹くして礟を展べることが可能ないので、城のあづちに板を取りつけ前をば城徑しろのみちに置き後を民屋に接し、展礟の餘地を作つて安置に便ならしめむとしたのであつたが、工未だ畢らないで敵兵のゆみつて先登せる者白刄も