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喜び琵琶を善くした。仍て名妓を得て軍暇を娛まむと欲するに意があつた。一夕予を邀へて滿飮し歡を縱ままにせむことをはかりしに、忽ち督鎭〈乃ち史可法〉から寸紙〈紙片に書いた訓令〉が到來したので、彼は之を覽て色を變じ遽かに城に登つたので、予も亦衆と共に散會したのであつた。

 越えて二十五日の朝早くに督鎭から牌諭〈揭示の諭吿〉が出た。其の中に『一人之に當り〈督鎭一人國難に當るの意〉百姓を累さず』の語があつて、見る者聞く者感泣せざるは莫つた。道路又傳へて巡撫の軍小捷を得たことを報じたので、人々手を額に加へてよろこんだ。午餘ひるすぎに予の姻戚某が興平伯〈高傑〉(註二)の逃兵を避けて瓜州から態々やつて來た。予がつまは久しく別れてゐたに緣つて相見て噓唏すゝりなきを禁ずることが可能できなかつた。然るに予は不圖敵の大兵が城內に闖入したことを一度ならず二度ならず耳にしたので、急に寓宅を出でてれを人にひたるが、或人は曰く靖南侯〈黃得功〉(註三)の援兵が來たのであると。城上を旋觀みまはせば守兵尙嚴整であつたので較々意を安んじ、再び市上に至れば人言淘々として被髮跣足の者