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揚州十日記

江都 王秀楚記


 乙酉の夏四月十四日〈西曆一六四五年明の福王卽位二年〉督鎭史可法(註一)は白洋河の守を失ひしより踉蹌よろめきながらとして揚州に奔り、城を閉ぢ敵を禦ぎて二十四日に至つた。城未だ破れざるの以前禁門の內には各々守兵が居て、揚姓の將校が之を率ゐて城の要處々々へは夫々吏卒が碁置〈布置といふに同じ〉せられてゐた。予が住宅は新城〈揚州には新舊兩城が有つた〉の東に在つたが二人の兵卒が宿泊してゐた。左右の隣家も亦同樣であつた。彼等の踐踏〈肆ままに室內に闖入して物を漁さるをいふ〉至らざる所なく供給〈兵卒の掠奪を緩和する爲めの賄賂あり〉日に千餘錢を費さし、將に繼ぐ能はざらむとする故、已むことを得ず近隣相共に謀りて主者〈隊長〉の爲めにさかづきを設け、且又予はいつはつて恭敬を爲し〈心なき世辭追從をいふこと〉酬好〈交際〉漸く洽ねきを得た。主者喜んで卒を誡めて稍々遠く去らしめた。主者は音律を