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 その夜半過ぎ、裏町の怪しげなカッママフエでしたたか強烈な酒を呷った珊作は、覚束ない足どりで自分の画室のある町の方へと、或る公園の中を抜けて歩いて行った。霧が殊の外深く降りていた。

 ふと彼は立ち止った。行手の立木が両側から迫って、霧の中に青白く街灯が光っている。その街灯の柱に酔っぱらいらしい肥ったタキシイドの紳士が一人もたれていたが、近寄ってその紳士の顔をのぞき込んだ時、忽ち珊作の口から「あーツ、あーツ」と絶望的な叫びが洩れた。紳士は坊城であった。しかもその白いシャツの胸からは、おびただしい血が溢れ出していた。美ママ事なひと刳りで彼は殺されていたのである。

 突然、異様な哄笑の声が珊作の耳を打った。気がつくと路の前方を蹌踉と歩んで行く姿がある。珊作のおどろいたことにはその姿は珊作自身の姿と寸分も異るところがなかった。平べったい黒い帽子、短いインヴァネス、長いズボン――。

「あ――ツ、あいつが殺したのだ! あいつは俺の影なのだ――待て!」

 併し怪しい姿は珊作が追いつく前に、危く闇の中へ消えてしまった。珊作は甃石道の上に自分のスペインナイフが血に染んだまま打ち捨てられてあるのを発見した。

 珊作は犬のようにその場から逃走した。そうして、あてどもなくひた走りに夜更けの町々を走った。

「影、影、影、影、影、影――」と叫びながら。


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 珊作が走り去ると間もなく、立木の間から二個の黒い人影があらわれた。それは萩原と春子であった。

「うまくいったな――」と男は女をかえりみて云った。「あの気の毒な絵師は、明日の朝日の昇らぬ前に自殺するだろうよ。ハ、ハ、ハ、ハ、ハ……」

「あたしは、それに昨日ちゃあんと坊城に結婚届を出さしておいた――」と女は得意そうに云った。

「いよいよ俺たちにも運が向いて来たと云うものだ……」

 二人は声を合せて小気味よげに哄笑った。


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 夜明け近く、珊作はへとへとに疲れ切って、己の画室にこっそりと立ち戻った。部屋内には薄暗いランプが一つ灯っていた。他に火の気もなく、それにどうしたものか窓が一箇所あいていて、そこから寒い夜風が吹き込んで、部屋の隅の押入れに襖代りに掛けた帷を大きくゆすぶっていた。珊作は椅子に腰を落とすと、恰度その帷の上に細長く投げかけられた自分の影にじいっと見入った。それから

「――あかりが暗いなあ。……暗すぎる……」と呟いてランプの芯をあげた。帷の上の影像は前より