――Ein Märchen――」
その小説と云うのは、一種の夢遊病を取扱った
「止めてくれ給え! 君は僕を
「メェルヘンだ――」と萩原は落ち着きはらって云った、「だが、こんな風な夢遊病者や二重人格の話は実際にも有り得るのだよ。今までにも数知れずにあったし、また現在だってあるのを、僕は知っている――」
「嘘つき奴! ――」と荒々しく叫んだ珊作の眼には云い様のない深い恐怖の色が浮んだ。
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珊作の心身は日毎に衰えて行った。血の気を失って見るかげもなく痩せほうけた顔には眼ばかりが怪しく輝いていた。今や萩原の仮作譚は日夜彼を苛んだ。自分の識らない間に別個の自分の影が抜け出して行って坊城を殺害する――そのことは、考えるだけでも、「情婦役の歎き」を画き得ないことよりも、春子を失うことよりも、遙かに増して恐ろしいことであった。しかも、それは今夜にも行われるか全く測り知れないことであった。いや、ひよ〔ママ〕っとしたら既に昨夜あたり為し遂げられていたかも知れない―――彼には、今にも表扉󠄁を蹴破って多勢の巡査が踏み込んで来そうにさえ思われた。実に「影」は彼にとって無上の恐怖であった。
そこで、彼は刃物と名付く総てのものを一つの頑丈な錠前付きの函の中に蔵めて、その鍵は萩原に預けた。それからまた彼は、毎夜寝る前に必ず扉󠄁や窓に厳重に鍵を下ろした。その鍵は机の引出に蔵って、更にその引出に鍵を下ろした。
併し、彼の心の不安はちっとも和げられなかった。と云うのば彼は
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が、到頭、或る晩のこと。珊作は萩原に無理強いに誘われて、その都会で一番賑やかな通りのあるレストランへ行った。併し、その家へ入るや否や、珊作はゆくりなくも、春子と連れだった泥酔した坊城の豚のような姿を見出した。彼は友を突き飛ばすように振り放して戸外へ飛び出した。萩原は 〔ママ〕坊城に気付かれぬように、そっと春子に何か秘語くと すぐまた珊作を追って戸外へ出た。